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虐待当事者・被害者の「加害性」と「被害性」
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水を含む冷えた空気が肺を満たして行く。朝起きるのが辛くなってきた。
ついにダウンコートを着て、本格的な寒さに備える。
息子の放課後デイサービスの準備とお弁当作りを終える。
繁忙期特有の体全体に纏うだるさを引きずりつつも、気分転換に好きなことをしたいという気持ちが混ざり合って、ネットサーフィンや読書に没頭してしまった。
やる気は全体的に下降気味である。
油断して少し体調を崩す。体を休めたら少し楽になったので、ほっと胸を撫でおろした。
最近は再び読書欲が戻って来ていて、この駄文を休んでいる間に三冊の本を読み終えた。
宇佐見りん先生の『くるまの娘』
林真理子先生の『小説8050』
喜多川泰先生の『運転者 未来を変える過去からの使者』
それぞれ感想を書きたいと思っていたけれど、今月は繁忙期なのでまた落ち着いたら向き合いたいと思っている。
今日は『くるまの娘』について書きたい。
「背もたれを蹴ることもまた暴力であるということだった。そして、それが発露する瞬間、かんこはその行為を正当なことのように感じた。父も同じだったのではないかと思う。父もまた、背もたれを蹴るような、つまり『被害に対する正当な抵抗』の感覚で、家族に対して力を行使していたのではないか。」
「みんな、背もたれを蹴る。背もたれを蹴るように、自分や身内の被った害への抵抗だと信じて、相手を傷つける。」 (本文より引用)
暴力をふるう父、酒を飲むと何事もすぐ忘れてしまう母、機能不全家庭で育ったこどもたち……親を「加害者」、こどもを「被害者」と白黒で分断する書き方をせず、夫々の「加害性」「被害性」、脈々と先代から受け継いでゆく業や悲しみ、痛み……そういった、ある意味エンターテイメントとして描きにくいが真実であるものがきちんと書かれていた。
一概に親を「敵」と切り捨てられない人たちの事を、救い上げるような作品だった。やっぱりこの人はすごい。
親の「加害性」と「被害性」を書くのは珍しくないが、被虐待児の「加害性」と「被害性」をきっちり書ききるのもすごいと思う。
(もちろん、そういった作品は他にもたくさんある。エンターテイメント性で言えば、小林由香先生の『ジャッジメント』などもおすすめ。宇佐見先生の作品は、感傷的にならず、フラットな視点で書ききる力量が凄まじいと思う)
この作品を読んでいる最中に、両親に連絡を取る機会があった。
息子の七五三のアルバム写真を送ったので、届いたか確認したかった。
母に電話をかけたが残念ながら繋がらず。留守番電話に繋がる前に、コール最中に切られたような印象だった。母の思考が正常だったら私が出るまでかけなおしてくるはずなのだが、以降全くかかってこなかったので、母の具合が悪いか、父が切ったかどちらかのように思えた。
父が加入している実家の家族ラインに連絡をしたが、既読はつかない。
私は過去に父から溺愛されて育った。
しかし幼い頃、「悪ふざけ」と流すには難しい――現代で言えば虐待に当たる――扱いをされて、それがトラウマとなってしまった。
体験した事を文章に書き、カウンセラーに見せたところ、上記の出来事で抱いた心の傷は決して私の被害妄想ではなく、それまで父に愛されていたとしても一発で嫌いになるような、深刻な出来事ではあった。
父の中では、不味い事をしたが、小さい頃の出来事だからすぐに忘れるだろうと思ったようだった。
しばらくの間、私は「忘れる」ことを選んだ。しかし、自分のこどもがおおきくなるにつれ、周りのこどもたちがいかに丁寧に扱われているかを知った時、耐えられなくなって、のんきにご機嫌伺の連絡をしてきた父に、全てをぶちまけた。
父が、自身がいかに愚かで、歪な自己愛によって記憶を改ざんし、都合の良い真実を纏いながら生きているのか直視せず、子育てに成功した人格者として私達夫婦に上から目線のアドバイスをするのが、許せなかった。
それ以降、父は私を徹底的に避けている。
事務的な連絡すらよこさない。
仕事と母の介護は確かに忙しいのだろうが、そんな中でも今までは連絡をしてきたことを考えるに、娘一家を切り捨てることにしたのだろう。
「自分はすごい」と常に虚勢を張っているような人で、間違いを素直に謝罪できない自己愛性障害のような人だ。己の汚点を無かったことにしたいのかも知れないし、さんざん養育費をかけて親身に接してきた娘が、己がたった一つの誤ちを蒸し返したため、愛情が尽きたのかも知れない。
私に私の物語、私の正義があるように、父にもまた彼の言い分があるのだ。
そして私にだって、「加害性」は十分にある。
一度、母の介護問題でケアマネージャーの方に話し合いで呼ばれた時、父は表面上、普通に接してはいた。しかし事あるごとに、私が母からもらった貴金属について遠回しに聞かれ、不愉快だった。
亡くなった祖母と、亡くなった叔母、そして母から受け継いだジュエリーは、金銭的な価値以上に、女三代の姦しい思い出を彷彿させるため、私にとっては特別なお守りなのだ。
障害に苦しみながらも、優しく寄り添ってくれた叔母。
最後は認知症が激しくなってしまって、私の顔なんて覚えていなかったけれど、私が一番しんどかった人生の傍らに常にいてくれた、祖母。
そして、憎らしいけれどもそれ以上に愛している母。
彼女らが、相棒として大切にしていたアクセサリーだ。
祖母が、相続でもめないようにとこっそり私達に託したもの。私たちの未来を想って、残してくれたものなのだ。
もちろん、それを全部売り払ったところで一生安泰に暮らせるわけでは決してない。それでも、私にとっては誰にも触れられたくない、聖域だ。
父は高所得者だし、土地も家も母名義のものである。お金に困っている訳ではない。金遣いは荒いが、それは本人の責任だから知ったこっちゃない。
だから父がアクセサリーに執着するのは、それまでの父の行動を鑑みるに、自分の懐を傷めず別の誰かにでも貢ごうと考えているようにしか思えないのだ。実際、高級風俗店のお得意様にしか送られないカレンダーが机の上に広げてあった。女遊びはやめられないのだろう。
その点でも、私と父との間に、信頼関係など無いのかも知れない。
実際のところどうなのか問うても、父から解答は与えられないから、私は彼から捨てられたと考えるしかないのだ。
そういえば昔父は、「息子だと、自分が父と激しく衝突しあったように、人生のどこかでぶつかり合って父を超えなければならない。それはエネルギーをたくさん消耗して、面倒だ。でも、娘だとそういった経験が無いから、気が楽だ」というような事を言っていた。
甘い。としか言いようがない。娘はペットのように可愛がっていれば済むと思ったのだろうか。いずれにせよ、父は母のように、腹を割って我が子と語り合う気はないようだ。
だとしても、だ。確かに父親として最低の事をした彼だが、彼の全てが悪で構成されていたかと言えばそんな事はない。
彼の正義感は私をいじめから守ったし、親子三人で楽しく過ごした思い出もある。私は、許せない一点を除いては父が大好きだったし、愛されたいとも思っていた。
『くるまの娘』で描かれた家族像のように、「虐待」と、「日常」との境界線は実はあいまいで、ふとした瞬間に互いに溶け出してし合う。傷つけられて、それでも許してしまって……そういった曖昧さを抱く家庭像も、確かにあるように思う。
この世に、親からされたことを許せなくとも、親を捨てられず介護をするケースがあるように。全ての人が、0か100か――敵か味方かで相手を切り捨てられるわけではない。
許せない事があっても、私が母をいたわれるように。どんなに罵声を浴びても、母が「母親」であるように。
どんなにひどい親だったとしても、愛されたかった自分の存在を否定していては、次のフェーズには進めない。
そういった事ができないのは、愛着問題に悩んだ人か、発達障害の人だと現代の治療では言われているようだ。
発達障害の人は、(私もそうなのだが)白黒思考で物を考えがちで、相手を敵か味方で判断する事があるという。父が思い切り私と縁を切れるのも、0-100思考の賜物なのかもしれない。
私は父に許しを請う気も、機嫌を取る気もない。そして、父も譲らないのであれば、この平行線は続くのだろう。
母だけは、正常な思考の時、息子の成長を喜んでくれる。
そのためだけに、返答を期待せず連絡を取るのがいいのだろうか。それとも、もう何も連絡しないほうが良いのだろうか。
大事な息子の晴れ姿に何のコメントも無いと、私自身をないがしろにされているよりはるかにつらいのだ。
それも、私の中にある白黒思考だなと思う。
父が私の寄り添いを求めていない以上、私は自分の人生に集中するしかないのだ。
ついにダウンコートを着て、本格的な寒さに備える。
息子の放課後デイサービスの準備とお弁当作りを終える。
繁忙期特有の体全体に纏うだるさを引きずりつつも、気分転換に好きなことをしたいという気持ちが混ざり合って、ネットサーフィンや読書に没頭してしまった。
やる気は全体的に下降気味である。
油断して少し体調を崩す。体を休めたら少し楽になったので、ほっと胸を撫でおろした。
最近は再び読書欲が戻って来ていて、この駄文を休んでいる間に三冊の本を読み終えた。
宇佐見りん先生の『くるまの娘』
林真理子先生の『小説8050』
喜多川泰先生の『運転者 未来を変える過去からの使者』
それぞれ感想を書きたいと思っていたけれど、今月は繁忙期なのでまた落ち着いたら向き合いたいと思っている。
今日は『くるまの娘』について書きたい。
「背もたれを蹴ることもまた暴力であるということだった。そして、それが発露する瞬間、かんこはその行為を正当なことのように感じた。父も同じだったのではないかと思う。父もまた、背もたれを蹴るような、つまり『被害に対する正当な抵抗』の感覚で、家族に対して力を行使していたのではないか。」
「みんな、背もたれを蹴る。背もたれを蹴るように、自分や身内の被った害への抵抗だと信じて、相手を傷つける。」 (本文より引用)
暴力をふるう父、酒を飲むと何事もすぐ忘れてしまう母、機能不全家庭で育ったこどもたち……親を「加害者」、こどもを「被害者」と白黒で分断する書き方をせず、夫々の「加害性」「被害性」、脈々と先代から受け継いでゆく業や悲しみ、痛み……そういった、ある意味エンターテイメントとして描きにくいが真実であるものがきちんと書かれていた。
一概に親を「敵」と切り捨てられない人たちの事を、救い上げるような作品だった。やっぱりこの人はすごい。
親の「加害性」と「被害性」を書くのは珍しくないが、被虐待児の「加害性」と「被害性」をきっちり書ききるのもすごいと思う。
(もちろん、そういった作品は他にもたくさんある。エンターテイメント性で言えば、小林由香先生の『ジャッジメント』などもおすすめ。宇佐見先生の作品は、感傷的にならず、フラットな視点で書ききる力量が凄まじいと思う)
この作品を読んでいる最中に、両親に連絡を取る機会があった。
息子の七五三のアルバム写真を送ったので、届いたか確認したかった。
母に電話をかけたが残念ながら繋がらず。留守番電話に繋がる前に、コール最中に切られたような印象だった。母の思考が正常だったら私が出るまでかけなおしてくるはずなのだが、以降全くかかってこなかったので、母の具合が悪いか、父が切ったかどちらかのように思えた。
父が加入している実家の家族ラインに連絡をしたが、既読はつかない。
私は過去に父から溺愛されて育った。
しかし幼い頃、「悪ふざけ」と流すには難しい――現代で言えば虐待に当たる――扱いをされて、それがトラウマとなってしまった。
体験した事を文章に書き、カウンセラーに見せたところ、上記の出来事で抱いた心の傷は決して私の被害妄想ではなく、それまで父に愛されていたとしても一発で嫌いになるような、深刻な出来事ではあった。
父の中では、不味い事をしたが、小さい頃の出来事だからすぐに忘れるだろうと思ったようだった。
しばらくの間、私は「忘れる」ことを選んだ。しかし、自分のこどもがおおきくなるにつれ、周りのこどもたちがいかに丁寧に扱われているかを知った時、耐えられなくなって、のんきにご機嫌伺の連絡をしてきた父に、全てをぶちまけた。
父が、自身がいかに愚かで、歪な自己愛によって記憶を改ざんし、都合の良い真実を纏いながら生きているのか直視せず、子育てに成功した人格者として私達夫婦に上から目線のアドバイスをするのが、許せなかった。
それ以降、父は私を徹底的に避けている。
事務的な連絡すらよこさない。
仕事と母の介護は確かに忙しいのだろうが、そんな中でも今までは連絡をしてきたことを考えるに、娘一家を切り捨てることにしたのだろう。
「自分はすごい」と常に虚勢を張っているような人で、間違いを素直に謝罪できない自己愛性障害のような人だ。己の汚点を無かったことにしたいのかも知れないし、さんざん養育費をかけて親身に接してきた娘が、己がたった一つの誤ちを蒸し返したため、愛情が尽きたのかも知れない。
私に私の物語、私の正義があるように、父にもまた彼の言い分があるのだ。
そして私にだって、「加害性」は十分にある。
一度、母の介護問題でケアマネージャーの方に話し合いで呼ばれた時、父は表面上、普通に接してはいた。しかし事あるごとに、私が母からもらった貴金属について遠回しに聞かれ、不愉快だった。
亡くなった祖母と、亡くなった叔母、そして母から受け継いだジュエリーは、金銭的な価値以上に、女三代の姦しい思い出を彷彿させるため、私にとっては特別なお守りなのだ。
障害に苦しみながらも、優しく寄り添ってくれた叔母。
最後は認知症が激しくなってしまって、私の顔なんて覚えていなかったけれど、私が一番しんどかった人生の傍らに常にいてくれた、祖母。
そして、憎らしいけれどもそれ以上に愛している母。
彼女らが、相棒として大切にしていたアクセサリーだ。
祖母が、相続でもめないようにとこっそり私達に託したもの。私たちの未来を想って、残してくれたものなのだ。
もちろん、それを全部売り払ったところで一生安泰に暮らせるわけでは決してない。それでも、私にとっては誰にも触れられたくない、聖域だ。
父は高所得者だし、土地も家も母名義のものである。お金に困っている訳ではない。金遣いは荒いが、それは本人の責任だから知ったこっちゃない。
だから父がアクセサリーに執着するのは、それまでの父の行動を鑑みるに、自分の懐を傷めず別の誰かにでも貢ごうと考えているようにしか思えないのだ。実際、高級風俗店のお得意様にしか送られないカレンダーが机の上に広げてあった。女遊びはやめられないのだろう。
その点でも、私と父との間に、信頼関係など無いのかも知れない。
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そういえば昔父は、「息子だと、自分が父と激しく衝突しあったように、人生のどこかでぶつかり合って父を超えなければならない。それはエネルギーをたくさん消耗して、面倒だ。でも、娘だとそういった経験が無いから、気が楽だ」というような事を言っていた。
甘い。としか言いようがない。娘はペットのように可愛がっていれば済むと思ったのだろうか。いずれにせよ、父は母のように、腹を割って我が子と語り合う気はないようだ。
だとしても、だ。確かに父親として最低の事をした彼だが、彼の全てが悪で構成されていたかと言えばそんな事はない。
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『くるまの娘』で描かれた家族像のように、「虐待」と、「日常」との境界線は実はあいまいで、ふとした瞬間に互いに溶け出してし合う。傷つけられて、それでも許してしまって……そういった曖昧さを抱く家庭像も、確かにあるように思う。
この世に、親からされたことを許せなくとも、親を捨てられず介護をするケースがあるように。全ての人が、0か100か――敵か味方かで相手を切り捨てられるわけではない。
許せない事があっても、私が母をいたわれるように。どんなに罵声を浴びても、母が「母親」であるように。
どんなにひどい親だったとしても、愛されたかった自分の存在を否定していては、次のフェーズには進めない。
そういった事ができないのは、愛着問題に悩んだ人か、発達障害の人だと現代の治療では言われているようだ。
発達障害の人は、(私もそうなのだが)白黒思考で物を考えがちで、相手を敵か味方で判断する事があるという。父が思い切り私と縁を切れるのも、0-100思考の賜物なのかもしれない。
私は父に許しを請う気も、機嫌を取る気もない。そして、父も譲らないのであれば、この平行線は続くのだろう。
母だけは、正常な思考の時、息子の成長を喜んでくれる。
そのためだけに、返答を期待せず連絡を取るのがいいのだろうか。それとも、もう何も連絡しないほうが良いのだろうか。
大事な息子の晴れ姿に何のコメントも無いと、私自身をないがしろにされているよりはるかにつらいのだ。
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