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第1章
15.深緑の村エルリフ
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――翌朝。
「セナちゃーん、朝だぞー。起きろー」
「むぅ……」
聖奈はウェインの声で起こされた。
浮上する意識に、閉じていた目を開くと、ぼんやりとした視界には真っ先にアリシアの姿が映る。未だ眠っているらしい彼女の近くで丸くなるルキフェルを見遣ると、彼もまた未だ夢の中。
「うー……」
「こらこら、唸って嫌がるなって。朝だから、良い子は起きる時間だ」
私ももう少し寝てたい、という意思表示を汲み取ったらしいウェインの声が困ったように制して来る。あまりに穏やかな声音なものだから強引にでも寝てしまいたくなったが、そうもいくまい。
聖奈は眠気という最大の誘惑を振り払うように起き上がった。
「おおっ、ちゃんと起きたな。えらいえらい」
「むー……おはよう、ウェイン」
「おはよ、セナちゃん」
眠い目をこすりながら見た先、炭となった薪が積もった焚き火の跡を挟んだ向かい側に、身支度を完璧に済ませたウェインが立っている。
朝に強いのだろうか、それとも彼が大別すると冒険者だからなのかはわからないが、聖奈は伸びをしながらあくびを噛み殺し、
「ウェインは、ちゃんと寝た?」
「おー。セナちゃん寝てからもしばらくは起きてたけどな、ちょっとだけだが寝たぜ」
「ちょっとだけって、大丈夫なの?」
見上げたまま首を傾げると、ウェインは軽快に笑いながら平気平気、と答えた。
「一人旅だろうが違おうが、野宿で熟睡は出来ないからな。その分宿ではしっかり寝てるし、問題はねーよ。それよりも、アリシアちゃんを起こして身支度しな」
顔は近くに川が流れてるからそっちで洗ってこい、というウェインに頷き、聖奈はアリシアの体を優しく揺すりながら声をかけた。
「アリシアちゃん、起きて。朝だよ」
「う……、うー?」
「朝だよ、朝」
小さく唸る彼女に聖奈は微笑む。
今にもまた眠ってしまいそうなアリシアに声をかけながら揺すり続けていると、やがてゆるゆると目を開け、ぼんやりとした目で起き上がった。
聖奈はアリシアに呼びかけながら立たせる。寝ぼけ眼の彼女は言われるがままで、その背を押しながらウェインに教えられた川のある方に足を向けると、背後から騒がしいやりとりが聞こえて来た。
「よいせっと」
「……」
「…………」
「……ん、……んんっ!?」
「お?」
「――ぐっ! ぶはっ!! 小僧、貴様! 寝ている者の口と鼻を塞ぐとは何事だ!?」
「いや、ほんとに息してんのかと思って。ぬいぐるみだし。お前、どんな作りなの? 人形の使い魔ってみんなこんな感じなのか?」
「我が知るはずなかろう! それ以前に反省の色もなしとは……! 小僧、覚悟は良いな?」
「おお? やんのか? これは蜂の巣にする千載一遇のチャンスとみた!」
ああ、朝からこれか。どれだけ仲が悪いんだ、あの二人。
呆れながらも聖奈は振り返ることもせずに、アリシアと共に川へと向かうのだった。
* * *
聖奈とアリシアが顔を洗い、しっかりと目を覚まして戻ってもなお、ウェインとルキフェルの小競り合いは続いていた。
とはいえ当たり前だがウェインは腰と太ももに巻かれたベルトに下げられた銃をホルスターから抜き出した形跡はなく、ルキフェルは魔法を使った様子もなかったものの、しょうもない喧嘩に聖奈は一喝して止めた。
それからまたウェインの先導で途中襲いかかって来た魔物を退けてもらいながら森を進んでいき、日が一番高く昇る昼頃、ようやくそこにたどりついた。
「わぁ……」
森が途切れ、さらに先の開けた場所。
木々に守られるように、建ち並ぶ家々。聖奈の暮らしていたあの世界のコンクリートジャングルとは違う、素朴な造りの建物に目を引く水車。広い畑と、遠目でも柵がめぐる内側には何か動物がいるようにも見える。
「あれがエルリフ。何の変哲もない農村ってやつだな」
感嘆の息を零した聖奈に、ウェインが短く教えてくれた。
農村――都心部に暮らしていた聖奈にとって、それはあまり馴染み無いものだ。
家族旅行は行けど、雑誌やテレビで評判の場所ばかり。自然や畑は見たことはあれど、こんな大自然に囲まれた村を自分の目で見ることはそれほど多くはない。
「セナ様、珍しいのですか?」
と、アリシアが聖奈の顔を覗き込みながら首を傾げる。聖奈は緩やかに首を横に振り、
「珍しいわけじゃなくて……なんていうかこう、嬉しいって感じかな」
「んん? 嬉しいってことは、懐かしい光景ってことか?」
「ううん。むしろ馴染みない方だとは思うけど、だからちょっとはしゃいでるっていうか……とにかく早く行こう! あの村には宿屋があるんでしょう?」
「あるけど……、なんだなんだ? 随分とご機嫌だな」
とても優しい声音を背に、聖奈はルキフェルを抱えるとアリシアに呼びかけて止めていた足を動かした。
別段真新しいわけではない。だがどうしてこうも初めて訪れる場所というものは好奇心をくすぐるのだろうか。
元の世界でもそうだ。理緒共々、新製品には目がなかった聖奈は度々それらを試していた。もちろんその全てが全て当たりだったことなどないが、それでも新しいものにはチャレンジせずにはいられなかった。
そしてそれは日常生活に於いても同じ。聖奈は新しい場所に行くことも好きだ。昇級や入学による新生活もそうだが、そういう時はいつだって不安よりも楽しみの方が勝っていた。
「我にはわからんな。何故そんなにも浮き足立っておるのか」
「い、いいじゃない、べつに! そんなことより、約束通りおとなしくしててね」
腕の中でぼやいたルキフェルに、苦笑混じりに聖奈は告げる。
使い魔というものは魔族や魔女の類いが連れているもので、通常人間は連れ歩いていないそうだ。
もし連れ歩く者がいたら、それは魔族に魂を売ったとされ、知られた時点で人間扱いをされることはない。何故なら人間たちの間では代償を払えば人は魔族になれる、と伝えられているから。
もちろんそんな事実などなく、ルキフェルとアリシアによれば迷信以外の何物でもないとのことだが、人間たちにとって幼児向けの絵本にすら描かれているそれを疑うものはほとんどいない、というのがウェインの弁で、実際に兵士の一人も聖奈を見てそんなことを言っていた。
なんにせよ、必要以上に人間や神族を刺激したくはない聖奈は、ルキフェルに見た目通りのぬいぐるみを演じてもらう事にした。
告げた瞬間ルキフェルは怒りをあらわいはしていたが、彼自身も不要な火種にはなりたくないのかすぐに渋々ながらも納得してくれた。
「わかっている。……非常時だったとはいえ、この体を選んだのは間違いであったか」
「でも私の部屋には、ぬいぐるみくらいしか憑代ってやつになりそうなのがなかった気がするけど」
「ふむ……いや、あの時確かリオという人間がいたであろう? そやつに宿れば……」
「それは絶対に許さない」
ルキフェルの言葉を遮るように聖奈は声を荒らげる。するとルキフェルは目をしばたかせ、眉を顰めた。
「何故だ? リオという人間に宿れば魔力も今より早く溜められ、扱うにも制限などなく、もちろん今のように抱えられて移動することも、」
「魔法を使ったりする姿やこういう世界に来て喜ぶ理緒は見たい。でも、ルキフェルが宿ったらそれは理緒じゃない」
「理解が出来ぬ部分もありはするが、我が宿れば人格は我そのものになるか、溶け合い変わる恐れはあるな」
「ぜっったいに許さない!」
さらりととんでもないことを言うルキフェルに、聖奈は力を込めて言った。
ゲームや漫画が好きな理緒は、こうした世界のことだってきっと好きだろうと思う。少なくとも目を輝かせるであろうくらいには。
だが人格がルキフェルになるのもそうだが、溶け合った結果変化してしまうなど耐えられない。正直なところそんな理緒も見てみたいかもしれないという好奇心はあるが、それはそれ、これはこれだ。
見たいのは聖奈の兄である南雲理緒の喜ぶ姿であって、見た目がそのままだったとしても中身がルキフェルであったり変化してしまった理緒ではないのだ。
「そのリオさんという方のこと、セナ様はとてもお好きなんですね」
微笑みながら言ったアリシアは、尖った耳が見えぬように長い髪で隠した上で外套についたフードを被っている。これもまた、彼女が魔族であることが知られぬようにする為だ。
そんなアリシアの言葉にに、聖奈は迷いも躊躇いもなく深く頷く。
「うん。好きだよ、もちろん」
理緒は大切な双子の兄だ。好きに決まっている。
それに、理緒だけではなく両親のことも好きだ。あんな素敵な家族を嫌うなんてできるはずがない。
「のろけかあ。見知らぬリオってやつにウェインさん嫉妬!」
と、ウェインが唐突にそんなことを言い出した。
理緒は兄なのだから、断じてのろけではない。しかしあちらの世界でも理緒の事を学校で話す度にそんなことを言われていた聖奈にとって、このような言われ方は慣れっこだ。言い返せば言い返すだけ逆効果だと知っている。ゆえに聖奈は、
「……あ、あれ?」
にやにやとした表情で見下ろしてくるウェインを無視した。
途端に困惑する彼をそのままに、ついに目の前までやって来た村を見る。
木で出来た門の近くにはやはり木で作られた看板のようなものがあり、そこには何か文字が書いてあった。
平仮名でもカタカナでも漢字でもなく、ローマ字でもない。見たこともないその文字を聖奈には読めなかったが、おそらくこの村の名前――エルリフと書かれているのだと思う。
文字が読めないのはほんの少しだけ不便だと感じはしたが、会話が問題なく成り立つだけ幸せなのだろう。
門を潜って聖奈は村の中に足を踏み入れる。村人は少なくもなく多くもなく、とても長閑《のどか》。ちらほらと小さな子供は楽しそうに走り回っているが、若者たちや大人たちは皆、畑を耕したり家畜の世話をしていたりと忙しそうだ。
「おや、旅人さんかい?」
村の風景に目を細めていると、不意に声が掛けられた。
振り向くとそこには恰幅の良い女性の姿。彼女の前には色とりどりの瑞々しい野菜が並べられている。
「はい、そうです。八百屋さんですか? どれも新鮮で美味しそう……」
ゆっくりと近寄りながら頷き、聖奈は店先に並ぶ野菜を覗き込んだ。
そこには聖奈がよく知る野菜と似たようなものが並んでいた。値段と共に書かれている文字はわからないが、ざっと見ただけでもニンジンにトマト、ネギ、それにタマネギとリンゴにそっくりなものがそこにはあった。
「ここに並んでるものは全部、この村で作ったものさ。今朝収穫したばかりだから美味しいよ!」
「今朝ですか? じゃあそんなに新鮮な物を此処で買って食べたら、他の大きな街でだなんて食べられなくなっちゃいますね」
「あはは! お嬢ちゃん、嬉しいこと言ってくれるね」
軽快に笑った店主の女性はおもむろに紙袋を手に取ると、そこに店先に並ぶリンゴに似た果物を三つ詰め、聖奈に差し出して来た。
「持ってきな」
「えっ? でもお金」
「いいっていいって。こんな田舎の八百屋で嬉しいこと言ってくれたお嬢ちゃんに、おばちゃんからの気持ちさ。客として来る旅人からはそういう言葉なんて、さっぱりかけてもらえないからねえ」
「そうなんですか? 手塩にかけて育てているでしょうに……勿体無い」
「あっはは! 面白い子だねえ!」
嬉しそうに笑いながら、店主は紙袋を聖奈に押し付けてくる。それをおずおずと受け取ると、
「このリクルの実は遠慮なく持ってきな。そっちの二人もアンタのお友達だろう? 人数分あるから、仲良く分けて食べるんだよ?」
どうやらこのリンゴに似た果物はリクルという名前らしい。それにそっちの二人とは、アリシアとウェインのことだろう。
聖奈だけではなく彼らの分まで詰めてくれるとは。その気遣いが純粋にうれしくて、紙袋を抱える腕にほんの少しだけ力を込めた。
「ありがとうございます。美味しくいただかせてもらいますね」
「ああ。そうしてやってくれたら作ったヤツも喜ぶよ」
「はい。あ、あの。訊きたいんですけど、この村の宿は何処にあるんですか?」
「宿はこの先を真っ直ぐに行ったところにある建物さ。ほら、他の家より大きな建物があるだろう? あれだよ」
店先に出て教えてくれた店主の指差す先には、確かに他の建物より少しだけ大きな建物がある。それを目視で確認して聖奈はもう一度店主に頭を下げると、小走りでアリシアとウェインの元へと戻った。
「えーっと……貰っちゃった」
「見てた見てた。セナちゃんは物怖じしねぇなあ」
「だってほんとに新鮮で美味しそうだったんだもの」
「確かにそうですけど……」
呆れ気味に笑うウェインと、困り顔で微笑むアリシア。
別にとがめるつもりはないようだが、恥ずかしいようないたたまれないようなで聖奈はあはは、と笑っておいた。責められているわけではないけれど、声を出さずにはいられなかったのだ。
「……我の分はないのだな」
と、誰からともなく宿へと歩き出してすぐ、おとなしくしていたルキフェルがそんなことをぼそりと言った。
それはとても些細なことだったがやけに沈んで聞こえて、聖奈はくすりと笑みを零す。
「宿に部屋を取れたら、私のやつ半分わけてあげるから。それで我慢してね」
「セナちゃーん、朝だぞー。起きろー」
「むぅ……」
聖奈はウェインの声で起こされた。
浮上する意識に、閉じていた目を開くと、ぼんやりとした視界には真っ先にアリシアの姿が映る。未だ眠っているらしい彼女の近くで丸くなるルキフェルを見遣ると、彼もまた未だ夢の中。
「うー……」
「こらこら、唸って嫌がるなって。朝だから、良い子は起きる時間だ」
私ももう少し寝てたい、という意思表示を汲み取ったらしいウェインの声が困ったように制して来る。あまりに穏やかな声音なものだから強引にでも寝てしまいたくなったが、そうもいくまい。
聖奈は眠気という最大の誘惑を振り払うように起き上がった。
「おおっ、ちゃんと起きたな。えらいえらい」
「むー……おはよう、ウェイン」
「おはよ、セナちゃん」
眠い目をこすりながら見た先、炭となった薪が積もった焚き火の跡を挟んだ向かい側に、身支度を完璧に済ませたウェインが立っている。
朝に強いのだろうか、それとも彼が大別すると冒険者だからなのかはわからないが、聖奈は伸びをしながらあくびを噛み殺し、
「ウェインは、ちゃんと寝た?」
「おー。セナちゃん寝てからもしばらくは起きてたけどな、ちょっとだけだが寝たぜ」
「ちょっとだけって、大丈夫なの?」
見上げたまま首を傾げると、ウェインは軽快に笑いながら平気平気、と答えた。
「一人旅だろうが違おうが、野宿で熟睡は出来ないからな。その分宿ではしっかり寝てるし、問題はねーよ。それよりも、アリシアちゃんを起こして身支度しな」
顔は近くに川が流れてるからそっちで洗ってこい、というウェインに頷き、聖奈はアリシアの体を優しく揺すりながら声をかけた。
「アリシアちゃん、起きて。朝だよ」
「う……、うー?」
「朝だよ、朝」
小さく唸る彼女に聖奈は微笑む。
今にもまた眠ってしまいそうなアリシアに声をかけながら揺すり続けていると、やがてゆるゆると目を開け、ぼんやりとした目で起き上がった。
聖奈はアリシアに呼びかけながら立たせる。寝ぼけ眼の彼女は言われるがままで、その背を押しながらウェインに教えられた川のある方に足を向けると、背後から騒がしいやりとりが聞こえて来た。
「よいせっと」
「……」
「…………」
「……ん、……んんっ!?」
「お?」
「――ぐっ! ぶはっ!! 小僧、貴様! 寝ている者の口と鼻を塞ぐとは何事だ!?」
「いや、ほんとに息してんのかと思って。ぬいぐるみだし。お前、どんな作りなの? 人形の使い魔ってみんなこんな感じなのか?」
「我が知るはずなかろう! それ以前に反省の色もなしとは……! 小僧、覚悟は良いな?」
「おお? やんのか? これは蜂の巣にする千載一遇のチャンスとみた!」
ああ、朝からこれか。どれだけ仲が悪いんだ、あの二人。
呆れながらも聖奈は振り返ることもせずに、アリシアと共に川へと向かうのだった。
* * *
聖奈とアリシアが顔を洗い、しっかりと目を覚まして戻ってもなお、ウェインとルキフェルの小競り合いは続いていた。
とはいえ当たり前だがウェインは腰と太ももに巻かれたベルトに下げられた銃をホルスターから抜き出した形跡はなく、ルキフェルは魔法を使った様子もなかったものの、しょうもない喧嘩に聖奈は一喝して止めた。
それからまたウェインの先導で途中襲いかかって来た魔物を退けてもらいながら森を進んでいき、日が一番高く昇る昼頃、ようやくそこにたどりついた。
「わぁ……」
森が途切れ、さらに先の開けた場所。
木々に守られるように、建ち並ぶ家々。聖奈の暮らしていたあの世界のコンクリートジャングルとは違う、素朴な造りの建物に目を引く水車。広い畑と、遠目でも柵がめぐる内側には何か動物がいるようにも見える。
「あれがエルリフ。何の変哲もない農村ってやつだな」
感嘆の息を零した聖奈に、ウェインが短く教えてくれた。
農村――都心部に暮らしていた聖奈にとって、それはあまり馴染み無いものだ。
家族旅行は行けど、雑誌やテレビで評判の場所ばかり。自然や畑は見たことはあれど、こんな大自然に囲まれた村を自分の目で見ることはそれほど多くはない。
「セナ様、珍しいのですか?」
と、アリシアが聖奈の顔を覗き込みながら首を傾げる。聖奈は緩やかに首を横に振り、
「珍しいわけじゃなくて……なんていうかこう、嬉しいって感じかな」
「んん? 嬉しいってことは、懐かしい光景ってことか?」
「ううん。むしろ馴染みない方だとは思うけど、だからちょっとはしゃいでるっていうか……とにかく早く行こう! あの村には宿屋があるんでしょう?」
「あるけど……、なんだなんだ? 随分とご機嫌だな」
とても優しい声音を背に、聖奈はルキフェルを抱えるとアリシアに呼びかけて止めていた足を動かした。
別段真新しいわけではない。だがどうしてこうも初めて訪れる場所というものは好奇心をくすぐるのだろうか。
元の世界でもそうだ。理緒共々、新製品には目がなかった聖奈は度々それらを試していた。もちろんその全てが全て当たりだったことなどないが、それでも新しいものにはチャレンジせずにはいられなかった。
そしてそれは日常生活に於いても同じ。聖奈は新しい場所に行くことも好きだ。昇級や入学による新生活もそうだが、そういう時はいつだって不安よりも楽しみの方が勝っていた。
「我にはわからんな。何故そんなにも浮き足立っておるのか」
「い、いいじゃない、べつに! そんなことより、約束通りおとなしくしててね」
腕の中でぼやいたルキフェルに、苦笑混じりに聖奈は告げる。
使い魔というものは魔族や魔女の類いが連れているもので、通常人間は連れ歩いていないそうだ。
もし連れ歩く者がいたら、それは魔族に魂を売ったとされ、知られた時点で人間扱いをされることはない。何故なら人間たちの間では代償を払えば人は魔族になれる、と伝えられているから。
もちろんそんな事実などなく、ルキフェルとアリシアによれば迷信以外の何物でもないとのことだが、人間たちにとって幼児向けの絵本にすら描かれているそれを疑うものはほとんどいない、というのがウェインの弁で、実際に兵士の一人も聖奈を見てそんなことを言っていた。
なんにせよ、必要以上に人間や神族を刺激したくはない聖奈は、ルキフェルに見た目通りのぬいぐるみを演じてもらう事にした。
告げた瞬間ルキフェルは怒りをあらわいはしていたが、彼自身も不要な火種にはなりたくないのかすぐに渋々ながらも納得してくれた。
「わかっている。……非常時だったとはいえ、この体を選んだのは間違いであったか」
「でも私の部屋には、ぬいぐるみくらいしか憑代ってやつになりそうなのがなかった気がするけど」
「ふむ……いや、あの時確かリオという人間がいたであろう? そやつに宿れば……」
「それは絶対に許さない」
ルキフェルの言葉を遮るように聖奈は声を荒らげる。するとルキフェルは目をしばたかせ、眉を顰めた。
「何故だ? リオという人間に宿れば魔力も今より早く溜められ、扱うにも制限などなく、もちろん今のように抱えられて移動することも、」
「魔法を使ったりする姿やこういう世界に来て喜ぶ理緒は見たい。でも、ルキフェルが宿ったらそれは理緒じゃない」
「理解が出来ぬ部分もありはするが、我が宿れば人格は我そのものになるか、溶け合い変わる恐れはあるな」
「ぜっったいに許さない!」
さらりととんでもないことを言うルキフェルに、聖奈は力を込めて言った。
ゲームや漫画が好きな理緒は、こうした世界のことだってきっと好きだろうと思う。少なくとも目を輝かせるであろうくらいには。
だが人格がルキフェルになるのもそうだが、溶け合った結果変化してしまうなど耐えられない。正直なところそんな理緒も見てみたいかもしれないという好奇心はあるが、それはそれ、これはこれだ。
見たいのは聖奈の兄である南雲理緒の喜ぶ姿であって、見た目がそのままだったとしても中身がルキフェルであったり変化してしまった理緒ではないのだ。
「そのリオさんという方のこと、セナ様はとてもお好きなんですね」
微笑みながら言ったアリシアは、尖った耳が見えぬように長い髪で隠した上で外套についたフードを被っている。これもまた、彼女が魔族であることが知られぬようにする為だ。
そんなアリシアの言葉にに、聖奈は迷いも躊躇いもなく深く頷く。
「うん。好きだよ、もちろん」
理緒は大切な双子の兄だ。好きに決まっている。
それに、理緒だけではなく両親のことも好きだ。あんな素敵な家族を嫌うなんてできるはずがない。
「のろけかあ。見知らぬリオってやつにウェインさん嫉妬!」
と、ウェインが唐突にそんなことを言い出した。
理緒は兄なのだから、断じてのろけではない。しかしあちらの世界でも理緒の事を学校で話す度にそんなことを言われていた聖奈にとって、このような言われ方は慣れっこだ。言い返せば言い返すだけ逆効果だと知っている。ゆえに聖奈は、
「……あ、あれ?」
にやにやとした表情で見下ろしてくるウェインを無視した。
途端に困惑する彼をそのままに、ついに目の前までやって来た村を見る。
木で出来た門の近くにはやはり木で作られた看板のようなものがあり、そこには何か文字が書いてあった。
平仮名でもカタカナでも漢字でもなく、ローマ字でもない。見たこともないその文字を聖奈には読めなかったが、おそらくこの村の名前――エルリフと書かれているのだと思う。
文字が読めないのはほんの少しだけ不便だと感じはしたが、会話が問題なく成り立つだけ幸せなのだろう。
門を潜って聖奈は村の中に足を踏み入れる。村人は少なくもなく多くもなく、とても長閑《のどか》。ちらほらと小さな子供は楽しそうに走り回っているが、若者たちや大人たちは皆、畑を耕したり家畜の世話をしていたりと忙しそうだ。
「おや、旅人さんかい?」
村の風景に目を細めていると、不意に声が掛けられた。
振り向くとそこには恰幅の良い女性の姿。彼女の前には色とりどりの瑞々しい野菜が並べられている。
「はい、そうです。八百屋さんですか? どれも新鮮で美味しそう……」
ゆっくりと近寄りながら頷き、聖奈は店先に並ぶ野菜を覗き込んだ。
そこには聖奈がよく知る野菜と似たようなものが並んでいた。値段と共に書かれている文字はわからないが、ざっと見ただけでもニンジンにトマト、ネギ、それにタマネギとリンゴにそっくりなものがそこにはあった。
「ここに並んでるものは全部、この村で作ったものさ。今朝収穫したばかりだから美味しいよ!」
「今朝ですか? じゃあそんなに新鮮な物を此処で買って食べたら、他の大きな街でだなんて食べられなくなっちゃいますね」
「あはは! お嬢ちゃん、嬉しいこと言ってくれるね」
軽快に笑った店主の女性はおもむろに紙袋を手に取ると、そこに店先に並ぶリンゴに似た果物を三つ詰め、聖奈に差し出して来た。
「持ってきな」
「えっ? でもお金」
「いいっていいって。こんな田舎の八百屋で嬉しいこと言ってくれたお嬢ちゃんに、おばちゃんからの気持ちさ。客として来る旅人からはそういう言葉なんて、さっぱりかけてもらえないからねえ」
「そうなんですか? 手塩にかけて育てているでしょうに……勿体無い」
「あっはは! 面白い子だねえ!」
嬉しそうに笑いながら、店主は紙袋を聖奈に押し付けてくる。それをおずおずと受け取ると、
「このリクルの実は遠慮なく持ってきな。そっちの二人もアンタのお友達だろう? 人数分あるから、仲良く分けて食べるんだよ?」
どうやらこのリンゴに似た果物はリクルという名前らしい。それにそっちの二人とは、アリシアとウェインのことだろう。
聖奈だけではなく彼らの分まで詰めてくれるとは。その気遣いが純粋にうれしくて、紙袋を抱える腕にほんの少しだけ力を込めた。
「ありがとうございます。美味しくいただかせてもらいますね」
「ああ。そうしてやってくれたら作ったヤツも喜ぶよ」
「はい。あ、あの。訊きたいんですけど、この村の宿は何処にあるんですか?」
「宿はこの先を真っ直ぐに行ったところにある建物さ。ほら、他の家より大きな建物があるだろう? あれだよ」
店先に出て教えてくれた店主の指差す先には、確かに他の建物より少しだけ大きな建物がある。それを目視で確認して聖奈はもう一度店主に頭を下げると、小走りでアリシアとウェインの元へと戻った。
「えーっと……貰っちゃった」
「見てた見てた。セナちゃんは物怖じしねぇなあ」
「だってほんとに新鮮で美味しそうだったんだもの」
「確かにそうですけど……」
呆れ気味に笑うウェインと、困り顔で微笑むアリシア。
別にとがめるつもりはないようだが、恥ずかしいようないたたまれないようなで聖奈はあはは、と笑っておいた。責められているわけではないけれど、声を出さずにはいられなかったのだ。
「……我の分はないのだな」
と、誰からともなく宿へと歩き出してすぐ、おとなしくしていたルキフェルがそんなことをぼそりと言った。
それはとても些細なことだったがやけに沈んで聞こえて、聖奈はくすりと笑みを零す。
「宿に部屋を取れたら、私のやつ半分わけてあげるから。それで我慢してね」
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