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第1章
25.己が目で知るもの
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顔を背ける少年――もとい、ラピスを見詰めて目を細めた聖奈は、ふと彼の服装に気付いて口元に手を遣った。
今のラピスは汚れきってくたびれたシャツとズボン姿という出で立ちだ。とてもじゃないが清潔とは言い難い。
「……店主さんからいらなくなって着てない服とか貰えるかな」
「んぁ? あー、そいつの服か」
言いながらウェインはラピスを見下ろし、聖奈とアリシアを順に見る。
「サイズ的にゃ二人の服も合いそうだが、そういうわけにもいかないよな」
「性別的な理由以前に予備の服がありませんから……ウェインさんの服では大きすぎますよね?」
「流石にそのまんま着るんじゃな」
アリシアに問われてウェインが肩を竦めた。
確かにウェインの服では大きすぎるだろう。身長も異なれば体格も違うのだから、小柄で華奢なラピスが着こなすなど無理だ。
とはいえ、手持ちの金には限りがある。ウェインに言われて街道で魔物が落とした物や植物はしっかりと拾ってきているし、それらはこのあとにでも店に持っていき売るつもりだが、次の村なり街なりに向かうまでの食料など必要なものを買い揃えれば、その分などあっという間に消えてしまうだろう。ラピスの服を揃えてあげることは悲しいかな、懐事情的に厳しい。
やはり店主に聞くだけ聞いてみた方がいいかもしれない。そう判断して、聖奈は口を開いた。
「ウェイン。とりあえず店主さんに服を貰えないか、ダメ元で聞いてくるね」
話しかけると、思案顔でラピスを見下ろすウェインはちらりと視線を寄越した。
「最優先はズボンで頼むわ。サイズはセナちゃんと同じくらいで問題ないだろ。上もあったらあったで助かるけどな」
「シャツはどうにか出来るってこと?」
「出来の保証はしないが、着てない服一式が荷物の中に突っ込んであったはずだから、それでな」
さらりと言って、ウェインは投げ放つように置かれた自分の荷物の傍にしゃがみこみ、中を漁り始める。
その背中を見ながら、思うことが一つ。
「裁縫、できるんだね」
「つっても外套とかが少し破れた時には自分で直してるだけだから、たかが知れてる程度さ」
「へえ……」
ウェインは意外と生活力が高いのかもしれない。
ずっと一人旅をしているそうだから、当たり前なのかもしれないが、その生活力は聖奈なんかより遥かに高そうで――なんだろう。自分でもよくわからないが負けた気分だ。
ジッと見ていると、視線に気付いたらしいウェインが肩越しに振り向き、不思議そうに首を傾げたかと思えば、にんまりと笑った。
「なになに、意外な特技を持つウェインさんにセナちゃんてば惚れちゃった?」
「それはない」
「ですよねー」
「じゃ、そんなにかからないとは思うけど、アリシアちゃん、ルキフェル、ウェインがラピスを怖がらせたりしないように見張っててね」
「っておい! 何だその心配の内容!?」
扉へと近寄る聖奈に、すかさず声が掛かる。振り向けば不満顔で見てくるウェインがいて、聖奈は半目で見詰め返した。
「心配もするでしょ? ラピスに意地悪ばっかりして」
「警戒心薄すぎるお嬢さん方に代わってウェインさんが矢面に立ってるだけですよ?」
「だとしても、刺々しすぎるの。優しくしてもあげて」
「へいへい、そのうちな」
むくれるウェインに、小さな溜息を一つ。
聖奈では及ばない面を助けるような気遣いは嬉しいのだけれど、しばらくは一緒にいる以上、そればかりでは困るのだが。けれどこれ以上口煩くして、頑なになられてもまた困る。
とすれば見守るしかないか、と肩を竦めると、アリシアが聖奈の名を呼んだ。
「安心してください、セナ様。ウェインさんの手綱はしっかり握りますし、万が一の時には成敗しますから!」
「アリシアが手を掛けるまでもない。小僧は我が片手で捻り潰してくれよう」
「俺、信用なさすぎじゃね!? ぬいぐるみは後ですり潰す」
「どうやって!? ああもう、とにかく仲良くお願いねっ?」
絶対喧嘩は駄目だからね、とウェインとルキフェルに念押しして、聖奈は部屋の扉を潜り廊下に出ると、足早にフロントへと向かった。
* * *
聖奈の去った室内は、静けさに包まれていた。
もちろんそれは途端に張り詰めた空気からなるものではない。ただ単純に、口数が極端に減ったというだけだった。
聖奈はおしゃべりというわけではない。必要であれば話しかけてくるし、雰囲気を機敏に察知して和らげようとするくらいで、そこまで騒がしいわけではなかった。
だが、彼女はウェインたちを繋ぐ唯一の人物である。
ルキフェルに関してはともかく、アリシアとは出会った頃より普通に話せるようになったとはいえ、頻繁に言葉を交わしているわけではない。聖奈がいなければ、ウェインと彼女の距離などこんなものだ。
そしてそれについて、ウェイン自身は別段何も思わない。
「あったあった。ガキ……じゃなかった、ラピス。ちょっとこっち来い」
目当てのものをようやく見付けて、鞄の中から引っ張り出す。先程聖奈に告げていた、長く荷物に埋もれていた服だ。多少シワにはなっているが、ボロボロになってしまっているわけではないのだから問題はなかろう。
ウェインはその着なくなった服と、突っ込んだままの裁縫道具を取り出すと立ち上がり、ラピスの方へと振り返った。
「…………」
振り返った先に佇むラピスは一歩も動きもせず、かといって不審な動きを取る様子もなくじっとウェインを見詰めていた。
何処か興味ありげでいて、不思議そうでもあり、理解しがたい何かを前にしているかのような表情に、ウェインは思わずアリシアを見遣る。
それに気付いてこちらを見つめ返してくる彼女もまた同じ心情なのだろう。小首を傾げ、
「どうしたんですか、ラピス?」
と、遠慮がちに尋ねた。
ラピスはちらりとアリシアを見たが、口は真一文字に結んだまま。
答えがなくてはウェインには彼の考えていることなどわからない。だがルキフェルだけは違うようで、腕を組んだまま口を開いた。
「今のこの状況に対し、疑問以外抱けないといった様子だな?」
見た目にそぐわぬ尊大な口調で告げられた言葉に、ラピスの表情がほんの少しだけ動く。
彼は宙に浮かぶルキフェルを真っ直ぐに見据え、やがてぽつぽつと言葉を零し始めた。
「この世界の奴なら、みんな知ってる……人間、魔族、使い魔、それに神族。種族の間にある垣根は深くて、決して相容れるものじゃないって」
「だが此処には人間も、魔族も、使い魔もいる。そして神族である貴様もな」
「……他人は信じられない。自分と違うものは排除して、利用出来ようもんなら利用するんだから。だからオレもそうしてきた。信じずに生きてきた。こなした命令に対して相応の報酬を貰える、この仕事は気が楽だと思ったからこそ就いたんだ」
「おかしなことを言う。自ら選び就いたのではなく、就くほかなかったのだろう?」
その瞬間、ラピスは息を飲むようにして押し黙った。
背の羽を忙しなく動かして浮かび、彼を見下ろすルキフェルは目を細めている。
「いくら神族――天使が優れた能力を持つものであろうが、暗殺などを生業とする家系など聞いたことがない。貴様、何を欠いて産まれた? 何故実父母に捨てられた?」
「…………」
ラピスは答えない。ウェインにはそれが、確かに彼が捨てられたのだということへの肯定にも思えた。
ルキフェルが述べた通り、神族に暗殺者の家系は存在しない。故にそれに就く神族は皆、生きる為にやむをえず人より優れた力を商売道具にするのだ。そこに選択肢などない。あるとすればそれは、自ら己の手を赤く染め陽の下では生きられなくなるか、己の体を肉欲を求める輩に売るためだけの籠の中に、自ら立ち入るかという選択だけ。貴族に言葉のままに愛玩され、欲を吐き出されることもない者など、よっぽどの幸運が重ならなければあり得るはずもないのだから。
見たところ、ラピスは決してそうした意味での価値がなかったわけではないはずだ。
見える限り外見的な欠損はないし、見た目が醜悪なわけでもない。まして受動的にも感じる性質だ、衣食住を確保されさえしていれば無気力にも生きていけたように思える。
にも関わらず、殺しの道具となることを選んだと言い張るラピスに、ウェインはひとつの結論を見出だした。
「人売りに売られたか」
「……っ」
僅かに息を飲んだような気配に、ウェインは確信し、眉を寄せた。
理由はわからないにしても――といっても天使としての欠陥があったのは確かであろうが――、どうやらラピスの両親は早々に子を手放したかったらしい。
本来、神族であれ魔族であれ、ヒトを売るのは奴隷商だ。
正規の職業とは言いにくいが、それでも商人である彼らが高値のつく売り物を雑に扱うことはない。奴隷商たちの間にあるランクによって扱いの差異はあるにせよ、だ。
だが人売りは違う。言うなれば扱いは正反対で、売られる先だってまともじゃない。それは決定的な違いだった。
「おかしいと思った。五体満足で見た目も醜悪ではない神族ならどっかに買われててもおかしくねえってのに、暗殺を生業にしてるんだからな。人拐いに近い奴等なら、ツテもないから裏も裏、そっち社会でも悪名しかない場所に売るしかない、なるほど納得だよ」
「…………」
「ひとつ忠告しといてやる。元いた場所に戻ろうとはしない方が良いぜ? まだ生きたいって思うんならな」
おそらく、彼は間違いなく処分される。
誰がどう伝えたのかはわからないが、魔王だという聖奈を殺すために向かわせられた時点で、ラピスは切り捨てられることが決まっていたはずだ。
もちろん聖奈を殺せていたのなら、それはそれで良かったのだろう。
だが、どんな情報を持っていたかなどウェインに知るすべなどないが、もしエルリフでウェインの存在に驚いたラピスが、故意的などではなく彼に命じた者すらも本当にその情報を与えられていなかったとすれば。否、仮に故意的に与えられていなかったとしても、ラピスは捨て駒だ。殺害対象とその周囲の戦力を探るための。
そして失敗したとなれば対象が自分達を探し出すために最大のヒントとなる実行者の処分するのが定石。その場しのぎになろうとも、隠し通せそうになく、リスクだけしかない証拠は手放すに限るのだから。
「……なら、どうしろっていうんだよ」
ぽつ、と小さくラピスが吐き出す。
いつの間にか顔は伏せられ、どんな表情をしているかは窺えないが、ウェインにはなんとなく想像がついた。
「あそこにいた奴等はみんなオレと似たようなもんだった。仲間意識なんてもんはなかったけど、理解はしあってた。そうだよ、オレは欠陥があったから親に売られたんだ。顔も覚えてないけど、両親にとってオレの唯一の利用価値は、売ることで得られる金だったんだよ」
「…………」
それはきっと、恐れと困惑。目の前にある唯一の道を閉ざされて立ち尽くすことしか出来ないことへの、そうすることで見えてきてしまった現実への恐怖。
ひたすらにそれだけを見詰めて生きることが出来たなら、きっと楽だったろうとウェインも心底思う。
「どうせあんたらも裏切るだろ? 捨てるだろ? 言葉だけならどうとでも言える、いざ対処できないような何かがあれば切り捨てるんだ。そうに決まってる。ならいますぐ捨てろよ、どうせこんな世界じゃ誰も信用ならない。あんたらだって、お互いのことをどう思ってるやら」
「よく吠えるな、小童よ。だがその疑り深さは貴様の美点でもある。故に我が貴様にやる言葉はこれ一つ」
くつくつと笑うルキフェルは、とても優しい双眸をラピスへと向けているように見えた。そこにはぬいぐるみに宿った使い魔らしからぬ情が存在しているようにウェインは感じる。実に不思議だ。
ルキフェルはたっぷりの間を置くと、ニヤリと口角を上げ、尊大そのものに言い放った。
「――我らを、セナの人の良さを利用しろ」
と、はっきりと告げたのだ。
それにはウェインも驚いた。アリシアは柔らかな笑みを浮かべるだけだけれど、聞き流すには驚きが大きすぎる。
利用しろだなんてそうそう出るような言葉ではない。ここで事情を知らぬ者が聞けば、聖奈を陥れようとしていると勘違いしてもおかしくないくらいには。
それなのに躊躇いもなく言ったルキフェルに、ラピスも目を丸くして見上げていた。
「今の貴様に何を言おうが無駄であろう。それすら疑念の材料になりかねんからな。ならば、今は厚意を利用するが良い。そして、セナの背中を見続けろ。アレの本質を、貴様自身がしっかりと理解するそのときまで」
「……信用ならない」
「ふん、それは当然だ。我も貴様の事が信用ならぬ、二度セナを殺そうとするかもしれぬのだからな。皆、同じだ。種族の柵がなくとも、出会ったばかりの者を心より信頼することなど不可能であろう。だからこそ、己の目で確かめる必要があるのだ、ラピスよ」
一切の淀みなく、ルキフェルは言う。
腕を組み見下ろしながら、教え諭すように。口をつぐみルキフェルを見詰めるラピスに、アリシアがそっと言葉を掛けた。
「今はまだ、わたしたちのことも疑ってくれて構いません。わたしも、そうでしたから……セナ様やルキちゃんのことは、ちょっと違うけど。でもウェインさんのことはちゃんと、自分の目で見て信じると決めたんです」
「…………」
「だから、ラピスのこともわたしは自分の目でどんな子なのかを知って、それから信じられるか決めます。神族だからって、そういう括りで決めるのは、悲しいことなのかもしれないって、いまは思いますから」
柔らかく微笑んだアリシアの表情にも嘘偽りはない。口にしたことは本音なのだろう。
ルキフェルが満足げに数回頷き、未だ黙り込むラピスを見遣る。
「行動を共にした末に判断をくだすのは貴様だ。しかし、あの娘を侮るでないぞ? 未熟ではあるが、あれでも次代を担う〈魔王〉。伊達に机上の空想論を掲げているわけではない強さを持っておるのだからな」
僅かに信じられないものを見るようなラピスに、それこそ自分事のように言い切ったルキフェル。
それを、ウェインは何も言わずに見ていることしか出来なかった。
今のラピスは汚れきってくたびれたシャツとズボン姿という出で立ちだ。とてもじゃないが清潔とは言い難い。
「……店主さんからいらなくなって着てない服とか貰えるかな」
「んぁ? あー、そいつの服か」
言いながらウェインはラピスを見下ろし、聖奈とアリシアを順に見る。
「サイズ的にゃ二人の服も合いそうだが、そういうわけにもいかないよな」
「性別的な理由以前に予備の服がありませんから……ウェインさんの服では大きすぎますよね?」
「流石にそのまんま着るんじゃな」
アリシアに問われてウェインが肩を竦めた。
確かにウェインの服では大きすぎるだろう。身長も異なれば体格も違うのだから、小柄で華奢なラピスが着こなすなど無理だ。
とはいえ、手持ちの金には限りがある。ウェインに言われて街道で魔物が落とした物や植物はしっかりと拾ってきているし、それらはこのあとにでも店に持っていき売るつもりだが、次の村なり街なりに向かうまでの食料など必要なものを買い揃えれば、その分などあっという間に消えてしまうだろう。ラピスの服を揃えてあげることは悲しいかな、懐事情的に厳しい。
やはり店主に聞くだけ聞いてみた方がいいかもしれない。そう判断して、聖奈は口を開いた。
「ウェイン。とりあえず店主さんに服を貰えないか、ダメ元で聞いてくるね」
話しかけると、思案顔でラピスを見下ろすウェインはちらりと視線を寄越した。
「最優先はズボンで頼むわ。サイズはセナちゃんと同じくらいで問題ないだろ。上もあったらあったで助かるけどな」
「シャツはどうにか出来るってこと?」
「出来の保証はしないが、着てない服一式が荷物の中に突っ込んであったはずだから、それでな」
さらりと言って、ウェインは投げ放つように置かれた自分の荷物の傍にしゃがみこみ、中を漁り始める。
その背中を見ながら、思うことが一つ。
「裁縫、できるんだね」
「つっても外套とかが少し破れた時には自分で直してるだけだから、たかが知れてる程度さ」
「へえ……」
ウェインは意外と生活力が高いのかもしれない。
ずっと一人旅をしているそうだから、当たり前なのかもしれないが、その生活力は聖奈なんかより遥かに高そうで――なんだろう。自分でもよくわからないが負けた気分だ。
ジッと見ていると、視線に気付いたらしいウェインが肩越しに振り向き、不思議そうに首を傾げたかと思えば、にんまりと笑った。
「なになに、意外な特技を持つウェインさんにセナちゃんてば惚れちゃった?」
「それはない」
「ですよねー」
「じゃ、そんなにかからないとは思うけど、アリシアちゃん、ルキフェル、ウェインがラピスを怖がらせたりしないように見張っててね」
「っておい! 何だその心配の内容!?」
扉へと近寄る聖奈に、すかさず声が掛かる。振り向けば不満顔で見てくるウェインがいて、聖奈は半目で見詰め返した。
「心配もするでしょ? ラピスに意地悪ばっかりして」
「警戒心薄すぎるお嬢さん方に代わってウェインさんが矢面に立ってるだけですよ?」
「だとしても、刺々しすぎるの。優しくしてもあげて」
「へいへい、そのうちな」
むくれるウェインに、小さな溜息を一つ。
聖奈では及ばない面を助けるような気遣いは嬉しいのだけれど、しばらくは一緒にいる以上、そればかりでは困るのだが。けれどこれ以上口煩くして、頑なになられてもまた困る。
とすれば見守るしかないか、と肩を竦めると、アリシアが聖奈の名を呼んだ。
「安心してください、セナ様。ウェインさんの手綱はしっかり握りますし、万が一の時には成敗しますから!」
「アリシアが手を掛けるまでもない。小僧は我が片手で捻り潰してくれよう」
「俺、信用なさすぎじゃね!? ぬいぐるみは後ですり潰す」
「どうやって!? ああもう、とにかく仲良くお願いねっ?」
絶対喧嘩は駄目だからね、とウェインとルキフェルに念押しして、聖奈は部屋の扉を潜り廊下に出ると、足早にフロントへと向かった。
* * *
聖奈の去った室内は、静けさに包まれていた。
もちろんそれは途端に張り詰めた空気からなるものではない。ただ単純に、口数が極端に減ったというだけだった。
聖奈はおしゃべりというわけではない。必要であれば話しかけてくるし、雰囲気を機敏に察知して和らげようとするくらいで、そこまで騒がしいわけではなかった。
だが、彼女はウェインたちを繋ぐ唯一の人物である。
ルキフェルに関してはともかく、アリシアとは出会った頃より普通に話せるようになったとはいえ、頻繁に言葉を交わしているわけではない。聖奈がいなければ、ウェインと彼女の距離などこんなものだ。
そしてそれについて、ウェイン自身は別段何も思わない。
「あったあった。ガキ……じゃなかった、ラピス。ちょっとこっち来い」
目当てのものをようやく見付けて、鞄の中から引っ張り出す。先程聖奈に告げていた、長く荷物に埋もれていた服だ。多少シワにはなっているが、ボロボロになってしまっているわけではないのだから問題はなかろう。
ウェインはその着なくなった服と、突っ込んだままの裁縫道具を取り出すと立ち上がり、ラピスの方へと振り返った。
「…………」
振り返った先に佇むラピスは一歩も動きもせず、かといって不審な動きを取る様子もなくじっとウェインを見詰めていた。
何処か興味ありげでいて、不思議そうでもあり、理解しがたい何かを前にしているかのような表情に、ウェインは思わずアリシアを見遣る。
それに気付いてこちらを見つめ返してくる彼女もまた同じ心情なのだろう。小首を傾げ、
「どうしたんですか、ラピス?」
と、遠慮がちに尋ねた。
ラピスはちらりとアリシアを見たが、口は真一文字に結んだまま。
答えがなくてはウェインには彼の考えていることなどわからない。だがルキフェルだけは違うようで、腕を組んだまま口を開いた。
「今のこの状況に対し、疑問以外抱けないといった様子だな?」
見た目にそぐわぬ尊大な口調で告げられた言葉に、ラピスの表情がほんの少しだけ動く。
彼は宙に浮かぶルキフェルを真っ直ぐに見据え、やがてぽつぽつと言葉を零し始めた。
「この世界の奴なら、みんな知ってる……人間、魔族、使い魔、それに神族。種族の間にある垣根は深くて、決して相容れるものじゃないって」
「だが此処には人間も、魔族も、使い魔もいる。そして神族である貴様もな」
「……他人は信じられない。自分と違うものは排除して、利用出来ようもんなら利用するんだから。だからオレもそうしてきた。信じずに生きてきた。こなした命令に対して相応の報酬を貰える、この仕事は気が楽だと思ったからこそ就いたんだ」
「おかしなことを言う。自ら選び就いたのではなく、就くほかなかったのだろう?」
その瞬間、ラピスは息を飲むようにして押し黙った。
背の羽を忙しなく動かして浮かび、彼を見下ろすルキフェルは目を細めている。
「いくら神族――天使が優れた能力を持つものであろうが、暗殺などを生業とする家系など聞いたことがない。貴様、何を欠いて産まれた? 何故実父母に捨てられた?」
「…………」
ラピスは答えない。ウェインにはそれが、確かに彼が捨てられたのだということへの肯定にも思えた。
ルキフェルが述べた通り、神族に暗殺者の家系は存在しない。故にそれに就く神族は皆、生きる為にやむをえず人より優れた力を商売道具にするのだ。そこに選択肢などない。あるとすればそれは、自ら己の手を赤く染め陽の下では生きられなくなるか、己の体を肉欲を求める輩に売るためだけの籠の中に、自ら立ち入るかという選択だけ。貴族に言葉のままに愛玩され、欲を吐き出されることもない者など、よっぽどの幸運が重ならなければあり得るはずもないのだから。
見たところ、ラピスは決してそうした意味での価値がなかったわけではないはずだ。
見える限り外見的な欠損はないし、見た目が醜悪なわけでもない。まして受動的にも感じる性質だ、衣食住を確保されさえしていれば無気力にも生きていけたように思える。
にも関わらず、殺しの道具となることを選んだと言い張るラピスに、ウェインはひとつの結論を見出だした。
「人売りに売られたか」
「……っ」
僅かに息を飲んだような気配に、ウェインは確信し、眉を寄せた。
理由はわからないにしても――といっても天使としての欠陥があったのは確かであろうが――、どうやらラピスの両親は早々に子を手放したかったらしい。
本来、神族であれ魔族であれ、ヒトを売るのは奴隷商だ。
正規の職業とは言いにくいが、それでも商人である彼らが高値のつく売り物を雑に扱うことはない。奴隷商たちの間にあるランクによって扱いの差異はあるにせよ、だ。
だが人売りは違う。言うなれば扱いは正反対で、売られる先だってまともじゃない。それは決定的な違いだった。
「おかしいと思った。五体満足で見た目も醜悪ではない神族ならどっかに買われててもおかしくねえってのに、暗殺を生業にしてるんだからな。人拐いに近い奴等なら、ツテもないから裏も裏、そっち社会でも悪名しかない場所に売るしかない、なるほど納得だよ」
「…………」
「ひとつ忠告しといてやる。元いた場所に戻ろうとはしない方が良いぜ? まだ生きたいって思うんならな」
おそらく、彼は間違いなく処分される。
誰がどう伝えたのかはわからないが、魔王だという聖奈を殺すために向かわせられた時点で、ラピスは切り捨てられることが決まっていたはずだ。
もちろん聖奈を殺せていたのなら、それはそれで良かったのだろう。
だが、どんな情報を持っていたかなどウェインに知るすべなどないが、もしエルリフでウェインの存在に驚いたラピスが、故意的などではなく彼に命じた者すらも本当にその情報を与えられていなかったとすれば。否、仮に故意的に与えられていなかったとしても、ラピスは捨て駒だ。殺害対象とその周囲の戦力を探るための。
そして失敗したとなれば対象が自分達を探し出すために最大のヒントとなる実行者の処分するのが定石。その場しのぎになろうとも、隠し通せそうになく、リスクだけしかない証拠は手放すに限るのだから。
「……なら、どうしろっていうんだよ」
ぽつ、と小さくラピスが吐き出す。
いつの間にか顔は伏せられ、どんな表情をしているかは窺えないが、ウェインにはなんとなく想像がついた。
「あそこにいた奴等はみんなオレと似たようなもんだった。仲間意識なんてもんはなかったけど、理解はしあってた。そうだよ、オレは欠陥があったから親に売られたんだ。顔も覚えてないけど、両親にとってオレの唯一の利用価値は、売ることで得られる金だったんだよ」
「…………」
それはきっと、恐れと困惑。目の前にある唯一の道を閉ざされて立ち尽くすことしか出来ないことへの、そうすることで見えてきてしまった現実への恐怖。
ひたすらにそれだけを見詰めて生きることが出来たなら、きっと楽だったろうとウェインも心底思う。
「どうせあんたらも裏切るだろ? 捨てるだろ? 言葉だけならどうとでも言える、いざ対処できないような何かがあれば切り捨てるんだ。そうに決まってる。ならいますぐ捨てろよ、どうせこんな世界じゃ誰も信用ならない。あんたらだって、お互いのことをどう思ってるやら」
「よく吠えるな、小童よ。だがその疑り深さは貴様の美点でもある。故に我が貴様にやる言葉はこれ一つ」
くつくつと笑うルキフェルは、とても優しい双眸をラピスへと向けているように見えた。そこにはぬいぐるみに宿った使い魔らしからぬ情が存在しているようにウェインは感じる。実に不思議だ。
ルキフェルはたっぷりの間を置くと、ニヤリと口角を上げ、尊大そのものに言い放った。
「――我らを、セナの人の良さを利用しろ」
と、はっきりと告げたのだ。
それにはウェインも驚いた。アリシアは柔らかな笑みを浮かべるだけだけれど、聞き流すには驚きが大きすぎる。
利用しろだなんてそうそう出るような言葉ではない。ここで事情を知らぬ者が聞けば、聖奈を陥れようとしていると勘違いしてもおかしくないくらいには。
それなのに躊躇いもなく言ったルキフェルに、ラピスも目を丸くして見上げていた。
「今の貴様に何を言おうが無駄であろう。それすら疑念の材料になりかねんからな。ならば、今は厚意を利用するが良い。そして、セナの背中を見続けろ。アレの本質を、貴様自身がしっかりと理解するそのときまで」
「……信用ならない」
「ふん、それは当然だ。我も貴様の事が信用ならぬ、二度セナを殺そうとするかもしれぬのだからな。皆、同じだ。種族の柵がなくとも、出会ったばかりの者を心より信頼することなど不可能であろう。だからこそ、己の目で確かめる必要があるのだ、ラピスよ」
一切の淀みなく、ルキフェルは言う。
腕を組み見下ろしながら、教え諭すように。口をつぐみルキフェルを見詰めるラピスに、アリシアがそっと言葉を掛けた。
「今はまだ、わたしたちのことも疑ってくれて構いません。わたしも、そうでしたから……セナ様やルキちゃんのことは、ちょっと違うけど。でもウェインさんのことはちゃんと、自分の目で見て信じると決めたんです」
「…………」
「だから、ラピスのこともわたしは自分の目でどんな子なのかを知って、それから信じられるか決めます。神族だからって、そういう括りで決めるのは、悲しいことなのかもしれないって、いまは思いますから」
柔らかく微笑んだアリシアの表情にも嘘偽りはない。口にしたことは本音なのだろう。
ルキフェルが満足げに数回頷き、未だ黙り込むラピスを見遣る。
「行動を共にした末に判断をくだすのは貴様だ。しかし、あの娘を侮るでないぞ? 未熟ではあるが、あれでも次代を担う〈魔王〉。伊達に机上の空想論を掲げているわけではない強さを持っておるのだからな」
僅かに信じられないものを見るようなラピスに、それこそ自分事のように言い切ったルキフェル。
それを、ウェインは何も言わずに見ていることしか出来なかった。
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アメリアは1年前まで公爵令嬢であり王太子の婚約者だった。しかし、ある日を境に一変した。今の彼女は小さな村で暮らすただの平民だ。そして、それは彼女が自ら下した選択であり結果だった。彼女は言う『今が1番幸せ』だ、と。何故貴族としての幸せよりも平民としての暮らしを決断したのか。そこには彼女しかわからない悩みがあった……。
目が覚めたら異世界で草生える
みももも
ファンタジー
アカネが目を覚ますと、目の前には大草原が広がっていた。
緑色の羊や空を飛ぶドラゴンを見て「どうやら私は異世界に来てしまったらしい」と理解したアカネは生き延びるためにまずは人のいる街を目指して歩き出すことにした……。
テンプレ的な説明もなく、異世界に関する知識も持たないアカネが出会いと別れを繰り返しながら元の世界に戻る(あるいは記憶を取り戻す)ために試行錯誤するお話です。
異世界は黒猫と共に
小笠原慎二
ファンタジー
我が家のニャイドル黒猫のクロと、異世界に迷い込んだ八重子。
「チート能力もらってないんだけど」と呟く彼女の腕には、その存在が既にチートになっている黒猫のクロが。クロに助けられながらなんとか異世界を生き抜いていく。
ペガサス、グリフォン、妖精が従魔になり、紆余曲折を経て、ドラゴンまでも従魔に。途中で獣人少女奴隷も仲間になったりして、本人はのほほんとしながら異世界生活を満喫する。
自称猫の奴隷作者が贈る、猫ラブ異世界物語。
猫好きは必見、猫はちょっとという人も、読み終わったら猫好きになれる(と思う)お話。
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