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そして僕はさよならと言った

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 十二月も半ばになると、あたりはクリスマスのイルミネーションだらけで明るく感じる。僕は外灯が一つしかない薄暗い公園に入り、ベンチに座った。腕時計を見ると午後八時を指している。ジャケットのポケットから煙草を取り出し、口に咥えて火をつけた。駅までここからは徒歩で三十分ほどかかるが、行く気がしない。皆が皆クリスマスに色めき立っているからだ。何がクリスマスだ、と僕は足元に落ちていた石を蹴飛ばした。一人暮らしをしてからもう八年以上経っている上に彼女もいないとなれば、一人寂しくクリスマスを過ごすしかない。元々甘いのは苦手なのでケーキは食べないし、チキンもわざわざ自分から買おうとは思わない。今日は十二月二十二日の土曜日。僕はどのようなクリスマスを過ごすのだろう。大体の検討はついているが――。
 気づけば駅前に歩いていた。駅に近づくにつれ、人が多くなり、明るくなっていくのを感じる。
「どこ見てんだバカ野郎!」
 怒号が前方から聞こえた。喧嘩だろう。僕はそれを避けるために路地へと入った。しんとしている。ブロック塀に腰掛け、煙草に火をつけた瞬間、携帯が鳴った。ポケットから取り出して確認する。
「今何してるの?」というメール。しかし問題なのは内容ではない。差出人だ。名前を前田小夜子という。一週間前に告白したのだが、無残にも砕け散った。それ以来ほとんど連絡は取っていない。心臓が高鳴るのを感じた。手が震えそうになったので、僕はまた煙草を口に咥え、深呼吸してから火をつけた。
「駅前でうろついてる」と返信した。すぐに返信がくる。携帯依存症じゃないの? と以前言った気がする。
「暇だから食事でも行かない?」
「今から?」
「そう、今から」
 何度もメールをやりとりした後、駅の改札口に八時半集合ということになった。人ごみをかき分けながら改札口へと向かうと、まだ待ち合わせの十分前だというのに前田小夜子は立っていた。紫のダウンジャケットとスカートにタイツを合わせ、黒いブーツでコツコツと地面を叩いている。僕は少し小走りになりながら小夜子に近づいた。
「ごめんごめん、待たせた?」
「いや、今来たところ。じゃあ行こうか」
 並んで歩く。恋人同士なら手を繋ぐところだが、如何せん僕たちはまだそこまでたどり着けていない。
「どこに行くつもりなの?」
「いや、考えてない」
「バカじゃないの?」と彼女が大きな声で言った。「待ち合わせする前にそういうのは決めておくものでしょ。それを何? 考えてないって。時間はたっぷりあったはずよ。なんでそんなことができないわけ? だからいつまでたってもアルバイトのままなんだよ」
「ごめん」
「いいわ、もう。その辺のバーにでも入りましょ」
 僕たちはこぢんまりとした白夜というバーへと入った。店内には誰もいない。ジャズが鳴っているが、誰が演奏しているのか、誰が作ったのかさっぱりわからない。
「ジントニック」と彼女は言った。店主はグラスを拭いていた最中だったが、「はい」と言い奥へと消えていった。五十代ぐらいだろうか。白髪が目立つが、まだまだ現役で行けそうだ。禿げてきてもいないし、服の上からだからわかりづらいが、ぜい肉もほとんどついていないようだ。店主がジントニックを持ってきた時に、僕はビールとナッツを注文した。僕のポリシーは、どこで飲もうがまずはビールを注文するということ。彼女は「またビールなの」と言ったけれど、そんなのは関係ない。自分のポリシーを第一に考えるだけだ。
 小夜子にはほかに好きな人がいるということは知っている。だから僕とはある程度の距離を保っているということも知っている。そしてその好きな人は小夜子のことが好きではないということまでリサーチ済だ。当然小夜子には言っていない。
「仕事辞めようかな」と小夜子が呟いた。いつも元気な彼女が、うつむきながらジントニックを飲んでいる。
「何かあったの?」
「何もないわよ。だから辞めたいの」
 僕はたまに小夜子との会話が何かのクイズではないかと錯覚するときがある。そして正解はわからないし、教えてももらえない。
「この店の名前って、もしかしてドストエフスキーの小説のタイトルから取ったの?」と彼女はまだグラスを磨いている店主に向かって言った。
「なんですかそのドストなんたらってのは。ただ響きがいいだけでつけただけですよ」
 小夜子が財布から千円札を取り出し、カウンターに置いた。
「行きましょ」
 まだビールが半分以上残っていたが、僕も千円札をカウンターに置いて二人して店を後にした。
 僕たちは違う店に入り、軽く呑んだ。その後十一時に解散となった。彼女の家は駅の近くなのだが、一応送り届けてから自宅へと帰った。帰るなり冷蔵庫から缶ビールを取り出し、飲み直しをする。それだけでは淋しいので、フライパンでベーコンとほうれん草を炒めたものを肴にすることにした。料理は昔から嫌いではなかった。逆を言い換えれば好きでもないということだが、一人暮らしが長くなるにつれ、嫌がおうにもするようになったのだ。テーブルに座り、ベーコンとほうれん草の炒め物を食べながら缶ビールを飲む。テレビをつけると夜のニュースをやっていた。やれ政権がどうの、やれ誰が殺されただの、やれ誰と誰が結婚しただの、今の僕にとってはどうでもいい内容だ。テレビを消すと辺りはしんとした空気に包まれた。

 睡眠薬を飲まない限り眠気は来ない。いや、正確に言うと徹夜して昼ごろまで起きていれば寝ることができるんだけど、そんなことしていたら社会人としてやっていけないので、基本的には僕は睡眠薬を飲んで寝るようにしている。その他にもメジャートランキライザーを数種類飲んでいる。二十三歳の誕生日に自殺未遂をしてから、統合失調感情障害と呼ばれる病気にかかってかれこれ三年になる。病状は一向に良くはならない。悪いのと良いのを繰り返している感じだ。閉鎖病棟に入院も一ヶ月間だけながら経験した。
 部屋では煙草が吸えない――賃貸なので出るときに金が掛かるから――ため、外に出て煙草を吸う。あまりにも寒すぎるが、僕にはフリースのジャケットしか防寒具を持っていない。金だって無い。吸い終わり、二階の廊下から下のアスファルトに煙草の吸殻を投げ捨て、急いで部屋へと戻った。
 カーペットに寝転んで天井を見上げる。そしてなんとなくセックスのことに関して考えていた。そういえば、と気がつく。もう三年近くセックスをしていない。薬のせいで性欲はほぼ皆無となったが、無いわけではない。しかしほとんど無い。上半身を起こし、鞄から薬を取り出した。全部で十二錠ある。それをペットボトルに残っていた水で流し込む。特に何が起こるわけでもない。気分が上がるわけでも、下がるわけでも。飲み終わってからふと小夜子のことを考えた。なぜ僕は小夜子が好きなんだろう――。初めて会ったときは何にも感じなかったのに、何回か会う内に笑顔に惹かれるようになった。それから何週間か経って、告白した。結果は言わずもがな。と考えている内に、まどろみの中へ――。

 朝はすっきりと起きられる。時刻は七時半。壁にかけられた作業着を身に付け、歯を磨いて顔を洗い、外へ出る。煙草を口に咥えて火をつけ、一階に降りてすぐのところにある自動販売機でコーヒーを買う。毎日繰り返している一連の動作を終え、仕事場へと歩く。自転車はあるのだが、タイヤがパンクしているため、ここ数ヶ月はずっと歩いて仕事場へと行っている。パンクの修理代ぐらいの金は無いわけではないのだが、なんだか面倒くさくて自転車屋へ持って行ってない。仕事場は徒歩十五分のところにある、小さな町工場だ。入口から入り、自分が担当している機械の前に行き、機械にもたれかかれるようにして座り込み、煙草を吸う。僕以外に人はいない。ちょうど煙草を吸い終わった頃に田中さんがやってきた。歳は四十五歳、腕は僕の腕の二倍以上はあるだろうか、その指先には煙草が挟まっている。どこかの統計で低所得者ほど煙草を吸う率が高いと聞いた。
「おはようございます」
「おはよう」
 田中さんは工場長だ。十人ほどしかいない工場を仕切っている。そして時計が八時を過ぎた頃に、他の従業員もやってきた。紹介は割愛させていただく。

 昼休みに入り、支給された弁当を食堂で食べていると、僕のひとつ年上の吉田さんが隣に座ってきた。髪の毛は長く金髪で、幾度となく田中さんに「その髪の毛どうにかしろよ」と言われているにも関わらず、それに抵抗し続けている。パッと見は軽薄そうなホスト崩れだが、中身も――残念ながら軽薄そうなホスト崩れだ。毎週のように合コンをし、何人もの女を物にしてきた。僕はこれまで四人と付き合ってきたのだが、そんなもの吉田さんの経験人数に比べれば月とスッポン、まるで勝ち目がない。
「なあ渡辺、明日の土曜合コンやらねえか?」と吉田さんが弁当をかきこみながら言った。吉田さんに合コンに誘われたことは何回かあるが、ただの人数合わせにしか見てもらえなかった。当然そこで出会いもあるわけなく、ただ金が飛んでいくだけだった。
「どうせまた人数合わせでしょ」と僕。
「そう言うなって。四対四でやるからさ、集合はいつもの駅前の時計台の下で、夜の六時な」
「わかりました」と言うしかない。
 弁当を食べ終わり、朝と同じように自分の担当の機械の前で煙草を吸っていると、また吉田さんがやってきた。当然のように煙草を吸っている。
「言い忘れてた。今度の相手はナースだぞ」と言い、僕の肩を二回ほど叩いてどこかへ行ってしまった。
 合コンに行ったことを小夜子にバレたらどうなるだろう、と一瞬頭に過ぎったが、考えるのをやめた。別に恋人同士でもあるまいし、僕が何しようと自由ではないか。

 合コンはそれはそれはもう酷いものだった。吉田さんは相変わらず一人の女の子をお持ち帰りし、残りでカラオケに行き、お開きとなった。僕にはなにもなかった。寒い路地を歩いていると、携帯が鳴った。小夜子からだった。
「今日の合コンはどうだった?」
 僕の心臓が高鳴った。なぜ小夜子がそれを知っている? しかし考えても考えても答えはでない。とりあえず何か返信をしなくては。
「酷かったよ」
「じゃあこれから飲まない?」
「いいよ」

 今回は待ち合わせする前に事前に目的地を決めておいた。そうでなかったら何を言われるかわからない。駅から歩いて数分のバーに行った。小夜子は相変わらずジントニックを注文し、僕はビールとナッツを注文した。バーの店長は四十代ぐらいだろうか、白髪交じりの髪の毛をべったりと頭皮に貼り付けて、手持ち無沙汰なのだろうか、しきりに時計を気にしている。今は夜の九時だ。店内にはクリスマスソングが流れている。
「なんで今日あなたが合コンに行ったのかわかったのかわかる?」と小夜子。
「ぜんぜん」と僕。
「女の勘よ」
 そんなもんかな、と僕は考える。肩からかけていた鞄から薬を取り出し、店長に水をもらって薬を飲んだ。
「病気になってどれぐらいになるの?」
「もう三年ぐらいかな」
「私と同じ精神分裂病でしょ?」
「それは古い言い方で、今では統合失調症と呼ばれてる」と僕はまるでパソコンで検索したかのように言った。
「それにしても、このバーなかなか雰囲気がいいじゃない」
 店内の音楽がビートルズに変わった。
「いいって言った瞬間ビートルズに変わるのもプラスポイント」
「waitか。そういやここ最近ビートルズ聞いてないな」
 ビールが空になったので次は黒ビールを注文した。ちびちびと飲む。なかなか美味い。最初のビールも悪くなかった。
「本当にビールばかり飲むのね。少しは雰囲気ってものを考えないの?」
「僕のポリシーだからそれは変えられないよ」
 ふうん、と彼女は言った。彼女のジントニックも無くなった。次は何を注文するのだろうと見ていると、次はソルティドッグを注文したようだ。運ばれてきたグラスの周りに塩が塗られている。僕も次はソルティドッグを注文しよう。
「女の勘って言ったのは嘘。たまたま街で見かけたのよ」
「僕たちを?」
「そう。楽しそうにしていたね。カラオケにでも行ったんでしょ? 渡辺君カラオケ好きだし」
「まあね。先輩は一人女の子をお持ち帰りしたけれど、人数合わせの僕は何もしなかった」まるで弁明するかのように言う。小夜子とは恋人同士でもないのに、なぜか気を使ってしまう。小夜子には他に好きな人がいることは知っている。告白した時に、その人にフラれたら考えてもいいわよ、と言われた。周りの男友達からは、保険扱いなんて酷すぎる、なんて言われたけれど、別に焦って彼女を作ろうとは思わないので、僕としてはぜんぜん構わない。
「ねえ」と小夜子は言った。
「何?」
「キスしようか」
「えっ?」
「嘘よ」と言いながらソルティドッグを飲み干した。。
「軽く酔ってきたわ。送ってくれる?」
「ぜんぜん構わないよ」
 そして僕たちはバーを後にした。

 彼女を家まで送ると、僕はコンビニでジーマを買ってそれを飲むために公園に入った。彼女の家はどこにでもありそうなアパートだった。入ったことはないのだが、一人暮らしでワンルームだというのは聞いている。夜中の公園は真っ暗でしんとしている。ジーマが無くなったのでポケットからセブンスターを取り出し、口に咥えて火をつけた。程なくして携帯が鳴った。小夜子からだった。
「私たちって変な関係よね」
「まあ、そう言われるとそうだよね」
「そろそろ答えを出したほうがいいのかしら?」
「僕は待てるよ」
「わかった。おやすみ」
 ブツッと通話が終わった。急かしたらどうなっただろうか? と考えてみても答えは出ない。帰宅途中のコンビニでビールを購入し、飲みながら帰ってすぐに寝た。

 朝風呂を済ませ歯を磨いて、部屋で寝っ転がって本を読んでいた。ブローティガンの西瓜糖の日々だ。半分ほど読み終わったところで小休止を入れた。ポットでお湯を沸かし、ホットコーヒーを作る。僕はクリームも砂糖も入れない。ブラックで熱々のまま飲むのがポリシーだ。ポリシーが多すぎるような気がしないでもないけれど、まあそれはそれだ。コーヒーを持ったまま玄関を出て、外で煙草を吸う。部屋で吸ってしまうと出る際に金を取られると聞いたので、部屋では一切吸っていない。それからまたブローティガンの西瓜糖の日々を読み出した。
 気がつけば太陽はもう真上に昇りきっていた。
 そろそろ小夜子について語りだしてもいいころだろう。事情により一人暮らしをしている。小夜子は今年で十七歳だ。僕とは九歳差となる。高校は留年が決定したため全く行っていないと聞く。おいちょっと待てよ、未成年とバーに行ったのかよ、と言われるかもしれないけれど、僕は別に未成年でもバーに行っていいと思っている。僕自身十五で煙草と酒を覚えたので、そういう考えなんだろう。そんな二人がどこで出会ったか――それは今から二ヶ月前に遡る。

 僕は病気のため、仕事ができずにいた。簡単に言えば生活保護を貰っていたのだ。その間何もしないのも目に付くので、主治医の判断でデイケアに通うことになった。そこに小夜子がいた。そして僕は連絡先を聞いて、何度もデートに誘うようになった。そして告白した。

 そんなことを考えていると、携帯がまた鳴った。今度は誰だろう?
「あ、小野寺恵子だけど」
 小野寺恵子? そんな人物知り合いにはいない。間違い電話だろうか?
「忘れちゃったの? 昨日の合コンで電話番号交換したじゃない」 そこでようやく名前と顔が一致した。お互い人数合わせという立場で話もそこそこに盛り上がり、電話番号を交換したんだった。歳はたしか僕の二個下ぐらいだった記憶がある。仕事はOLでロングのストレートヘアを触る癖を持っていた。僕は右手で携帯を持ちながら、左手には煙草を挟み、玄関の外へ出た。冷たい風が坊主頭には辛い。
「どうしたの?」
「どうもこうもないわよ。暇で仕方ないの。渡辺君は暇?」
「まあ、暇っちゃ暇だけど」
「じゃあどこか行きましょう」
 そこで携帯がぶっと鳴った。一度耳から話して画面を見る。メールだ。小夜子からだった。『明日から一ヶ月入院することになった』と書いてあった。僕はまた耳に携帯を当て、「どっかってどこへ?」と言った。
「じゃあ飲みに行きましょう。駅前の飲み屋でどう?」
「いいよ、六時ぐらいでいいかな?」
「結構。じゃあね」
 電話を切っても、まだ耳から携帯を離せずにいた。小夜子が入院? そんなに悪そうでもなかったのに。精神科で入院すると、面会ができないというのは有名な話だけれど、一ヶ月も小夜子と会えない日が続くとなると、仕事にも身が入らない。正直さっきの小野寺恵子の話は断ってもよかったんだけど、現実逃避がしたくてついオッケーを出してしまった。
 五時半まで小説を読み、四十五分に駅前の居酒屋へと行った。

 コートに身を包んだ小野寺恵子が、両手に息を吹きかけながら待ち合わせ場所に立っているのを確認した。茶色いロングヘアが風になびいている。
「ごめん、待たせた?」
「いや、ちょうど来たところよ。さ、行きましょう」
 自然に手を取られる形になった。小夜子にこんな現場を見られたらどうしよう、という不安に駆られたが、小夜子は入院中なので大丈夫だ。
 小野寺恵子は「あんまりうるさいところは嫌なんだよね」と言いながら、店を確認して回る。十分ほどでようやく店が決まり、中へと入った。静かな安居酒屋だ。客はほとんどいない。テーブル席へと案内された。僕たちはビールを注文し、運ばれてきた枝豆をつついていた。
「それにしてもこの間の合コンひどかったよね」と小野寺恵子が言った。
「酔っ払ったからほとんど覚えてないんだよね」と僕。
「酔うと記憶なくなるタイプなんだ?」
「そうそう。小野寺さんは記憶残るの?」
 恵子で言いわよ、と小野寺恵子は言った。
「恵子は記憶残るの?」と言い換えた。
「残る方ね」
 そこで会話が途切れた。しばらくして団体客が入ってきた。寒い寒いと連呼している。僕は昔から寒いのは苦手ではなかった。暑いほうが嫌いなぐらいだった。実際ダウンジャケットなどというものは着ていない。
 僕たちはビールを飲み終わり、追加注文した。ビールとカシスソーダだ。カシスソーダは一度挑戦したことがあるが、はっきり言って飲めるものではなかった。何より甘すぎる。それに吐く際に喉にひっかかる。これはカシスソーダを飲んだ後に吐いた者しかわわからないと思うけれど、本当にひっかかる。それ以来僕はそういったものを口にしていない。だから小野寺恵子がそういったものを飲むことに違和感を感じたのだ。しかし好き嫌いは仕方ない。
 ビールを半分ほど平らげた後、煙草に火をつけた。真似るようにして小野寺恵子も煙草に火をつけた。僕は昔から飲むスピードが早く、すぐに酔ってしまうのだが、今日は気をつけて飲むようにした。だからといって酔わないというわけではなく、徐々に目がうつろになり、バーに備え付けられている時計を見た。腕時計でも良かったのだが、蛍光ピンクなので人前で出すのは少しはばかれる。しかし買ったときはこれしかない! と思ったのだが。
「そろそろ行きましょうか」と小野寺恵子が言った。会話が弾むでもなく、酒とつまみが格段に美味いわけでもなく、煙草もそろそろ切れかけていたので、僕は二つ返事で金を支払い、安居酒屋を後にした。
「じゃ、また暇なときに連絡する」と言ってから今まで、一度も連絡が来ることはなかった。

 家に帰り薬を飲んでから、一時間ほど読書をし、そして寝た。起きた瞬間に、ああ、昨日はクリスマスイヴだったのか、と気がついた。今日は仕事だ。憂鬱になる。いっそ毎日が日曜日だったらいいのに、といつも考える。精神的にも肉体的にも疲れきっている。ここらへんで仕事を辞めるのもひとつかもしれない、と、携帯を手にとってすぐに置いた。仕事を辞めてどうやって暮らしていくというのだ。過去生活保護を貰って生きていた時期はあったが、少ない中でやりくりしていくというのが難しかった。欲しいものも買えないし、バイクや車は持てないし、そんな状態で女の子と遊びにも行けないし――いや、行ってたな――。そして主治医からようやくオーケーを貰い、働くようになったのだが、デイケアに通っていた頃は天国だった。友達も沢山いたし、疲れるようなこともしなかったし、何より何かがあればすぐにスタッフに相談できたというのは良かった点だと思う。それが今や、と考えればきりがない。気持ちを切り替えようと小夜子にメールを送ろうとしてやめた。入院中は携帯を触れないんだった。でも一応「入院は暇?」と送ってみることにした。当然返事はない。
 薬を飲んで眠気を待つ。二時間ほどするとまどろみの中へ。

「おはようございます」
「おはよう」
 それから機械いじり。仕事は終了だ。家に帰ってシャワーを浴び、だらだらとインターネットをしていると携帯が鳴った。小夜子からだった。「暇だよ」と返ってきた。「今は携帯さわれるの?」「外出中だから。あと退院が明日になった」ときた。「じゃあ退院祝いしなきゃね」「あなたの家で二人で飲みましょう」「わかった」 興奮冷めやらぬまま、薬を飲んでまどろみの中へ。

 次の日の仕事は身にならなかった。ミスが多くて工場長の田中さんに怒られてばかりだった。だって。だって今日小夜子が僕の家に来るんだぜ? 話したいことは山ほどある。それに僕はひとつ小夜子に隠していることがある。小夜子の誕生日は明日。ちゃんとプレゼントを買っているのだ。村上春樹のノルウェイの森。気に入ってくれるかは不安だけど、ちゃんと包装して家に置いてある。緊張する。
 仕事が終わりシャワーを浴び終わると、メールが鳴った。「今家の近所なんだけどよくわかんないから来て」「今どこ?」「――っていうスーパーの前」「わかった」
 服を着替えて外へ出る。夕方の五時にしては寒い、防寒具を持っていない僕にはなかなか堪える。煙草を口に咥えて火をつける。歩いて五分のスーパーへつくと、コートを着た小夜子が立っていた。
「ごめん待たせた?」
「ぜんぜん大丈夫」
「じゃあ行こうか」
 ここで手を繋げないのが、ふたりの関係を物語っているだろう。「スーパーで酒買っていかない?」と小夜子が言うのでスーパーの中へ。もうクリスマスムードは終わり、正月ムードになっていた。籠を持って餅などを素通りし、酒コーナーへ。僕はビールとハイボール二本とウコンの力を。小夜子はほろよい一本を僕の籠へ入れ、惣菜を適当に籠へ入れレジへ。煙草を買うのを忘れずに。そして僕の家へと歩いて行った。

 僕のアパートはそのスーパーから歩いて五分ほどのところにある、静かな建物だ。ちょうど車で来ると行き止まりの所にある。階段横の自動販売機を通り過ぎ、階段を上った二○三号室が僕の部屋。財布から鍵を出して扉を開け、中へと入る。入ってすぐに右隣にトイレとユニットバスがあり、それを通り過ぎるとまた扉があり、五畳の部屋に出る。部屋の真ん中に梯子があり、ロフトへ上れる。友人のご好意により、ロフトには二枚布団が敷いてあるが、僕は高所恐怖症でロフトに上れないため、もっぱら来客用にとってある。部屋の床はカーペット敷きなので、僕はその上でそのまま寝て過ごしている。とりあえず入り、お互いが座って買ってきたものを出す。ウコンの力を飲んだ後ビールのプルタブを明け、小夜子がほろよいを開けるのを待つ。音がないのもなんなので、テレビをつける。夜の六時半、ニュースぐらいしかやっていない。ようやく小夜子が開けたので、乾杯をしてビールロング缶の三分の一ほどを飲み干す。「もう退院したの?」
「ええ。毎日退院したいって言ったら、早くなったのよ」
「へえ」と言ってビールを飲んだ。
「へえって何よ」と言ってほろよいを飲んだ。
「二人ってのもなんかあれだね、誰か呼ぶ?」
「今日は二人でいいんじゃない」と小夜子に言われ、携帯を毛布に投げ捨てた。小夜子が言うならそうしよう。今までそうしてきた。しかし会話がない。小夜子は自分から喋るタイプではないし、僕も正直自分から喋るタイプではない。緊張してしまってビールがすぐ空になった。ハイボールを開ける。小夜子はほろよい半分で顔が真っ赤になっている。いつものことだ。そこで僕は重要な事を思い出した。
「そうそう、誕生日おめでとう」
 と言って僕は部屋の片隅から包装されたノルウェイの森を出した。
「え、本当にいいの? やった。開けていい?」
 意外な反応だと思った。「ああそう、どうも」ぐらいの反応だと思っていたので、こんなに喜んでくれたのは嬉しい。
「開けていいよ」
 包装を丁寧に剥がすと、緑と赤の本が表れた。
「うわーノルウェイの森だ。前から読みたかったんだよね」
 小夜子は若いなりに読書家で、デイケアで知り合った時もよく読書の話しをしていた。そこで、僕が村上春樹に傾倒していると話すと、読んだ事が無いとの事だったので、誕生日にプレゼントしようと計画していたのだ。
「気に入っていただけたようで何より」
 三千円程度だが、正直僕の財布は寒くなってしまった。しかしそれは言わない。
 それからは二人で酒を飲みながらテレビを見ていた。八時になったので小夜子は帰り――見送りは拒否された――僕は薬を飲んで寝た。明日も仕事がある。

 仕事を終え、部屋に帰ってビールを飲みながらパソコンをいじっていると、小夜子からメールが来た。暇らしい。これから会うことになった。いつものように駅の改札口で待ち合わせをし、ファミレスに行く。いつものパターンだ。しかし今回はひとつだけ違うところがある。島本君もやってくるというのだ。島本君とはサシで飲むほどの仲なのだが、小夜子と島本君のつながりがさっぱりわからなかった。デイケアでもほとんど喋ったところなんて見たことがない。しかし後にわかることになる。
 六時ちょうどに駅の改札口に到着し、二人を探す。少し遅れるというメールが小夜子からやってきた。柱にもたれて二人を待つ。しばらくすると二人がやってきた。しかしその光景に僕は愕然とした。手を繋いでいた――。たちくらみのようなものが全身を包み、もう少しで倒れそうになったのを堪え、二人に手を振る。
 ファミレスまでは歩いて五分とかからない。その間も小夜子と島本君は手を繋いでいる。僕は腹立たしさから煙草を立て続けに吸っていた。ファミレスについても腹立たしさは収まらず、当り散らすように店員に「ドリンクバー三つ!」と叫んだ。そしてまた立て続けに煙草を吸った。
 こういうことなの、と言いたげな目線が小夜子からびしばしと感じる。島本君は申し訳なさそうな顔をしている。僕は立て続けに煙草を吸っている。十本目の煙草を吸い終わった瞬間、金を置いてファミレスを後にした。そして僕はさよならと言った。
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