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五日市の夜叉五倍子(ヤシャブシ)

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 祖父の代からの上得意客、五日市いつかいちの井上家へ行く。早朝に石田村を出て、浅川沿いで夏の富士山を仰いだ。檜原ひのはら村から木材や炭を運ぶための脇街道の五日市街道を急ぐ。昼には着くだろう。
 
 井上家は万屋よろずやを営む。今日は嬉しいことに、打ち立ての蕎麦を食べさせてくれた。ざるに盛られた太くコシのある蕎麦を箸でたぐり、大根おろしと醤油のつけだれにくぐらせ口に運ぶ。大根の辛味と蕎麦の旨味が口一杯に広がり、喉が鳴る。

「美味い。井上さんの打つ蕎麦は天下一品だ。それに、いつ来ても五日市は活気がありますね」
「ははは、そりゃよかった。ここは名の通り戦国の昔から栄えている。毎月五の日に市が立つ。材木にする杉や檜に炭問屋。名物は高級で丈夫な軍道紙ぐんどうがみ。近年は農家の副業の黒八丈くろはちじょうという、粋筋いきすじに人気の絹織物もある。黒八丈は別名、五日市さ」
茶をすすり上機嫌で笑う。

「金持ちが欲しがる上等な品ばかりだ」
歳三は作り笑いを浮かべた。

「ところで、薬の手持ちはまだあるかね。この秋川沿いの先にひときわ大きな茅葺かやぶき屋根があって、その家の若い後家さんが石田散薬を欲しいと言っていたよ。訪ねたらどうだい。今頃、川で糸サワシしているはずだ」
「客を紹介していただけるとは、ありがたい」
頭を下げた。

 初夏の秋川の浅瀬では、数人の百姓女たちがたくましいすねを剥き出しにして、腰を折り曲げ糸束を洗っている。

「ほお、秋川の大根畑か」
歳三は思わず足を止めてつぶやく。

 あい色の野良着姿の小柄な女が顔を上げた。三十路みそじぐらいだろうか。背負った薬箱の山丸印が見えたのか、よく日に焼けた褐色の肌に白い歯を見せて、にっと笑いかけてくる。

「あらまあ、いい男が来たと思ったら、石田村の薬屋さんだよ」
川から上がり、頭に被っていた手ぬぐいを取り足を拭く。他の女たちはその場で顔を上げて、もの珍しそうに若い優男やさおとこの歳三をじろじろと見る。

「石田散薬を持ってきました」
うわずった声で答えた。
女たちの好奇に満ちたまなざしが熱い。後ずさりしてしまうほどに。

「それじゃ、あたしの家へ行きましょうか。薬代を払わないと。腰が痛くてね。石田散薬を井上屋さんにすすめられて飲んだら、痛みがやわらいだ。たくさん買い置きしたい。みんなにも分けたいと思ってさ」
目尻には深い皺が刻まれているが、幼子おさなごのような無邪気な笑顔だった。どうやら、心から歓迎されているらしい。

「それは、ありがとうございます」
思わず口元がゆるむ。

「ところで、石田散薬にはどんな秘密があるの。飲むと頭がぼおっとして、すごく気分が良くなるわ。痛みも消える」
歩きながら、目を輝かせて歳三の顔をのぞき込む。

「うちの六代前の先祖が、玉川に住む河童明神かっぱみょうじんから伝授された秘薬ですから」
「え、そうなの。もしかしたら、あんたも河童かもね。ふふふふ」
「もっと効く方法がありますよ。石田散薬を熱燗あつかんで飲むといい」
「それは、気持ちよくなりすぎて、翌日仕事ができなくなるわ」
流し目で妙に色っぽく笑う。

「ははは、そのへんは、ほどほどで」
後家の笑顔をうとましく感じて、顔をそむけた。


 通されたのは、大きな茅葺屋根の家の縁側だった。日当たりのいい縁側には大きな籠が並んでいて、干からびた小さな黒い松ぼっくりのような実が溢れている。

「黒八丈が二反にたんで家が建つという噂は本当だった。これは何の実だい」
指でつつく。
「八丈島の泥染めはシイの木の皮だってね。五日市は夜叉倍子やしゃぶし。大切な千金にあたいする実。この実を湯で煮出して桶に入れて絹糸を染める。その後、そこの小倉山から桶で運んで来た泥に浸ける。泥染めという手法よ。それを秋川で一日二回洗う。二十回以上繰り返すと黒く染まる。染めるだけで七日から二十日かかるのよ。ほらこれ」
髪の毛のような黒いかたまりを見せられ、ぎょっとする。

「触ってみて」
歳三は両手を差し出した。

「やわらかい絹糸だ。艶やかな黒色。焦茶のような深緑のような」
微かに触れた若後家の手指は、秋川の清流のように冷たかった。

「薬屋さんの家でも、おかいこを飼っているでしょう」
「もちろん、屋根裏で姉が育てている」
「日野郷の石田村は桑都そうと八王子のお膝元だものね。あたしは夫と山に入って夜叉五倍子を採ってきて、泥染めするのが好きでね。農作業が暇な時に、のんびりと色々な草木で糸を染めていた。家族を喜ばせたくて、それを織った。小遣い稼ぎにもなった。でも、今では村の商人からたくさん染めろとかされてつらいだけ。手間暇かかるのに安く買われる。昨年夫が亡くなり、生きていくには、もうこれしか無いけどね」
憂い顔で深いため息をつく。

「美しくて良い品だから、みんなが憧れて欲しがっているよ。黒八丈を」
「そうかな、ありがとう。そうだ、あんたも黒八丈で着物を作ったらいいわ。誰よりも、この黒が似会うと思う」
真っすぐに見つめられて、歳三は目を伏せる。

「まさか、冗談だろう。しがない薬売りに上等な絹の着物なんて」
「そう言わないで、いつかきっと、あたしの黒八丈を買ってよ。高いけどさ。少しだけ安くしてあげるから。約束よ」
糸束を持った歳三の手をぐいと引き、小指に自分の小指をそっとからめた。

 桑の葉を食らう蚕を育て絹糸をつむぎ、木の実と泥と地元の川の水で粋な黒色に染める手仕事。身にまといたい色を見つけたぞ。それは黒だ。あたりまえだが、食い物や布や炭や材木のすべてが、武蔵国の自然そのもの。おれたちは土地に生かされている。石田散薬も浅川沿いに生える牛額草ぎゅうかくそうの粉末。なんと豊かな土地だ。
 
 歳三はふところに手を入れ、お守りとして手渡された夜叉五倍子の実を指でもてあそぶ。女の情が黒い絹糸となって指先に絡みつく。物狂おしい気分で家路を急いだ。


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