井中の貨

都賀久武

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5 王

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 七家三十三人が李淅が従える国の民だ。とはいっても妻以外に言葉が通じず、何も命じることなどない。住んでいる「宮殿」はやや大きな小屋でしかない。李淅はその宮殿と、殺した王が佩いていた宝剣を受け継いだ。
 ただ動かない左足を引きずり片手で毎夜炎を焚いて祈りをささげる。それだけの日々が過ぎた。
 あの女、李淅が殺した王の妻はそのまま李淅の妻に収まった。王の妻とはそういう事らしい。もしも李淅が死ねば、周順の神の命じるままに次の王に嫁すのだろう。名をセリと言った。これも、文字はない。
 (どうもよくわからない)
 女が、である。セリは李淅に対してはほどんど口をきかない。セリは李淅を憎んでいる。前の夫を殺したことを強く恨んでいる。それはわかる。当然であろう。であればなぜ妻として李淅に仕え、何の意味もない陽乞いの儀式を助けるのか。
 (わからない)
 わからないながら李淅は妻を抱いた。セリは拒まない。これも神が定めた妻の務めだからだろう。
 やがて妻は子を産んだ。


 何度目かの春が来ていた。外では梅が咲いているだろう。
 李淅は毎日朝を乞い、自分が呼んだ朝が来ると周順の屋敷を、国を、杖をついて一回り歩いた。出会った色目人の民は深く頭を下げて王を見送る。
 畑があり田があった。中心の湖では魚が泳いでいる。鶏を飼っていた。桑や麻も育て、女どもは布も織る。森に鳥が来ると、矢で落とす。
 ところどころに栗や桃の木が植えてあり、視界を遮ることで実際よりもずっと広く感じる。民どもは晴れた朝は小屋の外に西方風の卓をならべ家族で貧しい食事をとる。どういう訳か幸せそうにも見えた。
 (なるほど国だ。良く作ってある)
 敬服するべきではないか。周順の狂気はこれだけの人間を本当に飼っている。
 李淅の足元を通って子供が走り回る。外を知らぬ両親から生まれたこの国の子は、この塀の中だけを世界として育つ。
 子供が王である李淅に、落ちていた枝を差し出す。陽を呼ぶ儀式に使ってくれ、ということだろう。
 「良い枝だな」
 通じない言葉で李淅は一応言ってやる。

 枝を互い違いに組んで七段重ね祭壇をつくる。乾いた枝であれば外の時で言えば六刻程度は燃え続ける。李淅が殺した前王がしていたように、夜ごとの儀式である。片手では木を組みにくく、助けるのは妻だ。
 「乞おうが拒もうが超然と昇るが陽というものではないか」
 そう李淅が問うともなく口にしてみる。
 「なぜ、違うと言えますか。生まれる前からずっと、ここで王が陽を乞うてきた。王が祈らず陽が昇った朝はない」
 妻が、久しぶりに口をきいた。李淅はそれ以上何も言わず、会話はそこで終わる。
 四角く組んだ木を燃やし、異国の祝詞を唱えて周順に朝を乞う。李淅がこれを行うがために民どもは安心して寝ていられるのだ。
 この国の民どもは一度も王が陽を乞わなかった朝を見たことがない。ただ王である李淅だけがこの儀式の無意味を知っている。

 何とか外に出れまいか。動かなくなった脚と手を空しくなでながらそう思う。外に置いてきた黄金を考える。
 (誰かに取られていまいか)
 決して李淅は己の罪業を顧みようとはしなかった。この世に生まれて誰よりも富貴たらんと欲し何が悪いのか。やり方が拙かっただけだ。いや、今から外にさえ出れれば。
 外に財貨を所有していることだけが李淅の心を慰め、また騒がせる。河が大岩を削るように、少しづつ李淅の心は穿たれていく。
 幾度も季節は廻った。李淅は毎日国を回りながら、相変わらず国の民とはなじまない。言葉も覚えようとはしなかった。民は王に敬意を払っているが、決して近づかず李淅が陽を乞うている限りは崇めていた。
 自分でも不思議ながら死にもせず逃げようともあがかず李淅は営々と毎晩意味もなく陽を乞うているのも、あるいは周順の大狂への敬服のためか。
 幾度も季節が巡る。子が育ってくると李淅は学を与えた。
 一巻の書物とて持ちこめたわけではないが、妻を経由で命じ持って来させた木の板に炭で古聖の言葉を連ねていく。当然のことだが李淅は四書五経は全て諳んじている。
 胡幽コユウと名付けた子は、母譲りの亜麻色の髪を持つ少年に育った。シッシャの李胡幽。父からは身の軽さを受け継いだようで、時折外の木をするすると昇って行く。
 いつかは胡幽はここから抜け出せるのではないか。そう思った。それを喜ぶべきかどうか李淅にはわからない。そもそも全てにおいてこの屋敷に忍び込んだ時から夢の中にいるようで、胡幽にもまたどう思うべきか決めかねる。
 屋敷に忍び込んだあの夜から、あるいはいっそ都に来て盗となり果てたところから夢なのではないか。

 胡幽は孤独にすごしているようだった。王の子として他の民からは遠ざけられ、ひとりで過ごすことが多かった。十の時に母が病で死んでからは母の代わりに儀式を助け、父の言葉を民に伝えて過ごしている。
 胡幽の父の語る言葉は民とは違う。王だからだというと胡幽は素直に信じたようだ。
 李淅の教育は奇妙だった。太古の聖人の言葉を伝えた後、「こんなものは嘘だ」と結ぶのである。筋道を立てて作った大嘘だ。他人を従わせるために千年かけて作った嘘だ。こんなものに俺は従わない。唯天地に己のみがあるのだ。そう李淅は言う。
 「ではなぜ嘘を教えるのですか」
 古幽は父に問う。かつて進士となり国を動かす士大夫たらんと志した李淅はその気になれば百言を用いて論じることもできたろうが、ただ「よく出来た嘘は真実に似る」とだけ答えた。
 むしろ胡幽は素直に「中庸」や「儀礼」の言葉を学んだようだ。胡幽が言う、親を敬い義を守るのは当然のことではないか――

 ある日李淅が棗を噛んでいると、胡幽が飛び込んでくる。
 「外に都が見えます!」
 聞けば、大きく伸びた桃の木のてっぺんに上ると、わずかに視線が国を囲む塀よりも高くなったのだと言う。細い枝の先から見たというから、あと数年胡幽が育てばもう登れなくなるだろう。
 「都か」
 李淅も外を思う。とうに李淅は死んだことになっているだろう。都の一隅でこうして生きているなど師も他の弟子たちも知るまい。李淅は外ではここに忍び込んだ夜死んだのと同然だ。その後のすべては誰にも知られずに消えていくのだ。
 そんなことを言えばこの国もそうだ。周順が死ねばどうなるか。宦官の周順に当然実子はないが、一族の誰かが屋敷を受け継ぐはずだ。知れば、きっとこの国は葬られるだろう。
 初めて李淅は胡幽に何事かを思った。哀れな。こんな国に生まれたばかりに、生きたことさえ誰にも知られずに消えようとは。
 またすぐに自分の遺してきた井中の財貨を思う。まだあそこは無事か。誰かに見つかっていないだろうか。それを思うと物狂おしい気さえしてくる。先に何の当てもないが、それでも李淅は金銀を思う。中に積み上げた宝一つ一つが思い出され、どれも涙がにじむほどに惜しい。これが俺の性だ、と李淅ははっきりと悟る。使うあてもない金銀を井の中に蓄え、それを思うのが俺の性なのだ。後悔も恨みもなく、ただただ外が、都が、井戸と宝が懐かしい。
 その日は四書五経を離れ、述異記から爛柯の斧を語る。王質という木こりの話だ。ある日山の中で童子が二人碁を打っているのを見かける。引き込まれてみているが、やがて童子にもう帰るよう促され見てみると斧の柯が爛り果てていた。はたして里に戻ると数十年が経っていて王質のことを知る者はない。そういう話だ。
 「よくわかりました。外の都など仙人の里のようなものだという訳ですね」
 胡幽はそう答え、父はだまって首を振る。

 胡幽が十四になった時、二人で周順の屋敷に行った。成人を控えた男子は神に会う。数日前から「太子」が神に拝するため国を挙げて大騒ぎした挙句神に謙譲する雉の肉や桃を持って二人は屋敷で神を待って早朝から半日うずくまっている。
 屋敷の庭、シッシャの国に面した部屋で窓は開け放たれている。雪こそ降っていないが、その分底冷えがもはや老齢に入った李淅をさいなむ。吐く息が白い。
 周順は毎日本物の宮城で好きなものを食しているだろう。こんな貢物を献じてどうするのだ。そう思いながら固い体を動かし寒さに耐える。
 夕刻に近いころ、ようやく周順が入ってきた。そっと見返ると胡幽は恐懼のあまり顔色が蒼白となっている。
 何が神か。ただの狂人であろうが。
 周順は色目人の言葉で何か胡幽に一言二言声をかけている。うわずって答える胡幽の声。ほんのそれだけで儀式が終わり胡幽は追い出される。半日寒風に人をさらして待たせ、一言かけて追い返す。なるほどこれが神威という事であろう。
 「お前はここにいろ。久々に王が来たのだ。歓待せねばなるまい」
 周順はそういって李淅をいつぞ対面した部屋に連れて行く。小さな部屋で火が焚かれ暖かい。
 二十年ぶりに見る周順は痩せて顔色が黒ずんでいる。二十年前すでに老境に入っていたが、今は七十はゆうに超えているはずだ。周順は椅子に座りこむと、しばらく押し黙った。止まっているのではないかと思うほどゆっくりと息をしている。老人の息の糞に似た臭いが部屋に漂う。
 「国が、傾いている」
 やがて周順はそういった。李淅には何の話かわからない。
 「お前の国ではない。槐が、傾いている」
 武英も老いた。若い頃はそれなりに見どころもあったが今は食って寝ること以外に興味を持たない。武英の子が政を摂っているがいかにもまずい。特に将軍たちに人気がなく地方では大乱の気配がある。
 別の国の話を聞くようにして李淅は周順が語るを聞いた。自分は今も槐人であるのか、李淅には心もとない。
 「こんな話は外ではできぬ」と周順は言う。話せるのは李淅くらいだと言う事だろう。自分を槐から締め出しておいた当人が何を言うか。
 「お前も、老いたな」
 ふと周順が疲れ果てたようにそう口にした。
 「もう二十年、ここにいる。老いて当然だろう」
 「儂を恨んでいるのか。それは道理が通らぬ。お前は百度刑死してもおかしくないほどの罪人だ。ここで生きているだけでも感謝するべきだ」
 倦んだように言う周順。
 「心はそうは思わぬ」
 「お前の心は外に出たがっているのか。ここはお前の国だ。王と崇められて生きるのに何の不足がある」
 「ここは、ただの庭だ」
 「二十年住んでなおそう思えるのか。大したものだ。出て、どうする。まさか学生に戻りたいか。そんな白髪頭で外に出ても仕方あるまい。待っているものも誰もいない」
 「俺の黄金がある」
 ほう、と周順の顔にかすかな興味が浮かぶ。
 「盗んで溜めた財か。どこぞに隠したか」
 「そうだ」
 「愚かな。とうに誰かに見つけられ、奪われていよう」
 「そんなはずはない。そんなことはあってはならない」
 何事か面白く思ったのか、周順の瞳に光が宿った。
 「どこに隠した。言え」
 「誰が言うか。あれは俺のものだ」
 「黄金など、儂は飽くほど持っている。だが、面白い。お前の黄金を差し出せばここから出してやる、と言えばどうする」
 「断る」
 即答していた。
 「二度と見れない金に何の意味がある」
 「たとえ二度と見れなくても、俺の財であることにかわりはない。であれば俺は豊かなのだ」
 答えの意味を考えるように、周順はぶつぶつと口の中で李淅の言葉を転がしてみている。やがてふっと笑みが浮かぶ。
 「お前の狂人ぶりが変わっていなくて安んじたわ。お前の神はその黄金か。いや、面白い」
 くふくふ、と周順が笑う。また口から腐った臓物の臭いが漏れる。この老人はまもなく死ぬだろう、と李淅は確信を持った。
 「久々に笑わせてもらった。では一生お前はここにいろ」
 話は終わりだ、と周順が手を振る。立ち上がりながら李淅は「お前が死んだら、どうするのだ」と言ってやる。
 「神は死なぬ」
 本気か、と周順を覗き込む。あっさりと周順は首を横に振る。
 「……まあ、死ぬわな。それは避けられん。生まれ出でたばかりに労多く生きやがて病んで苦しんで死んでいく。まったく下らぬものよ。
 だが、案ずるな。儂に甥がいる。甥に屋敷と共に神を譲る。お前は新しい神に陽を乞えばよい」
 耄碌しているな。李淅は周順を憐れむ。誰がこんな屋敷を継ぎたいものか。こんな大逆そのもののような屋敷など継いだらたまったものではあるまい。
 すぐにこの国は全て消されることだろう。
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