クラムチャウダー

植田伊織

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クラムチャウダー

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牛乳の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
 部屋の隅で砕けた「昨日までの日常」の欠片をそのままにして、私は一人、キッチンに立つ。
 小鍋で暖めていたクラムチャウダーからくつくつという音がするのを聞き、慌てて中火だったコンロの火を蛍火に切り換える。どうやら火が強すぎたようだ。小麦粉を焦がさぬよう、弱火でじっくり、されど確実に温めなければ。

 『事を成すには確実に』

 母から届いたスープ缶を温めるだけの話に、父の口癖を持ち出すのは流石に大げさだろうか。

 缶の中に入っている濃縮されたスープの素を小鍋にうつし、空になった缶の中に牛乳を入れてかき混ぜ、弱火でじっくり温める。
 ゲル状だったスープの素が牛乳によってとろみを増し、キューブ型に切りそろえられたじゃがいもやにんじんが顔を出す。
 ミルクの甘みとそれを引き立てるほどよい塩味、アサリの慈悲深いうまみが舌の上に広がるのを夢想しながら、私はスープを温めていた。

 すると、キッチンカウンターに置いたスマートフォンが、誰かからの着信を告げた。その途端、さっと風が吹いたかのように心に靄がかかる。
 火を消してカウンターへ向かった。
 一体誰からの着信だろう。
 暗澹たる思いで画面を覗くと、母からだった。ほっとしたのと同時に体中の力が抜けて、一呼吸の間ぼうっとしてしまう。
 はっと我に返って、慌てて受信ボタンを濡れた指先でタップする。スピーカーモードに切り換えて、私は母が喋りだすのを遮るように、話し出した。

「母さん久しぶり! 今ね、この間母さんがくれたスープ缶を温めてる所。昔から好きなんだよね、クラムチャウダー。小学校の頃、ショッピングモールにスープ屋さんがあって、休みの度に買ってもらってたっけ。それを覚えていて、事あるごとに送ってくれるんでしょう? ありがとねー」

 母は、押し黙ったまま何も言わない。居心地の悪い沈黙が二人の間に横たわる。その気まずい雰囲気に耐えられなくって、私は馬鹿みたいに話し続けた。

「疲れるとね、このアサリの旨味が身に染みるような気がしてさ。あと、缶スープ独特のサイコロ型のじゃがいもね。舌で潰せるほどなめらかで、しっかり味もついていて、なんだかついついつまんじゃう。
 自分で作っても美味しいんだけどさ……そこまでの元気は無いわけよ、今はまだ」

 視界がほんの少しだけ歪んだ気がして、慌てて天を仰いだ。ふーっと勢いよく息を吐いて、肺の中を空にする。
 先刻の、夫とのやりとりがフラッシュバックしそうになった。ぎゅっと目をつぶりながら頭を振って、ゆっくりと酸素を取り入れる。
 こういう時は呼吸が浅くなりがちだ。意識して改めなければ。

 ――改めて……何になるというのだろう?

 夫が若い女と出て行って、“平穏な温かい家庭”に恵まれていたと思っていたのは私だけと思い知って。

 ――大したものではないのかも知れないけれど、私にだってあるんですよ、自尊心。

 今はもうぺしゃんこになってしまったそれを、なんとか奮い立たせて身の振り方を決めねばならない。そんな、胸中がぐちゃぐちゃな今の私が、正しい呼吸法で健康に生きて、丁寧な暮らしなんてして、何になる?
 自嘲気味に唇が歪む。

「もう何もかも捨てて楽になりたい気持ちしかない。それでも、そういうわけにも行かないでしょう?
 だったら、しゃがみ込んで泣きわめいてもなんにもならない。
 不貞の証拠を集めて、離婚した後の仕事も探して――まだ、こどもが居なくて良かった。動きやすさが違うから」

 この人ならば一緒に幸せになれる――そんな予感は粉々に打ち砕かれた。
 目を閉じれば、様々な映像が苦痛を伴って襲い掛かる。

 離婚届を差し出す夫は、突然の事態に驚いて固まる私の事を、虫けらでも見るような目で見降ろしていた。その傍らで勝ち誇ったように微笑んだのは、夫の浮気相手。肌の質感が私とは全く違って、はりも潤いも段違い。
 私は彼女の若々しさを目にして悟った。
夫は、私達夫婦が長い時間をかけて築いてきた信頼関係よりも、この肌を選んだのだと。
 目の前が真っ暗になった。
 気が付けば一人、夫婦で生活をしていたアパートに取り残されていた。
 私に悪い所が無かったなんて言わない。寝坊をして朝食を作れなかった日もあった。掃除だって得意じゃなくて、我が家が夫にとっては過ごしにくい空間だったのかも知れない。
だからといって、「これ」はない。

 スープカップに温めたクラムチャウダーを注ぎ、木製のスプーンをカトラリーケースから取り出した。キッチンカウンターに背をあずけて、そのままずるずると床にしゃがみ込む。椅子やソファーに座る気力は無かった。体育座りをして、カップを膝のあたりで支えてみる。
 スプーンをカップに差し入れ、クラムチャウダーをひとすくい。立ち上がる湯気をぼんやり眺めながら、スプーンをのそのそと口の中に運び込む。
 懐かしい味がふわっと口内に広がって、少しずつ、体が温まった。視界が再びにじむ。

「いつでも帰っていらっしゃい」

 突然ふつっと黙り込んでしまった私に、優しく呼びかけるように母が言った。

「お父さんとお母さんはいつだってあなたの味方。可愛い娘がみすみす不幸になる様を、黙って見ていられる訳ないでしょう」

 それが、感情をせき止める何かを壊す引き金となった。
 まず、人のよさそうな顔をした両親の顔が思い浮かんだ。次に、嬉しい時も悲しい時も、平等に見ていた自宅からの風景や、結婚をすると報告した途端、涙を流した父の顔が鮮明に蘇った。結婚式で、父が顔を真っ赤にしながらバージンロードを歩いていた事や、両親へ感謝の手紙を読み上げると、ハンカチで涙をぬぐいながらも私を抱きしめてくれた母の事――いろんな思い出が洪水のようにあふれ出てきて止まらない。
 私は零さないようにスープカップを床に置いて、膝に顔を押し付け、声を殺して泣いた。

「ありがとう、もう少しだけ頑張ったら……そっちへ帰るね。『事を成すには確実に』。あいつらの不貞の証拠を、一つでも多く見つけなきゃ」

 上手な演技なんて出来ているとは思わなかったけど、少しでも母が心配しないよう明るく言った。
 通話を切って、私はドアノブにかけたロープを燃えるゴミの中に放り投げた。――まだその時じゃない。
 部屋の隅に目をやった。夫が普段使っていたマグカップが粉々に砕け散っている。夫が呆然とする私にイラついて、投げつけたものだ。
 当たり前に繰り返すと思い込んでいた日常は、もう二度と戻らない。

 カウンターに戻って再びクラムチャウダーを食べた。ふと、夫はこのスープが嫌いだった事に思い至る。ただの趣向の違いにすぎないそれが、私達の未来を予言していたように思えてきた。

 茜さす夕暮れが部屋の中を照らす中、私はただただ、自身を労わった。
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