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虚無(2023年リライト)

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「いきなりなんですけど、今晩って開いてます? ちょっと急なんですけど、仕事お願いしたいんですよぉ」
 寝ぼけて上手く働かない頭に、軽快そうな男の声が響いた。僕は「ああ、大丈夫ですよ」とだけ言うのが精一杯で、後はその男が話す仕事の説明を聞いているふりをしていた。
 仕事を探してもなかなか見つからない状況の中、まさか仕事からやってくるとは思いもよらなかった。
 時間は21時から朝の4時までの夜勤帯。電話を切り時計に目をやる。まだ昼を回ったばかり。起き上がって仕事の準備をするか、と思う気持ちとは裏腹に、僕は徐々に眠りの中へと沈んでいった。
 慌てて起き上がり、枕元に置いてあった時計を見る。20時。寝過ごさなかったという安心感と、面倒臭いから行きたくないという相反する感情。現実、金がないのだから行くしかないとわかっていながら。
 時間が経つと眠さも仕事に行きたくないという気持ちもすっかり抜け、煙草と財布と車のキーをポケットにねじ入れ、部屋を後にした。
 僕には仕事を選ぶ余裕なんてない。

 3月も半ばというのに、小雨が降っていてやけに寒い。僕は傘を持っていないので、部屋を出て小走りで駐車場へ向かう。
 車に乗り込んだ瞬間、洗濯物を干したままだったということを思い出したが、時間も時間なので、仕方なく駐車場から車を出した。仕事場は車で5分とかからない。洗濯物を取り込む時間的余裕はあったかもしれない。
 コンビニでパンと缶コーヒーを買い、車の中で腹を満たす。煙草を一本だけ吸ってから車を出す。
 仕事場の駐車場に止める。駐車場には僕と同じその日暮らしの人間が50人以上いた。巨大な工場に巨大な駐車場。田舎だ。
 車から出て、工場の入り口横にある受付へ向かう。柱と屋根だけの簡易的な受付だ。名前を名簿に記入すると、受付の向かいにある脱衣スペースで白い作業着を上に着るよう言われる。顔以外が覆われる状態になる。その上から薄いナイロン素材の透明のエプロンを巻きつける。そして顔にはマスク。これで目以外が隠れることとなる。
 気持ちが悪いので何度も作業着をいじっていると、ナイロンでできていたエプロンがちぎれた。もう一枚手に取って巻きつけ、案内されるがままに工場の中へと入って行く。

 弁当や惣菜を作る食品工場だ。だから作業着を着込んだのだろう。作業場入口横で手を洗い、消毒をする。作業場の半分が10メートルほどのベルトコンベア3本で占められている。残りの半分は2メートルほどのステンレスのテーブルが並んでいる。
 既にコンベアには人が並び、弁当のケースが流れていた。そこに一人が卵焼きを入れ、隣の人間が炊きあがったご飯を入れ、その隣の人間が焼き魚を入れる。そして最終的に一つの弁当が出来上がる。ライン作業だ。
 誰に指示を仰いでいいのかわからない僕は、ただそれを眺めていた。暫くして男性が僕の元へとやってきて「あっちで指示を受けてください」と言った。あっちとは、コンベアのほうではなく、ステンレスのテーブルが並ぶ場所だ。
 流れ作業ではないという安堵の気持ちと、今から何をやらされるのだろうという不安の気持ちで、ステンレスのテーブルへと近づく。従業員がテーブルを囲むようにして立っている。それぞれ作業を行っている。僕は一人に「何をすればいいんでしょう」と聞いた。目しか見えないため、相手の性別も正社員かバイトかもわからない。
「んー、ほなその出来上がったお握りにふりかけかけて! 田中さん! この子に教えてたって!」
 気の強そうな女性の命令に圧倒され、助けを求めるようにして田中さんと呼ばれた人を見る。同じく女性だ。声からすると老婆だろう。そんな老婆の田中さんはテーブルの下からふりかけを出し、それをつまみ、弁当のプラスティックケースに並ぶ一口サイズのお握りへとまぶしていく。
「こういう感じでやったらええから」とだけ言われ、ふりかけを手に取った。田中さんは気の強い女性に「あんたはこっちやろ!」と呼ばれ、離れて行った。どういう感じかまったくわからない僕は、言われるがままにふりかけを掴み、適当にお握りへとまぶした。
「あー、あかんあかん! もっと白いご飯が隠れるように全体的にまぶさな!」
 別の眼鏡をかけた女性に注意され、気をつけながらまぶす。これが結構難しい。ご飯を隠れるようにやると時間がかかり「もっとはよでけんの!」と怒鳴られるし、かと言って急いでやると「だからもっと丁寧にやれ言うとるやろ!」と怒鳴られる。僕はその度に「すいません」と謝り、その謝っている最中でも「手え止めるな!」と怒鳴られた。
 なんとかふりかけが終わって立ったままでいると、また別の老婆が僕の隣に割り込んできて、計りと炊飯ジャーに入ったご飯を僕の目の前に置いた。老婆がご飯を手に取り、計りにおいて、形が崩れないように少し丸めて木でできたケースへと並べていく。
 それを見ていると「ぼーっとせんと、あんたもはよやって!」と怒鳴られた。「何グラムで計ればいいんでしょう?」と聞くと、「240! ちゃんと見とかなあかんやろ!」と怒鳴られた。
 昔、溶接の現場にいた時ほど怒鳴られてはいない。あの時は声だけでなく工具が飛んできた。それに比べればましだと考え、怒りを消す。

 ご飯を計り、ケースへと入れていく。計りの針がぶれるため、何度もご飯を取っては載せて、取っては載せてを繰り返していると、また別の女性が僕を押しやるようにして割り込んできた。名札を見ると中国人のようだった。中国人の女性はものすごいスピードでご飯をはかり、ケースへと入れていく。その240グラムのご飯の塊を、向かいに立つ田中さんがプラスティックの小さなケースに詰め、お握りの形へと変形させる。
「ちょっとあんたコンちゃんに何やらせとんの! この子は別の仕事があるんやから! あんたがやり!」
 別に僕はこの中国人にやらせたつもりはない、と心の中で文句を言う。一度小さく深呼吸をし、おにぎりをはかりに置いてどんどん計っていく。ある程度の誤差はどうでもいいようだ。
 それが終わると、僕は別の女性と別のコンベアへ移った。
 女性は、具の入ったケースをコンベアの前に置いたりご飯を計ったりという準備に急いでいた。僕も何かをやろうと手を伸ばそうとすると「ちょっと、もう、のいて!」と怒鳴られるので、じっとしていた。

 女性たちがラインに並び、僕もその間に並ぶ。すると老婆が「ほな今からA弁当流すでえ」と言い、ご飯を弁当ケースに詰め、それをコンベアへと乗せる。僕の隣にいた気の強い女性がポテトサラダを入れ、僕の目の前に流れてきた。
「えっと、僕は何を入れたらいいんでしょう?」と聞くと「はあ? もう! れんこんのきんぴらやろ!」と怒鳴られる。
「それをどこに入れますか?」と聞くと「こーこ! ここ! ここに入れるの!」弁当ケースを指さしながらと怒鳴られる。
「きんぴらはどれぐらいの量でしょう?」と聞いたところで僕の前から弁当ケースがいくつも通り過ぎていった。
 隣にいた眼鏡の女性が「はいはいこれきんぴら、入ってませーん、はいこれもあかん、これも、これも入ってへんで! なにやってんの?」と怒鳴った。僕はてんやわんやになりながら魚ときんぴらを弁当に入れていく。しばらくすると、老婆が「告ぎB弁当流すでー」と叫んだ。
「はい、次の具の準備して!」と気の強い女性に怒鳴られた僕は「次の具はどこにあるんでしょう?」と聞いた。
「もう! いい! なにもせんで、黙って立っといて!」と怒鳴られ、黙って立つことにした。うるさいのは僕たちのいるラインだけで、他のラインの人たちは静かに落ち着いて作業をしていた。
 同じ場所に立っていると、眼鏡の女性に「ケース!」と言われた。「え?」と聞き返すと、また「ケース!」と言われた。「えーっと」といいながら気の強い女性に聞くと、「ケース!」と言われた。
 頭をフル回転させ、考える。次は具じゃなくて透明の弁当の蓋をしていけばいいのだろうか? 目の前に置いてある蓋を手に取り、丁度並んできた弁当へと乗せる。
 眼鏡の女性に「たくあん入ってなーい!」と言われた。どうやら僕はたくあんを入れてから蓋をする、二つの作業をしなければならないようだった。なんの説明もないのでとりあえず手を動かす。
 しかしこれがまた難しい。たくあんを入れ終えるとすぐに次が流れてくる。すると蓋がされていない状態で次に流れることになる。
 今日はじめての人間がいるなら、少しはゆっくり流せよ、と先頭でご飯を詰める老婆を睨んだ。後ろのことはお構いなしに、次々と流していく。
 たくわあを入れて蓋をしていく。どんどん作業が遅れていく僕は、気づけば最初にいた場所からかなり後ろに下がっていた。
「もー! そんなに下がってきたら次の仕事がでけへんやろ! 蓋でけへんねやったらせんでええ! たくあんだけしといて!」と言われた。
 たくあんだけやっていると「余裕あんねやったら蓋もやれや!」と叫んだ後、近くにいる女性に話しかけるように「もうこの子、やらんでええ言うたら全然せえへんなったで。こんなんでよお仕事しに来たな。これで金貰えるんや、ええ身分やね。はははっ」

 はははっという言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中で何かが弾けた。時計を見ると深夜の12時を回っているところ。約束の4時までまだまだだ。
 僕は老婆に「すいません、今日僕12時までなんですよね」と言うと、ラインに女性たちの「はぁ? 聞いてへんけど」や「そうなん、お疲れ」や「たったの3時間だけ? 何それ?」などという嫌味をすべて無視し、外へ出て受付へと歩いた。作業着やエプロンを脱ぎ捨て、最初に来た受付で3時間分の賃金を貰い、駐車場に止めて合った車に乗り込み煙草に火をつけた瞬間、自分に対する虚しさ、情けなさが込み揚げ、大きくため息をついた。3時間で2850円だった。


 その後、僕は年末年始のおせち作りの募集に応募し合格となった。ライン管理という内容で、ライン工が詰める食材がなくならないように補充するというもので、怒鳴られもせず汗もかかず気楽で時給も今回より高く、短期間とはいえととてもよい待遇であった。

 この工場は数年後、工場や各地に広げた弁当屋やその他まとめて倒産した。
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