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ゲイバーアンビシャスへの再来前日譚
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「恋を知ると、そういう顔ができるようになるのね。驚きだわ」
「大嫌いと言っておきながら、どうしてに嬉しそうに笑うんだ?」
忍の表情を見て、高橋は嫌そうに眉根を寄せた。喜ばれるような発言をしていないのに、目の前の表情についてどれだけ考えても、答えのかけらすら浮かんでこない。
「そんなふうに見える? 実際は困っているのよ」
「なにについて困っているんだ?」
「だっていつものアンタなら、愛だの恋だのそんな話を耳にした途端に、否定していたでしょ。くだらないって」
「確かにな」
高橋はふらつく足どりを隠そうと、背筋を伸ばして重心を下ろした。
「私の言った言葉を否定しないで、笑ったことにツッコミされるなんて思いもしなかったの。だから、いつものペースを崩されて困っているわ」
「……胸に穴が開く思いを知ったら、どんなにつらいことに直面しても、やり過ごすことができるんだな」
いつものペース――かなり昔の話を持ち出されて懐かしく思ったせいか、高橋は今の現状をぽろりと口にした。
「健吾アンタ、いったいなにしてんのよ? らしくなさすぎて、お節介したくなっちゃうじゃない」
ショッキングピンク色の唇を突き出しながら告げられる言葉に、へらっと笑って肩をすぼめてみせた。
「普通に仕事をしてるだけだ。おまえのお節介はウザいから、謹んで遠慮させてもらう」
「相変わらず冷たいわね。そのほうがアンタらしいけど」
胸の前で腕を組み、苛立った口調で告げられたセリフだったが、頼もしい元恋人の姿を見て、高橋は頼まずにはいられなかった。
「はるくんによろしく……。なんて彼に迷惑か」
「健吾――」
「じゃあな」
「お願いだから!」
金色のドアノブに手をかけた瞬間、涙を声にしたように忍は呼んだ。どこか必死な雰囲気を感じて、渋々振り返る。
「なんだよ?」
「お願いだから……。たまにでいいから顔を出して。会員登録してる関係で、生存確認したいのよ」
高橋の今後の安否を心配した忍の言葉に、思わず吹き出しそうになった。
「仕事が忙しくて、いちいちここに来られない。会員登録も抹消しておいてくれ」
淡々とした様子で告げる高橋のセリフを聞き、忍は胸元をぎゅっと握りしめる。つらそうな表情をさせる原因に思い当たるフシはあるものの、元恋人に対してわざわざ宥めるような思いやりは、高橋になかった。
心をかける人間は、この世に一人しかいない――。
「分かったわ。店のリストから抹消しておく。だけどね……」
「…………」
「私の心と江藤ちんの心から、健吾を抹消できないことだけは覚えておいてちょうだい。他にもたくさん、アンタに傷つけられた男はいるかもしれないけれど、せめて――」
マスカラと一緒に化粧を崩す原因の涙が、忍の頬を濡らした。
「ふっ、化け物が宇宙人に早変わりだな。これから来店する客は、貴重な生物を見ることになるとか、俺は売り上げに貢献したといったところか」
「言ってくれるじゃないの……」
「俺なんてとっとと忘れて、他のヤツと幸せになれ」
ぼそりと告げながら外に出る。男の声で「バッキャロー」と怒鳴り散らした元恋人の存在を消すために、勢いよく背中で扉を閉めた。
(はるくんじゃなく忍に恋をしていたら、また違った未来になっていただろうな――)
かすかな冷笑に似た奇妙な笑みが、高橋の唇の端に浮かんだ。
それまでの縁を断つように扉に触れている躰をさっさと起こし、階段を踏み外さないように下界に降り立つための階段を、ゆっくりと下っていく。コンクリートに反響する靴音が規則的な時計の秒針のように聞こえるせいで、酔いが次第に醒めていった。
古ビルの外に出ても、頭の中にさきほどまでの靴音が鳴り響く。
元恋人が作った美味い酒を飲みながら、懐かしいやり取りの中から青年の身の上を知ることができて、高橋としては楽しいひとときを過ごすことができた。それなのに耳について離れない靴音が、明日から再び繰り返される地獄の生活のカウントダウンのように感じずにはいられない。
「くそっ。現実なんてうまくいかないのが分かってるのに、素直に従わざるをえない自分がいるなんて……」
高橋は苛立ちまかせに舌打ちをしながら、すれ違う人がまばらの駅までの道すがらを、重たい足取りでだらだら歩く。
どんなに時間をかけて歩いても、終電までには余裕で間に合うことが分かっている上に、ここから離れたくない気持ちが、高橋の足を更に重くさせた。
(はるくんは今頃この町で、なにをしているのかな。誰かと一緒に飲んでいたり、あるいは恋人と一緒に過ごしているか――)
不意に目に入った、駅まであと150mの看板が重い足どりをぴたりと止める。
「はるくん……」
鼻の奥がつんとした瞬間に、舌の上にレモンの苦みがなぜだか蘇ってきた。
「こんなところでなにをしているんですか、高橋さん」
唐突に背後からかけられた、聞き覚えのある低い声で、反射的に高橋の眉間にしわが寄った。
今日出逢ったその人物は、高橋が支店から出るときまで離れずにまとわりつき、最後まで自分の立場をなんとかしろと、しつこく食いついてきた支店の社員だった。
高橋がそれまで浮かべていた笑みを消し去って振り返ろうとしたら、いきなり抱きつかれてしまった。
「な、にを……」
背後から忍び寄られ、その男の左腕が高橋の首に強く巻きつくせいで、うまく声が出せない。右側の腰の周辺に鋭い痛みを感じた。
「高橋さん、全部アンタのせいなんだ。どうして部長の俺が、会社を辞めなきゃならないんだ」
「くぅっ!」
通りを行き交う人々は、明るい街灯の下での揉め事に目を合わせず、巻き込まれないように高橋たちを避けて歩いて行く。
「放せ、こ、の馬鹿っ」
「牧野といいおまえといい、どうして俺を馬鹿にするんだ。くそっ!」
「それはこっちのセ、リフだ……。こんなま、ねをしたらっ、人生を棒に振ることになるだろ」
やっとのことで告げた言葉を聞き、男が高橋の背後から離れた。痛む部分に手を当てながら振り返ると、辞職を促した部長が果物ナイフを手に持ったまま、自分をじっと見つめる。
「俺の人生は、もう終わったも同然なんだ。住宅ローンに車のローン、子どもの進学やらなんやらで、金がどうしても必要なのに! この年で再就職して、同額の給料が貰えるわけがないだろ!」
「だから馬鹿なんだよ、アンタは……」
人を刺すという犯罪をしでかしたというのに、残された家族のことを考えず、自分のことばかり喚く男に、高橋は冷たさを感じさせる軽蔑の眼差しを向ける。
顔を歪ませながら痛んだところを押さえていた右手を確認してみたら、掌を覆うように鮮血がついていた。自分の手に血がついているのに、テレビで見るドラマと変わりないそれを冷静に見つめることができたのは、思ったよりも痛みがなかったせいだった。
今回刺されたことによって、かつての同僚を交える辞職の話し合いの出張に、牧野が行かなかった理由を改めて考える。
高橋が本社の一室で牧野に出張に行くように命じられた場面や、今日のやり取りをまざまざと思い出していく内に、絡まった糸が容易く解けるようにその理由がすんなりと分かり、あまりの滑稽さに肩を揺すりながら、けたけたと声を立てて笑ってしまった。
笑い転げた衝撃で、刺された傷口から尻の下を濡らすくらいの出血があったが、手で押さえることなくそのまま無視した。
「なにがそんなに可笑しいんだ?」
気が狂ったように笑いだす高橋を見て、男は目を見開いたまま固まる。
「牧野はアンタの性格を熟知していた。だからここへ俺を行かせたのさ」
「どういうことだ?」
「俺も結局はアンタと同じ使われる身。逆上したアンタが捨て駒の俺を刺したところで、牧野は痛くも痒くもない。傷害事件を起こしたことで、会社はアンタを堂々とクビにできるだろ」
「そんな……まさか――」
男が持っている果物ナイフが、小刻みに震えはじめた。
「そのまさかさ。今回牧野が企てた、プロジェクトの真相を教えてあげようか?」
高橋は元恋人が大嫌いだと称した、狡猾で残忍な笑みを顔に浮かべてみせる。
「プロジェクトの真相だと? もしかして今回のことと、なにか関係があるんじゃ……」
高橋の様子を唖然としながら見つめつつ、男は独り言を呟くように言葉を発した。
自分のペースに男を巻き込むことができて、高橋の笑みは絶えるどころか、顔全体で笑いかけるものになった。
本来ならプロジェクトの真相を謎のままにして去るはずだったのに、それを明かすことで、この後どうなるか。もしかしたらそれすらも、牧野が予測していることかもしれない。
実際それに乗っかる事実は不愉快極まりなかったが、今の自分にとっては最善の策になるので、背の高い男をしっかりと見上げながら話しかけた。
「部長のアンタを含めた特定の社員数名を、今回のプロジェクトのために各部署から集めた。本社では精鋭チームと呼んで、表向きは称賛していたが」
「…………」
「影では、烏合之衆と呼ばれていたのさ。意味は分かるよな?」
嘲笑いながら告げられる真実を聞いて、男は信じられないものを見る眼差しを高橋に向けた。
「そんな、の。なんで、どうしてだ? 難しいプロジェクトを成功させるために、選り抜きを集めたはずだろ?」
「会社にとって、お荷物になる人材を集めただけのことさ。プロジェクトがとん挫するのも、最初から分かっていた。だって低レベルの仕事しかできない、ダメ社員のチームなんだから」
「俺たちがダメ社員……」
街灯の下で見る男の表情が、悲壮感にどんどん満ち溢れていく。眼差しには先ほどまでなかった悲しげな影がよぎり、目の前にいる高橋を見ることなく、突きつけられた現実だけを見据えるように、ぼんやりしていた。
「牧野はまったく耳を貸さなかったが、俺としては駄目なりに頑張ってやってくれる可能性はあるだろうと考えて、上層部に一応かけ合ってみた。だが、話の途中で一蹴されてしまった」
高橋は絶望の淵にいる男に手を差し伸べるように語りかけつつも、語尾に向かうに従って感情とリンクすることを、わざわざ教えてやった。
「おまえが上層部に掛け合っただと? 今回のプロジェクトについてなんのメリットもないのに、どうしてそんなことをしたんだ?」
「そんなの簡単だろ。牧野の思惑が崩れるところを見たいから」
男が精神崩壊するであろう、カウントダウンをはじめる。人の心を弄んできた高橋のこれまでの経験が、存分に発揮されようとした。
「おまえ、いったいなにを考えてるんだ。牧野の手によって本社に引き抜かれた、優秀で忠実な社員だったんじゃないのか?」
「優秀で忠実な社員……。そんなふうに見えるように装っていただけなのに。だから馬鹿なアンタたちは俺だけじゃなく、会社にも簡単に騙されるんだ」
喉の奥で笑いながら流暢に語られる高橋の言葉を、男は黙ったまま息を飲んで聞き入った。
「こうして事実を突きつけられて、ショックでなにも喋れなくなったってところか。チームの中でもアンタは上にいて、社員それぞれの仕事の能力を自分の目で実際に確認していたはずなのに、なにも思わなかったのがおかしいだろ」
「あ……」
高橋に指摘されて思うことがあったのか、後悔に似た表情をみせた。
「広い視野で物事を見つめられないだけじゃなく、社員の能力についても見極められないアンタは終わってる。今後どこに行っても、パシり程度の仕事しかさせてもらえないだろうさ」
「そんな――」
悔しくてたまらないという顔つきの男に、高橋は嘲笑とハッキリ分かる歪んだ笑みを浮かべた。
「まぁ馬鹿には、そんな仕事がお似合いか」
くくっと笑った瞬間、男が音もなく高橋に突進する。果物ナイフが肋骨のあたりを貫いたのが分かった。
「おいおい、アンタの力はそれだけか。刃先が皮膚の表面を触ってるだけだぞ。これなら傷害事件にもなりゃしない」
高橋は深手を負っているのを隠し、もっと刺せと言わんばかりの挑発を口走ったら、男は更に力を込めてナイフを突き刺した。その力を受け止めるべく、両足でしっかり踏ん張る。切り傷とは比べ物にならない痛みが、高橋の意識を支配しようとしていた。それに負けないように奥歯を噛みしめてやり過ごし、男の肩をぽんぽん叩いて話しかける。
「ハハッ! 会社への恨みは……、牧野への恨みはそんなものなのか。痛くも痒くもない」
「高橋っ、どうしていつもそうやって、俺をバカにするんだ。おまえなんて、おまえなんて!」
男の絶叫が辺りに響き渡った。その声に驚いた通行人がギョッとして、自分たちに目を留める。
「大嫌いと言っておきながら、どうしてに嬉しそうに笑うんだ?」
忍の表情を見て、高橋は嫌そうに眉根を寄せた。喜ばれるような発言をしていないのに、目の前の表情についてどれだけ考えても、答えのかけらすら浮かんでこない。
「そんなふうに見える? 実際は困っているのよ」
「なにについて困っているんだ?」
「だっていつものアンタなら、愛だの恋だのそんな話を耳にした途端に、否定していたでしょ。くだらないって」
「確かにな」
高橋はふらつく足どりを隠そうと、背筋を伸ばして重心を下ろした。
「私の言った言葉を否定しないで、笑ったことにツッコミされるなんて思いもしなかったの。だから、いつものペースを崩されて困っているわ」
「……胸に穴が開く思いを知ったら、どんなにつらいことに直面しても、やり過ごすことができるんだな」
いつものペース――かなり昔の話を持ち出されて懐かしく思ったせいか、高橋は今の現状をぽろりと口にした。
「健吾アンタ、いったいなにしてんのよ? らしくなさすぎて、お節介したくなっちゃうじゃない」
ショッキングピンク色の唇を突き出しながら告げられる言葉に、へらっと笑って肩をすぼめてみせた。
「普通に仕事をしてるだけだ。おまえのお節介はウザいから、謹んで遠慮させてもらう」
「相変わらず冷たいわね。そのほうがアンタらしいけど」
胸の前で腕を組み、苛立った口調で告げられたセリフだったが、頼もしい元恋人の姿を見て、高橋は頼まずにはいられなかった。
「はるくんによろしく……。なんて彼に迷惑か」
「健吾――」
「じゃあな」
「お願いだから!」
金色のドアノブに手をかけた瞬間、涙を声にしたように忍は呼んだ。どこか必死な雰囲気を感じて、渋々振り返る。
「なんだよ?」
「お願いだから……。たまにでいいから顔を出して。会員登録してる関係で、生存確認したいのよ」
高橋の今後の安否を心配した忍の言葉に、思わず吹き出しそうになった。
「仕事が忙しくて、いちいちここに来られない。会員登録も抹消しておいてくれ」
淡々とした様子で告げる高橋のセリフを聞き、忍は胸元をぎゅっと握りしめる。つらそうな表情をさせる原因に思い当たるフシはあるものの、元恋人に対してわざわざ宥めるような思いやりは、高橋になかった。
心をかける人間は、この世に一人しかいない――。
「分かったわ。店のリストから抹消しておく。だけどね……」
「…………」
「私の心と江藤ちんの心から、健吾を抹消できないことだけは覚えておいてちょうだい。他にもたくさん、アンタに傷つけられた男はいるかもしれないけれど、せめて――」
マスカラと一緒に化粧を崩す原因の涙が、忍の頬を濡らした。
「ふっ、化け物が宇宙人に早変わりだな。これから来店する客は、貴重な生物を見ることになるとか、俺は売り上げに貢献したといったところか」
「言ってくれるじゃないの……」
「俺なんてとっとと忘れて、他のヤツと幸せになれ」
ぼそりと告げながら外に出る。男の声で「バッキャロー」と怒鳴り散らした元恋人の存在を消すために、勢いよく背中で扉を閉めた。
(はるくんじゃなく忍に恋をしていたら、また違った未来になっていただろうな――)
かすかな冷笑に似た奇妙な笑みが、高橋の唇の端に浮かんだ。
それまでの縁を断つように扉に触れている躰をさっさと起こし、階段を踏み外さないように下界に降り立つための階段を、ゆっくりと下っていく。コンクリートに反響する靴音が規則的な時計の秒針のように聞こえるせいで、酔いが次第に醒めていった。
古ビルの外に出ても、頭の中にさきほどまでの靴音が鳴り響く。
元恋人が作った美味い酒を飲みながら、懐かしいやり取りの中から青年の身の上を知ることができて、高橋としては楽しいひとときを過ごすことができた。それなのに耳について離れない靴音が、明日から再び繰り返される地獄の生活のカウントダウンのように感じずにはいられない。
「くそっ。現実なんてうまくいかないのが分かってるのに、素直に従わざるをえない自分がいるなんて……」
高橋は苛立ちまかせに舌打ちをしながら、すれ違う人がまばらの駅までの道すがらを、重たい足取りでだらだら歩く。
どんなに時間をかけて歩いても、終電までには余裕で間に合うことが分かっている上に、ここから離れたくない気持ちが、高橋の足を更に重くさせた。
(はるくんは今頃この町で、なにをしているのかな。誰かと一緒に飲んでいたり、あるいは恋人と一緒に過ごしているか――)
不意に目に入った、駅まであと150mの看板が重い足どりをぴたりと止める。
「はるくん……」
鼻の奥がつんとした瞬間に、舌の上にレモンの苦みがなぜだか蘇ってきた。
「こんなところでなにをしているんですか、高橋さん」
唐突に背後からかけられた、聞き覚えのある低い声で、反射的に高橋の眉間にしわが寄った。
今日出逢ったその人物は、高橋が支店から出るときまで離れずにまとわりつき、最後まで自分の立場をなんとかしろと、しつこく食いついてきた支店の社員だった。
高橋がそれまで浮かべていた笑みを消し去って振り返ろうとしたら、いきなり抱きつかれてしまった。
「な、にを……」
背後から忍び寄られ、その男の左腕が高橋の首に強く巻きつくせいで、うまく声が出せない。右側の腰の周辺に鋭い痛みを感じた。
「高橋さん、全部アンタのせいなんだ。どうして部長の俺が、会社を辞めなきゃならないんだ」
「くぅっ!」
通りを行き交う人々は、明るい街灯の下での揉め事に目を合わせず、巻き込まれないように高橋たちを避けて歩いて行く。
「放せ、こ、の馬鹿っ」
「牧野といいおまえといい、どうして俺を馬鹿にするんだ。くそっ!」
「それはこっちのセ、リフだ……。こんなま、ねをしたらっ、人生を棒に振ることになるだろ」
やっとのことで告げた言葉を聞き、男が高橋の背後から離れた。痛む部分に手を当てながら振り返ると、辞職を促した部長が果物ナイフを手に持ったまま、自分をじっと見つめる。
「俺の人生は、もう終わったも同然なんだ。住宅ローンに車のローン、子どもの進学やらなんやらで、金がどうしても必要なのに! この年で再就職して、同額の給料が貰えるわけがないだろ!」
「だから馬鹿なんだよ、アンタは……」
人を刺すという犯罪をしでかしたというのに、残された家族のことを考えず、自分のことばかり喚く男に、高橋は冷たさを感じさせる軽蔑の眼差しを向ける。
顔を歪ませながら痛んだところを押さえていた右手を確認してみたら、掌を覆うように鮮血がついていた。自分の手に血がついているのに、テレビで見るドラマと変わりないそれを冷静に見つめることができたのは、思ったよりも痛みがなかったせいだった。
今回刺されたことによって、かつての同僚を交える辞職の話し合いの出張に、牧野が行かなかった理由を改めて考える。
高橋が本社の一室で牧野に出張に行くように命じられた場面や、今日のやり取りをまざまざと思い出していく内に、絡まった糸が容易く解けるようにその理由がすんなりと分かり、あまりの滑稽さに肩を揺すりながら、けたけたと声を立てて笑ってしまった。
笑い転げた衝撃で、刺された傷口から尻の下を濡らすくらいの出血があったが、手で押さえることなくそのまま無視した。
「なにがそんなに可笑しいんだ?」
気が狂ったように笑いだす高橋を見て、男は目を見開いたまま固まる。
「牧野はアンタの性格を熟知していた。だからここへ俺を行かせたのさ」
「どういうことだ?」
「俺も結局はアンタと同じ使われる身。逆上したアンタが捨て駒の俺を刺したところで、牧野は痛くも痒くもない。傷害事件を起こしたことで、会社はアンタを堂々とクビにできるだろ」
「そんな……まさか――」
男が持っている果物ナイフが、小刻みに震えはじめた。
「そのまさかさ。今回牧野が企てた、プロジェクトの真相を教えてあげようか?」
高橋は元恋人が大嫌いだと称した、狡猾で残忍な笑みを顔に浮かべてみせる。
「プロジェクトの真相だと? もしかして今回のことと、なにか関係があるんじゃ……」
高橋の様子を唖然としながら見つめつつ、男は独り言を呟くように言葉を発した。
自分のペースに男を巻き込むことができて、高橋の笑みは絶えるどころか、顔全体で笑いかけるものになった。
本来ならプロジェクトの真相を謎のままにして去るはずだったのに、それを明かすことで、この後どうなるか。もしかしたらそれすらも、牧野が予測していることかもしれない。
実際それに乗っかる事実は不愉快極まりなかったが、今の自分にとっては最善の策になるので、背の高い男をしっかりと見上げながら話しかけた。
「部長のアンタを含めた特定の社員数名を、今回のプロジェクトのために各部署から集めた。本社では精鋭チームと呼んで、表向きは称賛していたが」
「…………」
「影では、烏合之衆と呼ばれていたのさ。意味は分かるよな?」
嘲笑いながら告げられる真実を聞いて、男は信じられないものを見る眼差しを高橋に向けた。
「そんな、の。なんで、どうしてだ? 難しいプロジェクトを成功させるために、選り抜きを集めたはずだろ?」
「会社にとって、お荷物になる人材を集めただけのことさ。プロジェクトがとん挫するのも、最初から分かっていた。だって低レベルの仕事しかできない、ダメ社員のチームなんだから」
「俺たちがダメ社員……」
街灯の下で見る男の表情が、悲壮感にどんどん満ち溢れていく。眼差しには先ほどまでなかった悲しげな影がよぎり、目の前にいる高橋を見ることなく、突きつけられた現実だけを見据えるように、ぼんやりしていた。
「牧野はまったく耳を貸さなかったが、俺としては駄目なりに頑張ってやってくれる可能性はあるだろうと考えて、上層部に一応かけ合ってみた。だが、話の途中で一蹴されてしまった」
高橋は絶望の淵にいる男に手を差し伸べるように語りかけつつも、語尾に向かうに従って感情とリンクすることを、わざわざ教えてやった。
「おまえが上層部に掛け合っただと? 今回のプロジェクトについてなんのメリットもないのに、どうしてそんなことをしたんだ?」
「そんなの簡単だろ。牧野の思惑が崩れるところを見たいから」
男が精神崩壊するであろう、カウントダウンをはじめる。人の心を弄んできた高橋のこれまでの経験が、存分に発揮されようとした。
「おまえ、いったいなにを考えてるんだ。牧野の手によって本社に引き抜かれた、優秀で忠実な社員だったんじゃないのか?」
「優秀で忠実な社員……。そんなふうに見えるように装っていただけなのに。だから馬鹿なアンタたちは俺だけじゃなく、会社にも簡単に騙されるんだ」
喉の奥で笑いながら流暢に語られる高橋の言葉を、男は黙ったまま息を飲んで聞き入った。
「こうして事実を突きつけられて、ショックでなにも喋れなくなったってところか。チームの中でもアンタは上にいて、社員それぞれの仕事の能力を自分の目で実際に確認していたはずなのに、なにも思わなかったのがおかしいだろ」
「あ……」
高橋に指摘されて思うことがあったのか、後悔に似た表情をみせた。
「広い視野で物事を見つめられないだけじゃなく、社員の能力についても見極められないアンタは終わってる。今後どこに行っても、パシり程度の仕事しかさせてもらえないだろうさ」
「そんな――」
悔しくてたまらないという顔つきの男に、高橋は嘲笑とハッキリ分かる歪んだ笑みを浮かべた。
「まぁ馬鹿には、そんな仕事がお似合いか」
くくっと笑った瞬間、男が音もなく高橋に突進する。果物ナイフが肋骨のあたりを貫いたのが分かった。
「おいおい、アンタの力はそれだけか。刃先が皮膚の表面を触ってるだけだぞ。これなら傷害事件にもなりゃしない」
高橋は深手を負っているのを隠し、もっと刺せと言わんばかりの挑発を口走ったら、男は更に力を込めてナイフを突き刺した。その力を受け止めるべく、両足でしっかり踏ん張る。切り傷とは比べ物にならない痛みが、高橋の意識を支配しようとしていた。それに負けないように奥歯を噛みしめてやり過ごし、男の肩をぽんぽん叩いて話しかける。
「ハハッ! 会社への恨みは……、牧野への恨みはそんなものなのか。痛くも痒くもない」
「高橋っ、どうしていつもそうやって、俺をバカにするんだ。おまえなんて、おまえなんて!」
男の絶叫が辺りに響き渡った。その声に驚いた通行人がギョッとして、自分たちに目を留める。
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