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リップクリーム現象リライト
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汗ばんだ掌に握られたリップクリームが熱で溶けてしまうのではないか、なんていうことを心配していた。リコーダーや畳まれていた制服や箸を手に取れば良かった、なんていう発想が、その時の僕の頭の中に浮かぶわけがなかった。あまりにも興奮しすぎて、あまりにも冷静でなかった。頭の中はあの娘の何かを手に入れるという発想しか無くて、一番最初に目に付いたのがリップクリームだった。それがリコーダーならリコーダーだし、箸なら箸を持っていたはずだ。制服はさすがに怖いので、いくら興奮しきっていた僕でも手に取ることはしなかっただろう。匂いを嗅ぐぐらいなら大丈夫そうだが。
誰もいない午後の教室には雨上がりの匂いと汗の臭いが交じり合い、太陽の光に照らされたチョークの粉が空中に舞っているのが微かに見えた。握り締めていたリップクリームを制服のポケットに入れると、高鳴っていた胸の鼓動が収まり冷静になっていくような気がした。
リップクリームが無い事に気づいたあの娘が教師にそれを言って、持ち物検査をする事になる、なんていう最悪の事態になるのではないか? という考えが頭の中に浮かんだ。それほど冷静になっていた。興奮が冷静に変わり、焦りに変わっていく。最初とは別の汗が掌に浮かび、それが全身に伝わって、額にじわりと気持ちの悪い汗が浮かんだ。
僕は汗かきという自分の体質を嫌っていた。そのせいで頬にはにきびが絶えず広がり、誰かと手を繋ぐことを怖く感じていた。文化祭でフォークダンスをやるなんていう事が決まった時ほど自分の体質を恨んだ事は無かった。でも僕のような人間に反対意見を言うほどの度胸があるわけでなく、ただその日までを無駄に過ごしていた。文化祭本番の数日前から、練習ということで放課後フォークダンスを踊る事が決まった。学校に行きたくなかったし、行ったとしても何か理由を作り練習に参加しないようにしよう、と考えたけど、無駄に終わってしまった。クラスメイトに嫌われると、より一層学校に行きたくなくなってしまうし、僕にだって一応進路というものがある。
どうかあの娘に当たらないでくれ、という僕の願いは無駄に終わった。この世に神様なんていない。しかし当たらないでくれと願いながら、当たって欲しいと願っていた。その矛盾に気づいた神様が、あの娘と僕がフォークダンスを踊るということにしてくれたのだろうか? 宗教に詳しくないのでよくわからない。
でもあの娘は笑顔のまま、僕の手を取って踊ってくれた。当然汗ばんでいるということは、僕の手を取った瞬間に気づいただろう。でもその笑顔を崩す事無く、最後まで踊ってくれた。より一層僕はあの娘を好きになっていた。
だからリップクリームを盗んだ。近頃の学生なら、すぐに携帯の番号やアドレスなんかを聞いて、遊ぶという名目で近づこうとするんだろうけど、僕は携帯を持っていなかった。持っていてもかける相手もかけてくれる相手もいなかった。でもそれはただの言い訳だ。例え携帯を持っていたとしても、男ならまだしも女に気軽に聞けるような性格では無いということは、自分自身が良く知っている。
リップクリームはポケットの中で僕が動くたびに揺れている。もうすぐで体育の授業が終わり、疲れきったクラスメイトたちが戻ってくる。僕は気分が悪いから保健室に行くと言い、途中で抜け出してきた。あの娘の何かを盗むために。
廊下から生徒の声が聞こえてきた。それが徐々に大きくなり、響くようにして机の上に置いてあったシャープペンシルが転がり落ちた。それを拾って机に上げた時には、もう何人かの生徒が教室に入ってきていた。気分が悪いと言った僕がここにいることを疑問に思う人も、僕を心配してくれる人もいない。僕なんて教室に置いてある掃除用の汚れたバケツ以下の存在でしかないんだ。バケツはまだ掃除の時に活躍できるけど、僕が活躍できる時なんて無い。
クラスメイトの姿をぼんやりと眺めていると、あの娘が友達と談笑しながら入ってきた。薄茶色に染まったロングヘアーは汗でてかり、半そでの体操服から薄っすらと下着が透けて見え、肩にかけたタオルで顔の汗を拭っている。あの体操服が欲しい。タオルが欲しい。いや、体操服やタオルになりたい。生まれ変わりたい!
僕の舐めるような視線には気づかず、自分の席に戻って制服を着た。制服を取らなくて良かったと心底安心した。でも匂いを嗅ぐ時間はあった。少し後悔。気づかれないように視線を自分の机へ戻す。
「あれ、筆箱に入れておいた私のリップクリームが無い」
僕の心臓がびくんと跳ねた。そのせいで背筋が伸び、少しだけ痛みが走った。ポケットに汗ばんだ手を入れ、リップクリームを握りながら声のする方へ振り向く。おかしな行動をすればすぐにばれてしまう。できるだけポーカーフェイスを気取りながら、そしらぬ顔で。
「どこかに落としたのかなあ?」と机の周りを探す女の子の顔はあの娘の顔とは百八十度真逆で、平安時代の美女を髣髴とさせる、まあ簡単に言えば不細工だった。その瞬間全身の汗が引き、僕はリップクリームを隣の席にかけてある制服のポケットに入れた。その制服の持ち主である男子が教室に入り、ポケットの中にあるリップクリームを見つけた。不細工は「あ、私のリップ!」と言いながら男子へ近づいて行く。
「何で私のリップをあなたが持ってるの?」不細工の顔が僕に近づいて来るにつれて恐怖を感じた。それはリップを手てに持つ男子も同じだった。不細工の顔が赤に染まった。
「リップを盗むほど私の事が好きだったんだ? 私も前からあなたに興味があったのよ」
男子は首を横に何度も振りながら、必死にそれを拒否した。よく見ると、少し涙を浮かべている。しかし自分に浸る不細工にはそれが見えないのか、より一層頬を赤く染めながら、男子に抱きついた。それを取り巻きに見ていた男子の「おぉぉ」という歓声と女子の「やったじゃん」という声が教室に響き、またシャープペンシルが転がった。僕はシャープペンシルを拾い、机の中にしまってあった文庫本を手に取って、それを開いた。
誰もいない午後の教室には雨上がりの匂いと汗の臭いが交じり合い、太陽の光に照らされたチョークの粉が空中に舞っているのが微かに見えた。握り締めていたリップクリームを制服のポケットに入れると、高鳴っていた胸の鼓動が収まり冷静になっていくような気がした。
リップクリームが無い事に気づいたあの娘が教師にそれを言って、持ち物検査をする事になる、なんていう最悪の事態になるのではないか? という考えが頭の中に浮かんだ。それほど冷静になっていた。興奮が冷静に変わり、焦りに変わっていく。最初とは別の汗が掌に浮かび、それが全身に伝わって、額にじわりと気持ちの悪い汗が浮かんだ。
僕は汗かきという自分の体質を嫌っていた。そのせいで頬にはにきびが絶えず広がり、誰かと手を繋ぐことを怖く感じていた。文化祭でフォークダンスをやるなんていう事が決まった時ほど自分の体質を恨んだ事は無かった。でも僕のような人間に反対意見を言うほどの度胸があるわけでなく、ただその日までを無駄に過ごしていた。文化祭本番の数日前から、練習ということで放課後フォークダンスを踊る事が決まった。学校に行きたくなかったし、行ったとしても何か理由を作り練習に参加しないようにしよう、と考えたけど、無駄に終わってしまった。クラスメイトに嫌われると、より一層学校に行きたくなくなってしまうし、僕にだって一応進路というものがある。
どうかあの娘に当たらないでくれ、という僕の願いは無駄に終わった。この世に神様なんていない。しかし当たらないでくれと願いながら、当たって欲しいと願っていた。その矛盾に気づいた神様が、あの娘と僕がフォークダンスを踊るということにしてくれたのだろうか? 宗教に詳しくないのでよくわからない。
でもあの娘は笑顔のまま、僕の手を取って踊ってくれた。当然汗ばんでいるということは、僕の手を取った瞬間に気づいただろう。でもその笑顔を崩す事無く、最後まで踊ってくれた。より一層僕はあの娘を好きになっていた。
だからリップクリームを盗んだ。近頃の学生なら、すぐに携帯の番号やアドレスなんかを聞いて、遊ぶという名目で近づこうとするんだろうけど、僕は携帯を持っていなかった。持っていてもかける相手もかけてくれる相手もいなかった。でもそれはただの言い訳だ。例え携帯を持っていたとしても、男ならまだしも女に気軽に聞けるような性格では無いということは、自分自身が良く知っている。
リップクリームはポケットの中で僕が動くたびに揺れている。もうすぐで体育の授業が終わり、疲れきったクラスメイトたちが戻ってくる。僕は気分が悪いから保健室に行くと言い、途中で抜け出してきた。あの娘の何かを盗むために。
廊下から生徒の声が聞こえてきた。それが徐々に大きくなり、響くようにして机の上に置いてあったシャープペンシルが転がり落ちた。それを拾って机に上げた時には、もう何人かの生徒が教室に入ってきていた。気分が悪いと言った僕がここにいることを疑問に思う人も、僕を心配してくれる人もいない。僕なんて教室に置いてある掃除用の汚れたバケツ以下の存在でしかないんだ。バケツはまだ掃除の時に活躍できるけど、僕が活躍できる時なんて無い。
クラスメイトの姿をぼんやりと眺めていると、あの娘が友達と談笑しながら入ってきた。薄茶色に染まったロングヘアーは汗でてかり、半そでの体操服から薄っすらと下着が透けて見え、肩にかけたタオルで顔の汗を拭っている。あの体操服が欲しい。タオルが欲しい。いや、体操服やタオルになりたい。生まれ変わりたい!
僕の舐めるような視線には気づかず、自分の席に戻って制服を着た。制服を取らなくて良かったと心底安心した。でも匂いを嗅ぐ時間はあった。少し後悔。気づかれないように視線を自分の机へ戻す。
「あれ、筆箱に入れておいた私のリップクリームが無い」
僕の心臓がびくんと跳ねた。そのせいで背筋が伸び、少しだけ痛みが走った。ポケットに汗ばんだ手を入れ、リップクリームを握りながら声のする方へ振り向く。おかしな行動をすればすぐにばれてしまう。できるだけポーカーフェイスを気取りながら、そしらぬ顔で。
「どこかに落としたのかなあ?」と机の周りを探す女の子の顔はあの娘の顔とは百八十度真逆で、平安時代の美女を髣髴とさせる、まあ簡単に言えば不細工だった。その瞬間全身の汗が引き、僕はリップクリームを隣の席にかけてある制服のポケットに入れた。その制服の持ち主である男子が教室に入り、ポケットの中にあるリップクリームを見つけた。不細工は「あ、私のリップ!」と言いながら男子へ近づいて行く。
「何で私のリップをあなたが持ってるの?」不細工の顔が僕に近づいて来るにつれて恐怖を感じた。それはリップを手てに持つ男子も同じだった。不細工の顔が赤に染まった。
「リップを盗むほど私の事が好きだったんだ? 私も前からあなたに興味があったのよ」
男子は首を横に何度も振りながら、必死にそれを拒否した。よく見ると、少し涙を浮かべている。しかし自分に浸る不細工にはそれが見えないのか、より一層頬を赤く染めながら、男子に抱きついた。それを取り巻きに見ていた男子の「おぉぉ」という歓声と女子の「やったじゃん」という声が教室に響き、またシャープペンシルが転がった。僕はシャープペンシルを拾い、机の中にしまってあった文庫本を手に取って、それを開いた。
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