東京都大田区蒲田

れつだん先生

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第5話 愛情

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 昼の二時に家を出て、歩いて蒲田駅へと向かう。四十分ほどかけて、駅前のブック・オフに立ち寄り、新たに安いものが入荷していないかをチェックし、それが終わり次第ドトールへ行く。ちょうど三時五十分に着き、Mサイズのアイス・コーヒーを買ってミルクを一つ取って二階へ行く。階段を上りきってすぐ目の前の返却カウンターの横にある無料の水をグラスに入れ、小さな灰皿を手に取る。右手にはアイス・コーヒー、左手には灰皿を載せたグラスを持ち、向かって右側の奥から二番目のテーブル席の椅子へ座る。
 土曜日の夕方だというのに客は三組しかいない。大学生風のカップル、スーツ姿のサラリー・マン二人、そして僕と、これから来る佐和。
 アイス・コーヒーにミルクを入れて、軽くかき混ぜて飲む。煙草に火をつけてちびりとまた飲む。スマート・フォンで時間を確認すると、もう四時になっていた。しかし佐和は来ない。――すっぽかされたか、何か理由があるのか。
 まさか、前回の鼻削ぎで捕まった? ――一応、スマート・フォンで最新の事件をチェックする。蒲田駅西口 鼻……出ない。連絡してみようか、と考えていると、誰かが階段を上ってくる音が聞こえた。二組。そして次いで「ごめんセンセ」と、明るい声が聞こえた。声のする方を向くと、佐和の後に十代ぐらいだろうか、若い女が上がってきた。
 僕は立ち上がって、隣のテーブルを引き寄せた。まず佐和が、僕から向かって正面のソファへ座った。そして女がその隣――つまり僕から向かって斜め右に――座った。佐和は同じ種類の服しか着ないのだろうか、一応色違いのランニング・ウェア姿で、隣の女はとても地味な格好をしている。黒髪の長髪、化粧っ気はなく、無地のカーキ色のパーカーに、同じくカーキ色のロング・スカート。ずっと無表情で、ひたすら俯いている。突然思い出したように、持ってきたアイス・ティーにレモンとシロップを入れ、ストローで少しだけ飲んだ。佐和も同じようにアイス・ティーにレモンとシロップを入れ、ポケットから煙草を取り出してそれに火をつけた。
「俺が代わりに言うね。この子の名前は小夜子。俺がつけた。……一緒に住んではいるが、付き合ってはないよ」
 佐和が紹介してもなにも声を出さず、ただレモン・ティーを一口飲んだ。
「よろしく。僕は渡辺透」
「……ろしく……します……」
 絞り出すようにして一言だけ話した。もしこの店が客でいっぱいだったら、その声は聞こえなかっただろう。それだけ小さかった。
「この子がこうやって常に沈むようになったのは、とあることが原因なんだ。昔は表情も豊かで、よく喋る子だったらしい」
「その原因が、相談だかネタだかというわけ?」
「話が早いね」と言いながら、右へ向かって煙を吐いた。
「そしてその話は、是非記事に書いて欲しいと?」
「その通り、さすがセンセ」と、佐和は、屈託のない無邪気な笑顔を浮かべた。
「小夜子はこの話を聞くと、震えだしてパニックになる。最初に比べるとかなりよくはなってるが……。だからついてくるなって言ったのに、聞かなかった」
「そんなにキツい話なんだね」
「そうなんだ。……小夜子はトイレに行くんだよね?」
「……うん」
 小夜子はゆっくりと立ち上がり、階段を下りて行った。
「よし、じゃあ今から話すよ」と、佐和が前のめりになった。

 佐和の話をまとめるとこうだった。
 小夜子は十七歳の高校二年生の時に、一人で東京へ逃げてきた。なにから逃げてきたか、そこが一番のポイントだ。それは、実の父の支配からの逃走劇だった。小夜子の十二歳の中学一年生の時に、母親が事故で亡くなった。それまでは優しい両親の元、一人っ子ということもあり、溺愛までとはいかないものの、百パーセントの愛情を注がれ、クラス・メイトからも信頼され、何不自由ない幸せな暮らしをしていた。
 そして母親が亡くなった。深夜に、滅多にない夫婦喧嘩の末、家から飛び出した母親は、信号を無視した酔っ払い運転に轢かれて呆気なく死んだ。両親は、娘が中学生になり、自分たちの年齢が五十歳になるにも関わらず、娘から見ても恥ずかしいほどに、毎日毎日まるで新婚夫婦のように仲が良かった。夫婦喧嘩の原因がなんだったのか、小夜子は知らない。ただ、初めて見るそれは、とても激しいものだったらしい。
 そして父親は、母親――つまり自分の妻――が死んだ日から、変わってしまった。異常な愛情でもって、娘に接するようになった。母親が死んだその日の深夜、父親は娘の処女を強引に奪った。嫌がり、涙を流し、痛いからやめてくれと懇願する娘を犯しながら、「私は愛する人を失った。とても悲しい。その上お前まで失ってしまったら、もう私には生きる理由がない。他の男に奪われるぐらいなら、私が奪いたい。私とお前は親子だった。しかし、今日からは違う。恋人だ。そしてその次はどうなる? ……そう、夫婦だ。私はお前を愛している。だからお前も私を愛すように。そして、私の子どもを産むんだ。それが私の、お前にできる精一杯の愛情表現だ。毎日、夜の十時になったら私の寝室へ来なさい。泣かないで。私がお前を世界で一番愛しているように、お前も私を世界で一番愛しなさい」と早口で何度も何度も繰り返していた。そして、何度も何度も中で果てた。
 毎晩の性的虐待が一ヶ月続き、三ヶ月続いた。現時点での唯一の救いは、子どもができなかったことだ。長い結婚生活で娘一人だけしか授からなかったのは、なんらかの問題があったのだろうか。だからこそ、娘との子どもを望んでいたのかもしれない。半年続いた後、娘は自殺を図った。しかしいざ首を吊ろうとした瞬間、父親に見つかってしまい、寝室に監禁されるようになった。次第に、行為中に暴力も振るうようになっていった。しかし、行為の最中以外は、今までと何一つ変わらない、優しい父親だった。それは間違いなく、洗脳の一種だった。
 父が娘に対して絶対的な愛情を注げば注ぐほど、娘も父に対して絶対的な愛情を抱くようになっていった。
 そしてその日がやってきた。娘が、父親との子を授かったのだ。一人で産婦人科を受診した帰りに、愛する父親の子を授かったという嬉しさのあまり歩道橋でスキップした際、階段から転げ落ちて、結果流産となった。
 帰宅し、そのことを伝えると、父親は娘に激しい暴力を振るった。一日のほとんどを暴力に費やし、残った少しの時間で犯し続けた。それが数日続き、娘は、愛する人との子どもを、自分の不注意で殺してしまった、だから暴力を振るわれても仕方がない、という洗脳が徐々に薄まり、父親の金を盗んで家を飛び出した。気づいたら蒲田駅西口の小さなベンチに座っていた。どうやってそこにたどり着いたかという記憶は、綺麗さっぱり消えていた。そこに偶然佐和が通りかかり、いつものようにナンパをしようと近づいて、死にかけていた小夜子を保護した。
 当初本人は、虐待を受けていたことはおろか、自分が一体何者なのかまでもを、断片的にしか覚えていなかった。思い出そうとすると奇声を上げて暴れた。佐和はじっくりと時間をかけ、記憶を引き出そうとした。しかし、唯一思い出したのは、父親からの虐待のことと、なぜか年齢だけだった。住んでいた住所はおろか、自分の名前すら思い出せない。財布には身分証は入っておらず、現金がわずかに入っていたのみだった。
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