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第1章
14.理由はただそれだけ
しおりを挟む森の中を進んですぐ、聖奈たちは魔物に襲われた。
襲ってきた魔物は狼のような姿をしたハウンドウルフという名らしい。わりとそのまんまの名前であるが、ウルフ種は基本的に肉食。普段は森に棲む動物を食料とするが人間にも襲いかかるほどに獰猛で、ウルフたちに襲われて命を落とす冒険者も少なくないそうだ。
そんなハウンドウルフを倒したのはウェインだった。
鮮やかに仕留めていく姿は感嘆の息が無意識に溢れるほどであったが、そんなことはどうでもいい。いや、どうでもよくもないのだが。
「私、役立たず!」
「うん、そーだな。想像以上だったよ……」
聖奈が思ったことを直球で叫ぶと、ウェインが疲れきった様子で答えた。
ウェインがハウンドウルフ相手に立ち回っている間、聖奈はなにもできなかった。というより、出来るはずもなかった。
抜き出した剣はずっしりと重く、不格好に振るうので精一杯。もちろんそんな剣にウルフが当たってくれるはずもなく、逆に危ないからとウェインに後ろに追いやられたのだ。
魔物が襲って来たのは一度だけではない。ハウンドウルフだけではなく、キラービーという蜂のような魔物に、フォレストバードという中型の鳥の魔物。やはり凶暴というそれら相手でも聖奈は戦うことができなかった。
「もうさ、よくそんなんでエルリフに行こうとしたなあ、と思わずにはいられないくらい弱いな、セナちゃん」
はあ、と深い溜息を吐きながらじとりと半目で見てくるウェインに、聖奈はもう笑うしかない。と同時に、自分の情けなさに泣きたくなった。意地でも泣きはしないが。
「それに……」
ウェインは聖奈から視線を移す。ゆるりと向けられた先にはアリシアとルキフェルの姿があった。途端にアリシアの肩が跳ねたが、彼は何を言うよりも先に盛大な溜息を吐き、
「まさかアリシアちゃんも攻撃魔法が壊滅的だとは……」
「う……」
「まともに戦えるのが俺以外ではぬいぐるみって……ぬいぐるみって……!」
それはもう気落ちしきっているウェインにかける言葉などなかった。もちろんしゅん、と落ち込むアリシアにもかける言葉は見つからない。
何度かの魔物の襲撃でわかったのは彼女自身も口にしてはいたがアリシアが攻撃魔法をほとんど使えないということと、ルキフェルが自在に魔法を操れることだった。
思い返してみれば聖奈がこの世界に来る際に通ったのはルキフェルが生み出した魔法陣だ。そうなのだから他の魔法だって使えてもおかしくないのだろうが、アリシアが攻撃魔法を苦手としているのはウェインでさえ驚いていたくらいだった。
そもそも魔族や神族は魔法の扱いに長けているそうで、ウェインはてっきりアリシアも自在に操れるものだと思っていたらしい。だが実際のところはそんなことはなく、以前言っていた通り、治癒魔法以外はほとんど使えない状態だった。
昨日兵士たちに放った魔法は自在に操れる唯一の攻撃魔法とのことだが、それですら威力はさしたる程ではない。その事実が判明するなり、ウェインはアリシアにも後方待機を命じた。
「小僧。追い討ちをかけるようだがな、我も無尽蔵に魔法を使えるわけではないぞ」
と、ルキフェルは腕を組んでそんなことを言い出した。
それを聞いてすっかり落ち込んでいたウェインがバッと顔を上げ、ルキフェルを見る。
「は? それってどういう……?」
「この憑代は魔力を溜め込むのに適さぬようでな、扱える魔力量は本来の一割にも満たな……」
「いいからさっさと簡潔に言え!」
「ふん、生意気な小僧め。まあよかろう。つまるところ先程のような魔法は日に数発が限度。今日はもう使えんということだ」
「使えるかと思いきやお前も大概役に立たねえじゃねえか!!」
ウェインの切実な叫びが森の中に響き渡った。心の底からの叫びに、当然聖奈は何も言えない。アリシアも言えない。唯一、ルキフェルは不機嫌そうにやかましいと一喝したが、ウェインに届くはずもなかった。
深く長く溜息を吐きながらしゃがみこみ、うつむかせた顔を片手で抱えるウェインに、聖奈は近寄り傍らでしゃがんだ。
「う、ウェイン……?」
「セナちゃん。この旅は無謀だ、危険すぎる……どこにもいけねーって……!」
「え、えっと、それは気合と根性で……」
「どうにかなると?」
「……無理、かな?」
「無理」
即答だった。それに言い返すための言葉はない。
戦うすべを持たない聖奈と、ほとんど戦えないアリシア。おまけに頼みのルキフェルの魔法に回数制限があるとなれば、普通に考えても旅は無理だ。
けれど、だからといって立ち止まるつもりはない。エルリフから先も、聖奈は進むつもりだ。言葉だけの理想にしてしまわないためにも。そこにウェインを巻き込み、あまつさえ現状では頼りっぱなしというのは申し訳ないのだが、彼との旅路は決して長いものにはならないだろうから。
だが未だウェインは顔を上げない。
その姿に罪悪感と、小さな子供を前にしたような感覚と共に不思議なことに双子の兄と似た何かを感じて、聖奈はそっと手を伸ばし彼の頭をそっと撫でた――刹那。
「……っ!!」
「わっ!」
突然弾かれたように顔を上げたウェインに、聖奈は驚き短い声をあげた。真っ直ぐにこちらを見る丸くなった彼の双眸には動揺の色が帯びている。だがすぐにウェインはすまなそうに眉を下げ、
「悪い。頭撫でられたことってなかったから、驚いて……」
「ううん、私もいきなり撫でようとしちゃってごめん」
特別親しい仲でもないのに馴れ馴れしいことをしてしまったのも問題だろう。無意識的な行動とはいえ反省しべきも謝るべきも間違いなく聖奈の方だ。
「なんで謝るんだ? セナちゃんが謝ることじゃないだろ」
そう言いながら立ち上がったウェインはにこやかに微笑んでいて、先程の動揺は見る影もなく消えていた。
過剰とも取れるほどの反応をしていたのに、と僅かに疑問は抱きながらも聖奈もまた立ち上がると、ウェインは空を見上げる。倣うように視線を上げれば木々の合間から覗く空の色が橙に染まり始めていた。
「さて、そろそろ野宿の準備をしますかね。確か少し先に開けた場所があったはずだから、そこで今日は休むとしようぜ」
先導するように歩き出したウェインの背を、聖奈はアリシアとルキフェルと共に追いかけた。
* * *
ウェインの先導で開けた場所に着き、野宿の準備を済ませる頃には森は暗闇に包まれていた。
微かに道を照らすのは、木々の合間から射す月明かりだけ。それ以外に灯りなどなく、多くの生き物たちが眠りに落ちて静けさに包まれ、響くのは風に揺れる木々の葉が鳴らす音と虫のさえずり程度だ。
そんな静寂に包まれ、少し先の道は漆黒という光景を見て、聖奈は小さく呟いた。
「これじゃあ確かに歩けないね」
「だろ?」
パチパチと音を立てながら燃える、焚き火越しの反対側に座るウェインがいたずらっぽく微笑む。森の中で唯一はっきりと影を生み出す灯りである炎に照らされて見える表情は、まるで小さな子供が言った通りだっただろ? と自慢げにしているかのようで、聖奈もつられるように笑みながら頷いた。
と、そこですぐ横で眠るアリシアが毛布代わりにする外套が乱れていることに気付いて、そっとかけ直す。
「あっという間に寝ちゃったね……疲れてたのかな?」
アリシアとその傍らで眠るルキフェルは、夕飯として魔族の女性たちに持たされた保存食の干し肉を食べるとすぐに眠ってしまっていた。そういえば昨日もこんな感じで寝てしまったなあ、と思い出していると、ウェインがいや、と聖奈の導き出した答えをやんわりと否定した。
「どんな種族でも、魔力を使うとこんな感じなんだ。眠るとすぐに回復するもんだからな」
「へえ……」
「セナちゃんってほんとに常識に疎いんだな。まあ、仕方ないのかもしれないけどさ」
これは結構常識、と眉を下げながらウェインが笑う。
アリシアとルキフェルが自己紹介をする中、聖奈もまた事情を話す流れになった。聖奈が〈魔王〉であると知るウェインに隠し立てをする意味もなかったからだ。
聖奈の本心で言えば異世界から召喚されただなんて、伝えたところで頭がおかしいのではないかと思われるのではないかと一抹の不安はあったのだが、ウェインは荒唐無稽にも等しいその話を受け入れ難いと否定することはなかった。
使い手こそ限られはしているが召喚術という魔法が存在することは知っていたし、聖奈の名も言動も容姿もこの世界では見聞きしないようなものだったからだ、と。とはいえ異界の人間が〈魔王〉である事実には驚き困惑はしていたけれど。
「ただ、だからこそわからないんだよな。アンタが魔族の為にこうまでする理由はないだろう? むしろアンタはキレてもいいはずだ」
小さなため息と共に言ったウェインの顔には、やはり理解出来ないといった色が見て取れる。
怒っているとも呆れているとも違う。ただ単純に理解出来ないといった色を見て、聖奈は首を傾げた。
「ウェインは魔族が嫌い?」
尋ねると、途端にウェインは不思議そうな顔になる。
まるで、何故そんなことを聞くのかわからない、とでも言いたげで。それをすぐに消して、彼は眉を寄せた。
「嫌いっていうか……危険な存在ではあるだろ? 人間を容易く殺せるわけだしさ、いいイメージはさすがにない」
「直接何かをされたわけじゃないのに?」
「それでも。昔からそういう話を聞いてたんだから怖いものは怖いさ」
「……実際は、そんなことなんてないのにね」
事実として聖奈とウェインは生きている。あの魔族の住み処に足を踏み入れながらも、生きている。
魔族は人間を手当たり次第殺すような存在ではない。攻撃的に振舞うことはなく理性的で、振る舞いは人間と何一つとして変わりない。人間を容易く殺せるといったって、アリシアのようにそのための手段を持たない魔族だっている。
それなのに、先入観とは恐ろしいものだ。伝え聞く話だけで魔族を嫌っているものがどれだけいるのだろうと思うと、ほんの少しだけ虚しかった。
「……セナちゃんはなんで魔族を救おうと思ったんだ?」
静かに投げかけられた問いは、既に聞かれ、答えていた。
「それは、世界の在り方に……」
「そうじゃない。それはもう聞いたし、アンタが〈魔王〉だからって事もわかってはいる。だがそうじゃなくて、理由だよ。あるんだろ? きっかけってやつ」
言葉を遮り、ウェインはさらに言葉を重ねる。それを受けて何度か瞬きを繰り返し、思案し、答えた。
「泣いてたから」
告げると、ウェインの顔が怪訝そうに歪む。聖奈はふっと微笑んだ。
「泣いてた? 誰が?」
「アリシアちゃんが、泣いていたの。〈勇者〉が来たことで魔族が滅んでしまうと、アリシアちゃんは泣いてた。きっと〈魔王〉を喚びながらも、必死に傷ついた魔族たちを癒しながらも、それすら無駄になってしまうかもしれない不安とずっと戦っていたんだろうね」
「だから、魔族を救いたいと思ったのか……? そんな理由で?」
信じられない、とウェインは目で訴えていた。それもそうだ、と聖奈も思う。
たったひとりの女の子の涙を見て途方もない理想を持ってしまうだなんて、あまりにも無謀すぎることは自分でもわかっている。
決して簡単なことではないこの理想は世界を敵に回すようなことだ。たったひとりの女の子の涙を見て決めるようなことでもない。ましてや聖奈は女で、もし男ならそんなことに憧れるようなこともあるよな、なんて思われるかもしれないが、そんなこともなくて。
けれど、聖奈は馬鹿みたいに突き動かされてしまったのだ。
「バカみたいだなーって、自分でも思うよ。けど、泣き止んで欲しいって思っちゃったから仕方ないよね」
本当は世界を救いたいだなんて、思っていない。だがせめて、アリシアが泣かないようにはしたいとは思うのだ。
聖奈の中にはそれだけしかなくて。それならばただただ傷つくだけの魔族たちも笑ってくれたらいいなあ、なんて思ってしまって。そこに損得なんてなくて、それだけなのだ。
「それで死んだらどうするんだ?」
と、未だ信じられないものを見るかのような視線を寄越すウェインに尋ねられた。
聖奈はほんの少しだけ考える。弱い自分が生き残れる可能性なんて元より高くはないのだから、想像するのも容易だ。
もちろん死にたくはないし死ぬ気もないが、それでも理想を現実にすることも出来ず、家族とも友人とも二度と再会する事も出来ず、アリシアが泣いている。そんな結末を想像するが、悲しいくらいで、怖いと思うくらいで何も思わなかった。
「その時はその時じゃない? 力不足だったってだけだもの」
「魔族に体よく使われてるだけかもしれないんだぜ?」
「それでも、最後に決めたのは私だよ。辛くても苦しくても、その道を行くって決めたのは私。そこに後悔なんてないかな」
「……わっかんねえな。俺にはあんたの気持ちがさっぱりだ」
「あはは、うん。私も理緒がこんなことを言ってた時、ウェインと同じこと思った。正義感の強いお人好しはこれだからーって」
渋い顔をするウェインに笑って見せて、聖奈は小さな寝息を立てながら眠るアリシアを見下ろし、それからウェインを見た。
真っ直ぐに。目をそらすほど聖奈の決意は軽くはない。
「でも、私も理緒とおんなじだった。誰かの涙は、見た人の心を突き動かすには充分なんだよ」
はっきりと告げるとウェインは目を丸くし、ゆるゆると何とも言えない表情を浮かべて、そうか、と小さく呟いた。
それっきり、彼は何も言わなかった。
目の前で燃える焚き火が、パチパチと音を立てて揺れる。木々が揺れて音を奏でる。そんな静けさに包まれた森の中で、聖奈は黙り込んでしまったウェインを見詰め、
「……ふあ、……はふ」
あくびが口からこぼれた。
慌てて噛み殺そうとするが時すでに遅く。聖奈のあくびが耳に届いたらしいウェインはこちらを見て、ぷっと吹き出すように笑った。
「くっ、ははっ!」
「わ、笑わないでよ……!」
「ははは、はー……悪い。そりゃそうだよな、もう夜も遅いしあくびくらいでるよな」
笑いをなんとかこらえようとして失敗するウェインを恨みがましく睨むように見ていると、彼はようやく落ち着きを取り戻して口をひらいた。
「寝ろよ、見張りは俺がしとくから」
「え、でも……」
「いーから。だいたいセナちゃんが起きてたとこで役に立たないだろ」
「そんなはっきりと……!」
「わかったらとっとと寝た寝た! 女の子に夜ふかし厳禁だろ。なんなら寝付くまで添い寝を、」
「寝れるからそれはいらない」
腰を浮かせたウェインをきっぱりと拒否すると、彼はちぇー、と唇を尖らせる。その反応は何だ。まさか本気でやろうと思ってたのか。
呆れながらも聖奈は膝に掛けたままだった外套の裾を手に、鞄を枕に寝転がろうとして、やめた。忘れていたことがある。それと、言いたいこともあったから。
「ウェイン」
「んー?」
「ありがとう」
「おー? おー。どういたしまして。ほれ、早く寝ちまえ。朝に起きられなくなるぞ」
「うん……おやすみ」
言って、今度こそ聖奈は横になった。
鞄に頭を置き、アリシアと向き合うようにして外套に潜り込むと目を閉じる。そこで、ようやく。
「……おやすみ」
と、小さな声が返ってきた。
そのことに小さな嬉しさを感じながら、聖奈の意識はすうっと沈んでいった。
* * *
――静寂。
揺れる炎を隔てて向かい側では、つい先程まで言葉を交わしていた少女が眠っている。そのあまりの寝付きの良さに、ウェインの口からは苦笑がこぼれた。
「無防備なもんだな。少しくらい警戒心を持っていいものだと思うんだが……いや、無理か。少しでも警戒できるなら俺なんかを同行させるわけないしな」
呟いて小さな息を吐いて視線を落とし、ぼんやりと焚き火を見詰める。
「にしても、誰かの涙は見た人の心を突き動かすには充分、ね……やっぱり俺にはわからないな」
誰にともなく紡いだ言葉には、理解不能という感情しか汲み取れない。それでも未だ理解しようと彼は少女を見詰め――やめた。
まるで諦めたように視線を人の気配どころか動物の気配すらない森へと、ウェインたちが進んできた、遺跡へ続く道の方に遣る。目を細める。そうすること十数秒。
「…………」
やがて飽きた様子で炎を見ると、傍らに置かれた薪へと手を伸ばし、その一本を投げ込んだ。
一瞬炎が弱まり、すぐに投げ込まれた薪が炎に包まれる。
パチパチと音を立てて燃える炎を見詰めるウェインの顔には一切の感情の色はなく、アクアマリンの瞳はガラス細工のようにただただ赤く揺れる火を映していた。
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