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番外編

ミキ3

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(あれは夢だったのかな――)

 お腹を刺されて病院に運ばれたとき、手術室に向かう途中で、ベッドに駆け寄った旦那の姿が目に留まった。

 愛してもいない私のために、わざわざ病院に来てくれたんだと思いながら彼の顔を一瞥し、すぐに天井に視線を映した。

「先生お願いです、どうか愛する妻を助けてください! お願いしますっ!」

 聞いたことのない切羽詰まった声だった。

「幸恵、頼むから俺の前に帰ってきてくれ!」

 姿の見えない旦那の声を聞きながら、手術室に運び込まれ、気づいたらどこかの病室に隔離されている現状に、視線だけ動かして周囲の様子を窺う。そこは個室らしく、今は誰もいない。体に取り付けられたコードからなにかをモニターに表示し、規則的な音を奏でる。

 その音を聞いていると、ふたたび眠りにつきそうになったが、喉の乾きがそれを阻んだ。

 起き上がりたくても体が痺れて、思うように動かすこともできない。

「きっと死に際だったから、途方もない夢を見たのかな……」

 喉の渇きが声になって表れる。しわがれていて、まるでおばあさんみたいな声だった。好き勝手していた報いを、今さらながらに噛みしめていると、扉がスライドする音が耳に聞こえた。

「失礼します。あっ、目を覚まされたんですね。今、木暮先輩を呼んできます」

「だ……れ?」

 私の顔を覗き込んだ、丸いメガネをかけた見知らぬ青年。はじめて逢う人物だった。

「会社で木暮先輩にお世話になりっぱなしの後輩で、三城と言います」

「み、ミキ、さん?」

 青年の名前を口にした刹那、胸の中に渦巻く見えないものが、ふっと消え去ったのがわかった。

(ミキって女性じゃなかったの!? あの人はこの青年に、好きって言ってたなんて、どういうこと? そっちの気があったとか?)

「俺、高校生のときに、クラスのヤツに虐められてるところを、木暮先輩が助けてくれたのが縁なんですよ。木暮先輩は、俺の憧れの人なんです」

 照れたように丸いメガネのフレームに触れながら語る三城さんに、返事をすることができない。ミキさんを女性だと思っていたのに、実際は古くからの知り合いなんて思いもよらなかった。

「気心しれた間柄だからか、木暮先輩からいろいろお話を伺ってます。寂しさのあまりに、奥さんが不倫していることも全部。俺の憧れの木暮先輩を傷つける奥さんのことは、正直言って嫌いです」

「あの人も、私のことを嫌ってるわよね」

 自分で言っておいて、胸の奥が締めつけられるような感覚を覚える。

「木暮先輩は、奥さんのことを愛してますよ。たとえ殺人犯になったとしても、その愛は変わらないと思います」

「ど、して、そんなことが言えるの?」

「木暮先輩は昔っから、不器用を絵に描いた人なんです。単身赴任で奥さんが寂しい思いをしていることを、ずっと悩んでました。好きな相手と離れ離れで生活していることも、不安だって。そんなときに、奥さんの不倫を知ったんです。それで寂しさが紛れるなら許してやらなきゃなって、切なげに笑いながら言ったんですよ」

(その悩みを、どうして私に言ってくれなかったの? 彼には言えるのに、私に言えないなんて、そんなのあんまりじゃない)

「奥さんのその顔、どうして木暮先輩は自分になにも言わなかったんだろっていう感じですね。言ったでしょ、どうしようもなく不器用で弱い人なんです。弱ってるところを好きな人に見せて、嫌われたくないんじゃないかな」

「そんな……」

「しかも自己犠牲してまで相手のことを思うなんて、俺にはさっぱり理解できない。ちゃんと気持ちは伝えないと、そんなのすれ違うだけなのに。互いに想い合ってるなら、なおさらです」

 三城さんは私に一礼してから、病室を出て行った。

「幸恵、幸恵っ……本当によかった」

 ほんの少ししてから、あの人が慌ただしく病室に入ってきて、私に抱きつきながら涙を流した。

「アナタ、ごめんなさい……」

 声をあげて泣き崩れる旦那を前にして、やっと謝ることができた。

「アナタにお願いがあるの」

「な、なんだ、なんでも言ってみろ」

 スーツの袖で目元を拭い、必死な様相で私の顔を覗き込む。

「愛してるって言って」

 ポツリと呟いた私のセリフを聞いた瞬間、目の前にある顔が朱に染まった。

「愛し……って、そんなんじゃなくて、今この現状でしてほしいことを言ってるんだ」

「これは私の、今してほしいことよ」

「…………」

 ひどく神妙な顔つきの旦那に、私は容赦なく追い打ちをかける。

「言えないわよね。だって私は、アナタをたくさん傷つけたもの。そんな私に愛してるなんて言葉、言えるハズな」

「幸恵を愛してるっ!」

 耳の裂けるような旦那の大きな声が、病室内に響き渡った。

「おまえが浮気をしようが、俺を傷つけようが、この気持ちはずっと変わらない。愛してる」

 寝ている私の両肩を掴み、涙に潤んだ双眼でじっと見つめられた。

「アナタ……」

「あとどんな頼みでも、別れることはできない。これは絶対にしないことだから!」

「それっておかしい。なんでここまで、私を愛することができるのよ。絶対におかしいわ」

 こんなに愛される理由がわからなくて、おかしいを連呼してしまった。

「幸恵がお客様として俺の前に現れたあのとき、実は仕事を辞めようと思っていたんだ」

「そんなふうに、全然見えなかったわ」

 出逢った当時を思い出しながら口にすると、旦那はどこか困ったような表情を浮かべる。

「幸恵を見た瞬間に、一目惚れした。今、会社を辞めたら、この縁がなくなってしまうと思った。だからなんとしてでも幸恵にいいところを見せて、好きになってもらわなきゃと考えた。普段は無口な俺が、積極的に営業をしている様子を見た後輩の三城が、あとから教えてくれた。すごく珍しかったって」

 まくしたてる感じで一気にしゃべりかける今の姿も、かなり珍しいものだった。驚きながら、旦那の言葉に耳を傾ける。

「こんなふうに誰かを好きになったことがなかったせいで、幸恵との接し方もぎこちないものになってしまった。それでもこんな俺を好きになってくれたことが奇跡みたいで、すごく嬉しかったことを、不思議と思い出せたんだ。それを糧にして、単身赴任先でも仕事に頑張ることができた」

「そんなぎこちないアナタの姿は、私の目に新鮮に映ったの。不器用でも一生懸命に愛してくれそうだなって」

「うん、愛してる」

 熱のこもったまなざしが、旦那の想いを示していた。こんな顔をすることができるんだと、まじまじと見つめながら、ずっと秘めていたことを告げてみる。

「だけどいつからか、愛されてる自信がなくなってしまった。アナタの心が全然見えなくなってしまった」

 私のセリフを聞いた途端に、弱り切った面持ちでまぶたを伏せる。

「あ……ごめん。好きと言わなきゃならない行為が恥ずかしくて、なかなか言えなかった。ほかにも単身赴任先から帰ってきたときに、もっとイチャイチャしたかった。だけど幸恵にウザがられて嫌われたくないと思ったら、書斎に引きこもってしまった」

「バカみたい……」

 勝手に勘違いして、身近にいるコと浮気して、旦那の気を引こうとしてた私ってば、すごくバカじゃないの。

「幸恵に言われなくても、バカなことくらいわかってる」

「私たち、似た者夫婦よ。好き合ってるのに、なにをしていたんだろうね」

 笑いたいのにお腹の傷がどんどん痛くなってきて、うまく笑えない。

「これからは幸恵にちゃんと気持ちを伝える。愛を知ってほしいから」

「私もそうする。もう二度と浮気はしないと誓うわ。だってアナタを愛しているんだもの」

 お互い、顔を突き合わせて本音を語り合ったこの日のことを、ずっと忘れない。なにかあったときは、この日のことを口にして、ふたたび愛を語らうことを旦那と約束したのだった。

おしまい

次回はリクエストのあった、臥龍岡全ながおかあきら副編集長の上司の伊達誠一だてせいいち編集長のお話になります。お楽しみに!
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