103(第二回集英社ライトノベル新人賞一次通過作)

れつだん先生

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第五の事件

第22話 電話を、するのである

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「ちょっと! なんで先に帰っちゃうわけ?」
 サキエさんのお怒り声で目が覚めた私は、布団から出て冷静に答えた。
「おはようございますサキエさん」
 少し面食らったものの、またお怒りの表情で私に顔を近づける。
「おはようじゃないでしょ! なんで先に帰っちゃうの! 私、一人じゃ外歩けないのよ! せっかく楽しんでたのに、引っ張られるようにアパートに戻ってきたのよ」
「それはすみません、サキエさん。昨日の演奏を見て、私も学ぶところがあり、居てもたっても居られなくなってしまったのです」
 サキエさんの怒りを、華麗に受け流す。そう、今の私はもう、昨日までの私とは違うのだ。生まれ変わった完全体と呼んでもらっても構わない。
「何が違うって言うの。何にも変わってないじゃん」
「そう言うと思っていました。これを見てもらえますか」
 私は枕の下に隠しておいた無料の求人誌を取り出し、サキエさんの前に差し出した。サキエさんは驚きに目をむいたまま、私と求人誌を何度も見比べ、私の額に手を置いた。
「熱はないですよ。至って健康です」
「どうしちゃったのあんた、死ぬの? 不治の病なの?」
「至って健康ですよ、サキエさん。昨日の演奏を見て、何もしていない自分に腹が立ったのです。このままでいいのか? 果たして、私の人生はこのままでよいのだろうか! いや、よいわけがない! 私とて生を受けた! この不況の世の中に生を受けた! そこに責任があります! 私だって何かを成し遂げたい!」
 私は布団の上に立ち上がり、拳を振り上げ、声を張り上げていた。見よ、この凛々しい姿を。私は生まれ変わったのです。……それなのにサキエさんは苦笑いを浮かべた表情で、私の体を見渡している。その視線がドアの方へ向いた。瀬名さんが立っていた。私は急に恥ずかしくなり、天井に振り上げていた拳をゆっくりと下げて、瀬名さんに愛想笑いをした。瀬名さんの顔が徐々に赤くなっていき、視線が私の下半身を捉えた瞬間、手に持っていた買い物袋が顔面に吹っ飛んできた。薄れゆく記憶の中、はっきりと聞こえた言葉、それはサキエさんの「演説はいいけど、せめてパンツぐらい履きなさいよ」だった……。

「朝だしねぇ、とんでもない物を見せられたもんだよこっちは」
 顔の皮膚が痛い。鼻に違和感を感じたので手で触れてみる。ちり紙を丸めた物が詰まっていた。ということはつまり、あの衝撃で鼻血を噴出したということか。それを手当てしていただいたのは、サキエさん?
「疑ってんの? あの子はどっか行っちゃうし、環は鼻血出しながら気を失ってるし、私以外に誰ができるっていうのよ」
 私はサキエさんにお礼を言い、下着を身につけ服に着替え、アパートの廊下へと出た。顔の痛みはまだ治まっていないが、そんなことはどうでもいい。私にはやらねばならないことがある。瀬名さんの部屋まで行き、扉をノックする。……返事はない。どこかへ行ってるのかもしれない。が、私は何度も執拗にノックし続けた。
「そんなにしつこいと、余計に嫌われるんじゃない?」
 いつの間にか私の隣にやってきていたサキエさんを無視し、またノックした。暫くして、小さな声が聞こえた。
「……どちら様でしょうか」
「103号室の牧瀬ですが」
 しばしの沈黙の後静かに扉が開き、暗い表情をした瀬名さんが出てきた。
「買い物袋を投げつけたのは私が悪いし、それで怪我とかしちゃってるのも私が悪い……でも、そういうことがあったらやっぱりびっくりしちゃうし、仕方ないかなって」
 瀬名さんはぶつぶつと呟きながら、ドアノブに指を絡ませている。どうやらかなりの衝撃だったようで、頭が完全に混乱しているようだ。
「瀬名さんと何をこそこそやっているのかね?」
 面倒な奴が現れた、と声だけで判断した私は、その声を無視し、瀬名さんの肩を揺すった。
「なっ、何をやっているんだ君は!」
 思い切り体を突き飛ばされ、音を立てて倒れる私の隣から男が現れ、瀬名さんの肩を掴んだ。鈴木健太郎の出勤時間を考えていなかった私のミスと言えよう。
「大丈夫ですか瀬名さん!」
 しかし当の瀬名さんは暗い表情のままぶつぶつと呟くだけで、鈴木の声は耳に入っていない。ここで勝手に勘違いした鈴木が私に突っかかってくる、そうなるはず。
「おい君!」
 瀬名さんの肩から手を離し、私の肩をがしりと掴んだ。強く掴まれたせいで痛みが走る。私は少しばかり顔を歪ませ、鈴木の顔を真っ直ぐに見た。
「あくりょーたいさーん!」
 いつの間にか近くに立っていた二宮香苗が、私たちにゴミを投げつけてきた。鈴木も何事かと私から手を離し、手で体を守りながら二宮を叫びつけた。
「ちょっ、こら! 何をやってる! 今すぐやめなさい」
 その隙に瀬名さんに謝罪し、自分のアパートへと逃げ込み、私は布団に潜り込んで泣いた。そんな私の頭を優しく撫でてくれるサキエさんの優しさに、より一層私の涙は止まることを知らない。私は思わずサキエさんに抱き付こうとして、そのまますり抜けて壁に顔面を打ちつけて、壁には赤い染みが残った。
「大人になるというのは、こんなに辛いことなんですね」
 この赤い染みは、私が大人になった証として、このアパートに残り続けるだろう。人は辛い思いをしてこそ、強くなるのだ。
「大人になったのなら、せめてバイトぐらいしようよ」
 枕を抱えて感傷に浸っている私の頭の上に、求人誌が何冊か置かれた。自分の飯は自分で稼ぐ。この程度のこともせずに、何が大人であろうか。ゆっくりと体を起こし、乾いた涙を服の袖で拭き払い、物で溢れた床から携帯電話を探す。何年も前に購入して、それっきりになった携帯。あまり使われず新品同然のそれを開くが、画面は真っ暗だった。まるでそれは私の心を映し出しているようで、思わず私はその携帯を力強く握り「そんなのどうだっていいから、さっさと電話する!」
 ……充電器を探し、電源を入れる。最後に着信があったのは半年前。母親からだ。アドレス帳は相も変わらず家族のみ。
「ここなんていいんじゃない? 近所だし」
 サキエさんが、とある求人を指差しながらそれを私に見せる。歩いて十分程にあるコンビニだ。たまに私もそこを利用していた。主に煙草の購入と雑誌の立ち読みだけだが。確かにコンビニは仕事的に言えばそこまで大変ではなさそうだ。大変な場所を選んでしまうと、そこで挫折してしまい、引きこもりになってしまう可能性もある。接客業というのも私に合っているような気がする。自他共に認める好青年だし「どこがだよ」笑顔も完璧だし「だからどこが」気配りもできるし「だから」何を言われても怒らないし「それは合ってるかも」接客業をやってみるのもいいかもしれない。
 しかしいざ電話を掛けようとしても、心の準備が整わない。携帯を持つ手が小刻みに震え、心臓はありえない程に高鳴っている。もう一度求人に目をやる。従業員数人で撮影した写真が載っている。年齢層はばらばらだが、どの人も楽しそうに笑顔を浮かべていた。私のような人間が、この中で上手く溶け込めるだろうか? 確信はない。ほぼ完璧と言える程の私だが、唯一コミュニケーション能力だけは劣っていると自覚している。どうするべきか……。
「はい、もう電話掛けたから」
 いつの間にかサキエさんの手に乗っていた携帯を無理やり取り、画面を確認する。慌てて停止ボタンを押そうとした瞬間、男の声が聞こえた。
「はいセブンマート――店ですが」
「すっ、すみません、ま、間違えました!」
 電話を切ってほっとしていると、突然頭に激痛が走った。明らかに怒りの表情を浮かべ僕を睨み付けているサキエさんの右手にはハードカバーの本が握り締められていた。僕は思わず苦笑いをして、二三度咳払いをした。
「何で電話切ったのよ」
 私の頭の中はバイトのことよりも、今目の前で怒りに震えているサキエさんをどう納得させるかということで一杯になった。しかし何の言い訳も思いつかない。レポートを書こうとしているのに、キーボードに乗せた手は一切動かなかったという苦しい思い出が頭に浮かんだ。しかし、またもや頭に振り下ろされたハードカバーの本の衝撃によって、その思い出も窓の外へと飛んで行ってしまった。
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