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序章

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「あの人、こんな質素な場所で暮らしていたのね……」

 晩秋の澄み渡った青空の下。
 王宮に程近い古びたアパートメントの一室の扉を、建物の外で待機している執事から預かってきた合鍵で開けて踏み込む。
 目の前には、少し歩みを進めれば、すぐ壁にぶつかる程の手狭な無機質なダイニング。
 黄色く黄ばんだ壁紙は、無垢だったモノが経年経過で薄汚れた証。
 革製の二人掛けの茶色のソファの座面に無数の白いシミが付着しているのに目が止まる。

(ここに誰かを招いていたのかしら……)

 いかがわしい閨の想像を駆り立てられ、嫌悪感を剥き出しにした表情は、誰も居ない部屋では見られることは無い。
 そんな思考に陥る自分が虚しくて、切なくて、情けなくて……。
 それでも直ぐに気持ちを持ち直して他の部屋にも視線を向ける。
 すぐ隣のベッドルームは、ベッドサイドの小さな鍵付きの引き出し棚の上に、灯りが置かれているだけ。
 部屋の奥にあるクローゼットには騎士団の隊服と数着のシンプルな私服が掛かっているだけ。
 余計なモノは何も無いように思えた。

『私達』の本邸みたいに煌びやかなシャンデリアも華美な装飾も無い。
 殺風景な部屋の全景をぼんやりと眺めると、他人の部屋に思える。
 珍しく本邸に帰宅する時は、挨拶もそこそこに視線も合わせず、サッサと浴室にシャワーを浴びに行くリヒトの後ろ姿を思い出すと、不意に『私達夫婦』を全否定されたかのような空虚感が胸を占有したのを思い出す。

 冷めた瞳で窓を開け、部屋に籠った空気の入れ替えをする。
 色とりどりの落ち葉が舞い落ちる街路樹をしばらく見つめ続けた——。

 この住まいの主人であるリヒトは、先日この世を去った、とされている。
 正確には、遺体は見つかっていないので消息不明のまま。
 隣国との戦争中、隣国の無数の爆弾が総指揮本部に投下された。
 爆撃があった本部の周囲数百メートルは瓦礫の山と化していた。
 無数の飛び散る血痕と、土混じりのドス黒い血溜まりと人間の原型をとどめていない肉片が散らばり無惨な状態であった。
 数十キロに駐留していた他の部隊が駆けつけ、救助にあたった者は蹲り、血肉の焦げる臭気で吐き気を催し、惨憺たる現場だったと、王都に帰還した兵士に聞かされていた。
 結局、形のある遺体は誰一人も見つからず、『本部隊、全員死亡』とみなされた。
 状況が分からず悶々とした日々を過ごしながら、本邸で連絡を待ち始めてから数週間経った頃。所属していた軍上官からの伝書で『戦死』と通達された。
 リヒトは、享年二十五歳の若さだった。

 通達された時、正直肩の荷が降りた気がした。
 同時に、今後の生活を考えると不安のみが、心を侵蝕していった。
 人が、ましてや夫が亡くなったというのに、私は非情だろうか。
 葬儀では、若き未亡人に参列者は声をかけてきた。
「国の宝である見目麗しい英雄を亡くした」
 と、美辞麗句を並べ立てたり。

「若いうちにご主人を亡くされ、さぞお困りでしょう。いつでも助力致しましょう」

 と、上から下まで舐め回すように見てきた初老の貴族もいた。

 皆には、私の本心など分からないでしょうね。
 私は……。
 いつでも、夫から逃げ出したかったのよ。
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