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1 梅の都
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槐の国の都では殊更梅が好まれる。どの屋敷も庭には梅を生やし、庭を持てない庶民さえどこからか採ってきた梅の枝を壺に生ける。二月にもなると大通りさえ梅の香にあふれ、酒屋などは日暮れ後には軒先に卓を並べて梅の香を肴に客を飲ませる。名物と言っていい。
男が酒を飲んでいた。酷く痩せた書生風の男で、どこか鳥に似た風貌をしていた。身なりは悪くなく、書物を入れるやや小ぶりの行李を足元に置いている。店主が見るに年の頃は二十は大分過ぎているように見えた。
黍で作った酒は西方の砂でも溶かしたように黄みがかっている。槐の杜氏は腕がよく、酒は弱くない。酒屋では客は甕から升で量り売りを買い、瓶子に入れて持って帰るか店先で飲むかする。両隣が炙り物や蒸し物を売っているのでそれを買って食ってもいいが、男は物は食わずひたすら酒だけを飲み続けていた。
(ずいぶん飲む)
店主が覚えているだけで四、五杯は売っている。そのたび銭で払っているので店主に悪く思う気はない。酒豪の書生がいたとして何の不都合もない。
「角粽でもお出ししましょうか」
気を利かせたつもりで店主が進めるが、男はにべもない。
「いらん。米を食うと体が重くなる」
(屋根普請の職人でもあるまいに、妙なことを言うやつだ)
断られて店主はわずかに鼻白む。書生と言えども文士には違いなく、常に閑々たる態度をとるべき文士が体の軽重を気にするとはどういうことか。変わり者の類であろう。
槐では一日は百八刻と定められている。男は三刻ほど黙々と杯を口に運び、店を出た。出際に「お気をつけて」と声をかけると、頬に奇妙な笑いを浮かべて出て行った。
明夜であった。
大きな月が都を照らし、足を運ぶのに何の不足もない。月の色はとろりと黄色く、どこか飲んでいた酒の色に似ていた。
仕事の前には酒を飲む。飲んだからには働かなくてはならない。
男はしっかりした足取りで通りを南に進む。このあたり、崑崙路は富裕な商人の豪壮な家が並び、ひときわ梅の香が濃い。物狂わしい初春の宵闇の中を都の人々はさんざめきながら影絵のように行き過ぎていく。しばらく歩き、男は道を折れる。奢侈ながらも小ぶりの家が並ぶ通りに入ると人通りはめっきり少なくなる。二度ほど左右と道を折れ、ついにどん詰まりの家の前に立った。
(ここだったな)
家としてはさほど大きくはないが、当世流行の豪農宅を模した様式で、塀は黄泥で分厚く塗られ高さも人の背よりも十分に高い。
富裕な塩商人の妾宅である。商人と女に数人の使用人が雑踏を離れ贅沢に暮らしている。今夜、ここを仕事と決めていた。
男は名を李淅と言った。書生であり、より濃厚に盗賊であった。
行李から巻いた紙を取り出す。紙は剣を隠している。肘から先程度の長さで、全体に細く、鮫肌に似た灰色の文様が刀身を覆っている。軽く、異様に硬い。
剣を帯に差すと李淅はとっとっと二度ほどその場で跳ね、三度目で大きく跳んだ。背丈よりも優に三尺は高い壁に楽々と手がかかる。手をかけたまま、脚で壁を蹴り李淅は壁の向こうに体を跳ね上げる。次の呼吸をする時には庭の茂みに身を転がせた。地に落ちる時背中からするりと身を転がせたため怪我もせず、ほとんど音もしない。わずかな痛みは酒の酔いで消す。
異様なほどの身の軽さであった。そのまましばらく庭にうずくまり、騒ぎ出すものがいないか様子をうかがう。
ここも梅が咲いていた。夜の中にぼうっと白っぽい闇のようにして浮いている。煌々とした月をさえぎり、下から見上げる分には雲に似ていた。
明るい月を見ていると不思議に李淅には穏やかな気持ちが湧いてくる。この世に俺と月しかあるいは存在しないでのはあるまいか――
誰も騒がないとみると李淅はおもむろに立ち上がり、母屋を目指す。敢えてややいびつな形に仕上げられた窓の戸板を外し、巣穴に帰る蛇のように中に身を潜らせる。音も立てず重さも感じさせず、誰か見ている者がいれば影法師とでも見誤っただろう。
室内は板張りの壁にに書画を飾っている。あくまで豪農の隠宅風というわけだ。
いびきが聞こえた。太った男が女と寝ている。妾宅の主だ。下見で家の周りをうろついた時に二度ほど顔を見たことがあるが、羊に似た臆病そうな顔をしていた。親から継いだ商家を切り回して繁盛させているのだから実際にはそれなりの才覚も胆力もある男なのだろう。最近しきりに詩人や画家を支援していると聞く。
無造作に寝具の上から剣を突き立てる。胸から背を貫き寝台を削って止まった。いびきがやみ、こもったような息が漏れる。剣を通して商人の身体が唐突に押し寄せてくる死に抗うようにのたうっているのが伝わってくる。――それもすぐに止む。
女が起きだす。まだ何があったかわかっていない。「老公?」と呼びかける。隣の愛人がすでに世に無いことに気づいていない。
李淅はこれも刺して殺した。
寝室の中にはめぼしいものはない。床に落ちていた服から布の銭入れだけは懐に入れて宅内の通廊に進んでいく。
隣の部屋で寝ていた使用人も殺した。李淅は盗むとき、住人は殺すようにしている。必要がなくても殺さねば気が済まない。何故かは、李淅自身にもわからない。
全員寝具の上から刺したので、血を浴びていない。仕事が順調に進んでいるあかしだと考える。
大きな卓がある部屋で、財貨を見つけた。酒器を並べる棚の奥、壁の中に掘り込む形で隠しが作ってあった。
手で握る程度の大きさの仏像だった。窓から入る月光を黄金色に染めて返している。
商人は信徒か。李淅はあざけるように口をゆがめる。であれば、極楽にでも行ったのであろう。送ってやった俺は恩人という訳だ。
行李に仏像を放り込む。この盗にとってはただの奇妙な天竺人の型をした金塊でしかない。他に棚にあった金銀の細工や銀餅を放り込んでいく。銀の酒杯が仏像の顔にあたり、仏陀の顔がゆがむ。含む金が大なので柔らかいのだと李淅は満足した。
最後に翡翠の香炉をどうしようかと考える。行李の中に放り込んでは壊れるかもしれないが、懐に入れるにはいささか重そうだ。
ふと、李淅は卓の向こう、部屋の入口に年の七、八ばかりの女児がいるのに気がついた。
「あなた、誰?」
不思議そうに子供は問いかける。子がいたのか、と李淅は下見不足を内省する。調べが足りなかった。今後は気をつけねば、不測の事を起こしかねない。
「俺は盗だ」
ぼそりと李淅は子供に答えてやる。
「盗みは悪いことだよ」
子供はまだ父母が惨殺された事を知らない。無邪気な様子で言うのは、あるいは夢の続きだと思っているのかもしれなかった。
「事の善悪は外では法が決める。今夜この場では、俺の剣が法だ」
李淅はそういうが、子供に通じた様子はない。通じるとも思っていない。
「お父さんにいいつけてやる」
駆け出しそうな子供に、いっそ優しいくらい平明な調で「お前の親は俺が殺した」 と教えてやる。
「嘘」
「嘘ではない。先刻、父母ともに俺が殺した」
このくらいの子供は大人の嘘を見抜く。逆に真実を言えば意外なほどに素直に信じ込む。本当に明るい夜で、子供の瞳がすうっと絶望に満たされていくのがよく見えた。
卓を一歩で飛び越え、剣を一閃する。手もなく倒れた子供の喉から血があふれ出た。手や袖にしぶいた返り血を李淅は渋い顔で拭った。外を歩く前に血の始末をしなければならない……
男が酒を飲んでいた。酷く痩せた書生風の男で、どこか鳥に似た風貌をしていた。身なりは悪くなく、書物を入れるやや小ぶりの行李を足元に置いている。店主が見るに年の頃は二十は大分過ぎているように見えた。
黍で作った酒は西方の砂でも溶かしたように黄みがかっている。槐の杜氏は腕がよく、酒は弱くない。酒屋では客は甕から升で量り売りを買い、瓶子に入れて持って帰るか店先で飲むかする。両隣が炙り物や蒸し物を売っているのでそれを買って食ってもいいが、男は物は食わずひたすら酒だけを飲み続けていた。
(ずいぶん飲む)
店主が覚えているだけで四、五杯は売っている。そのたび銭で払っているので店主に悪く思う気はない。酒豪の書生がいたとして何の不都合もない。
「角粽でもお出ししましょうか」
気を利かせたつもりで店主が進めるが、男はにべもない。
「いらん。米を食うと体が重くなる」
(屋根普請の職人でもあるまいに、妙なことを言うやつだ)
断られて店主はわずかに鼻白む。書生と言えども文士には違いなく、常に閑々たる態度をとるべき文士が体の軽重を気にするとはどういうことか。変わり者の類であろう。
槐では一日は百八刻と定められている。男は三刻ほど黙々と杯を口に運び、店を出た。出際に「お気をつけて」と声をかけると、頬に奇妙な笑いを浮かべて出て行った。
明夜であった。
大きな月が都を照らし、足を運ぶのに何の不足もない。月の色はとろりと黄色く、どこか飲んでいた酒の色に似ていた。
仕事の前には酒を飲む。飲んだからには働かなくてはならない。
男はしっかりした足取りで通りを南に進む。このあたり、崑崙路は富裕な商人の豪壮な家が並び、ひときわ梅の香が濃い。物狂わしい初春の宵闇の中を都の人々はさんざめきながら影絵のように行き過ぎていく。しばらく歩き、男は道を折れる。奢侈ながらも小ぶりの家が並ぶ通りに入ると人通りはめっきり少なくなる。二度ほど左右と道を折れ、ついにどん詰まりの家の前に立った。
(ここだったな)
家としてはさほど大きくはないが、当世流行の豪農宅を模した様式で、塀は黄泥で分厚く塗られ高さも人の背よりも十分に高い。
富裕な塩商人の妾宅である。商人と女に数人の使用人が雑踏を離れ贅沢に暮らしている。今夜、ここを仕事と決めていた。
男は名を李淅と言った。書生であり、より濃厚に盗賊であった。
行李から巻いた紙を取り出す。紙は剣を隠している。肘から先程度の長さで、全体に細く、鮫肌に似た灰色の文様が刀身を覆っている。軽く、異様に硬い。
剣を帯に差すと李淅はとっとっと二度ほどその場で跳ね、三度目で大きく跳んだ。背丈よりも優に三尺は高い壁に楽々と手がかかる。手をかけたまま、脚で壁を蹴り李淅は壁の向こうに体を跳ね上げる。次の呼吸をする時には庭の茂みに身を転がせた。地に落ちる時背中からするりと身を転がせたため怪我もせず、ほとんど音もしない。わずかな痛みは酒の酔いで消す。
異様なほどの身の軽さであった。そのまましばらく庭にうずくまり、騒ぎ出すものがいないか様子をうかがう。
ここも梅が咲いていた。夜の中にぼうっと白っぽい闇のようにして浮いている。煌々とした月をさえぎり、下から見上げる分には雲に似ていた。
明るい月を見ていると不思議に李淅には穏やかな気持ちが湧いてくる。この世に俺と月しかあるいは存在しないでのはあるまいか――
誰も騒がないとみると李淅はおもむろに立ち上がり、母屋を目指す。敢えてややいびつな形に仕上げられた窓の戸板を外し、巣穴に帰る蛇のように中に身を潜らせる。音も立てず重さも感じさせず、誰か見ている者がいれば影法師とでも見誤っただろう。
室内は板張りの壁にに書画を飾っている。あくまで豪農の隠宅風というわけだ。
いびきが聞こえた。太った男が女と寝ている。妾宅の主だ。下見で家の周りをうろついた時に二度ほど顔を見たことがあるが、羊に似た臆病そうな顔をしていた。親から継いだ商家を切り回して繁盛させているのだから実際にはそれなりの才覚も胆力もある男なのだろう。最近しきりに詩人や画家を支援していると聞く。
無造作に寝具の上から剣を突き立てる。胸から背を貫き寝台を削って止まった。いびきがやみ、こもったような息が漏れる。剣を通して商人の身体が唐突に押し寄せてくる死に抗うようにのたうっているのが伝わってくる。――それもすぐに止む。
女が起きだす。まだ何があったかわかっていない。「老公?」と呼びかける。隣の愛人がすでに世に無いことに気づいていない。
李淅はこれも刺して殺した。
寝室の中にはめぼしいものはない。床に落ちていた服から布の銭入れだけは懐に入れて宅内の通廊に進んでいく。
隣の部屋で寝ていた使用人も殺した。李淅は盗むとき、住人は殺すようにしている。必要がなくても殺さねば気が済まない。何故かは、李淅自身にもわからない。
全員寝具の上から刺したので、血を浴びていない。仕事が順調に進んでいるあかしだと考える。
大きな卓がある部屋で、財貨を見つけた。酒器を並べる棚の奥、壁の中に掘り込む形で隠しが作ってあった。
手で握る程度の大きさの仏像だった。窓から入る月光を黄金色に染めて返している。
商人は信徒か。李淅はあざけるように口をゆがめる。であれば、極楽にでも行ったのであろう。送ってやった俺は恩人という訳だ。
行李に仏像を放り込む。この盗にとってはただの奇妙な天竺人の型をした金塊でしかない。他に棚にあった金銀の細工や銀餅を放り込んでいく。銀の酒杯が仏像の顔にあたり、仏陀の顔がゆがむ。含む金が大なので柔らかいのだと李淅は満足した。
最後に翡翠の香炉をどうしようかと考える。行李の中に放り込んでは壊れるかもしれないが、懐に入れるにはいささか重そうだ。
ふと、李淅は卓の向こう、部屋の入口に年の七、八ばかりの女児がいるのに気がついた。
「あなた、誰?」
不思議そうに子供は問いかける。子がいたのか、と李淅は下見不足を内省する。調べが足りなかった。今後は気をつけねば、不測の事を起こしかねない。
「俺は盗だ」
ぼそりと李淅は子供に答えてやる。
「盗みは悪いことだよ」
子供はまだ父母が惨殺された事を知らない。無邪気な様子で言うのは、あるいは夢の続きだと思っているのかもしれなかった。
「事の善悪は外では法が決める。今夜この場では、俺の剣が法だ」
李淅はそういうが、子供に通じた様子はない。通じるとも思っていない。
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駆け出しそうな子供に、いっそ優しいくらい平明な調で「お前の親は俺が殺した」 と教えてやる。
「嘘」
「嘘ではない。先刻、父母ともに俺が殺した」
このくらいの子供は大人の嘘を見抜く。逆に真実を言えば意外なほどに素直に信じ込む。本当に明るい夜で、子供の瞳がすうっと絶望に満たされていくのがよく見えた。
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