一統失患者の日乗

れつだん先生

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2010年

上京日記二〇一〇

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 実家で暮らすのがあまりに耐え難く感じたので、僕は家を出ることにした。そういえば――と記憶をたどる。こうして家を出るのは何も初めてではないのだ。今から五年前の十九歳の時にも家を出た。それは隣県に住んでいる彼女の元へ行き同棲するという口実ではあったが、やはり同じように実家で暮らすのがあまりに耐え難く感じたためでもあった。金をほとんど持たず、半ば無理やりに家を出たため、それは二年も持たずに破綻した。
 それから五年が経ち、様々なアパートを住み渡り、彼女と別れ別の女性と付き合い、それも終わり、失恋の痛手で自殺未遂をし、精神科にかかるようになって、最終的にまた実家へと戻ってきた。そして半年が経ち、限界が来た。といっても前回のような若さ故の脱出ではなく、事前にアパートを借りた上での家出だ。幸いにも僕は何かがある度にそれを解決してくれる人が現れるようで、今回のアパートの件に関しても知人であるH氏の住んでいる格安のアパートに空きが出たため、紹介されたのだ。家賃は三万三千円、トイレ共同のコインシャワー付き物件。敷金や礼金は分割で良いので、とりあえず手付けとして三万を振り込んでくれと言われたので、四月の半ば、給料が入ったのでそれを入金した。同時に兵庫県から東京都までの夜行バスのチケットも購入した。四千八百円。意外と安く感じた。明後日の日曜日の夜に旅立ち、月曜には新宿駅に着く。荷物はダンボール一箱だけ送るようにして、どうせ読まないだろう小説は売り払い、衣服は必要最低限以外を捨てた。リュックと手鞄だけを手に持って上京する。
 聞けばアパートには前の住人が置いていった冷蔵庫とテーブルがあるらしい。電化製品は金がかかるのでありがたい。今回も前回同様殆ど金を持たず――といっても八万ほどはあるが――の家出なので、生活する上でかかる金を考えると頭がくらくらする。猪突猛進、自由奔放、そう言えば聞こえはいいかもしれないが、単純に学習能力と我慢をするということができないのだろう。しかしそれほど家が、親が、兄弟が嫌に感じたのだ。ここで我慢しちゃんと貯金をしてから出ることが一番良いパターンなのだろうが、我慢の限界なのだ! 僕の精神的な病に対して理解を示すどころか精神的に追い詰めることしか出来ないあいつらが!
 引越しが完了すればすぐにでも仕事を探さなければならないし、電化製品やその他の生活雑貨を買わねばならないし、東京という未知の場所に素早く適応せねばならない。電車が一時間に一本程度しか走らないような半分が山畑で出来ている田舎者の僕にできるのだろうか――
 そんなことを考えている内に、遂に出発の時が来てしまった。もう後戻りはできないと心の中で固く決心し、父親に駅まで送ってもらうように頼んだ。僕が出発することが決まったとたん、それまでの冷たくきつい対応はどこへやら、急に優しくなった。やはり寂しいものがあるのだろうか。僕にも、それまでは無かった寂しさに襲われていた。本当に実家を出てやっていけるのだろうか、ここにいたままのほうが良いのではないだろうか。しかし車は無常にも駅についてしまい、僕は荷物を背負って車を出て、バスへ乗り込んだ。荷物を頭の上に置き、狭く窮屈な窓側の椅子に座った途端携帯が鳴った。母親からのメールだった。
「人に迷惑を掛けないように頑張りなさい。いつでも応援しています」
 不覚にも僕はもう少しで泣きそうになった、というよりも事実泣いていた。隣に座る若者に悟られないように窓のほうを見やり、「ありがとう、頑張ります」と返信して深呼吸し、もう一度携帯の画面を見る。またメールが入っていた。
「必要なものがあったら送るから何でも言いなさい。追い詰めてごめんね」
 あんなにも毎日喧嘩しいがみ合っていたのに、離れるとなるとこれだもんなぁ――いきなり母親面して優しい言葉を投げかけてきて、僕を泣かせようとしている。
 もう少しで涙が目から溢れようとしていたので、気持ちを切り替えるように鞄から出しておいた文庫本を開き、一人一枚まで支給されている薄い毛布を足に掛けた。口臭と体臭とバスの臭いが混ざり合ったようなものが鼻を掠めるのを感じた。走り出して暫くすると電気が消え、睡眠をするようにとのアナウンスが聞こえた。文庫本を閉じて目を瞑っているといつの間にか眠りについていた……。
 二時間ごとにトイレ休憩があり、その度に目が覚めるものの、窓側に座っているため出ようとするといちいち隣の人に立って貰わなければならない。それが億劫だし気を使うのも面倒くさいので、煙草は我慢した。カーテンがあるため外の景色を見ることも出来ない。何度か睡眠と覚醒を繰り返し、目的地である新宿駅についた。頭上の荷物置きにある鞄を取り、外へ出て荷物置き場に置いておいたリュックサックを手に取り、待ち合わせをしていたH氏にメールを打った。携帯の時計は六時十分を指している。当初の予定よりも早くついてしまったので、時間を潰そうと思ったものの、地理がわからないので動きようが無い。とりあえず人の流れに乗るように歩き、小田急百貨店と書かれた看板の下で待つことに決めた。目の前に喫煙所があったのでそこで煙草をふかしていると、「あ、れつだん先生」と声を掛けられた。H氏だった。H氏は白髪交じりの長髪をセンターで分け、眼鏡を掛けていた。以前会ったのは一年以上前なので、ほとんど記憶に無い。とりあえず「お久しぶりです」と言うと、H氏は「あれ、すごく太ったんじゃないの」と軽く笑った。そして僕はH氏に案内されるがままに駅の中へと入っていった。
 勝手がわからないので、ただ言われるがままに切符を買い電車に乗り、降りて歩き、静かな住宅街の奥深くへと入っていくと、僕の入るアパートが見つかった。アパートというよりも一軒家だった。木造の古い一軒家だ。玄関の横にコインシャワーと洗濯機があり、下駄箱で靴を脱ぎ自室の番号の所へ靴を入れ、急な階段を上って廊下の一番奥までいく。トイレがあり、その隣が僕の部屋となっていた。鍵をH氏から受け取り荷物を置き、同じ二階の階段のすぐ隣にあるH氏の部屋に入ってコーヒーを貰う。暫く雑談した後、自室へ戻る。ここが僕の新たな城なのか、と、薄暗い四畳半のアパートに大の字になって寝転がりながら思った。しかし僕はまだ気づいていなかった。孤独という名の悪魔が自分に忍び寄っていることを。希死念慮は常に僕の首を狙っているということを――

 ホームシックやこれからの不安やあれこれに苛まされてあまりにも死にたくなりすぎて、自分でもこれはやばいという状態になった時に、H氏とその友人I氏から「部屋に来なよ」とメールがあったので、正にこれは助け舟だと思い、最後の気力を絞って部屋へと出て、すぐにあるH氏の部屋へと入った。そこには同じアパートでH氏の二十年来の友人であるI氏もいた。H氏はよく喋る人だが、I氏は寡黙な人だ。しかし二人とも良い人で、酒のあてをたくさん買い込んでいて、「一緒に飲もうよ」と日本酒を勧めてきた。地元産の日本酒らしく、酸味があってすごく飲みやすい。コップいっぱいほどをちびちびと呑みながら、適当に雑談する。I氏は現在就職活動中らしく、履歴書を書いている。僕は日本酒をちびりと呑みながらウィンナーを齧っている。H氏は時折ギターを手に持って僕の知らない昔の曲を弾いている。
「銭湯おごってやるよ」とI氏が言うので、僕とH氏は有難くその言葉に乗り、歩いて数分の銭湯へ行く。一人四百二十円だった。昔ながらの銭湯だ。中へ入って着替えを済ませ、数年ぶりの銭湯に入る。僕は潔癖症なので湯船には漬かれないが、何度も頭と体を洗うと、希死念慮が体が綺麗になると比例するかのように綺麗さっぱり消え去った。
 そしてまた部屋へ戻り酒を呑む。ある程度酔ってきたので、「じゃあ僕はそろそろ」と言いながら立つと、一気にふらりときた。あまりにも呑みやす過ぎて一気に酔ってしまったのだろうか。ふらりとしながら自室に戻り、寝袋に包まる。微かな眠気はあるものの、眠ることができないため、睡眠薬を二つ飲んだ。知らない内に寝てしまっていた。

 朝八時の記憶の無い覚醒。大家さんがやってきて、綺麗な炊飯器と電気ストーブを千円で売ってくれた。H氏が使わない敷布団をくれた。それに寝転がって寝た。という話を昼目が覚めた後にH氏から聞いた。一切覚えていない。普通に対応して普通に金を払ったようだが、記憶が無い。

 自室で貯めておいたラジオを聞いていると、夕方の三時ごろにH氏が「部屋に来なよ」と言うのでそれに従う。適当に雑談し、それがひと段落すると、どうもI氏があと残っている礼金三万円を貸してくれるような話になった。有難くそれを借り、歩いて数分の大家さんの家へと三人で行く。途中長い石の階段があり、二十四年間生きてきて一番体重が重くなってしまったためか、階段を上るのが疲れる。老女である大家さんに先ほど借りた三万円を払い、ビール券と一人一本ずつのジュースを貰って帰った。
 商店街でおかずを買い、H氏の部屋に戻ってご飯を炊いて食べた。ついでに僕とI氏はH氏が買ってくれた東京スポーツの求人欄からいくつかアルバイトをピックアップし、電話を掛けて面接の日程を取り付けた。
 自室に戻ってラジオを聴いているとI氏が部屋にやってきて、「寝袋だけじゃ寒いだろう」と言い、使わなくなった夏用布団を持ってきてくれた。これであと枕があれば寝具が揃う。本当に有難い話である。

 後は仕事が決まり、病院にかかるだけだ。
 しかし東京というのはなかなか面白い。住めば都というのもその通りなのかもしれない。基本的に徒歩なのが疲れるところだが、良い運動になっていい、とプラス思考に考える。仕事だって、まだ若いし、すぐに見つかるだろう、と同じようにプラス思考に考える。僕にはそれが足りない。すぐにマイナス思考になってしまい、自分を追い詰めてしまう。久々の一人暮らしにも慣れてきた。後は――後はそう、仕事だけだ――

 大きな問題だと思っていた仕事は、存外すんなりに決まってしまった。東京スポーツに載っていたビデオボックス店の面接が御囲地町であったのだが、「面接の応対や履歴書では採用は決めない。店舗に空きがあるか無いかが問題だ」と言われ、その日に採用の連絡があった。頭の中で渦巻いていた不安という文字が消えていくのを感じた。職場は神田なので、電車ですぐに行ける場所だった。僕はH氏とI氏を誘って池袋のドンキホーテへ行き、仕事の制服となるYシャツとスラックスとクロックスとネクタイを購入した。なかなかの痛手だったが、仕事が終わるとその場で八割の給料をくれるという話だったので、必要経費だと考えると財布を開く手も軽くなる。

 そして仕事の前日である日曜日に、ネットの知り合いであるF氏とS氏とW君の四人で居酒屋を四件ほどハシゴした。その中の一つが、女性がみだらなファッションをして接客をしている居酒屋なんだけど、女性たちのレベルが高くて、ずっと晒していたくびれとTバックを直視してた。その日はかなり呑んでしまったものの、ハシゴをして歩いたせいか酔いが覚めて、いくらでも呑めるしまったく酔わない感じのまま解散となった。そのうちのF氏はかなり酔っていて、街中や電車の中でもおかしな行動を取っていたのが面白かった。僕は酒は本来の自分を曝け出すものだと思っている。普段言えないことなどを真剣に話すようになる。それが酒だ。旨い酒だ。

 朝目が覚め、ワイシャツを着てネクタイを締め、H氏と共に仕事で使うための写真を撮りに行った。そこは歩いて十五分ほどかかるが、七枚で五百円という破格の値段だった。帰る途中、H氏はギターを持ってきていたので空き地でギターを弾き、それに合わせて僕も歌った。
 帰宅し一服した後、小説を読んでいるといつの間にか日が傾いていて、気が付けばもう出勤時間になっていた。慌ててワイシャツを着てネクタイを締め、家を飛び出して早歩きで駅を目指した。覚えたての道のせいで間逆に歩いてしまい、途中通行人の女性に駅の場所を聞き、何とかたどり着いた。休む暇も無く電車に飛び乗った。時間に間に合うという安堵の気持ちとこれからの仕事に対する不安の気持ちが入り混じって体がおかしくなりそうなのを堪えながら、ぼんやりと窓の外を眺め続けていた――。
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