レツダンセンセイ・グレーテストヒッツ

れつだん先生

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バレンタイン伯爵と三度目の夏

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 僕は一つの覚悟を決めた。どうせあの日々のことを小説にしたところで、読んだ人は誰もそれをノン・フィクションだとは思わないだろうし、こうして今一人で真夜中煙草をふかしながらキーボードを鳴らしている僕だって、あの出来事が本当にあったとは、冷静に考えてみても、そう簡単には信じることはできない。
 しかし、それは全て現実であり、その現実があるから今がある。その気持ちを纏めるためにも、僕はこうして筆を取ったわけだ。こうやって、一つの物語が始まる。

 僕はもう七年近く、週に一度病院に通っている。住む場所が変わったりや様々な原因により、数々の病院を転々としてきたけれど、今の病院にしてから、もう四年は経っているんじゃないだろうか。
 その木曜日も僕はアパートから歩いて十五分強の場所にある大学病院に向かった。予約時間は午前中と記載されているけれど、どうせ三時間近く待たされるので、起きてぐだぐだとしてから行くようにしている。昼頃に目を覚まし、空腹を覚えながら徒歩で向かう。自転車は以前友人に貰った物があるのはあるんだけれど、タイヤのパンクを直していないため、ここ何ヶ月は乗っていないと記憶している。
 受付の機械に診察カードを通し、予約番号の書かれた紙を手にし、二階のメンタルヘルス・センターへ向かう。格好良く横文字にしているけれど、言ってしまえばただの精神科に過ぎない。横文字にしたのは、多分、世間での精神科や精神病に対する根強い偏見が原因ではないかと僕は考えているけれど、そんなに深い理由は無いのかもしれない。
 時間によっては、僕が以前二年間通っていた、この病院が運営しているデイケアで知り合った友人に会う時もあるけれど、とあることがきっかけで、僕はそれをできるだけ避けている。
 メンタルヘルス・センターの受付の看護師に紙を渡し、並べられた椅子に座る。今日も何時もと変わらず満員御礼だ。肩から掛けたビジネスバッグから文庫本を取り出してそれを読み耽る。一時間近く経つと喫煙所へ行き煙草を吸う。ありがたいことに――というか単なるストレス発散の為に買い集めただけだけれど――アパートには未読の小説が数百はあるので、読む物には困らない。読んでいると隣に誰かが座る気配がした。関係ないので読み進める。すると突然隣の誰かが「……君は何を読んでいるんだい?」と声を発した。初老の男性の声だ。そういった知り合いはこの病院関係ではいないため、まさか僕に話し掛けたのではないだろうな、と思いながら横目で隣を見ると、完全に僕の方を向いていた。確かに精神科関係は、僕が言うのも何だけれど、変な人はたまに見かける。入院した時も様々な人を見てきた。この初老の男性も、そういった種類の人間だろう、と決め込んで無視をする。するとまた「……君は何を読んでいるんだい?」と声を掛けられた。本を閉じて隣を見ると、やはり完全に僕に向けた発言だった。どうしようか……と考えあぐねいていると、初老の男性が「……別に怖がる必要は無いよ」と言った。僕は答えに窮し、「あ、はい」と答えるのが精一杯だった。
「……君は毎回の受診日に、こうやって読書をしているのかい?」と初老の男性が言った。天然パーマだろうか、くしゃくしゃになった白髪交じりの髪の毛が肩を超す程の長さになっている。表情は明るいけれど、やはり同じような白髪交じりの髭が伸びに伸びているため、一見浮浪者にも見て取れる。
 適当に返事をすると何をされるかわからないぞ……と思いながら、僕は「はい、そうです」と答えた。もう読書をする気にはならない。どうせ呼ばれるまではまだまだ掛かるだろうし、この人の相手をするのも面白いな、と思った。何か良いネタになるかもしれないし。
「……私もね、昔はよく読書をしていたよ」
「そうなんですか」
「……その殆どが海外文学だったけどね」
「どういうのを読んでいたんですか?」
「……失われた時を求めてを頑張って読み通したのを覚えているね」
「あ、プルーストのですか。僕はあまりの長さに、まだ読んでいません」
 すると無表情だった男性が突然微笑んだ。
「……文学という物に、存在意義を求めてはいけない。文学は暇つぶしでしかないのだよ。読むも読まないも人それぞれ、自由だ。読まなければいけないということは無いし、読まずに歳を重ねても、何も困ることは無い。そう思わないかい?」
「はい、そうですねぇ」
 すると壁に掛けられたモニタに番号が表示された。
「……おっと、少し話し過ぎてしまったようだ」と言い、男性は立ち上がった。そこでやっと男性の服装に目がいった。六月という暑い日なのにも関わらず、男性は黒のロングコートを着込んでいた。そしてそのポケットに手を突っ込んで取り出し、何かを僕に差し出した。名刺だった。
「……私はこういう者でね。活字離れと言われている今の時代に、こうやって読書に耽っている若者は珍しい。また話したいので、よければこの名刺を受け取ってはくれないかね?」
 断るのも怖いので、僕は「あ、ありがとうございます」と言い、名刺を受け取った。すると男性は微笑んで奥へと入って行った。
 名刺には名前と電話番等――携帯ではなく、固定電話だ――が書かれていた。その名前に僕は驚いた。
 そこには、しっかりとした字で、バレンタイン伯爵と書いてあった。
 これが僕とバレンタイン伯爵の物語の始まりだった。

 喫煙所で一服し、メンタルヘルス・センターへ戻ると、ちょうど僕の番号が呼ばれたので奥へ入り、診察を受け、病院を後にした。道を挟んだ向かい側の薬局に入り薬を受け取り、家に帰る。家に帰っても特にすることは無く、何となくだらだらと過ごしていると、忘れかけていた名刺を思い出し、ポケットから取り出した。何度見てもそこには、バレンタイン伯爵と書かれている。さすがに電話を掛けることは躊躇ったけれど、気になるので、インターネットでバレンタイン伯爵と検索を掛けてみた。
 バレンタイン伯爵の考察ブログ、というのがヒットした。名前が同じだけで別人ではないだろうか、とブログを覗いたら、丁寧にも自己紹介欄に顔写真が載ってあった。今日僕に話し掛けた男性と全く同じ顔だ。怖いもの見たさでブログを色々漁って読む。

 果てしない考察

 私は基本的に妄想という現実逃避を一切しないように心掛けている。確かに私は統合失調症という病気を患っているため一見すると妄想に囚われるのではないだろうかと思われがちだが果たしてその囚われたという妄想は妄想なのだろうか。妄想こそが現実であり現実こそがもうそうなのではないだろうかと私は考える。しかし考えれば考えるほどそれに対する答えは一向に出ることは無い。つまり時間の無駄なのである。何も私は時間を無駄に使うことが良くないと述べている訳では無く無駄であることが大事なのだという訳だ。纏めると現実は妄想であり妄想は現実であり無駄は無駄でなく意味のあるものである。お分かり戴けたであろうか。ここで今日の考察は終わりにしておこう。

 読点も改行も無いこの記事は、それだけでなく内容も全く無い。はっきり言って読むだけ無駄だ。引き込まれもしない。ブログを閉じようとした瞬間、音が鳴った。続いて文章が表示される。
「やあ、こんにちわ。今日出会った読書家の青年だね。私のブログを読んでくれてどうもありがとう」
 呆気に取られた。一体どういうことだ? 何故僕がブログを開いたことが、相手に分かるのだろう。新手のウイルスか何かだろうか。アンチウイルスソフトはインストールしてあるはずなのに……と考えていると、また音が鳴り、文章が表示された。
「そう訝しむことは無いよ。私には分かるんだ。君のことが、そして君の考えていることが。簡単に言えば、私にはそういう力が備わっているという一言に尽きる。世の中には科学で説明できないことが沢山あるだろう? その一つだよ」
 気持ちが悪いのでブログを閉じようとしたが、何度クリックしても何も変わらない。一度目を閉じて深呼吸して、心を落ち着かせる。また音が鳴り、文章が表示された。
「ブログは毎日更新しているので、気に入って戴けたのであれば、是非毎日訪れて欲しい。しかし一つ注意点がある。読み終えた記事はその瞬間に消えるということだ。では、お互い、よい読書時間を過ごそう」
 その瞬間、画面がブラックアウトし、Not Foundという文字が浮かんだ。クリックをし、画面を閉じた。わけがわからない。
 煙草を一服し、男性――バレンタイン伯爵――に出会ってからブログへの不思議な体験を頭の中で何度も繰り返した。これを一つの小説にすれば、なかなか面白いんじゃないだろうか? おそらくバレンタイン伯爵も駄目とは言わないだろう。僕の小さな物差しでは全く図ることのできないこの不思議な体験に、読んだ方が何かしら答えを出してくれるのではないだろうか、という浅はかな思いで、一つの小説に仕上げる。どうせ僕も毎日が暇だし、毎日バレンタイン伯爵の考察ブログを覗こうじゃないか。今までにない程のやる気が漲るのを感じた。ふん、やってやろうじゃないか。

 それから僕は、毎日バレンタイン伯爵のブログを覗いていた。余りにも暇する日常に、余りにも生き甲斐の無い日常に、ようやく、面白いイベントが起こった。
 相変わらずバレンタイン伯爵は、毎日毎日、わけのわからないことを綴っている。そして、わけのわからないことを伝えてくる。

 そんな日々が数日過ぎ、僕は、毎週通っている、家の近所にある大学病院の精神科へ行った。相変わらず椅子は患者で埋め尽くされている。いつもならうんざりとし、壁にもたれ、イヤホンで音楽を聞き、読書でもしているところだが、今日は少しだけ違った。全てを体から排除し、ただひたすら、周りを見渡している。老若男女、様々な患者が、思い思いの時間の潰し方をしている。席は空いているところもあるけれど、僕は座らない。
 十五分ほど経っただろうか、死角から、女性の声で、「……あの」と聞こえた。やっぱりそうだ、と思いながら振り向くと、黒髪で前髪はぱっつん、無地のロンT、くたびれたデニムといういで立ちの、三十代半ばほどの、無表情の女性が立っていた。化粧は薄いか、殆ど施されていない。身長は殆ど同じだ。それは僕が低すぎるからだろう。僕は普段から、知らない人とは上手く話せないという、簡単に言えば人見知りだったので、「あ……」という声しか出なかった。女性は少しだけ微笑んで、「……隣、空いてますよ」と言った。完全に一致する。僕は驚きながらも何とか、「え……いいんですか?」と答えた。すると女性は僕の元から離れ、奥になる椅子に座った。そしてまたも微笑みながら、隣の席を二度ほど指さした。僕は慌ててそこへ行き、座った。

 女性の名前は小夜さんという。僕より六つ年上の三十六歳。僕と同じ病気で、精神疾患患者が働く作業所に、二年通っている。読書が大好きで、待合で毎回読書をしていた僕に興味を抱いていたという。活発な方では無く、人見知りが激しいので、なかなか声が掛けられなかった、と言って微笑んだ。
 ここまで全て完全に一致した。
 何と?
 バレンタイン伯爵のブログを読みえ終えると、ポップ・アップで出てくる、チャットに、今日の日の顛末が書かれていた。
 それと全て完全に一致する。

 僕みたいな人間と、仲良くしようとしてくれる女性なんて、世界中探しても、殆どいないだろう。だから僕は、そういうチャンスは絶対に見逃さないようにしている。
「読書が好きって、普段はどういう作者のを読むんですか?」
「うーん、文学とかエンタメとか関係なく、面白そうなのをチョイスしたり……作者だと、村上春樹が好きですね」
「え、村上春樹ですか? 僕も大好きなんですよ。ってそれより、小夜さん、敬語使わないで下さいよ」と笑いながら言うと、小夜さんも笑った。
「わかった。じゃあ、渡辺君も敬語やめてよ」
「それは無理ですねぇ」
「もっと仲良くなったら敬語やめてくれる?」という言葉に、キュンとした。つまりそれを言い換えれば、僕ともっと仲良くなりたい、ということなんだ。
村上春樹の話がひと段落すると、さも慣れているかのような手つきでスマート・フォンを取り出し、連絡先を聞いた。何と、教えてくれた!
「あの……私も一人暮らしなので、気兼ねなく……連絡してきてね」と微笑んだ。
 僕はどちらかというと、Sっ気のある女性が好きなので、この女性――小夜さん――のような物静かなタイプは、僕のストライク・ゾーンではないけれど、この際そんな偉そうなことは言っていられないし、何より、タイプが云々なんてどうでもよくて、単純に、単純に、小夜さんが可愛く思えたんだ。
 ロンTからたまに見える、リスト・カット痕を残して。

 主治医に、小夜さんという女性と仲良くなりました、と言うと、「お前が入る前のデイケアに、少しだけ来てたんだけれど、すぐ辞めちゃったんだよな」と言った。
「何で辞めたんですか?」
「いや、少しでもお金が貰える作業所に行きたいって言ってた。ただそれだけだよ」
 何か問題を起こして辞めたというわけではないみたいなので、ほっとする。

 家に帰るまでも、帰ってからも、小夜さんとメッセージのやり取りをする。といっても、頻繁にするわけではなく、早くて十五分、遅いと四十分ぐらいの時間の空きがある。
 何度か、「電話しませんか?」と言いそうになるのをこらえた。まだそこまで仲良くはなっていない。
 夕飯を食べ、日課のようになっている、バレンタイン伯爵のブログを開くと、新しい記事がアップされていた。内容は、いつものようにわけがわからない。暫くすると、音が鳴り、続いてウィンドウが開き、文字が表示された。
「私の妄言が妄言のたぐいではない、ということがおわかりできたかな」
 はい、ありがとうございます、と心の中でつぶやく。
「しかし、今後のことは言わないでおく。楽しみなさい」
 と表示されると、画面がブラックアウトし、Not Foundという文字が浮かんだ。クリックをし、画面を閉じる。


 子子子子子子子子子子子子

 その日は、夢でうなされて目が覚めた。時計を確認すると、深夜の三時半。零時を超える前に寝たはずなので、三時間半しか眠っていないことになる。おそらく睡眠薬の影響だろう。確か、副作用に、悪夢を見る時がある、と書いてあった。しかし、夢の内容は全く覚えていない。
 横になったまま、煙草を一服する。寝る前にエアコンを切っているのと夢のせいで、全身汗だくだ。何気なしにスマホを手に取ると、一件メッセージが入っていた。小夜さんからだった。受信時刻は深夜二時。内容は、「こんな時間にごめん。何だか眠れなくて」というものだった。この時間に返信するのも何だな、と思う半面、まだ起きていたら、会話ができると思い、「もう寝ましたか? 僕は今目が覚めました」と返信した。小夜さんはもう寝たんだろう、返信は返って来なかった。
 一度目が覚めてしまうと、その後にどう頑張ろうが眠れないという体質なので、起き上がってマウスを操作して音楽を流した。そして敷きっぱなしの布団に寝転がる。
 と、音楽が、急に止まったり早送りされたり、雑音が入ったりし出したので、そういう音楽なんだろうと、何も考えずに流していると、それは完全に止まった。まさか、パソコンの不調か? と思いながら起き上がると、音楽はまた普通通りに流れ出した。しかし、横になると、またおかしくなる。気持ちが悪くなったので、音楽を消そうと閉じるボタンをクリックするも、メディア・プレイヤーが終了しない。音楽は、ついに雑音になった。
「ガガガ、ガガ、ガッ……ガッ……ガガッ、ガガガ」
 心霊現象か?
「ガー、ガー、ガ、ガ、ガガ、ガッ、ガ……ガアアアアアアアアアアアアアアアアアア……」
 全身に、気持ちの悪い汗が噴き出してくるのを感じる。
「ガ……ア……不思……ナ」
 雑音は徐々に何かを喋っているように、女性……いや、少女の声らしきものになっていく。
「キャハハハハハハハハハアアアハハハハアハハハハ!!!!!!!!!」
「な、何なんだよ!」
「ネェネェ、見タァ?」
「見タ見タ!」
「コイツ頭オカシイヨネェ!」
「ダヨネェ!」
「ダッテサァ、コイツミタイナ男ニ、タイプノ女性ガ突然話シカケテクルワケナイジャン?」
「ホントソウダヨ!」
「ダッテサァ、コイツ、半年前マデ、外出モ一切禁止ノ閉鎖病棟ニブチコマレテタンダヨ!」
「ウンウン、ソウダヨネ!」
「生キテル価値無イト思ワナイ?」
「ウンウン、ソウ思ウ!」
「ダッタラ殺ソウカ?」
「ウンウン、殺シチャオウ!」
「デモサ、タダ殺スノハツマンナイカラ……」
「ドウスルノ? ドウスルノ?」
「アイツニ殺サセヨウヨ!」
「ウンウン、ソウシヨウ!」

 狭い部屋はしんとしている。僕の呼吸音だけが、耳に入る唯一の音だ。パソコンの明かりも消えている。暗い。薄暗い。しかし部屋の明かりをつけると、見たくないものがはっきりと見えてしまうため、僕はただ突っ立ったまま、ぼんやりとどこかを見つめている。ゴポ、ゴポ、という音が聞こえる方に、パソコンのモニタを叩き落す。すると音が止んだ。ただただ、安心した。ほっと胸をなでおろした。

「ネェネェ、見タァ?」「見タ見タ!」「コイツ頭オカシイヨネェ!」「ダヨネェ!」「ネェネェ、見タァ?」「見タ見タ!」「コイツ頭オカシイヨネェ!」「ダヨネェ!」「ネェネェ、見タァ?」「見タ見タ!」「コイツ頭オカシイヨネェ!」「ダヨネェ!」「ネェネェ、見タァ?」「見タ見タ!」「コイツ頭オカシイヨネェ!」「ダヨネェ!」

「うるさい」


 はてのある物語

 やっぱりそうなのか、と、僕は思い続けた。常に思い続けた。その思いは月日を重ね、年月、そして光の速度、最終的に宇宙の果てまで到達した。その事実に納得のいかないバレンタイン伯爵は、自身のブログで、やっぱりそうなのか反論文を書き上げた。
 その内容は、簡単にまとめると、「やっぱりそうなのかと思い続けることはやっぱりそうではないのではないだろうかと思うことに繋がる。よってやっぱりそうなのかと思い続けないことがやっぱりそうではないのではないだろうかいやそんなことはないという結論に結び付けられるのである」ということだった。しかし誰も理解できず、という以前に、ブログを閲覧している読者が僕以外いなかったので、何の話題にもならなかった。

 僕の、やっぱりそうなのかという思いは、宇宙の果てでぶつかって、潰れた。その時に、やっぱりそうなのかという思いは、思いっきり泣いたそうだ。実際に観測したわけではないので、これは僕の妄想の話である、と述べておこう。

「この作品は素晴らしい! これは、全人類の人生を描いた、作者至上最高傑作の文学である!」と僕は言った。すると僕は、「いや、この作品には、大きな欠点がある!」と反論した。僕はとっさに、「欠点だと? 一体何があるって言うんだ?」と答えた。すると僕は、「oasisというバンドは、二〇〇九年に解散したんだぞ!」と吠えたてた。そこで僕はようやっと、その欠点に気づくことができたんだ。そしてその一言により、全ての物語に終止符を打つため、北アメリカ大陸横断プロジェクトを発足した。僕は得意げに、「なぁに、北アメリカ大陸横断なんて、僕が君のことを想い続けることに比べたら、簡単すぎらぁ!」と言った。すると何年も一緒に暮らしていた、僕にしかみえることのできない脳内妄想キャラ、アラン・スミシーが粉みじんに吹き飛んだ。その衝撃で、僕の地元である兵庫県が、なんと……。おぉ、神よ! 僕はこの先を言うことができない! だって、あまりにも……あまりにも、あまりにも! 悲しすぎるからだ! 大佐! 返事をしてくれ! 僕は……僕は、この先どうすればいいんだ! 絶望に打ちひしがれてまで、この旅を続けねばならないのか!

END


 または私は如何にして小説を書くのをやめて手淫を愛すようになったか

 バレンタイン伯爵の考察ブログの人気は留まることを知らず、遂に一日のPVが一億を突破した。そのことを記念して、バレンタイン伯爵の考察ブログ一億PV感謝ツアーが行われようとしていた。しかし結果として、行われることはなかった。なぜなら、そのツアーを目前にして、二〇一六年一月一日に、バレンタイン伯爵は突然姿を消した。

 バレンタイン伯爵は、失踪の直前に、最後のブログ記事を更新した。その最後のブログ記事が、これだ。

「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」

 この記事に関して、日本全国、いや全世界で激しい論争が繰り広げられた。バレンタイン伯爵他殺説、生存説、元々いなかった説、未来予知説、タイムスリップ説、陰謀説、バレンタイン伯爵天皇説等々。しかし、当の本人であるバレンタイン伯爵がどこにいるのか誰にも分らないため、論争はすぐに収縮していった。

「バレンタイン伯爵は、一体何がしたかったのでしょうね? ……ここでお天気です。木原さーん、そらじろー!」

END


 FINAL CHAPTER PROLOG

 僕が目の前にある茶色い引き戸をがらりと開けると、畳の上で座禅をしていたバレンタイン伯爵と目があった。まるで江戸時代にタイム・スリップしたかと思わせる袴スタイルでもって、ゆっくりと右手を上げて、「こちらへ来なさい」と呟いた。僕は頷いて靴を脱ぎ、畳に足を踏み入れる。柔らかい畳の感触が足の裏に広がって、同時に鼻先に草の匂いが広がった。
 バレンタイン伯爵の目の前に座り、じっと見据える。
「君がなぜここへ来たのか、私にはよくわかります」とバレンタイン伯爵は静かに言った。
「いえ……僕自身はまったくわからないのです」
「自分の心に問いかけるのです!」と急に大声を上げた。六畳ほどの畳の間には、ちょうど真ん中に囲炉裏があるだけで、他は何もない。土壁が四方を囲み、そこには窓すらない。若干暑さを感じると、同時に額から汗が一本流れ、畳へ落ち、消えていった。
「僕の、心に問いかける……?」
「せやで。そしたらよぉわかるわ。何でも、わからんことは心に聞いたらええ。絶対に心は答えを出してくれる。せやから、ワシはいっつもこうやって座禅組んどるねん」
「成る程……」
「成る程って何やねん! ワレはワシを馬鹿にしとるんか!」とまたもや急に大声を上げ、おもむろに僕の太ももをまさぐりだした。
「ちょっと、何してるんですか!」と声を上げながら僕はその手を払いのけた。
「何してるんやと? 覚悟を決めたからここに来たんとちゃうんか?」
「え、何の覚悟ですか?」
「ワシはなぁ」と言いながら、右手を袴の胸元へ入れた。まさかペストル!? と内心恐怖におののいていると、何のことはない、ただ煙草を取り出しただけだった。
「ワシはなぁ」と言いながら、煙草――それは最近フィルターの付いた安物煙草、GOLDEN BATだった――を口に咥え、指をぱちっと鳴らすと、火が付いた。
「ワシはなぁ」と言いながら、僕にもその煙草――それは最近値上がりした上にタールとニコチンが下がったGOLDEN BATだった――を差し出してきた。断るのもなんだけれど、僕はハイライト・メンソール吸いなので、勇気を出してそれを断り、ポケットからハイライト・メンソールを取り出して、咥えて火を付けた。
「ワシはなぁ」と言いながら、右手の人差指と中指に挟んだGOLDEN BATの煙を味わっている。僕も、ハイライト・メンソールを味わっている。
「ワシはなぁ」と言いながら、左手を僕の太ももへ伸ばそうとしてきたので、僕は慌てて、「ちょっと、何してるんですか!」と声を上げながらその手を払いのけた。
「そんな言い方、あきません!」と背後から突然女性の声で叱られた。
「おお、女将やんけ」とバレンタイン伯爵は言い、畳の間へ招き入れた。その女性は、温泉宿ちくのうしょうの女将さんだった。女将さんは静かに畳を歩き、僕とバレンタイン伯爵の斜め――ちょうど僕たちの座る位置が三角形になるようにして――座り込んだ。
「あなた、伯爵夫人になんていう口の利き方しとんの!」とまた叱られた。
「まあまあ、ええやないか。こいつもまだ若いねん。ワシも若い時はこうやった。怖いモンなしや。歳取ったら、いろんなモンに気ぃ付いてくるんや」
「そない言いますけれど、私は口の利き方にはうるさい方ですねん」
「そやって女将が厳しぃするから、人雇ってもすぐ辞めていくんやんか」と言い、ふぉふぉふぉと変な声を上げて笑い出した。
「……あのぅ」と僕はおどおどしながら小さく声を発した。
「何やの」
「えっとぉ、何で伯爵夫人なんですか?」と聞くと、バレンタイン伯爵と女将は、まるで僕を小馬鹿にするように、顔を見合わせながら笑った。
「ちょっと、何で笑うんですか!」と声を上げながら二人を睨みつけた。
「あなた、伯爵夫人になんていう口の利き方しとんの!」とまた叱られた。
「まあまあ、ええやないか。それに答えたろやないか」
「お願いします」
「ワシが何で伯爵夫人と呼ばれとるか……」
「はい……」
「それはワシが伯爵夫人やからや」
「ちょっと、どういう意味ですか!」と声を上げながら二人を睨みつけた。
「あなた、伯爵夫人になんていう口の利き方しとんの!」とまた叱られた。
「まあまあ、ええやないか。ワシが伯爵夫人やったらアカンのか?」
「いや、駄目というわけではないんですが……」
「せやったらええやないの! この方はホンマに偉い方やねんで。そもそも――」「コンニチワー!」という女将の言葉に、突然背後から外国人の声が被さった。振り向くと、二メートル五十センチはある背の高さ、鍛えられた肉体の、黒人が立っていた。
「おお、ボビーやんけ」とバレン――伯爵夫人は言い、畳の間へ招き入れた。その黒人は、とにかく黒人だった。黒人は静かに畳を歩き、女将の隣――ちょうど僕たちの座る位置が四角形になるようにして――座り込んだ。
「あらまぁボビーさん、久し振りやないの」と女将は微笑んだ。
「……あのぅ」と僕はおどおどしながら小さく声を発した。
「何やの」
「えっとぉ、この黒人の方は誰ですか?」と聞くと、バレ――伯爵夫人と女将と黒人は、まるで僕を小馬鹿にするように、顔を見合わせながら笑った。
「ワタシノ本名ハ、ぼび山直太朗デゴザイマス」と黒人は片言の日本語で言った。
「ボビ山直太朗? そんな名前あるわけないじゃないですか!」
「そんな言い方、あきません!」とまたもや女将が僕を叱りつけた。びっくりした衝撃で、吸い終わろうとしていたハイライト・メンソールが畳に落ちて、小さな焦げ跡を作った。僕は慌ててそれを隠すように座り直し、「すみません」と謝った。

「で、これからどないすんの?」と吸い終えたその煙草――それは芥川龍之介も愛飲したというGOLDEN BATだった――を囲炉裏に投げ捨てて言った。
「私にそんなん言われても知りませんがな」と女将は、ホホホと声を上げて笑った。
「ワタシノ本名ハ、ぼび山直太朗デゴザイマス」と黒人は片言の日本語で言った。
「無茶苦茶ですね」
「せやなぁ」
「ホンマですね」
「ワタシノ本名ハ、ぼび山直太朗デゴザイマス」と黒人は片言の日本語で言った。
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