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第2章 保護室と閉鎖病棟
第6話 解放
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そんなことを考えていると、若い女の看護師が朝食を運んできた。それを平らげると、またなにもない時間が過ぎていく。食後は煙草が吸いたくなる。しかし、ここにそんなものがあるわけがない。我慢をするだけだ。
煙草は我慢ができる。しかし、我慢ができないものが一つだけあった。小説が書きたい。人に面白いと言われたい。それだけで十何年間も書き続けて来たんじゃないか。ここの生活を書き記したい。しかし、この保護室には、僕が中学の頃から愛用しているパソコンはおろか、ノートとペンすらない。だからこの保護室で起きた出来事は、すべからく脳裏に叩き込んでおかなければならない。絶対に面白いはずだ。なぜかそう確信している。以前閉鎖病棟に入院した一ヶ月の記録を小説にしたことがあった。それよりも面白い。こういった妄想がなによりも楽しいのだ。そして思考は眠りの中へ……。
僕の苦しみを、これを読んでいる人たちにも伝えたい。どうにかして伝えたい。しかし、こういった出来事なんて、経験していない人には伝わらないものなんだ。「それをどうにかして伝えるのが小説家としての使命なんじゃない?」と言われたって、無理なものは無理だ。
睡眠薬で無理やり寝ると朝が大変だ、というのは前述したとおりだ。今日は頬に冷たい感覚がして目が覚めた。枕一面に涎を垂らしていた。頬がべとべとする。しかしここには拭くものなんてない。ぼうっとしていると、以前顔を見せに来た若い担当医がやってきた。
「調子はどうですか?」
「いいですよ」
「夜は眠れてますか?」
「寝つきが悪いですね」
「わかりました」
そこで担当医が牢屋を後にしようとしたので、僕は慌てて声を上げた。
「それより!」
担当医は振り向いた。
「それより、いつになったらここを出られるんですか!」
「そうですね――」と担当医は少し考えた。「あと一週間ぐらいですかね」と言い残し、担当医は牢屋を後にした。
嬉しいのか、嬉しくないのか、わからなかった。あと一週間でこの牢屋から開放されるというのはつまり、あと一週間もこの牢屋にいなければならないということだった。しかし、よくあるように、一週間なんてあっという間なんだ。朝食を済ませ、薬を飲み、昼飯を済ませ、薬を飲み、夕飯を済ませ、薬を飲み、排泄し、寝る前の薬を飲み、無理やり寝つく。それを七回繰り返した。そして――。
「ERを出ましょうか」とブロッコリーが言った。
ついに、この牢屋から開放される時が来た。後で看護師に聞いたら、二十日間も牢屋――つまり保護室――にいたそうだ。そんなにいる人はなかなかいないと。
足が上手く動かなかった。それもそうだ。ほとんど歩いていないんだから。緑の分厚い扉が開いた。廊下を歩き、ERと書かれたガラス扉を抜ける。なんの変哲もない病室が並んでいた。その廊下に、点滴をした老若男女がうろうろしていた。なんなんだろう。
新しく用意された部屋は一人部屋で、快適そうだった。洋式の綺麗なトイレが付いていることと、扉を自由に開ける、つまりスタッフ・ステーションに行くこともできるし、同じ格好をした老若男女の患者が集う、テーブルが並んだデイ・ルームと呼ばれるロビーに行くこともできるし、その片隅に置かれた本棚から小説を抜き取り読むことができるし、スタッフに頼んで、百円のノートと二百円の三色ボールペンを買い、この生活の記録ができるとのことだった。十分だ。感動した。
人ごみに溢れるのも久々だったので、デイ・ルームの端のテーブルに座り小説を読んでいると、どうしても人の視線が気になった。わかってはいる。誰も僕なんて見ていないし見る理由もないということは。
スタッフ・ステーションの隣に緑の扉がある。そこが開くことはない。その向かいに喫煙スペースと書かれた三畳程のスペースがあるが、椅子も灰皿もなく、そこも開くことはない。看護師に聞いたら、「一年程前までは喫煙所も機能していたんだけれど、今はほら、どこも禁煙禁煙うるさいから」とのことだった。
夕食が大きな移動型保温室のようなもので運ばれてきた。患者がその前に並ぶので僕も同じようにする。トレイを受け取る。それを持って開いているテーブルに腰かける。一角が騒がしい。食事をしながらなんとはなしに目をやる。それを済ますと、移動型保温室にトレイをしまう。そして、ようやく慣れたのだろう、デイ・ルームの隅で読書を進める。読書をしながらなんとはなしに目をやる。二十日ぶりに見る看護師以外の女性が目線の先にいる。年齢は僕と同じか少し上ぐらいだろうか。少し茶色がかったロング・ヘアで、身長は低い。集団の中でにこにこと笑っている。
とても可愛い。
名前はわからない。
そう、また――まただ。
また、恋をした。
僕はこの入院記のタイトルを考えた。
恋する閉鎖病棟は以前使ったし――。
そうだ、恋に恋する閉鎖病棟にしよう。
ノートに、恋に恋する閉鎖病棟、タイトル決定、と書いた。
女性はとても可愛い。
じっくりと観察を続けている。同じタイミングで夕食を台車にしまう瞬間に、トレイに乗っているネーム・プレートを見た。名前が判明した。Hという名前。Hさんは入院してそれなりに日が経っているのだろう、一人読書に耽っている僕とは違い、集団の中で話に盛り上がっている。相変わらず気持ちよく笑っている。Hさんを斜めで観察できる場所に陣取り、そこで食事をしたり読書をしながら、Hさんを観察し続けている。ストーカーではない。
Hさんが部屋に戻ったので、することのなくなった僕は、デイ・ルームを散歩し、スタッフ・ステーションの隣の壁にかかっているカレンダーと予定を見た。今日は十月の終わりだった。食事の献立も書いてある。
Hさんは可愛い。
看護師だって、Hさんに負けず劣らず、美人が二人いた。一人は二十代後半ぐらいだろうか、椎名林檎のようなきつそうな感じで、顔が整っており、体つきはふっくらとしており、少し鼻にかかった声で話す。一人は二十代前半ぐらいだろうか、活発で優しそうな人で、痩せており、よく笑う。
看護師はその日によって変わり、毎日僕の所へやってくる。そして毎日毎日同じことを聞く。「今日の体調はどうですか?」と聞き、「普通です」と答え、「お通じは出ていますか」と聞き、「昨日出ました」と答え、「ではなにかあったら言ってくださいね」と最後に言う。担当がその二人の看護師の時はとても嬉しい。こんなにも可愛い看護師を身近で見れるだなんて。
「だから、お前はHさんとその看護師二人、誰がいいの?」と心の中で声が聞こえた。
「そんなの決められないよ」と僕は答えた。
「お前はいつもそうだな」と心の中の声。
「いつもって?」と僕。
「自分で考えろ」と心の中の声。
煙草は我慢ができる。しかし、我慢ができないものが一つだけあった。小説が書きたい。人に面白いと言われたい。それだけで十何年間も書き続けて来たんじゃないか。ここの生活を書き記したい。しかし、この保護室には、僕が中学の頃から愛用しているパソコンはおろか、ノートとペンすらない。だからこの保護室で起きた出来事は、すべからく脳裏に叩き込んでおかなければならない。絶対に面白いはずだ。なぜかそう確信している。以前閉鎖病棟に入院した一ヶ月の記録を小説にしたことがあった。それよりも面白い。こういった妄想がなによりも楽しいのだ。そして思考は眠りの中へ……。
僕の苦しみを、これを読んでいる人たちにも伝えたい。どうにかして伝えたい。しかし、こういった出来事なんて、経験していない人には伝わらないものなんだ。「それをどうにかして伝えるのが小説家としての使命なんじゃない?」と言われたって、無理なものは無理だ。
睡眠薬で無理やり寝ると朝が大変だ、というのは前述したとおりだ。今日は頬に冷たい感覚がして目が覚めた。枕一面に涎を垂らしていた。頬がべとべとする。しかしここには拭くものなんてない。ぼうっとしていると、以前顔を見せに来た若い担当医がやってきた。
「調子はどうですか?」
「いいですよ」
「夜は眠れてますか?」
「寝つきが悪いですね」
「わかりました」
そこで担当医が牢屋を後にしようとしたので、僕は慌てて声を上げた。
「それより!」
担当医は振り向いた。
「それより、いつになったらここを出られるんですか!」
「そうですね――」と担当医は少し考えた。「あと一週間ぐらいですかね」と言い残し、担当医は牢屋を後にした。
嬉しいのか、嬉しくないのか、わからなかった。あと一週間でこの牢屋から開放されるというのはつまり、あと一週間もこの牢屋にいなければならないということだった。しかし、よくあるように、一週間なんてあっという間なんだ。朝食を済ませ、薬を飲み、昼飯を済ませ、薬を飲み、夕飯を済ませ、薬を飲み、排泄し、寝る前の薬を飲み、無理やり寝つく。それを七回繰り返した。そして――。
「ERを出ましょうか」とブロッコリーが言った。
ついに、この牢屋から開放される時が来た。後で看護師に聞いたら、二十日間も牢屋――つまり保護室――にいたそうだ。そんなにいる人はなかなかいないと。
足が上手く動かなかった。それもそうだ。ほとんど歩いていないんだから。緑の分厚い扉が開いた。廊下を歩き、ERと書かれたガラス扉を抜ける。なんの変哲もない病室が並んでいた。その廊下に、点滴をした老若男女がうろうろしていた。なんなんだろう。
新しく用意された部屋は一人部屋で、快適そうだった。洋式の綺麗なトイレが付いていることと、扉を自由に開ける、つまりスタッフ・ステーションに行くこともできるし、同じ格好をした老若男女の患者が集う、テーブルが並んだデイ・ルームと呼ばれるロビーに行くこともできるし、その片隅に置かれた本棚から小説を抜き取り読むことができるし、スタッフに頼んで、百円のノートと二百円の三色ボールペンを買い、この生活の記録ができるとのことだった。十分だ。感動した。
人ごみに溢れるのも久々だったので、デイ・ルームの端のテーブルに座り小説を読んでいると、どうしても人の視線が気になった。わかってはいる。誰も僕なんて見ていないし見る理由もないということは。
スタッフ・ステーションの隣に緑の扉がある。そこが開くことはない。その向かいに喫煙スペースと書かれた三畳程のスペースがあるが、椅子も灰皿もなく、そこも開くことはない。看護師に聞いたら、「一年程前までは喫煙所も機能していたんだけれど、今はほら、どこも禁煙禁煙うるさいから」とのことだった。
夕食が大きな移動型保温室のようなもので運ばれてきた。患者がその前に並ぶので僕も同じようにする。トレイを受け取る。それを持って開いているテーブルに腰かける。一角が騒がしい。食事をしながらなんとはなしに目をやる。それを済ますと、移動型保温室にトレイをしまう。そして、ようやく慣れたのだろう、デイ・ルームの隅で読書を進める。読書をしながらなんとはなしに目をやる。二十日ぶりに見る看護師以外の女性が目線の先にいる。年齢は僕と同じか少し上ぐらいだろうか。少し茶色がかったロング・ヘアで、身長は低い。集団の中でにこにこと笑っている。
とても可愛い。
名前はわからない。
そう、また――まただ。
また、恋をした。
僕はこの入院記のタイトルを考えた。
恋する閉鎖病棟は以前使ったし――。
そうだ、恋に恋する閉鎖病棟にしよう。
ノートに、恋に恋する閉鎖病棟、タイトル決定、と書いた。
女性はとても可愛い。
じっくりと観察を続けている。同じタイミングで夕食を台車にしまう瞬間に、トレイに乗っているネーム・プレートを見た。名前が判明した。Hという名前。Hさんは入院してそれなりに日が経っているのだろう、一人読書に耽っている僕とは違い、集団の中で話に盛り上がっている。相変わらず気持ちよく笑っている。Hさんを斜めで観察できる場所に陣取り、そこで食事をしたり読書をしながら、Hさんを観察し続けている。ストーカーではない。
Hさんが部屋に戻ったので、することのなくなった僕は、デイ・ルームを散歩し、スタッフ・ステーションの隣の壁にかかっているカレンダーと予定を見た。今日は十月の終わりだった。食事の献立も書いてある。
Hさんは可愛い。
看護師だって、Hさんに負けず劣らず、美人が二人いた。一人は二十代後半ぐらいだろうか、椎名林檎のようなきつそうな感じで、顔が整っており、体つきはふっくらとしており、少し鼻にかかった声で話す。一人は二十代前半ぐらいだろうか、活発で優しそうな人で、痩せており、よく笑う。
看護師はその日によって変わり、毎日僕の所へやってくる。そして毎日毎日同じことを聞く。「今日の体調はどうですか?」と聞き、「普通です」と答え、「お通じは出ていますか」と聞き、「昨日出ました」と答え、「ではなにかあったら言ってくださいね」と最後に言う。担当がその二人の看護師の時はとても嬉しい。こんなにも可愛い看護師を身近で見れるだなんて。
「だから、お前はHさんとその看護師二人、誰がいいの?」と心の中で声が聞こえた。
「そんなの決められないよ」と僕は答えた。
「お前はいつもそうだな」と心の中の声。
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「自分で考えろ」と心の中の声。
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