上 下
63 / 126
恋愛クライシス 一ノ瀬成臣の場合

10

しおりを挟む
 その日は久しぶりのオフで、自宅にてカメラの手入れに勤しんだ貴重な日でもあった。だから記憶に残ってる。

 鼻歌まじりに手を動かしている室内に、インターフォンの音が響く。宅配かなと思いながら腰をあげ、漫然とした気分でドアスコープを覗くと、目元を拭いながら顔を俯かせている幸恵さんが、なぜかそこに立ってた。

 慌てて扉を開けたら、俺に飛び込んでくる小さな体。勢いよく飛びつかれたのでぐらついたが、なんとか踏ん張った。

「幸恵さん、どうしたんですか?」

「旦那に……離婚を切り出したら、平手打ちされて」

 腰を屈めて顔を覗き込む。片方の頬が、少しだけ赤くなっているように見えなくもない。幸恵さんが泣いているせいで顔全部が赤くて、平手打ちされた証拠がハッキリしなかったが、泣いてる女性をそのままにできなかった。

「とりあえず中に入ってください。落ち着くまでお茶でも飲んだらいいですよ」

 肩を抱き寄せて中に促し、テーブルの前に座るように案内した。お茶を淹れるために、その場から離れようとした俺のTシャツの裾を、幸恵さんが素早く掴む。

「一ノ瀬くん、そばにいて欲しい……」

「あー、はい」

 引っ張られた裾をそのままに、幸恵さんの目の前に座り込んだ。

「幸恵さん、とりあえず涙を拭いませんか? ティッシュ取ってきます」

 なにを言って慰めたらいいのかすら困惑し、あたふたしながら目についたことを口にする。鼻をすすって頷いてくれたので、掴まれた裾の手をやんわり外し、数歩先に置いてあったボックスティッシュを持って、ふたたび幸恵さんの前に座った。

「どうぞ、これで涙を拭ってください」

「一ノ瀬くんに拭われたい」

 幸恵さんに強請られるとは思わなかったので、持っていたボックスティッシュを落としてしまった。

「おぉお俺が幸恵さんの涙を……拭うのは、ちょっと」

 戸惑いまくりの俺を、涙に濡れた瞳が捉えたと思ったら。

「ちょっ、わっ!」

 音もなく幸恵さんが俺に飛びつき、ぎゅっと縋りついた。

「傷ついてる私を優しくしないなんて、一ノ瀬くんはイジワルね」

「幸恵さん、落ち着いてください。一旦離れましょう、ね?」

(こんなところを幸恵さんの旦那さんが見たら、絶対に誤解されてしまう!)

「一ノ瀬くんはやっぱり、年下のかわいいコがいいのかしら」

 さっきまで泣いていたとは思えない落ち着いた声が、俺の耳元で聞こえた。

「へっ?」

「10コ上の私なんて、醜いおばさんよね」

 今まで年下とばかり付き合ってきたので、年上の女性の褒め方がイマイチわからず、「そんなことないですよ、ええ」なんて間の抜けた返事をしてしまった。

「旦那に離婚を切り出した理由、教えてあげようか?」

 言いながら俺の顔の前に、幸恵さんが移動する。

「もともと旦那の仕事のせいで、お互い冷めていたところもあったの。そこにアナタ、一ノ瀬くんが現れた」

 言い終えてからなぜか頭を撫でられてしまい、告げられたセリフと幸恵さんの行為の意味がわかりかねたので撫でる手を掴み、「やめてください」と拒否した。

 俺に拒否されてもなんのその。目の前にある顔はさっきまでの泣き顔じゃなく、どこか色っぽさを感じるような妖艶さを漂わせる。

「大学生のときの一ノ瀬くんは、いろんな女のコと付き合ったり、別れたりをしていたよね」

「まぁあまり長続きしないというか、フランクな付き合いばかりしてました」

「私ならアナタを、本気にさせることができるわよ」

 避ける間もなく近づいた幸恵さん。熱い吐息を首筋に感じたと思ったのもつかの間、ちゅっと音の鳴るキスをされた。首筋の皮膚が薄いせいか、幸恵さんの柔らかい唇の感触を覚えてしまい、変な気分になる。

「待ってください。幸恵さんは既婚者じゃないですか。そういうの駄目です!」

 残ってる理性を総動員して、細身の体を引き離そうとしてるのに、幸恵さんの手が俺の下半身に触れ、その力を削ぐような行為がなされた。

「くっ!」

「ずっと一ノ瀬くんを見てたの。好きよ、我慢できないくらいに」

「旦那さん以外にっ…こんなことし、ちゃ、ううっ……」

「もういいの、あの人とは別れるんだから。これからは一ノ瀬くんだけよ。もっと気持ちよくしてあげる。だから身をまかせて」

「別れる――」

 その言葉がなけなしの俺の理性を、一気に崩した。そのまま幸恵さんに押し倒されて唇を奪われ、なし崩し的に深い関係になってしまった。だがこのときは、まだ深みに嵌ることはないと思った。

 本人がいつかは別れると言っても、現在進行形で相手は人妻――正式に離婚するまでは好きになってはいけない人だと、頭ではわかっていたのに、幸恵さんに尽くされながら甘やかされているうちに、気づいたら彼女なしではいられなくなってしまったのである。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ぽっちゃりOLが幼馴染みにマッサージと称してエロいことをされる話

よしゆき
恋愛
純粋にマッサージをしてくれていると思っているぽっちゃりOLが、下心しかない幼馴染みにマッサージをしてもらう話。

保健室の秘密...

とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。 吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。 吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。 僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。 そんな吉田さんには、ある噂があった。 「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」 それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。

若社長な旦那様は欲望に正直~新妻が可愛すぎて仕事が手につかない~

雪宮凛
恋愛
「来週からしばらく、在宅ワークをすることになった」 夕食時、突如告げられた夫の言葉に驚く静香。だけど、大好きな旦那様のために、少しでも良い仕事環境を整えようと奮闘する。 そんな健気な妻の姿を目の当たりにした夫の至は、仕事中にも関わらずムラムラしてしまい――。 全3話 ※タグにご注意ください/ムーンライトノベルズより転載

彼氏が完璧すぎるから別れたい

しおだだ
恋愛
月奈(ユエナ)は恋人と別れたいと思っている。 なぜなら彼はイケメンでやさしくて有能だから。そんな相手は荷が重い。

夜這いを仕掛けてみたら

よしゆき
恋愛
付き合って二年以上経つのにキスしかしてくれない紳士な彼氏に夜這いを仕掛けてみたら物凄く性欲をぶつけられた話。

鬼上官と、深夜のオフィス

99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」 間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。 けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……? 「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」 鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。 ※性的な事柄をモチーフとしていますが その描写は薄いです。

10のベッドシーン【R18】

日下奈緒
恋愛
男女の数だけベッドシーンがある。 この短編集は、ベッドシーンだけ切り取ったラブストーリーです。

極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました

白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。 あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。 そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。 翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。 しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。 ********** ●早瀬 果歩(はやせ かほ) 25歳、OL 元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。 ●逢見 翔(おうみ しょう) 28歳、パイロット 世界を飛び回るエリートパイロット。 ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。 翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……? ●航(わたる) 1歳半 果歩と翔の息子。飛行機が好き。 ※表記年齢は初登場です ********** webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です! 完結しました!

処理中です...