普通に生きられなかった私への鎮魂歌

植田伊織

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『推し、燃ゆ』

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 日向も風も、包み込むように優しく暖かい。寒暖差が激しいこの頃、こどもが体調を崩しがちで心配だ。

 昨日は延長保育に必要な書類を忘れた上、お迎え時間に遅刻してしまった。社会人失格でる。ご迷惑をおかけしてしまった。 最近、あらゆる面においてルーズになっている。改めて対策を立てて、気持ちを切り替えよう。具体的な計画は既に文書化してあるにも関わらず、マイナス思考を引きずってしまう。 今日も駄目人間である。

 冬空の下で、この文章を書いている。外で文章を書くのは久しぶりだ。用事が重なっているので時間を潰すためと、少し気持ちを落ち着けたかった。

 家ではWi-Fiの調子が悪く、ネット環境がほぼ死んでいる。 必要最低限はiPhoneなどのデータ通信で行うものの、仕事場のWi-Fiまで壊れてしまったので、仕事用にパケット(って言うのか? 今)を残しておかねばならないので、しばらくインターネットはお預けである。

 幸い、やらなければいけない家事はたくさん有るし、読みたい本もある。書きたいこともある。不便さの中で気がついた自分だけの楽しみを再発見する。これらは幸せと言えるかもしれない。……家事は私の場合、幸せとは言わないけれど。

 アランの『幸福論』を読み進める前に、小説(フィクション)を読みたくなってきてしまった。 次に読もうと考えているのは、宇佐見りん先生の『くるまの娘』。その次は、志水辰夫先生の『いまひとたびの』を読んでみたい。

 私は宇佐見りん先生が大好きで、心から尊敬してる作家の一人だ。なんと言えば良いのか、彼女は、人物をトリミングしないでありのままに、まさに体液や経血のような一般的に「汚れ」と呼ばれている、描写しなくても良いものまで真っ直ぐに書いている。

 小説の登場人物なんて、いくらでも美しく書けもするし、格好つけられる。なんなら、作品から著者の選民意識が透けて見えるものだって少なくない。 創作物は大抵、作品内容と作者の内面に相関性があると読者からは考えられるだろうから、あえて誤解される表現を避ける事だってあるだろう。(ふっきってる桐野夏生先生のような方もいらっしゃるか)

 宇佐見先生はそれをしないように思えるのだ。実際の所、全てをありのままに書いては創作物にならないから、ある程度「カット」も「編集」もするだろうけど、人間の汚い部分にもためらいなく焦点を当てられるというのは、創作者の「強さ」だと思うのだ。  だからこそ、『推し、燃ゆ』では、日常生活もままならない主人公の世界に、焦点を当てる事が出来たように思う。(主人公は作中に病名こそ明かされていないものの、「診断名が下った」と記述がある。普通に生活をしているにも関わらず、雨が降っていると気づいていても洗濯物を取り込むのを忘れてしまう事もある。雨が降っているという事実と、洗濯物を取り込まなければならないという動作がつながらないのだ。「普通じゃない」のは間違いない)

 一般の人が見ようともしない、ある意味弱者の世界を題材に取り上げながら、『推し活』という、世間に広く受け入れられている活動を加える事によって、読者の間口が広がったような。(というのは私の邪推である。ちがったらごめんなさい先生……) そのおかげで、『推し、燃ゆ』の主人公のような世界に生きる、私のような人間に焦点が当てられた。

 普通だったら、私たちのような発達障害の世界――特に、優れた才能もなく、社会にうまく貢献出来ない人たち――は、一般社会(「健常者の社会」と言い換えても良いと思う)の人たちから「見えないもの」として扱われる。いや、見て見ぬふりをされているのは重々承知であるけれど、「集団から排除されてあたりまえの人たち」として経済社会から爪弾きされてしまうのは、多様化が叫ばれる昨今でもあたりまえに起きていることだ。 もっとも、日本が資本主義、競争社会である以上、慈善事業でも福祉でも無い民間企業に、多くの事を求めるのは間違っていると思うけれど。 結局、発達障害者の中でも、生き残りの競争はある。生きていれば仕方の無いことだと言えばそれまでだけれど、生存競争に敗れた経験のある私としては、その一言では成仏できない怨念のような想いが、今も時々顔を出す。

 『推し、燃ゆ』の主人公が、そんな自分とこれからどうつきあってゆこうと思ったのか、読みすすめてゆく事で、私自身に救われる想いがあった。 宇佐見先生、ありがとう。我々の世界を書いてくれて。  我々障害者の親は時に、ある日突然、「見えないもの」として扱われる事がある。 私たち30代は発達障害という概念が無かった時代に生きているから、感覚としては、普通に結婚して、出産して、突然障害児の親になるように思うのだけれど。 ハンディキャップを持っている人が身内に居るからと、「自分たちとは違う、異邦人」のように扱う人も、集団から排除して隔離しようとする人も居るけれど、私たちだって普通に生きて普通に生活している。 宇宙人でもなんでもないのだ。

 そんな世界について書かれた物が――例えフィクションだろうとも――有るのと無いのでは、全く違うと私は信じている。  全員に受け入れられるとは思わない。 けれど、見えないふりをされ続けるより、知ってもらう方がずっと建設的だと私は思うのだ。

 よく出来たフィクションは、世間の映し鏡。 優れた鏡を生み出す創作者を、私は心の底から尊敬する。

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