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 平常心、平常心と心の中で唱えてから襖をあけた。
 畳張りの部屋の奥、その窓際に丸テーブルと一対の椅子がある。
 隼人は行灯型の照明で薄暗い広縁の、籐編みの椅子に腰掛けていた。
 手持ち無沙汰だったのかガラスのテーブルには日本酒と猪口があった。ちびちびやっていたのだろう。まだやむ気配のない外の雨を見つめる目はアルコールのせいか少し潤んで艶っぽい。ぞんざいに腰掛けたせいなのか、浴衣の胸元は大きく開いて、スーツの時にはおよそ見ることのかなわない胸元までがさらけ出されている。
 まじまじと見ている自分に気がついて麻由は慌てて視線をそらした。
 あのあと、レストランで食事を終えてからも雨脚は強まるばかりで、高速道路も通行止めになってしまった。
 このまま帰るのは危険だと思い、一泊していくことを決めた。そこまでは良かったのだが、考えることは皆同じなのか、レストランが入っていたホテルは満室になり、近くにあった空閑グループの系列である宿をとったのだった。
 麻由にとってははじめて使う宿だ。グレードが高く、普段ならとても泊まることなんてできない。
 癒やしを求める客に静かで高級感の溢れる作りが受けているのか、たまたまキャンセルで空いたというこの一室しか部屋を取ることができなかったが。
「温泉どうだった」
「い、いい湯でした」
 隼人のいる広縁にはいかず、なんとなく部屋のテレビの前の座椅子に腰を下ろす。
「君も飲むか」
 隼人が猪口を少しだけかかげて見せてくる。その胸元はやっぱりはだけていた。
(酔っちゃえば恥ずかしくないかも)
「いただきます」
 隼人が麻由の隣に移動すると、シャンプーの香りが漂って、心臓が高鳴った。
 日本酒を注ごうとしていた隼人は、「あ」と徳利をかしげたまま制止する。
「君にアルコールを与えちゃいけないんだった」
「な、なんですかそれ! まるで人の酒癖が悪いみたい、な……」
 とても酒癖がいいとは言えない出会い方をしたのだと思い至って、言葉尻は小さくしぼんでいった。
「襲われちゃあかなわないからな」
「お、襲いませんよ。あのときだって別に襲ったわけじゃ……」
「悪い悪い、襲ったのは俺だな。誘ったのが君だ」
「も、もう言わないで……」
 あのときの自分はどうかしていたとしか思えない。
「今度誘われるならしらふの時がいい」
「なに言ってるんですか……」
 またそんな冗談を。わかっているのに心臓はさらにうるさくはねる。
「隼人さんはずるい。いつも余裕たっぷりで、私ばっかり振り回されてばかりでーーんっ」
 不意に抱きしめられて、首筋に顔を埋められた。
「余裕なんてあるわけないだろう」
「はや――」
「甘い香りをさせる君を前にして、平常心でいられるわけがない」
 隼人の声はいつものように余裕たっぷりの鷹揚なものではなく、切羽詰まったように掠れていた。
「本当なら今すぐにでも俺のものにしてしまいたい」
 首筋にちりっと熱い痛みを感じた。そこに残っているであろう赤い痕を想像して、心臓がきゅっと切なく疼く。
 背に回された隼人の腕の力がゆるむ。
 自分を包み込んでいた体温が離れていこうとしているのを感じて、麻由は自分からきつく抱きしめ返した。
「いや……」
「麻由?」
 離れて欲しくない。このままずっと触れていたい。
 そう思ったら勝手に体が動いていた。
 最初はあんなに嫌いだと思っていたのに、いつの間にか認められたい人に、尊敬できる人になっていた。そして、いつの間にかその気持ちは愛おしさに変わっていた。
「隼人さんのものにしてください」
「今度は酒に酔った勢いじゃ通らないぞ」
「私、隼人さんが好き。好きなんです……」
 ふわっと体が浮いたと思ったら、隣の部屋に敷いてあった布団に横たえられる。
 隼人が覆い被さってくると、すぐに口づけを与えられた。
 触れるだけの優しいキスから、ぬくもりが伝わってくる。
「ずっと、その言葉を待ってた」
「待たせてごめんなさい。きっと、意地になってて」
 初めてつながったあの夜、隼人に恋をした。それは崩れ去ったと思っていたけれど、違っていた。
 自分はずっとこの人のことが好きだった。つまらない誤解で、認めるのが怖かっただけで。
 だって隼人はずっと優しかった。自分を見守ってくれていた。
 隼人は愛おしげに目を細めると、再び口づけを落とす。
 今度は深く、もっと麻由を感じたいとばかりに。
 麻由もそれに答えるように、必死で舌を絡めた。
 とろけるようなキスに気を取られていると、腰元が軽くなったことにはっとする。
 見れば、浴衣の帯が抜き取られていた。
「待って」
「待たない」
 隼人は性急な手つきで麻由の浴衣をはだけさせる。
 揃いの下着があらわになって、麻由は手で胸元を押さえた。
「で、電気を消してください」
「どうしてだ」
「恥ずかしいんですっ」
 初めての夜にも電気はついていた。あの夜にはバッチリ見られているが、酔っていた時としらふの今とでは恥ずかしさが全然違うのだ。
「なんだ、そんなことか」
 隼人は電気をそのままに麻由の手をどけようと力を込める。
「む、胸あんまり大きくないから……」
 麻由は観念して密かなコンプレックスを白状した。

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