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本編
29。道
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「お別れを、言いに来ました」
付き合ってもいないのに、この表現があっているかは分からないけれど……関係の解消でも、別れは別れだろう。
風邪が治った後、わたしは先生の研究室に向かった。話したいことがあるのと、そうメールをしておいて。ゼミはない日だったけれど、先輩たちはいなかったし、却って良かったな。
「そうか」
先生は、デスクで作業をしながらそういった。こちらを見ようとしない。
告白したときと、一緒だ。
「驚かないんだね……」
「ああ、当然の報いだと思う」
やっぱり、この間お見舞いに来てくれたときの態度でばれちゃったかな。わたしは、風邪にしても挙動不審だったと思う。
それに、わたしはM1の先輩がなぜ来ないのかという質問を、前の日にフレンチを食べていたときに聞いている……ならば先生から答えを聞けなかったわたしが、同じことを先輩の誰かに聞いたというのは、先生にも簡単に推測できるわけで。
泣くのはやめよう。
もう散々泣いた。
先生も言うことがないみたいだし、わたしは回れ右と、来た道を戻った。
これで終わりなんだ。
あっけなかったな。
ドアノブに手をかけて、ゆっくり回した。
そのとき、わたしは妙な感覚に襲われた。一瞬、風邪が治っていないのかと思った。
わたしはこのドアから出た後は、意を決したように先生に会わない。ゼミも辞める。築島先生とは違う分野の勉学に励み、薬品業界に就職する。そして十年も経ってから突然再会する——
まるで既視感のように、ふわっと未来を感じてしまい、立ち尽くしてしまった。
いきなり、ドアノブを持っていた手を上から掴まれた。
驚いて振り向く。先生が立っている。
「分かり切ったことなのに、悪あがきだと思う。だけど別れの理由を聞いてもいいか……終わりにしたくないんだ、きみとの関係を」
静かだった先生に急にまくし立てられて、びっくりした。
「わたしも……」
でも……よかった。
「わたしも、終わりにしたくない……」
一筋の涙が頬を伝う。
こういうとき、どうしたらいいんだろう……
足の力が抜けてしまった。倒れるみたいに寄りかかったわたしを、先生は抱き止めてくれた。
「だけど、苦しくて……」
「……ああ」
「ごめんなさい……」
「きみは何も悪くない」
「先生にこうしてもらうの、好き……」
「ああ、」
「……だけど、代わりには、なれなくて……」
「……?」
「津軽さんの……」
「……ツガル? って誰だ?」
「? 先輩の……」
「先輩……?」
先生と目が合う。先生があんまり冷静だから、流れていた涙が止まった。
「じゃあもしかして……ゼミ生だった津軽くんか?」
「うん。でも……なんでそんなに意外なの?」
「いや、意外だろう。この流れで、なぜいきなり亡くなったゼミ生の話になるんだ?」
「だって……だって、先生はまだ好きなんでしょう。わたしは、津軽先輩に似てるから、」
「ちょっと待てっ、ちょっと待て。僕が誰を好きだって?」
「「……」」
「津軽先輩」
「なぜそうなる」
「……ゼミ飲みの日に、先輩たちから聞いたの。M1の人たちが集まらないのは、津軽先輩が事故にあったからで……その人は築島先生が好きだった人で、先生はまだ肩身の携帯を大事に持ってて、」
「誤解だ。誤解にもほどがある」
先生は髪をぐしゃぐしゃと掻き上げた。そしてわたしの手を取って研究室の中に戻った。
「好きだと言われたんだ、彼女に」
「え?」
二年前の話をしよう。先生はそういってソファに腰掛けた。
「あるゼミの日の帰りに、津軽くんから告白されたんだ。好きで、付き合ってほしいと。彼女のからの好意は、言われる前から気が付いてはいた。ただもちろん、僕にはその気がなかった。断って、終わり。それだけのはずだった——」
「翌週、大学に来てみると、なんか陰でこそこそ話をされて居心地が悪い。ゼミ生の一人を問い詰めると、僕の方が彼女を好きだという噂が流れているという。だから僕は彼女を呼び出した。彼女に話を聞くと、やはりそのデマを流したのは彼女本人だった。なんとか振り向いてほしかった、そういう空気を作れば上手くいくと思った、と言われた。
僕は早く訂正するように要求した。しないならば、大学側にしかるべき処置を取ってもらうことになると。それに、邪な思いでゼミにいるならば除籍させるし、彼女の代わりに不合格だった他の学生を入室させるとも言ったな……
すると彼女は、先生の分からず屋と言って、研究室から飛び出ていった。そしてそのとき、あの携帯を置いていったんだ」
「彼女の行動は見え透いていた。僕に追いかけてもらおうと、わざとわかりやすいところに置いていったんだ。僕は嫌気が差していたし、そのまま放っておいた。
小一時間くらいしてから、その携帯に電話がかかってきて、着信音はずっと鳴り止まなかった。今度は彼女が自分でかけているのかと思うとうんざりして、僕は電源を落としたんだ。
その翌朝だよ、彼女が校門の前で車に撥ねられたと聞いたのは。事故の時間から察するに、あのまま向こう見ずに走っていって、車の前に出て轢かれたんだと思う。携帯が鳴り続けていたのは、母親が娘の安否を心配してかけていたからだったんだ」
「そんな……でも先生のせいじゃ、」
「わかってる」
先生は息を吐き出した。
「そんなに気に病んでいるわけではないんだ。間接的な事故の原因なんて、数え上げればきりがないだろう……それでも。あんなに辛辣に突き放す必要はなかったんじゃないかと思う。
葬儀の日に、彼女の母親に携帯を返したんだ。彼女が研究室に忘れていったと言って。そうしたら、そのまま持っていてほしいと言われた。憧れていた先生が持っていたら、あの子も喜ぶだろうからと……棺桶のなかには、花や身の回りの品と一緒に、僕が書いた本もあった。結構使い込んであってね。彼女だって、薬学に関心がなかったわけじゃなかったんだ。だけど僕は、色恋にしか興味がないかのように言い放ってしまった……」
「だからこれをここに置いているのは、自分に対する戒めと牽制だな。学生を叱るときも、必要以上に怒鳴ったり、厳しくなり過ぎないようにと」
知らなかった……
そういえば。
わたしが先生の机の上でこの携帯を見た日……あの日の直前に、足立くんがレポートをボロボロにけなされたって言ってた——
じゃあ先生は、思い返してたんじゃなくて、反省してたのか。
「まあ、結局噂は訂正されなかったわけだし、僕は事実として彼女の携帯をここに置いている。だから三、四年生が誤解しているのは分からなくもない。だけどなんできみまでが、そんなことを……」
「だって……わたし、その人に似てるんでしょう?」
「は? きみと津軽くんが? 似ても似つかないぞ」
先生は、目を丸くした。
わたしだって目を丸くする。聞いていた話と違う。
「目も鼻も口も似てないし、そもそも雰囲気がまるで違う。どうしても共通点を挙げろと言われたら、顔立ちが整っていると言うが……一体、誰に聞いたんだ」
「……高山くん。顔も似てるけど、同じ頑張り屋さんだって」
築島先生は盛大にため息をついた。
「なんで信じるんだ。あいつは女性を美人か美人じゃないかでしか見分けられないんだぞ。
それに彼女は過去のテスト問題を手に入れて試験に挑む、いわゆる傾向と対策のタイプで、きみみたいに興味が先立って網羅するタイプじゃなかった。
加えて事故当時、高山は二年生——なら津軽くんとはゼミに入る前に、試験や飲み会で顔を合わせた程度だろう。なぜそんな知った口が聞けるんだか……」
なんだぁ……
信じられないほど気が抜けた。
「あいつは女性の腹黒さが見抜けず、将来苦労するタイプだな。せいぜい結婚相手でも間違えて、地獄を見るがいい」
「ねぇ、先生……前から思ってたけど、高山くんにちょっと厳しくない?」
「厳しい。嫌いだからだ。きみに近づく男は、みんな嫌いだ」
急にふわっとした感情になって、わたしはまた少し先生に近づいた。
ソファに座りながら向かい合うと、ぎゅっと抱きしめられた。
* * *
付き合ってもいないのに、この表現があっているかは分からないけれど……関係の解消でも、別れは別れだろう。
風邪が治った後、わたしは先生の研究室に向かった。話したいことがあるのと、そうメールをしておいて。ゼミはない日だったけれど、先輩たちはいなかったし、却って良かったな。
「そうか」
先生は、デスクで作業をしながらそういった。こちらを見ようとしない。
告白したときと、一緒だ。
「驚かないんだね……」
「ああ、当然の報いだと思う」
やっぱり、この間お見舞いに来てくれたときの態度でばれちゃったかな。わたしは、風邪にしても挙動不審だったと思う。
それに、わたしはM1の先輩がなぜ来ないのかという質問を、前の日にフレンチを食べていたときに聞いている……ならば先生から答えを聞けなかったわたしが、同じことを先輩の誰かに聞いたというのは、先生にも簡単に推測できるわけで。
泣くのはやめよう。
もう散々泣いた。
先生も言うことがないみたいだし、わたしは回れ右と、来た道を戻った。
これで終わりなんだ。
あっけなかったな。
ドアノブに手をかけて、ゆっくり回した。
そのとき、わたしは妙な感覚に襲われた。一瞬、風邪が治っていないのかと思った。
わたしはこのドアから出た後は、意を決したように先生に会わない。ゼミも辞める。築島先生とは違う分野の勉学に励み、薬品業界に就職する。そして十年も経ってから突然再会する——
まるで既視感のように、ふわっと未来を感じてしまい、立ち尽くしてしまった。
いきなり、ドアノブを持っていた手を上から掴まれた。
驚いて振り向く。先生が立っている。
「分かり切ったことなのに、悪あがきだと思う。だけど別れの理由を聞いてもいいか……終わりにしたくないんだ、きみとの関係を」
静かだった先生に急にまくし立てられて、びっくりした。
「わたしも……」
でも……よかった。
「わたしも、終わりにしたくない……」
一筋の涙が頬を伝う。
こういうとき、どうしたらいいんだろう……
足の力が抜けてしまった。倒れるみたいに寄りかかったわたしを、先生は抱き止めてくれた。
「だけど、苦しくて……」
「……ああ」
「ごめんなさい……」
「きみは何も悪くない」
「先生にこうしてもらうの、好き……」
「ああ、」
「……だけど、代わりには、なれなくて……」
「……?」
「津軽さんの……」
「……ツガル? って誰だ?」
「? 先輩の……」
「先輩……?」
先生と目が合う。先生があんまり冷静だから、流れていた涙が止まった。
「じゃあもしかして……ゼミ生だった津軽くんか?」
「うん。でも……なんでそんなに意外なの?」
「いや、意外だろう。この流れで、なぜいきなり亡くなったゼミ生の話になるんだ?」
「だって……だって、先生はまだ好きなんでしょう。わたしは、津軽先輩に似てるから、」
「ちょっと待てっ、ちょっと待て。僕が誰を好きだって?」
「「……」」
「津軽先輩」
「なぜそうなる」
「……ゼミ飲みの日に、先輩たちから聞いたの。M1の人たちが集まらないのは、津軽先輩が事故にあったからで……その人は築島先生が好きだった人で、先生はまだ肩身の携帯を大事に持ってて、」
「誤解だ。誤解にもほどがある」
先生は髪をぐしゃぐしゃと掻き上げた。そしてわたしの手を取って研究室の中に戻った。
「好きだと言われたんだ、彼女に」
「え?」
二年前の話をしよう。先生はそういってソファに腰掛けた。
「あるゼミの日の帰りに、津軽くんから告白されたんだ。好きで、付き合ってほしいと。彼女のからの好意は、言われる前から気が付いてはいた。ただもちろん、僕にはその気がなかった。断って、終わり。それだけのはずだった——」
「翌週、大学に来てみると、なんか陰でこそこそ話をされて居心地が悪い。ゼミ生の一人を問い詰めると、僕の方が彼女を好きだという噂が流れているという。だから僕は彼女を呼び出した。彼女に話を聞くと、やはりそのデマを流したのは彼女本人だった。なんとか振り向いてほしかった、そういう空気を作れば上手くいくと思った、と言われた。
僕は早く訂正するように要求した。しないならば、大学側にしかるべき処置を取ってもらうことになると。それに、邪な思いでゼミにいるならば除籍させるし、彼女の代わりに不合格だった他の学生を入室させるとも言ったな……
すると彼女は、先生の分からず屋と言って、研究室から飛び出ていった。そしてそのとき、あの携帯を置いていったんだ」
「彼女の行動は見え透いていた。僕に追いかけてもらおうと、わざとわかりやすいところに置いていったんだ。僕は嫌気が差していたし、そのまま放っておいた。
小一時間くらいしてから、その携帯に電話がかかってきて、着信音はずっと鳴り止まなかった。今度は彼女が自分でかけているのかと思うとうんざりして、僕は電源を落としたんだ。
その翌朝だよ、彼女が校門の前で車に撥ねられたと聞いたのは。事故の時間から察するに、あのまま向こう見ずに走っていって、車の前に出て轢かれたんだと思う。携帯が鳴り続けていたのは、母親が娘の安否を心配してかけていたからだったんだ」
「そんな……でも先生のせいじゃ、」
「わかってる」
先生は息を吐き出した。
「そんなに気に病んでいるわけではないんだ。間接的な事故の原因なんて、数え上げればきりがないだろう……それでも。あんなに辛辣に突き放す必要はなかったんじゃないかと思う。
葬儀の日に、彼女の母親に携帯を返したんだ。彼女が研究室に忘れていったと言って。そうしたら、そのまま持っていてほしいと言われた。憧れていた先生が持っていたら、あの子も喜ぶだろうからと……棺桶のなかには、花や身の回りの品と一緒に、僕が書いた本もあった。結構使い込んであってね。彼女だって、薬学に関心がなかったわけじゃなかったんだ。だけど僕は、色恋にしか興味がないかのように言い放ってしまった……」
「だからこれをここに置いているのは、自分に対する戒めと牽制だな。学生を叱るときも、必要以上に怒鳴ったり、厳しくなり過ぎないようにと」
知らなかった……
そういえば。
わたしが先生の机の上でこの携帯を見た日……あの日の直前に、足立くんがレポートをボロボロにけなされたって言ってた——
じゃあ先生は、思い返してたんじゃなくて、反省してたのか。
「まあ、結局噂は訂正されなかったわけだし、僕は事実として彼女の携帯をここに置いている。だから三、四年生が誤解しているのは分からなくもない。だけどなんできみまでが、そんなことを……」
「だって……わたし、その人に似てるんでしょう?」
「は? きみと津軽くんが? 似ても似つかないぞ」
先生は、目を丸くした。
わたしだって目を丸くする。聞いていた話と違う。
「目も鼻も口も似てないし、そもそも雰囲気がまるで違う。どうしても共通点を挙げろと言われたら、顔立ちが整っていると言うが……一体、誰に聞いたんだ」
「……高山くん。顔も似てるけど、同じ頑張り屋さんだって」
築島先生は盛大にため息をついた。
「なんで信じるんだ。あいつは女性を美人か美人じゃないかでしか見分けられないんだぞ。
それに彼女は過去のテスト問題を手に入れて試験に挑む、いわゆる傾向と対策のタイプで、きみみたいに興味が先立って網羅するタイプじゃなかった。
加えて事故当時、高山は二年生——なら津軽くんとはゼミに入る前に、試験や飲み会で顔を合わせた程度だろう。なぜそんな知った口が聞けるんだか……」
なんだぁ……
信じられないほど気が抜けた。
「あいつは女性の腹黒さが見抜けず、将来苦労するタイプだな。せいぜい結婚相手でも間違えて、地獄を見るがいい」
「ねぇ、先生……前から思ってたけど、高山くんにちょっと厳しくない?」
「厳しい。嫌いだからだ。きみに近づく男は、みんな嫌いだ」
急にふわっとした感情になって、わたしはまた少し先生に近づいた。
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