恋する閉鎖病棟

れつだん先生

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第1章 閉鎖病棟

第6話 風呂

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 朝は苦手だ。それは昔からのことで、学生時代など、何度も母親に起こされても起きては寝るを繰り返し、遅刻ばかりしていた。それに加えて、僕は多数の睡眠薬を飲んでいる。起きても体が動かないなどはしょっちゅうだ。ようやく起き上がれても、ふらふらとして、ロビーに行くことができない。そんな僕を発見した担当の看護師が、僕の右手を掴みロビーへと半ば強引に連れて行った。ちょうど、ラジオ体操の時間だった。僕は、ふらふらになりながらラジオ体操をした。終わるころには、ふらふらも完全に抜け切っていたので、僕は部屋へ戻り、文庫本を手にしてロビーの端っこで読み続けた。そういえば、と思い出す。今日はOTの日だ。確か、ビデオ鑑賞だかなんだか言っていたはずだ。その予想も当たり、昼飯を食い終わると、以前OTをした女性たちがせっせと準備をし、プロジェクターでビデオを流し、それを観た。いや、僕はそのビデオをまったく観ていない。真理さんの後ろに座り――当然狙っていたのだが――後姿をずっと眺めていた。髪の毛の隙間から見えるうなじ、Tシャツからぼんやりと浮かんでいるブラジャーの紐、痩せている腕、時折聞こえる笑い声。ずっと眺めていたので、ビデオ鑑賞が終わったのに気づかなかった。真理さんは僕に見向きもせず、部屋へと帰っていった。
 僕は、OTには一切参加しないと決めている。カラオケだけは例外だったが――。
 しかし――と僕は思う。入院して三日四日経って、ようやくこの暮らしにも慣れてきた。しかし、真理さんにはまだ連絡先を聞けていない。それが情けない。あまりの自分の不甲斐なさに泣きそうになっていると、担当の太った看護師がやってきた。
「今日お風呂の日だよ」
 そうか。わかりましたと答え、下着とロンTとタオルを持って、ナースセンターへと行き、髭剃りを借りて風呂場へと行った。先客があった。開いている席に座り熱いシャワーを出して髪の毛をわしゃわしゃと洗う。坊主なので洗うのは簡単だ。それを流しきると、次は顔を洗う。僕は昔から顔――ないし肌――には人一倍気を使っている。洗顔フォームで顔を荒い、髭剃りで綺麗にし、体を洗って大きな浴槽へとつかる。気持ちよくて、「うい」という声が漏れた。先客も、僕と同時ぐらいに浴槽に入ってきた。一言で言えばイケメンだ。そして若い。病気になってなかったら、まったく異なった人生を歩んでいただろうに……。僕たちの病室とは違い、奥の隔離部屋へ行っているのを見たことがあるので、病状は重いのだろう。僕よりも先に出て行ってしまった。僕は十分ほどお湯に気持ちよく浸かり、そしてあがった。
 あがると、担当の看護師がロビーに座っていた。
「お風呂はいるとさっぱりするでしょ」
「そうですね。浴槽も大きいですし、気に入りました」
 それはよかった、とだけ言い残し、ナースセンターへと入っていった。
 風呂上りのほんわかした気分のまま、自分のベッドに戻り寝転んだ。そして読みかけの文庫本を開いた瞬間、煙草という二文字が頭を過ぎった。食事の後は平気だったのに、風呂にあがった瞬間に煙草を吸いたくなった。入ったときに聞いたのだが、確か一日百円かそこそこで、ニコチンパッチをくれるという。しかし僕は、そんなものは嫌だ。
 その気持ちを殺しながら、化粧水と乳液を棚から取り出す。これは学生のころからの日課としている。手に少し出して顔に塗った。おかげで僕はこの年になっても肌が綺麗だとよく褒められる。
 さて、と。これからどうしようか。とりあえずロビーに行こう。真理さんがいるかもしれない。ということはつまり、話ができるかもしれないということだ。
 ロビーに行くと、当たり前のように真理さんがいた。しかし違和感を感じる。それもそのはず、キャリング・ケースをもって、ダウン・ジャケットを羽織っていた。明らかに、これから外へ出るといった格好だ。真理さんの担当であろう初老の女性看護師が、「一泊だけだけど楽しんできてね」と言ったところから推測するに、外泊だろう。入院が長期に渡ると、家の生活に合わなくなるため、定期的に外泊する。僕もあと何週間か入院を続けたら、外泊があるだろう。真理さんは、これから家に帰れるという嬉しさなのか、笑顔で看護師と喋っている。そしてひと段落し、二人揃って扉の前へ行く一枚目の扉が開いた。そして扉と扉の間に看護師と真理さんが入り、一枚目のドアを閉めてから二枚目の――つまり外へとつながる――扉が開いた。そして真理さんは閉鎖病棟を後にした。
 これが事前にわかっていたら――と考える。早めに連絡先を交換して、外泊中の真理さんと、るんるんのメールができたってのに。しかし、わかっていても、おそらく行動には移せなかっただろう。
 真理さんがいない閉鎖病棟は、本当につまらないものだった。ただ携帯をいじっては読書をし、飯を食って薬を飲み、ただそれだけを繰り返していた。
 そんな中、僕に話しかけてくる中年男性がいた。髪の毛は坊主に近いほど刈り上げ、サングラスを額に置いていた。話をするに、精神障害ではなく不眠症のためここに入れられたようだ。人と一緒に寝るのが嫌らしく、高額な個室に入っている。そして右手には、最近出たばかりの液晶タブレット。それを使って、フェイス・ブックをしていた。僕もフェイス・ブックをしているので、お互い友達になった――退院して数ヵ月後には友達リストにはいなくなっていたが――。刈り上げの男――別に馬鹿にしているわけではない。仕方なくそう呼ぶだけだ――は自分で事業をしているらしく、ここに入院するのは三度目だという。奥さんと小さな子供がいて、タブレットで家族写真を見せてきた。これは世界中の親に言いたいのだが、自分では可愛いと思っている――それは当然か、自分の子供だから――ほど、あなたの子供は他人にとって、特別いいとは思わないものなのだ。僕はその写真をみて、ふうんとしか思わなかった。そこで地団太を踏みたかった。声高々に叫びたかった。僕には真理さんしか興味がないのだ! と。しかしそんなことも言ってられない。刈り上げの男は、読書と真理さん観察しかすることのなかった僕が、ここに入院してから始めての会話相手となったわけだ。とりあえず、「可愛いですね」と言っておく。大抵それで親というものは満足する。そしてそのとおりに満足した刈り上げの男は、僕と話すのをやめタブレットへと目をうつした。僕も同じく読書を開始した。
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