103(第二回集英社ライトノベル新人賞一次通過作)

れつだん先生

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第五の事件

第21話 所謂、初体験である

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 気が狂いそうになるぐらい何もすることがない。学校を辞めてからは引きこもりに拍車をかけるかのように家にこもり、ただ毎日を過ごしていた。サキエさんは何度も「バイトでもしろ」などとお小言を言うが、その度に適当に返事をしておいた。しかし現実問題として金がない。仕送りは定期的に送られてはいるものの、未だ親に学校を辞めたことは告げていない。それを言ってしまうと、仕送りはおろか家賃も払っていただけなくなってしまう。サキエさんは何度も「正直に言ってバイトでもしろ」などとお小言を言うが、その度に適当に返事をしておいた。

 話は変わって。読者諸兄は覚えているだろうか。私は思い出したくもないのだが、説明しないことには何も進まない。以前脇田美弥に貰ったライヴのチケットのことである。ライヴ自体に日にちは決まっておらず、毎週日曜日と水曜日に近くの寂れたライヴハウスで活動をしているようだ。何度でも行くチャンスはあったのだが、その度にお茶を濁していた。しかしついに、サキエさんの堪忍袋の緒が切れてしまったのだ。
「今日こそはライヴ行くよ!」
 持病の腰痛が、などと言いながら顔を苦痛にゆがめ、腰をさする動作をしたのだが、思いっきりその腰を蹴られて終わった。本当に腰痛だったらどうするのか。激痛。考えもなしに無闇に行動するのは勝手だが、他人に迷惑をかけるのは良くない、と私は考える。そんな私を無視し、サキエさんは既に姿を消していた。
 仕方なく着替え、煙草と財布とチケットをポケットにねじ入れる。持ち物などは必要最小限でよいのだ。私は鞄など持つことはしない。両手は常に開けておく。何かが起きた時にすばやく対処できるために。
「いつまでかかってんのよ! 女の子じゃあるまいし!」
 玄関の扉を開け、少し小走りになりながら老朽化し歩くこともままならない廊下を急ぐ。何、サキエさんにおびえているわけではない。紳士たるもの、人を待たせてはいけないのだ。
「ま、牧瀬君じゃない、そ、そんな急いで、ど、どこいくの?」
 廊下と同じ幅の肉体を持つ市原をここで避けるというのは不可能というもの。私は急に止まることもできず、市原の体にぶつかり、バウンドするように後ろへこけた。立ち上がりながら、「お久しぶりです。ちょっとぶらぶらと散歩に」と言った。市原は、そんな私を、これでもかというほどの嫌味たっぷりな表情で見る。
「い、いいですねえ、だ、大学生は。き、き、気楽でさ」
 できない男の妬みほど醜いものはない。三十を手前にしても尚、浪人生という立場に甘んじているのは自分のせいなのだ。人を妬んでいても何も始まらない。
「あ、で、でも、牧瀬君は、だ、大学辞めたんだよね。ニ、ニートかぁ」
 そうなのだ。私は大学を辞めた。いわゆるニートである。なので市原に対して偉そうに言える身分ではない。
「では、私は急ぐ身ですのでこれにて失敬」
 市原の贅肉と壁に挟まれながら、なんとか廊下を脱出し、庭へと出る。妙な開放感がある。そこにたたずむ桜さんを見ながら、煙を嗜む。日は落ちかけ、少し肌寒いような風が、私と桜さんの体をすり抜けてゆく。暖かいコーヒーが飲みたくなった私は、踵を返し廊下へと入る。その瞬間、脳天に衝撃が走った。鬼の形相をするサキエさんを見て、私は吸いかけの煙草を地面に落とした。

「ライヴは十八時からみたいですよ。あの人が出るのは、三番目ですね。なのでそんなに急がなくてもいいですよ」
 ゆっくりと景色を眺めながら歩く私とは対照に、サキエさんは無言のままどんどんと先を急いでいく。何もそんなに急ぐことはあるまい。人生は長いのだ。
「最初から見たいじゃん。あの子のバンドは何て名前なの?」
 私はしまいこんだばかりのチケットをまた取り出し、裏を見た。
「ブルーベリー・アンド・ナイト・デイズ、略してB.A.N.D.っていう名前みたいですよ」
 格好いいのか格好悪いのかわからない。なぜブルーベリーなのか、ナイトデイズなのか、若者文化にはついていけない。
「かっこいい名前じゃん」
 どうやら格好いいらしい。しかし、だ。
「いやいやサキエさん、なんでもかんでも横文字にしたがる風潮はやめたほうがいいんですよ。アメリカコンプレックス剥き出しで格好悪いじゃないですか。日本には日本語という素晴らしい文化があります。それなのにわざわざなぜ横文字にしたがるのか。私にはわかりませんね!」
 サキエさんはいなくなっていた。遠くのほうに小さくなったサキエさんがふよふよと浮かびながら移動しているのが見えた。私はポケットにチケットをねじ込み、後を追うようにして走った。冷たい風が体に纏わりついてきて、私はあまりの寒さに少しだけ涙を浮かべた。

 その場所に合った人間が、自然と集うのだろう、と私は思う。オタクと呼ばれる方々はオタクに適した場所に集い、スポーツをする方々はスポーツに適した場所に集う。唯一例外なのは、引きこもりに集う場所はないということだ。
 簡単に言うと、ライヴハウスは私の来るような場所ではない、ということだ。たまに私のような内に隠された能力を秘める好青年も見かけるが、ほとんどは私などとは住む世界が違う人々。横文字の単語を並べ立て、それぞれが盛り上がっている。体中にタトゥーを入れた人や、あまりに大きなピアスを身に着けている人、あからさまに私を部外者だという目で睨みつける少女。恐ろしや、ライヴハウス。
「環は何か好きなバンドとかいるの?」
 サキエさんはいかにも楽しそう、といった表情を浮かべ、入り口に集まる人々を眺めている。私は小さく首を振った。
「いえ、音楽はあまり詳しくないもので」
「あたしは女の子の曲ばかり聞いてたのよね。バンドはあんまり聞かない。だから楽しみなのよね!」
 人の話なんざ聞いちゃいないんです。この方はいつもそうなのだ。
「あたしたちも中に入ろっか」
 人の隙間を上手く移動しながら、入り口へと入っていく。薄暗いカウンターに、女性が一人立っていた。髪の毛を派手に染め、耳にはいくつものピアスを開けている。私は情けなくなった。あなたは一体何人なのですか、と。日本人に生まれたからには、日本人としての誇りを持つべきだ!
 そんなことは口に出さず、チケットを渡す。それを受け取った女性は、何を考えているのか私の手を取った。突然のことに少し体が反応し、思わず手を引っ込めようとしたが、がっしりと掴まれたためそれも敵わない。
「じっとして。判子押すから」
 私の左手に大きな判子が押された。
「これがある限り何度でも出入りできるから。入るときはこれを見せてね」
 私は適当に返事をし、その奥にある扉を開いた。その瞬間、爆発音のような激しい音が私の全身を襲いかかった。
「一番最初のバンドが音合わせしてるようね」
 いつの間にか隣に立っていたサキエさんが、誰に言うでもなく一人呟いた。観客はまだまばらである。教室二つ三つ分ほどの大きさの会場の真ん中に、押せば倒れそうなほどの小さい柵が並べてある。その柵を境目に、前のほうに立見席があり、後ろにはカウンター席があった。その隣には渋い顔をしたバーテンダーが立っていて、私は適当なカクテル――なのかはわからないけれど、酒には詳しくないためカクテルとしておく――を注文し、近くにあった椅子に座り、テーブルに煙草を置いた。カクテルを一口だけ飲んで煙草に火をつける。何ていう名前のカクテルかわからないし味もよくわからない。コップのふちに塩が盛ってあるけれど、これは嫌がらせなのだろうか? でも塩と一緒に口に含むと、甘さと酸味と塩辛さが混ざって、程よい味加減になる。こういうものなのだろう。私はもう一口カクテルを飲み、煙草を二口吸った。酒に弱い私はそれだけで少しほろ酔いになり、視界がぼんやりと歪んだ。
「それにしてもかなりうるさいですね!」
 私はサキエさんの耳元で叫ぶが、あまりの音に聞こえていないらしい。何度か同じ言葉を叫ぶと、ようやく聞こえたのか大きく頷いた。
「どうす……あの子……バンドまで外……」
「いや、ここにいましょう。またあの人ごみの中を歩くのはちょっと!」
 一度落ち着いて、バンドの演奏を見てみる。私には音楽的知識も何もない。特に好きだと言えるようなミュージシャンもいない。なので詳しいことは何も言えない。楽しそうだな、という陳腐な感想しか頭に浮かんでこなかった。観客も観客で、それぞれのノリ方で体を動かし、楽しんでいる。正直羨ましいとさえ思った。私にはこれといって趣味のようなものはないし、のめり込んでいるようなものもない。読書はたまにやる程度だし、文芸部に入って小説のようなものも書いていたけど、今ではそれもほとんどしなくなっていた。私には何があるのだろう?
 暫くして演奏が終わり、ついにブルーベリーなんとかの出番となった。出囃子のようなものが鳴り響き、脇田とバンドメンバーが舞台に出る。楽器をテストし、突然一曲目が始まった。観客の声援が演奏と混じって私の耳に直撃する。前のバンドと同じように、うるさい音。歌詞は英語で何を言っているのかわからない。何もわからない。でも、一つだけ言えることがある。格好良い。羨ましい。私はいつの間にか立ち上がり、不慣れに体を音楽に合わせていた。隣で騒いでいるサキエさんと目が合い、恥ずかしくなって席に着き、煙草に火をつけた。
 私は一体何をしているのだろう。脇田は汗を流し、大声を張り上げ、満面の笑みで自分の人生を楽しんでいる。私は、何もせず、ただ毎日を無駄に過ごしているだけ。サキエさんの問題はサキエさんの問題であり、私の問題は別にある。それから常に目を背けて、大学まで辞めて、それを親に言うことすらできず、仕送りを貰い、食っては寝て、食っては寝てという生活。
 居ても立っても居られなくなった私は立ち上がり、人ごみを掻き分けながら出入り口の扉を開いた。むせ返るような熱気が、急に冷たくなり、汗ばんでいた私の体を一気に覚まさせてくれた。
 私はずっと脇田や他の人間を恨み続けていた。しかしそれは、単なる嫉妬でしかなかったのだろう。羨ましかった。それを憎しみに置き換え、自分を慰めていたのだ。私はサキエさんが追ってこないことを確かめ、一人アパートへ帰り、うやむやとした気持ちのまま眠りについた。
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