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のんびり美味しい貴族生活
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自己紹介が終わったお貴族様はその足で嬉しそうに幼なじみの彼女に会いに出かけて行った。気品溢れる優雅な足取りだというのに、まるでスキップでもしているかのような幻が見える。
なんとなく窓から顔を出してみれば、玄関を出た彼は振り返って私に向かって大きく手を振ってきた。大きな犬のようで元気に揺れるしっぽまでも想像してしまう。
なんだかどっと疲れた。
ただの平民でしかない私が侯爵夫人なんてどんな冗談だ、と笑い飛ばしてやりたいけれど、あのお貴族様が自分の身分を偽っているとは思わないし、しっかりと婚姻のサインをしているからには書類上の侯爵夫人になってしまったことは事実らしい。
どこかの夢物語のような展開は憧れを持たれるのか、身分不相応だと嘲笑われるのか、蔑まれるのか。
でもまあ、そうは言っても所詮はお飾り。
ここでの生活は保証してくれると言っていたし、ここでやるべき仕事は一切ないことも確認もした。
だから私は悠々自適な生活をするだけだ。
好きな物も買っていい、なんて言われたけど、自分を売る仕事だからと気を使っていた美容もオシャレも必要なくなったし、美味しいものが食べられたらそれでいい。
というか、入浴の時間にやってくる侍女たちが勝手に身体を磨いてくれるし肌の手入れも髪の手入れもしてくれる。クローゼットを開ければ既に大量の服が入っているし、ベッドはふかふかで常に洗いたてのシーツがシワを伸ばされ用意されている。
今の所欲しいものは浮かばない、と欠伸をしながら窓辺に頬杖をついて外の景色をぼーっと眺める。
平民は忙しい。お貴族様も色々忙しいんだとは思うけど、平民は常に生活のために動き回って生きるのに必死だ。
だから、何もしなくていいのなら何もしたくない。
目を瞑って風を感じる。私の人生でいちばん穏やかな時間だ。
不思議なもので、何かをしていればあっという間に過ぎ去っていく時間は、何もしなくても進んでしまうものらしい。
見るからに高級そうな缶に入った紅茶と宝石箱のような入れ物に上品に並べられたお菓子を楽しみながらのんびりとしているうちに、一日が緩やかに確実に過ぎていく。
軽い足取りで出ていった私の旦那となったお貴族様は、そのまま仕事をしてくるからと帰ってはこなかった。別にそれはどうでもいい。それなのにしっかりと理由と謝罪が私宛に届いて、本当に律儀な人だと思う。
それにしても、随分といい部屋を貰ったものだ。
お飾りの平民妻なんて、屋敷の奥にでも閉じ込めておけばいいのに。
改めて部屋を見渡してみれば、ここは日当たりのいい広い部屋。続き部屋のベッドルームにバスルーム。なんと書斎まで付いている。
選び抜いた侍女を数人、私の専属に、という話をされたからそれはお断りした。だって常に部屋の隅に誰か控えているような状態なんて、平民の私が落ち着けるはずは無い。
だけどいつでもお呼びくださいという言葉通り、呼び鈴を鳴らしてみれば音もなくすぐに現れる。隠密か何か特殊なスキルでも持っているのかもしれない。
私のことを見下す様子もなく、おしゃべりでもないけれど、世間話もしてくれる。部屋にこもっていてもそれほど退屈ではない。
それに加えてこの部屋は色んな音が聞こえてくる。
屋敷に出入りする人間の声なんかも風が拾って届けてくれるようで、ぼーっとしているだけで情報が入ってくることにいいんだろうかと疑問に思わないでもない。
この侯爵家には代々王家を守る役割があるらしい。戦場に行ったり、身を呈して王様たちを守ったり。今はそこまで危ないことは無いけれど、それでも王家から信頼される家であることには変わらない。
それが関係しているのか、貴族でありながら代々恋愛結婚が多い家なんだとか。
色んな人の声で聞こえるそんな噂はどうやら有名な話らしい。
□□□
この屋敷の主人であるお貴族様が帰ってきたらしい、という話を聞いたのは既に寝支度を整えた後だった。
何故か用意されていたのは薄い生地のネグリジェだったけど、露出度の高い透けそうなネグリジェも踊り子だった私には全く抵抗がない。バスローブやカーディガンを羽織ることもせず部屋でくつろぐ私の報告を受けているのか、扉越しで挨拶をされた。
ただいまという彼におかえりと応える。愛しの彼女に会えたようで嬉しそうな声で一言報告もしてくれた。喜んでもらえて何よりだ。
おやすみという挨拶を交わして、このお貴族様との関わりも今後あまり無いだろう、と眠りについたのに。
何故かお貴族様は次の日、私の部屋にお茶をしに来た。
お茶というか、昼に近い時間、のんびりとした私の朝ご飯の時間だ。しっかりと軽食が用意されている。
ネグリジェ姿で部屋をうろつこうとした私は、眠い目をこすっている間に侍女数人に着替えさせられて顔と髪を整えられた。
随分と便利だ。すごく楽。そして早い。魔法だろうか。
動きにくいドレスより動きやすいネグリジェを選ぶ私の嗜好は既に把握されているようで、締め付けないけれど広がりすぎない、動く時に違和感を感じないシンプルなワンピースが選ばれていた。
とは言っても肌触りがものすごく良いし、レースや刺繍は惜しむことなく使われていて明らかな高級品だけど。
「おはよう、エメ。今日の服の色も貴女に似合っている」
「おはよう、旦那様。褒めてくれてありがとう」
「名前で呼んで欲しいのだが、貴女に旦那様と呼ばれるのは悪くない響だな」
「それはどうも」
流れるような動作で手を取られ指先に唇が寄せられる。
踊り子じゃなく舞台女優にでもなった気分。行動が優雅。まさに紳士。お世辞までするりと出てくるなんて流石だ。
まぁ、私も乙女なんて可愛さは持ち合わせていないから、さらりと流させてもらうけど。
静かに使用人たちが退出して、並べられた軽食を甲斐甲斐しく美しい形のお皿に乗せて私の前に差し出すこの人は本当にお貴族様だろうか、と思ってしまう。
いや、どこからどうみてもお貴族様なんだけどね。私みたいな平民の世話を焼くなんてことをするからそう突っ込みたくなるのも仕方ない。
色々な種類を楽しめるようにと小さめに作られた軽食を、山盛りに乗せられたお皿に目を向ける。こういうのって、なんというか、品良くちまっとした感じに盛り付ける物じゃないのかな。
せっかくのお皿の装飾が隠れて台無しだ。
まあ、お貴族様の生活なんて知らないし、実際はこんなものなのかもしれない。
沢山寝てお腹がすいたし、可憐な歌姫たちはこんなに食べれません、とか可愛く囀りそうな量も、私にとっては丁度いい。
寝起きに食べるには重すぎるこってりソースのステーキもフリットも、一口サイズだから胃がもたれることもない。バランスよく用意されたさっぱりとした味付けのサラダやマリネも合わさって完璧だ。
ここに来て数日の食事はほんとうに最高。
「それで? 何しにここへ?」
食べやすいように切られたお肉の入ったカスクルートを口に運んでいる目の前のお貴族様に目を向ける。食べやすいとは言ってもそれなりの大きさのパンを豪快にも一口で食べる様子は、若い男性らしさがあった。身体も出来上がっているし、普段から鍛えているのかもしれない。
「ん? 妻である貴女と食事をするのはおかしいことではないだろう」
不思議そうに首を傾げる様子に少し不安になる。
「私との結婚なんて形だけなんだから、無理して来なくてもいいと思うよ、ってことなんだけど」
「無理なんてしていない。貴女と共にいるのはどこか落ち着くんだ。貴女が迷惑なら控えるが……」
なんだか立場が逆転している気がする。
こんな態度の私が言えることじゃないけど、本来なら私が目の前のお貴族様のご機嫌取りをしないといけないはずなのに。
「随分と人のいいというか……。なんか騙されやすそう」
思わず考えたことが口から出てしまった。
「そんなことは無いんだが、フェリシテにもよくそう言われる」
「フェリ……?」
「幼なじみだ。昔からそう言ってよくそばに居てくれた。……別に優しいだけの人間ではないんだけどな」
幼なじみ……。あぁ、例の、と納得する。
最後の言葉はよく聞こえなかったけど、聞き返すことはしなかった。惚気かなにかだろう。
「せっかく会えるようになったんだから、そのフェリシテ……様? とやらのところに行けばいいのに」
こんなところに来ないで、と告げればまた不思議そうに首を傾げられた。
イケメンなのにあざとい。そこらの可愛い女の子よりも愛くるしいと言えるかもしれない。
そう見えるのは、詳しい年齢は知らないけれど私より年下だろう、その若さのせいだろうか。
「毎日会いに行っては迷惑だろうし、僕にも仕事がある。彼女に会えるのは楽しくて嬉しいが、時間がある時はやはり家で落ち着きたいし、妻との時間を作るのは当然のことだろう」
恋に全てを投げ打ってる人かと思いきやそうでもないらしい 。
「ふぅん。まあ、私は何でもいいんだけどね」
イケメンも美少年も、もちろん美少女も、目の保養なのだから拒否することはしない。がっつくつもりもないけどね。
パクパクと食べ進める私にさらに料理を乗せようとするお貴族様に、手を伸ばして制止する。
「待って。それ以上は食べ過ぎだから、太る」
ストイックに体を作ろうとは思ってないけど、体を動かすことも減って常に豪華な食事を食べながらのんびりと過ごしている今の状況では太るのなんて一瞬だ。
体を商売にすることは無くなったけど、私だって肥え太りたいわけではない。
「貴女は痩せすぎなくらいだし、それならもっと食べた方がいい」
「それ、余計なお節介ってやつだから。美味しく夕食も食べるためには少しくらい抑えておかないと」
この生活がいつ終わるかわからないんだし、食べられるときには食べておきたいけど、同時に最低限の外見は維持しておかないと。出ていく時に困るからね。
「女性は難しいな」
「その様子じゃ、幼なじみにも怒られたことがあるでしょう」
言ってみれば、お貴族様は目を逸らした。やっぱりね。
「……それなら、デザートは不要だろうか」
ちらり、とお貴族様が視線を向けた先を追いかければ、軽食と同じように盛り付けられた1口大のデザートが並んでいた。
持っている使用人が進むか下がるか指示を待っている。並ぶデザートはまるで宝石のような輝きだ。
「それは食べる」
「これはいいのか」
「デザートは別腹なの」
即答する私に不思議そうな顔をしながらも、使用人から受け取ったそれを私の前に綺麗に並べてくれる。
こんな高級そうなデザート、どんなに売れっ子だってそう簡単に手が出せないのに、我慢するわけが無い。もし食べられる機会があったとしても、売れっ子ならば好きに食べて体型が崩れるなんて事があったら一大事だし、結局こんなには食べられない。
しかも全てこの家のシェフが作っているから、熱々のパイ生地に冷たいアイス、なんて組み合わせまで完璧。食べないなんて選択肢が存在するわけ無いでしょう。
この屋敷に来て一番の幸福だ。
夢中でデザートたちを口に運んでいれば、視界の端に手が伸びてきて、ひと房垂れた髪の毛を掬って耳にかけられた。
途中で落ちてきたのには気づいたけれど、デザートの誘惑に比べれば些細なことすぎて放置していたそれを、目の前のお貴族様は気になってしまったらしい。
「あなたに食べられるケーキたちは幸せだな」
陳腐な表現しか出来ないけれど、王子様のようだ、と思う。
整った顔で、キラキラと輝く存在感を放ちながら、僅かに目を細めつつそのセリフ。指先は私の髪を直したままで、頬に僅かに触れている。
口説き文句でしかない。お貴族様ってのは社交辞令で出来ているようなものだし、私は勘違いだなんだとするつもりはないけどね。何度も言うが初心な生娘なんかじゃないんだから。
「そうでしょう?」
にこり、と上目遣い気味に微笑んでみる。ペロリと唇に付いたクリームを舐め取りながら。
殿方を誘惑するのは得意だ。だってそれが仕事だったんだから。
とは言っても、下品にならないように、というのがモットーだったけれど。
微笑んだまま、するりとその手を遠ざければ、お貴族様はゆっくりと目を瞠った。
その表情がなんだか面白くて、思わず笑ってしまう。
生粋のお貴族様には刺激が強すぎたのかもしれない。
仕事があるのだというお貴族様を気分で玄関まで見送って、私はまたのんびりとした1日を始めた。
なんとなく窓から顔を出してみれば、玄関を出た彼は振り返って私に向かって大きく手を振ってきた。大きな犬のようで元気に揺れるしっぽまでも想像してしまう。
なんだかどっと疲れた。
ただの平民でしかない私が侯爵夫人なんてどんな冗談だ、と笑い飛ばしてやりたいけれど、あのお貴族様が自分の身分を偽っているとは思わないし、しっかりと婚姻のサインをしているからには書類上の侯爵夫人になってしまったことは事実らしい。
どこかの夢物語のような展開は憧れを持たれるのか、身分不相応だと嘲笑われるのか、蔑まれるのか。
でもまあ、そうは言っても所詮はお飾り。
ここでの生活は保証してくれると言っていたし、ここでやるべき仕事は一切ないことも確認もした。
だから私は悠々自適な生活をするだけだ。
好きな物も買っていい、なんて言われたけど、自分を売る仕事だからと気を使っていた美容もオシャレも必要なくなったし、美味しいものが食べられたらそれでいい。
というか、入浴の時間にやってくる侍女たちが勝手に身体を磨いてくれるし肌の手入れも髪の手入れもしてくれる。クローゼットを開ければ既に大量の服が入っているし、ベッドはふかふかで常に洗いたてのシーツがシワを伸ばされ用意されている。
今の所欲しいものは浮かばない、と欠伸をしながら窓辺に頬杖をついて外の景色をぼーっと眺める。
平民は忙しい。お貴族様も色々忙しいんだとは思うけど、平民は常に生活のために動き回って生きるのに必死だ。
だから、何もしなくていいのなら何もしたくない。
目を瞑って風を感じる。私の人生でいちばん穏やかな時間だ。
不思議なもので、何かをしていればあっという間に過ぎ去っていく時間は、何もしなくても進んでしまうものらしい。
見るからに高級そうな缶に入った紅茶と宝石箱のような入れ物に上品に並べられたお菓子を楽しみながらのんびりとしているうちに、一日が緩やかに確実に過ぎていく。
軽い足取りで出ていった私の旦那となったお貴族様は、そのまま仕事をしてくるからと帰ってはこなかった。別にそれはどうでもいい。それなのにしっかりと理由と謝罪が私宛に届いて、本当に律儀な人だと思う。
それにしても、随分といい部屋を貰ったものだ。
お飾りの平民妻なんて、屋敷の奥にでも閉じ込めておけばいいのに。
改めて部屋を見渡してみれば、ここは日当たりのいい広い部屋。続き部屋のベッドルームにバスルーム。なんと書斎まで付いている。
選び抜いた侍女を数人、私の専属に、という話をされたからそれはお断りした。だって常に部屋の隅に誰か控えているような状態なんて、平民の私が落ち着けるはずは無い。
だけどいつでもお呼びくださいという言葉通り、呼び鈴を鳴らしてみれば音もなくすぐに現れる。隠密か何か特殊なスキルでも持っているのかもしれない。
私のことを見下す様子もなく、おしゃべりでもないけれど、世間話もしてくれる。部屋にこもっていてもそれほど退屈ではない。
それに加えてこの部屋は色んな音が聞こえてくる。
屋敷に出入りする人間の声なんかも風が拾って届けてくれるようで、ぼーっとしているだけで情報が入ってくることにいいんだろうかと疑問に思わないでもない。
この侯爵家には代々王家を守る役割があるらしい。戦場に行ったり、身を呈して王様たちを守ったり。今はそこまで危ないことは無いけれど、それでも王家から信頼される家であることには変わらない。
それが関係しているのか、貴族でありながら代々恋愛結婚が多い家なんだとか。
色んな人の声で聞こえるそんな噂はどうやら有名な話らしい。
□□□
この屋敷の主人であるお貴族様が帰ってきたらしい、という話を聞いたのは既に寝支度を整えた後だった。
何故か用意されていたのは薄い生地のネグリジェだったけど、露出度の高い透けそうなネグリジェも踊り子だった私には全く抵抗がない。バスローブやカーディガンを羽織ることもせず部屋でくつろぐ私の報告を受けているのか、扉越しで挨拶をされた。
ただいまという彼におかえりと応える。愛しの彼女に会えたようで嬉しそうな声で一言報告もしてくれた。喜んでもらえて何よりだ。
おやすみという挨拶を交わして、このお貴族様との関わりも今後あまり無いだろう、と眠りについたのに。
何故かお貴族様は次の日、私の部屋にお茶をしに来た。
お茶というか、昼に近い時間、のんびりとした私の朝ご飯の時間だ。しっかりと軽食が用意されている。
ネグリジェ姿で部屋をうろつこうとした私は、眠い目をこすっている間に侍女数人に着替えさせられて顔と髪を整えられた。
随分と便利だ。すごく楽。そして早い。魔法だろうか。
動きにくいドレスより動きやすいネグリジェを選ぶ私の嗜好は既に把握されているようで、締め付けないけれど広がりすぎない、動く時に違和感を感じないシンプルなワンピースが選ばれていた。
とは言っても肌触りがものすごく良いし、レースや刺繍は惜しむことなく使われていて明らかな高級品だけど。
「おはよう、エメ。今日の服の色も貴女に似合っている」
「おはよう、旦那様。褒めてくれてありがとう」
「名前で呼んで欲しいのだが、貴女に旦那様と呼ばれるのは悪くない響だな」
「それはどうも」
流れるような動作で手を取られ指先に唇が寄せられる。
踊り子じゃなく舞台女優にでもなった気分。行動が優雅。まさに紳士。お世辞までするりと出てくるなんて流石だ。
まぁ、私も乙女なんて可愛さは持ち合わせていないから、さらりと流させてもらうけど。
静かに使用人たちが退出して、並べられた軽食を甲斐甲斐しく美しい形のお皿に乗せて私の前に差し出すこの人は本当にお貴族様だろうか、と思ってしまう。
いや、どこからどうみてもお貴族様なんだけどね。私みたいな平民の世話を焼くなんてことをするからそう突っ込みたくなるのも仕方ない。
色々な種類を楽しめるようにと小さめに作られた軽食を、山盛りに乗せられたお皿に目を向ける。こういうのって、なんというか、品良くちまっとした感じに盛り付ける物じゃないのかな。
せっかくのお皿の装飾が隠れて台無しだ。
まあ、お貴族様の生活なんて知らないし、実際はこんなものなのかもしれない。
沢山寝てお腹がすいたし、可憐な歌姫たちはこんなに食べれません、とか可愛く囀りそうな量も、私にとっては丁度いい。
寝起きに食べるには重すぎるこってりソースのステーキもフリットも、一口サイズだから胃がもたれることもない。バランスよく用意されたさっぱりとした味付けのサラダやマリネも合わさって完璧だ。
ここに来て数日の食事はほんとうに最高。
「それで? 何しにここへ?」
食べやすいように切られたお肉の入ったカスクルートを口に運んでいる目の前のお貴族様に目を向ける。食べやすいとは言ってもそれなりの大きさのパンを豪快にも一口で食べる様子は、若い男性らしさがあった。身体も出来上がっているし、普段から鍛えているのかもしれない。
「ん? 妻である貴女と食事をするのはおかしいことではないだろう」
不思議そうに首を傾げる様子に少し不安になる。
「私との結婚なんて形だけなんだから、無理して来なくてもいいと思うよ、ってことなんだけど」
「無理なんてしていない。貴女と共にいるのはどこか落ち着くんだ。貴女が迷惑なら控えるが……」
なんだか立場が逆転している気がする。
こんな態度の私が言えることじゃないけど、本来なら私が目の前のお貴族様のご機嫌取りをしないといけないはずなのに。
「随分と人のいいというか……。なんか騙されやすそう」
思わず考えたことが口から出てしまった。
「そんなことは無いんだが、フェリシテにもよくそう言われる」
「フェリ……?」
「幼なじみだ。昔からそう言ってよくそばに居てくれた。……別に優しいだけの人間ではないんだけどな」
幼なじみ……。あぁ、例の、と納得する。
最後の言葉はよく聞こえなかったけど、聞き返すことはしなかった。惚気かなにかだろう。
「せっかく会えるようになったんだから、そのフェリシテ……様? とやらのところに行けばいいのに」
こんなところに来ないで、と告げればまた不思議そうに首を傾げられた。
イケメンなのにあざとい。そこらの可愛い女の子よりも愛くるしいと言えるかもしれない。
そう見えるのは、詳しい年齢は知らないけれど私より年下だろう、その若さのせいだろうか。
「毎日会いに行っては迷惑だろうし、僕にも仕事がある。彼女に会えるのは楽しくて嬉しいが、時間がある時はやはり家で落ち着きたいし、妻との時間を作るのは当然のことだろう」
恋に全てを投げ打ってる人かと思いきやそうでもないらしい 。
「ふぅん。まあ、私は何でもいいんだけどね」
イケメンも美少年も、もちろん美少女も、目の保養なのだから拒否することはしない。がっつくつもりもないけどね。
パクパクと食べ進める私にさらに料理を乗せようとするお貴族様に、手を伸ばして制止する。
「待って。それ以上は食べ過ぎだから、太る」
ストイックに体を作ろうとは思ってないけど、体を動かすことも減って常に豪華な食事を食べながらのんびりと過ごしている今の状況では太るのなんて一瞬だ。
体を商売にすることは無くなったけど、私だって肥え太りたいわけではない。
「貴女は痩せすぎなくらいだし、それならもっと食べた方がいい」
「それ、余計なお節介ってやつだから。美味しく夕食も食べるためには少しくらい抑えておかないと」
この生活がいつ終わるかわからないんだし、食べられるときには食べておきたいけど、同時に最低限の外見は維持しておかないと。出ていく時に困るからね。
「女性は難しいな」
「その様子じゃ、幼なじみにも怒られたことがあるでしょう」
言ってみれば、お貴族様は目を逸らした。やっぱりね。
「……それなら、デザートは不要だろうか」
ちらり、とお貴族様が視線を向けた先を追いかければ、軽食と同じように盛り付けられた1口大のデザートが並んでいた。
持っている使用人が進むか下がるか指示を待っている。並ぶデザートはまるで宝石のような輝きだ。
「それは食べる」
「これはいいのか」
「デザートは別腹なの」
即答する私に不思議そうな顔をしながらも、使用人から受け取ったそれを私の前に綺麗に並べてくれる。
こんな高級そうなデザート、どんなに売れっ子だってそう簡単に手が出せないのに、我慢するわけが無い。もし食べられる機会があったとしても、売れっ子ならば好きに食べて体型が崩れるなんて事があったら一大事だし、結局こんなには食べられない。
しかも全てこの家のシェフが作っているから、熱々のパイ生地に冷たいアイス、なんて組み合わせまで完璧。食べないなんて選択肢が存在するわけ無いでしょう。
この屋敷に来て一番の幸福だ。
夢中でデザートたちを口に運んでいれば、視界の端に手が伸びてきて、ひと房垂れた髪の毛を掬って耳にかけられた。
途中で落ちてきたのには気づいたけれど、デザートの誘惑に比べれば些細なことすぎて放置していたそれを、目の前のお貴族様は気になってしまったらしい。
「あなたに食べられるケーキたちは幸せだな」
陳腐な表現しか出来ないけれど、王子様のようだ、と思う。
整った顔で、キラキラと輝く存在感を放ちながら、僅かに目を細めつつそのセリフ。指先は私の髪を直したままで、頬に僅かに触れている。
口説き文句でしかない。お貴族様ってのは社交辞令で出来ているようなものだし、私は勘違いだなんだとするつもりはないけどね。何度も言うが初心な生娘なんかじゃないんだから。
「そうでしょう?」
にこり、と上目遣い気味に微笑んでみる。ペロリと唇に付いたクリームを舐め取りながら。
殿方を誘惑するのは得意だ。だってそれが仕事だったんだから。
とは言っても、下品にならないように、というのがモットーだったけれど。
微笑んだまま、するりとその手を遠ざければ、お貴族様はゆっくりと目を瞠った。
その表情がなんだか面白くて、思わず笑ってしまう。
生粋のお貴族様には刺激が強すぎたのかもしれない。
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