ロンリー・グレープフルーツ

れつだん先生

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第11話 誘惑

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 僕の話なんてしても誰も読まないだろうから、魅力的な彼女の話をしよう。
 彼女は煙草を地面に落として火を消すとき、絶対に落として靴で踏みつけるといったようなことは一切しない。「靴が汚れるから」が理由だそうだ。絶対に人差し指と親指で挟んで飛ばして放置する。僕が相手をして欲しいときはパソコンを触って「うるさい」と言うのに、彼女が相手をして欲しいときに僕が冷たくすると「ちょっと」とすこし切れた声で言う。僕はファミレスで何かを注文するときでさえ何にしようかと延々悩むのに、彼女は悩むということを一切しない。「定食にしようかな、それともスパゲティにしようかな」と僕がぶつぶつ呟いていると、「もうどっちでもいいじゃない、店員呼ぶわよ」と少し怒った声で言う。元旦那と別れるときだって、もう決まったことは仕方が無い、とでもいうように、相手がどれだけ嫌だと言っても首を縦に振ることは無かった。たぶんそれは僕が元旦那より魅力的に見えたからではなく、決まったことは決まったことだから、という理由なんだろう。
 そういう、少し人から見たら冷たいととられるような部分が僕には魅力的に見えた。性格が同じだとたぶんつまらないんだろうな。僕にはこういう女性がいいのだろう、と、仕事を終えてビールを呑みながら思った。

 また僕の話になってしまい恐縮なのだけれど、僕はふとたまに運命というものを考える。僕がもし高校を卒業して進学していたら彼女には会えなかっただろうし、仕事を続けていても会えなかっただろうし、たまたまあのチャットルームにたまたまあの時間に行かなかったら彼女に会えなかっただろうし。今僕がここに彼女とその子供二人と暮らしているのは、さまざまな偶然がいくつも重なり合ってでき上がったもので、僕はそれが現実なのかわからなくなるときがある。それは彼女も同じで、そういったことを僕たちは何度か話し合った。当然そのとき僕はビールを呑んでいて、彼女はコーヒーを飲んでいる。子供たちは二人でノートに落書きをしたり人形で遊んだりして、そういった光景がつつましく見える。他人から見ればおかしな生活かもしれないけれど――当然だろうが――、僕はこういう生活も悪くないなと思う。仕事を終えてくたくたになって帰ってきた後子供たちの遊び相手になったり、彼女の相手をしたり、自分でこうやって小説を書いてみたり、読書をしてみたり。だから僕はこの生活がこのまま続けばいいと思っていた。それは彼女も同じで、婚姻届にお互いの名前を書いた状態のものをパソコンデスクの引き出しに入れていた。いつでも結婚できるように。今思えば、とっとと提出しておけば良かったのだ。しかし僕は思う。本当にこの生活がずっと続くのだろうか、と。

 同棲を始めてから、僕は車のシート製造の工場に勤めていた。人にも恵まれ、その中でも特に仲の良くなったOさんという人とたまに呑みに出かけるようになった。三十代後半の禿げかけた太った人で、かなりの酒豪だった。僕自身もそれなりに酒に強いと思っていたけれど、Oさんには敵わなかった。行きつけの焼き鳥屋へ行き、ビールを頼むと十五杯は余裕で呑んでしまう。僕はその間彼女をなだめるメールを送りつつビールを五杯ほど呑んで、トイレで吐いてはまた呑むを繰り返した。Oさんは一切吐かないし顔色を変えることもない。
 Oさんは過去、塾の経営をしていて、その経営が危うくなったため、工場に勤めることになった。これからまた資金を貯めて経営をするらしく、パソコンにそこそこ詳しい僕に、酒の席でパソコンのことをいろいろと聞いてきた。将来的にはインターネットを介した塾をやりたいようだ。
「塾の経営ってかなり儲かるよ」と、今日でもう何杯目かもわからないビールを飲みながらOさんが言った。
「大変そうに見えますけどねぇ」と同じようにしてビールをあおる僕。
「そういう塾用の問題集みたいなのを業者から買って、コピーして生徒にくばるだけでいい」
「それ以外には何もしないんですか?」と僕は煙草に火をつけた。それを見てOさんも同じようにして火をつけた。僕たちはビールが無くなったので、店内に備え付けられているテレビを見ながら暇そうにしている店員に「生二つ」と言った。暫くして冷え切ったビールがやってきて、なぜか僕たちは今日で何度目かわからない乾杯をした。それほど僕たちは酔っていたのだ。
 僕はその店で生まれて始めてユッケを食べた。一皿千円だった。とろりとした肉の上に、卵の黄身だけが乗っかっている。一口食べると口の中に肉の甘みが広がってすぐに消えた。酒のせいでほとんど味覚がなくなっていたけれど、これだけは旨いと思った。
 ひとしきり喋り終わると、僕たちは次の店へと行った。支払いは全てOさんがしてくれる。年下というのはいいものだなと思った。それからスナック、キャバクラ、ピンサロ、屋台のラーメン――それ以上は記憶にない。僕は何度も何度も道端や店のトイレに吐いた。吐いては呑みを繰り返した。僕たちは明け方Oさんの車で寝た。途中朝の八時ごろに会社に連絡し、二人そろって「風邪で休みます」と言った。それが僕の始めての欠勤となった。

 月に一度の休みが二度になり、僕は徐々にその仕事を休みがちになった。といっても休んだことが彼女にばれてしまうと怒られてしまうので、車で出かけるふりをして、海沿いに――僕が住んでいた家のすぐ裏が海だったのだ――車を止め、コーヒーを飲みながら煙草を吸う。
 その日も会社に行くふりをして家に帰ると、どうも彼女の対応がおかしいということに気づいた。「おかえり」すらも言わない。これはやすんだことがばれてしまったのか、と思ったが、違った。僕のジーンズを勝手にいじって、キャバクラ嬢やピンサロ嬢の名刺を発見してしまったのだ。言い訳をしようにもできない。入れっぱなしにしておいた僕が悪かったのだ。
「ごめん」と僕は謝った。
「何が」と彼女は言った。
「いや、そういうところに行ったことが……」
 頬に痛みが走り、眼鏡が畳の上に吹き飛んだ。僕が謝ったのが引き金になったのか、彼女は大量の涙を流しながら僕を何度も殴りつけた。極めつけにはふすまを外して僕を殴りつけ、トースターや電子レンジを床に落とし、そのまま実家へと帰ってしまった。しんとする中、僕は眼鏡をかけなおし、トースターと電子レンジを元に戻した。しかしトースターは完全に壊れてしまっていたし、電子レンジも中のガラスのトレイが割れてしまっていた。追いかけようと思ったが時既に遅し、彼女の車が発進する音が聞こえ、僕はもうどうでもよくなってしまい、その日は寝てしまった。
 僕はそれから度々仕事を休むようになった。一度休んでしまうとそれが癖になってしまうのだ。かといって何をするわけでもないし、前に述べたとおり家にいることができないので――といっても彼女の仕事が休みのときは家にいることができるのだけれど、その休みの日というのがわからない。接客業なので不定期なのだ――海沿いにいっては煙草をふかし、無駄な時間を過ごしていた。仕事に対して何か不満があるわけではなかった。時給は高かったし、働いていた人たちもみんな仲が良かった。とりわけOさんとは仲良くさせてもらっていたけれど、Oさんも僕と同じように休みがちになっていた。
 気づけば冬が過ぎようとしていた。そして僕は一週間無断欠勤し、クビとなった。後から聞けば、僕が辞めてすぐにOさんも辞めたようだ。しかしそれ以降連絡を取っていないので、今どうしているかはわからない。
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