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 目の前から迫ってきた何かに対し、ほぼ反射的に後ろへ跳んで回避した。同時にその原因を確かめようと注視するが、目前には長い廊下があるだけで何も見当たらない。

(……え?)

 確かに誰かの気配を感じ、さらには攻撃を放ってくる意思も伝わってきた。つまり偶然でも見間違いでもなく、確実にそこには何者かがいて攻撃を繰り出してきたはず。それがまるで煙のように消えている。

「一体どういう……っ!?」

 困惑の声を上げた直後、ポンと肩を叩かれた。これまた即座に反応し、その場から逃げようとするが身体がビクともしない。

「カッカッカ、良い反応じゃぜ」
「え……ええ!?」

 顔だけ振り向いて確かめてみると、そこには愉快そうに笑う老翁の姿があった。

(この人って羽竹の当主……だよな?)

 食事の時に紹介されたので間違いない。それが何故こんなところにいるのか。

(いや、んなことよりもこの人……)

 身体が動かないのは、間違いなくこの老翁――羽竹以蔵のせいだ。しかしながら片手で軽く押さえているように見えるのにこれである。何をされているかも分からないが、とにかく格上も格上ということだけは理解できた。
 すると以蔵が手を離してくれたので、動けるようになりホッと息を吐く。

「悪かったのう、坊主。ちょいと確かめてみたくなってな」
「確かめる?」
「お前さん、あの大悟の悪ガキの弟子だろ?」
「あ、はい。まだ若輩者ではありますけど……」
「カッカッカ! アイツにこんな素直そうなボンが弟子になるたぁ、長生きはするもんじゃぜ!」

 何がそんなに面白いのか、子供のように無邪気に笑うので毒気が抜かれてしまう。どうやらこちらに敵意というか、本格的に害そうという気はないらしい。

「えーと……つまり俺が師匠の弟子に相応しいか試してみたと?」
「相応しいとかそんなのはどうでもええわい」
「ええ……」

 じゃあ何でいきなり攻撃をと思ったが……。

「ただ大悟ほどの奴が認めた子が気になっただけじゃぜ」
「なるほど……」
「にしても軽く打ったとはいえ、儂の一撃を回避するとは大したもんじゃぜ。どうだ坊主、儂んとこでその腕振るってみる気はねえか?」
「え……えと……いきなりそのようなことを仰られましても……」
「儂にも孫がおってのう。素質はあるが、アレはどうも儂とは反りが合わなくてな」

 孫……ということは、長門のことだろうか。

「どうだ? 儂ならお前さんを強くしてやれるが?」
「あー……申し訳ありません」

 そう言って頭を下げると、「……理由は?」と静かに問うてきたので、真面目に返答することにした。

「俺は日ノ部流古武術の門下生であり、基礎を教えてくれたのは修一郎師範で、現在師として教えを学んでいるのは籠屋大悟です。お二人に不義理を働くようなことはできません」

 軽く出稽古程度ならばともかく、この人が言っているのは恐らくは門下に入れということだろう。ならば大悟たちを無視して自分一人で決めるのは筋が通らない。

「ふむ……大悟の弟子にしちゃあ真面目過ぎじゃぜ。だが……」

 以蔵は何故か嬉しそうに頬を緩めると、沖長の頭を軽く撫でてから踵を返す。

「坊主、名は……何だったかのう?」
「あ、沖長です! 札月沖長と申します!」
「! 札月…………なるほどのう。相分かった。ならばこれから坊主のことを沖長と呼ぶ。儂のことも好きに呼べ、許す」
「え、えっと……では羽竹当主殿?」
「カァ~、かったいのう。そこは気軽に以蔵じっちゃんとかでええわい」
「いえ、さすがにそれは……。ではせめて以蔵殿で」
「……まあええわい。じゃあのう、沖長。また会える日を楽しみしとるぜ」
「あ、はい。こちらこそ……」

 そして以蔵はいなくなったが、明日も普通に会うと思ったので首を傾げた。何故なら普通に考えて泊まりだと思うし、朝食だってともにするはずだろうから。

(まあ何にせよ、気さくなジイサンで良かったわ。アレが……羽竹長門の祖父か。すげえ貫禄だったな)

 それに軽くではあるが対峙したことにより彼の強さが垣間見えた。修一郎や大悟に匹敵し得る強さを持ち合わせていることも確かだし、それ以上に長年積み重ねた経験による圧が凄まじかった。敵に回したくないと本能的に思わされたのである。
 沖長はもう一度ホッと息を吐いた後、軽く武者震いをしてからその場を後にした。


     ※


 沖長と別れた以蔵は長い廊下の先を曲がり不意に立ち止まる。そのまま目を閉じながら、

「――心配せずともこれ以上は手を出さねえよ」

 そこは縁側であり月の光が以蔵を照らしていた。
 以蔵が誰に向けてその言葉を放ったのか、それはすぐに明らかになる。

「だからそう怖い顔をするなっての――大悟、それに……修一郎よ」

 以蔵の目前に立つ二つの人影。それは先ほど沖長との話題に出た二人だった。
 加えて言うなら、修一郎は穏やかな雰囲気そのままではあるが、大悟の方は明らかに不機嫌そうに眉をひそめつつ以蔵を睨みつけていた。

「まったく、冷や冷やするようなことはしないでくださいよ、以蔵殿」
「どの口が言う。お前さんほどの者が、あの程度のことで冷や冷やなぞするかよ」
「しますって。あの子はご両親から預かっている大切な子です。何かあったら申し訳が立たないですし、何より……」

 修一郎がチラリと、その隣に立つ大悟に視線を向けて続ける。

「コイツとあなたが暴れたら、ココが壊れちゃいますから」
「カッカッカ! それもまた一興じゃぜ。のう、大悟?」
「フン、うっせえよ、クソジジイ。てか良い歳こいて引き抜きなんてすんじゃねえよ。しかも子供相手に」
「なぁに、優秀そうなのにツバをつけるのに歳は関係ねえだろ?」
「てか、いつまで当主やってんだ。そろそろ隠居して大人しくしとけや」
「儂だってそうしたいのも山々なんじゃぜ? けど周りがそうさせてくれん。それに……また事が起こり出したしのう」
「「…………」」

 三人の間に少し沈黙が流れる。不意にその空気を破ったのは、修一郎だった。

「とにかく彼に手を出すのは止めてくださいね」
「安心しろ。どうせ聞いてたんだろうが、にべもなく振られたわい」
「けっ、ざまあみろ。アイツはガキだがこの俺の弟子だ。訳も分からねえジジイに尻尾を振るかよ」
「カカ、確かに良い眼をしておったわい。まるで……あそこに輝く月のようにな」

 以蔵の視線の先には、雲一つない空で煌々と輝く満月が浮かんでいた。

「……札月……か」
「あん? どうしたんだよ、いきなり神妙な顔しやがって」
「……いいや、別に何でもねえ。ただ……少し懐かしさが込み上げてきただけじゃぜ」

 以蔵はそう言いながら夜空を照らす月に目を向ける。その目つきは、普段の厳格さは微塵もなく、どことなく儚げな印象すらあった。
 その理由が分からず、修一郎たちは互いに顔を合わせて首を傾げていた。


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