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難攻不落の妻の城
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***
――妻は綺麗好きだ。
いわゆる新婚ほやほや、俺は幸せの真っただ中にある。
妻は俺の両親はもちろん、どんな客でもそつなくもてなせる親切で明るい女性だ。
掃除の行き届いた我が家は住みやすく、その家具の統一感たるや、訪れた友人知人たちに「モデルハウスみたいだ!」と羨ましがられるほどだった。
――そう、俺だって自慢だったのだ。最初の頃は。
今日から、所用で妻は実家に帰っている。
お義父さんが庭木の剪定で張り切りすぎてしまって腰を痛めたらしく、されど幸いなことに入院まではいかず、医師よりしばらくの自宅療養を言い渡されたそうだ。
腰の痛みよりも、腰を痛める年齢になってしまったという事実に義父はすっかり落ち込んでしまったそうで、困った義母が可愛い一人娘を呼び寄せたというわけだ。
「ただいまー」
うっかり締め忘れないよう早々に鍵とチェーンを掛け、電気をつけつつ居間へと向かいながら、いつもの調子で声を出した。
久方ぶりの一人なので返事が戻るわけもない。そう、もはや誰にも遠慮をすることなどないのである。
「~~~~~~ッぬあ゛あ゛ぁぁぁああぁぁぁぁあああーーーー……!」
我慢の限界が来た俺は、気づけば小さな呻き声をあげ、頭を掻きむしりながら膝から崩れ落ちた。
脳味噌にほんの数ミクロン残っていた冷静な俺が、ギリギリのところで白いラグを避け、冷たいフローリングへと転がった。
――落ち着かない!! うちの家は綺麗すぎる!!!
一分の隙もない我が家である。モデルハウスのような、ピッカピカの新居なのである。
どこで靴下を脱げばいい?
愚問だ。笑ってきっと妻は言う。
――脱衣所があるでしょ。
疲れたらどこで寝転がればいい?
愚問だ。小首を傾げてきっと妻は言う。
――居間にソファとラグがあるでしょ。
ふわっふわの、白いラグと白い革張りのソファだ。
よりによってなぜそんな汚れやすい色を選んでしまったのか。過去に戻れるなら、新居という響きにすっかり浮かれていた自分の頭を後ろから張り倒したい。
労働の汗で汚れて帰宅した俺が寝転がっては、それがソファであれラグであれ、きっといつか汚してしまう。もはや毎日、気が気じゃないのである。
そもそもの話だが、俺はこういった真新しい家というものに慣れていない。
俺の実家はひい爺さんの代から続く、田舎の小さな日本家屋で、走ると変な音がしたり階段を上ると軋んだり、柱にはまだ小さかった頃の父と叔母の背丈を刻んだ跡があったりした。
結婚する前の一人暮らしだって、古さではそれと大差なかった。
やっすいボロアパートで、夜中に外をうろつく酔っ払いの叫び声や、隣の部屋のカップルの喧嘩まで丸聞こえだった。俺はなんの遠慮もなく、そのボロアパートの色の擦り切れた床に寝転がり、酒を飲みつ放屁をかましながらバラエティ番組を見て笑っていたりした。
そんな生活にいつの間にか、いまの妻となる女が顔を出すようになった。
妻は大学の同級生でサークルも専攻も同じで、家が一駅違いで近かったので仲良くなり、その流れでなんとなく付き合うようになった。風邪をひいたら薬を持って寄ってくれたり俺も持って行ったりして、飲み会で終電を逃したら「泊めてくらさいなー……」と顔を真っ赤にし申し訳なさそうに現れたりして、そのうちどちらから言い出すともなく俺の安アパートで半同棲状態となった。
狭いながらも、あのとき俺は確かに幸せだった。いまも共にいるのだから、あのときの妻もきっと幸せだったろうと信じている。
大学卒業と共にそれぞれのアパートの賃貸契約が切れたため、それを機に家賃を折半して一緒に住んでしまうことにした。時折小さな諍いはありつつも概ね良好に暮らし数年が経過したころ、さすがにそろそろいい頃合いだろう、俺たちの未来が分かたれることはもうないだろうと思った。
きちんと筋を通そうと思い立ち、安アパートでなんのサプライズもない地味なプロポーズを行った。そんな地味さでも素直に喜んでくれたその人と、翌週末には手を繋いでささやかな指輪を買いに行った。そしてその翌月には各々の実家に赴き、それぞれの両親へ挨拶をして、俺たちはそういうとてもありきたりで自然な流れで結婚した。
義父はお茶目な人で、
「すまない。一度だけ、『娘との結婚は許さん!』って言ってみたいから言わせてくれないか。もう一回言ってくれたら絶対、『ふつつかな娘ですがこちらこそよろしくお願いします』って言うから、頼む! 一回だけ!」
というので、
「わかりました! お任せください、お気のすむまで何度でもどうぞ!」
と、その不思議な申し出をこなした。
嫌な顔もせずノッてくれたからという理由で、義父は俺のことをまぁまぁ気に入ってくれている。
そしてよくある流れで、結婚してそう経たないうちに「子供ができるころには、家族で遠慮なく過ごせる場所が欲しいね」という話になり、様々なモデルルームをデートのノリで見て回り、アホほど長いが返しきれぬほどでもない、絶妙に面倒な額のローンを組んで注文住宅を建てた。
なのに今はどうだ。なんだこの家。
蛇口もコンロもシンクも水滴ひとつなくキッラキラ! シミひとつない壁紙、傷ひとつない床!
どこもかしこも綺麗なままの、ベーシックカラーの家具たちよ!
~~心が、一切休まらない。
違う。違うんだ、俺はモデルハウスに住みたかったんじゃねえ。
あののんびり優しい妻と、いつか生まれるかもしれない(男女どちらでも可愛いに決まっている)子供たちと、昔話のエンディングみたいにキャッキャウフフと暮らしてゆける場所がほしかったんだけなんだ。
なのに、ぜ~んぜん休まらない。一体どういうことだろう。
もはや妻がいなくては、家のどこに腰を据えていいのかすら自分ではわからず、カップ片手に所在なくフラフラと家の中を彷徨い歩いているのである。
……俺はなりたてのゾンビか。
されどそんなことは口が裂けても言えない。
これらは妻と一緒に、あれやこれやとあんなに楽しく吟味して選んだものなのだから。
……好きな人と家族になって、素敵な家で暮らすのが夢だったの。
あの時の妻のはにかんだ顔を見て、この笑顔を一生守ると改めて誓ったのだ。
あの気持ちに、笑顔に、水を差すような真似は死んでもしたくなかった。
***
電話で聞く限り、お義父さんの経過は概ね順調そうだった。
一週間との予定だったが、妻は三日目には「明日帰ろうと思うの」と言った。
仕事からの帰路、心なしか足取りは重かった。
今日、妻が帰ってくる。この言い様のない不安は、帰りつくまでにどこかへ捨てなければ。
小綺麗な、まだ真新しい建物の続く住宅地を抜け、足元の小石を見つめつつ角を曲がり、顔を上げた。
正面にある我が家にも、今日は暖かな明かりが灯っていた。
いつも通りだ、いつも通りでいい。鍵をあける。息を吸う。
「ただいまー」
? おかしい。返事がない。
妻は今日帰ってきているはずだった。窓からの明かりも外から見えていたのだから。
「……おーい? 出掛けてる……? !! うぉっ!!」
妻は真顔で、居間の隅で体育座りをしていた。
「――ど、どうした?! 具合悪いのか?!」
「あ、おかえり……」
駆け寄る俺を力なく見上げ、座ったまま、元気だよと首を振った。
元気なのに、こんな隅でこんなに小さくなっている意味が分からない。
どうしたらいいのかわからない。わからないなりに、隣にしゃがみこみ背中をさすった。
ーー貧血か?
おおかた健康な人ではあるが、久方ぶりの実家や移動で疲れてしまったのだろうか。
妻はしばらく黙っていたが、ぽそりと言った。
「…………ごめんなさい。なんだか、落ち着かなくて」
「うん?」
……あのね、と呟いたまましばらく黙った。
「……あなたがいないと、家のどこにいたらいいかわからないの……」
妻の言葉に、俺は衝撃を受けた。
また床に視線を落とした妻は、眉毛をハの字にしたまま悲しそうに続きを紡いだ。
「掃除をするでしょう? でもね、綺麗だからそんなにすることがないの、家具の配置も完璧だし、無駄な動きをすることもなくって、なんでもすぐに終わっちゃうの……」
「……なんで、寂しくなるんだろう。……夢が叶ったのに」
こんなこと言い出してごめんね……、せっかく建てたのに……、と妻の背はさらにシュンと小さくなった。
その言葉に、慌てて首を振った。
「……。俺も、俺も実は、お前がいないと家のどこにいたらいいかわからなくてさ」
「……うん」
「今回しばらくいなかったろ、だから、家にいるの俺だけだし、……汚したりしないようにしなきゃってずっと、ずっと……ゾンビみたいに家の中フラフラして」
気づけば妻の横で、俺も同じように体育座りをしていた。
妻の橫で、妻に習って見上げた天井が、気が遠くなるほど遠く感じた。2階まで吹き抜けにしたので、真っ白な壁が、とてつもなく高く遠くつづいているように見えた。
「……そっか、あなたもそうだったの」
「……。ん……。あんまり家が綺麗だから、……その辺で寝っ転がるのも、気が引けて」
「……うん」
言い淀んだ俺の目を見て「……大丈夫、わかるよ」と妻は言った。
「…………もちろん、今の家には満足してるんだ。話し合って決めたんだから」
頷いてくれた。
なんとか勇気を振り絞る。弱音を吐いたところで、怒るような人ではないのだから。
「……けど、少し、なんていうか、……ちょっと俺、張り切り過ぎたのかなって」
「…………そうだね。私も、そうだったのかもしれないや」
ふと見やると、妻の顔から居心地の悪そうな緊張は消えていてホッとした。俺の体からも、張り巡らされていた針金のような緊張感はいつの間にか消えていた。
「……そうだ、お義父さんどうだった? 電話しても俺には元気ーとか平気ーとしか言ってくれなかったからさ」
「なんだろうねぇ……、同じ男の人だから見栄張ったのかなぁ。
行ったらわりとしょんぼりしてたんだけどね。腰を痛めるなんて爺さんがなるやつだろ、やだなぁ年だよなぁって」
「はは、元気だもんなーお義父さん」
大きな怪我をする前に自覚してくれたからむしろよかったんだけどね、と妻は肩を竦めた。
「……あのね、家にいると緊張するってお母さんたちに言ってみたの、汚すのが怖いって。実家はお父さんたちが結婚したときに建てたものだから、二人はどうだったのかなって思って」
「うん」
「……。子供ができてしまえば、どこもかしこもめっちゃくちゃに散らかるから、綺麗にしなきゃとか丁寧にしなきゃとかそういうの、それどころじゃなくなって全部どうでもよくなるわよって」
「……そっか」
「……。お父さんは、」
「うん」
「二人が生きててくれればそれで100点だから、なんにも気にするなって」
「……そっか」
ありがたい話である。
「それでね。……もし、子供と、縁がなければ、なにか動物でも飼ってみたらって」
「動物?」
うん、と子供のように素直に肯いた。
結婚してから、俺と妻は特に避妊はしていない。そしてもうすぐ結婚して一年がたつ。
新居を構えるにあたり子供部屋を二つほど設けてみたが、もしかしたら俺たち二人は、これからもこのまま二人で生きていくのかもしれなかった。
不妊治療に関しては、まだ具体的に話をしたことはなかった。なんとなく、お互い言い出せずにきていた。
そう遠くない未来に、どちらともなく口火を切ることになるだろう。
「動物の知能ってだいたい5歳くらいだから、それならどのみちめちゃくちゃになるわよって」
「めちゃくちゃかぁー」
ちょっと想像つかないな、と思っていたら、ちょっと想像つかないね? と妻が言ったので笑ってしまった。
妻はそんな俺を不思議そうな顔をして見たのち、ちょっとだけ笑った。
一緒になってくれたのがこの人でよかった。
妻も、そう思ってくれていたらうれしい。
よっこいせ、と立ち上がり手を差し伸べた。
体育座りからもゾンビからもそろそろ卒業しなければ。
「……んー。じゃあとりあえず、そこそこから目指すか」
「そこそこ?」
伸ばした手を掴まれたので、よいせとそのまま引っ張り起こした。
「動物でも子供でも、いつかめっちゃくちゃになるんなら、ちょっと生活感あるくらいから俺らも慣らしていこうぜ」
「……そうだね。急にめちゃくちゃになったら、それはそれでストレスになりそうだもんね」
せっかく建てた家で緊張してどうするんだ。
改めて考えてみたら、至極馬鹿馬鹿しく感じた。
「んじゃとりあえず俺はラグでだらけるー!」
「、っズルい! じゃあ私はソファでだらけるー!」
各々思い思いの奇声を発しながら、えいやとばかりに飛び込んだ。
顔面に受けたラグの長い毛並みは子犬のように優しい肌触りで、汚れも知らず真っ白だった。
ふと見やると、おそらく今の俺と同じ表情をしているであろう妻が、白い革張りのソファで幸せそうに目を細めていた。
すべての家具は、色と手触り重視で選んだのだから当然だ。
一度やってしまえば、もうなんてことないような気がした。
「あ、あのさぁ! ビール飲まないか?!」
妻が、生まれて初めてそんな提案を受けました、みたいな顔をした。
「の、飲むー! チーズも食べる!?」
「ビールにチーズ?! 最高だな!」
ラグから俺は飛び起きた。気持ちがしなんでしまう前に声に出した。
「食べよう! そうしよう!」
そうだ出そう出そう、とわめきながら二人して先を争うようにして台所へと向かった。
食卓じゃない場所で飲み食いなんて初めてだ。
ちょっとハイになっているのかもしれない、俺も妻もどこかテンションがおかしい。
きっと、今日のこの場面を俺は死ぬ間際に走馬灯で見るんだと思う。
「そういや、前のアパートではしてたなこういうゴロ寝」
あのときとは似ても似つかぬ、擦り切れていないピカピカのフローリング。軋まない階段、傷ひとつない柱や壁。今はどれもまだまだ新しい。
「そういえばそうだね。していこうか、ちょっとずつ」
続く言葉に、心から同意する。
「これからずっと住むんだもんね」
住んでりゃいつかは汚れるんだし、ねぇ。
Fin.
――妻は綺麗好きだ。
いわゆる新婚ほやほや、俺は幸せの真っただ中にある。
妻は俺の両親はもちろん、どんな客でもそつなくもてなせる親切で明るい女性だ。
掃除の行き届いた我が家は住みやすく、その家具の統一感たるや、訪れた友人知人たちに「モデルハウスみたいだ!」と羨ましがられるほどだった。
――そう、俺だって自慢だったのだ。最初の頃は。
今日から、所用で妻は実家に帰っている。
お義父さんが庭木の剪定で張り切りすぎてしまって腰を痛めたらしく、されど幸いなことに入院まではいかず、医師よりしばらくの自宅療養を言い渡されたそうだ。
腰の痛みよりも、腰を痛める年齢になってしまったという事実に義父はすっかり落ち込んでしまったそうで、困った義母が可愛い一人娘を呼び寄せたというわけだ。
「ただいまー」
うっかり締め忘れないよう早々に鍵とチェーンを掛け、電気をつけつつ居間へと向かいながら、いつもの調子で声を出した。
久方ぶりの一人なので返事が戻るわけもない。そう、もはや誰にも遠慮をすることなどないのである。
「~~~~~~ッぬあ゛あ゛ぁぁぁああぁぁぁぁあああーーーー……!」
我慢の限界が来た俺は、気づけば小さな呻き声をあげ、頭を掻きむしりながら膝から崩れ落ちた。
脳味噌にほんの数ミクロン残っていた冷静な俺が、ギリギリのところで白いラグを避け、冷たいフローリングへと転がった。
――落ち着かない!! うちの家は綺麗すぎる!!!
一分の隙もない我が家である。モデルハウスのような、ピッカピカの新居なのである。
どこで靴下を脱げばいい?
愚問だ。笑ってきっと妻は言う。
――脱衣所があるでしょ。
疲れたらどこで寝転がればいい?
愚問だ。小首を傾げてきっと妻は言う。
――居間にソファとラグがあるでしょ。
ふわっふわの、白いラグと白い革張りのソファだ。
よりによってなぜそんな汚れやすい色を選んでしまったのか。過去に戻れるなら、新居という響きにすっかり浮かれていた自分の頭を後ろから張り倒したい。
労働の汗で汚れて帰宅した俺が寝転がっては、それがソファであれラグであれ、きっといつか汚してしまう。もはや毎日、気が気じゃないのである。
そもそもの話だが、俺はこういった真新しい家というものに慣れていない。
俺の実家はひい爺さんの代から続く、田舎の小さな日本家屋で、走ると変な音がしたり階段を上ると軋んだり、柱にはまだ小さかった頃の父と叔母の背丈を刻んだ跡があったりした。
結婚する前の一人暮らしだって、古さではそれと大差なかった。
やっすいボロアパートで、夜中に外をうろつく酔っ払いの叫び声や、隣の部屋のカップルの喧嘩まで丸聞こえだった。俺はなんの遠慮もなく、そのボロアパートの色の擦り切れた床に寝転がり、酒を飲みつ放屁をかましながらバラエティ番組を見て笑っていたりした。
そんな生活にいつの間にか、いまの妻となる女が顔を出すようになった。
妻は大学の同級生でサークルも専攻も同じで、家が一駅違いで近かったので仲良くなり、その流れでなんとなく付き合うようになった。風邪をひいたら薬を持って寄ってくれたり俺も持って行ったりして、飲み会で終電を逃したら「泊めてくらさいなー……」と顔を真っ赤にし申し訳なさそうに現れたりして、そのうちどちらから言い出すともなく俺の安アパートで半同棲状態となった。
狭いながらも、あのとき俺は確かに幸せだった。いまも共にいるのだから、あのときの妻もきっと幸せだったろうと信じている。
大学卒業と共にそれぞれのアパートの賃貸契約が切れたため、それを機に家賃を折半して一緒に住んでしまうことにした。時折小さな諍いはありつつも概ね良好に暮らし数年が経過したころ、さすがにそろそろいい頃合いだろう、俺たちの未来が分かたれることはもうないだろうと思った。
きちんと筋を通そうと思い立ち、安アパートでなんのサプライズもない地味なプロポーズを行った。そんな地味さでも素直に喜んでくれたその人と、翌週末には手を繋いでささやかな指輪を買いに行った。そしてその翌月には各々の実家に赴き、それぞれの両親へ挨拶をして、俺たちはそういうとてもありきたりで自然な流れで結婚した。
義父はお茶目な人で、
「すまない。一度だけ、『娘との結婚は許さん!』って言ってみたいから言わせてくれないか。もう一回言ってくれたら絶対、『ふつつかな娘ですがこちらこそよろしくお願いします』って言うから、頼む! 一回だけ!」
というので、
「わかりました! お任せください、お気のすむまで何度でもどうぞ!」
と、その不思議な申し出をこなした。
嫌な顔もせずノッてくれたからという理由で、義父は俺のことをまぁまぁ気に入ってくれている。
そしてよくある流れで、結婚してそう経たないうちに「子供ができるころには、家族で遠慮なく過ごせる場所が欲しいね」という話になり、様々なモデルルームをデートのノリで見て回り、アホほど長いが返しきれぬほどでもない、絶妙に面倒な額のローンを組んで注文住宅を建てた。
なのに今はどうだ。なんだこの家。
蛇口もコンロもシンクも水滴ひとつなくキッラキラ! シミひとつない壁紙、傷ひとつない床!
どこもかしこも綺麗なままの、ベーシックカラーの家具たちよ!
~~心が、一切休まらない。
違う。違うんだ、俺はモデルハウスに住みたかったんじゃねえ。
あののんびり優しい妻と、いつか生まれるかもしれない(男女どちらでも可愛いに決まっている)子供たちと、昔話のエンディングみたいにキャッキャウフフと暮らしてゆける場所がほしかったんだけなんだ。
なのに、ぜ~んぜん休まらない。一体どういうことだろう。
もはや妻がいなくては、家のどこに腰を据えていいのかすら自分ではわからず、カップ片手に所在なくフラフラと家の中を彷徨い歩いているのである。
……俺はなりたてのゾンビか。
されどそんなことは口が裂けても言えない。
これらは妻と一緒に、あれやこれやとあんなに楽しく吟味して選んだものなのだから。
……好きな人と家族になって、素敵な家で暮らすのが夢だったの。
あの時の妻のはにかんだ顔を見て、この笑顔を一生守ると改めて誓ったのだ。
あの気持ちに、笑顔に、水を差すような真似は死んでもしたくなかった。
***
電話で聞く限り、お義父さんの経過は概ね順調そうだった。
一週間との予定だったが、妻は三日目には「明日帰ろうと思うの」と言った。
仕事からの帰路、心なしか足取りは重かった。
今日、妻が帰ってくる。この言い様のない不安は、帰りつくまでにどこかへ捨てなければ。
小綺麗な、まだ真新しい建物の続く住宅地を抜け、足元の小石を見つめつつ角を曲がり、顔を上げた。
正面にある我が家にも、今日は暖かな明かりが灯っていた。
いつも通りだ、いつも通りでいい。鍵をあける。息を吸う。
「ただいまー」
? おかしい。返事がない。
妻は今日帰ってきているはずだった。窓からの明かりも外から見えていたのだから。
「……おーい? 出掛けてる……? !! うぉっ!!」
妻は真顔で、居間の隅で体育座りをしていた。
「――ど、どうした?! 具合悪いのか?!」
「あ、おかえり……」
駆け寄る俺を力なく見上げ、座ったまま、元気だよと首を振った。
元気なのに、こんな隅でこんなに小さくなっている意味が分からない。
どうしたらいいのかわからない。わからないなりに、隣にしゃがみこみ背中をさすった。
ーー貧血か?
おおかた健康な人ではあるが、久方ぶりの実家や移動で疲れてしまったのだろうか。
妻はしばらく黙っていたが、ぽそりと言った。
「…………ごめんなさい。なんだか、落ち着かなくて」
「うん?」
……あのね、と呟いたまましばらく黙った。
「……あなたがいないと、家のどこにいたらいいかわからないの……」
妻の言葉に、俺は衝撃を受けた。
また床に視線を落とした妻は、眉毛をハの字にしたまま悲しそうに続きを紡いだ。
「掃除をするでしょう? でもね、綺麗だからそんなにすることがないの、家具の配置も完璧だし、無駄な動きをすることもなくって、なんでもすぐに終わっちゃうの……」
「……なんで、寂しくなるんだろう。……夢が叶ったのに」
こんなこと言い出してごめんね……、せっかく建てたのに……、と妻の背はさらにシュンと小さくなった。
その言葉に、慌てて首を振った。
「……。俺も、俺も実は、お前がいないと家のどこにいたらいいかわからなくてさ」
「……うん」
「今回しばらくいなかったろ、だから、家にいるの俺だけだし、……汚したりしないようにしなきゃってずっと、ずっと……ゾンビみたいに家の中フラフラして」
気づけば妻の横で、俺も同じように体育座りをしていた。
妻の橫で、妻に習って見上げた天井が、気が遠くなるほど遠く感じた。2階まで吹き抜けにしたので、真っ白な壁が、とてつもなく高く遠くつづいているように見えた。
「……そっか、あなたもそうだったの」
「……。ん……。あんまり家が綺麗だから、……その辺で寝っ転がるのも、気が引けて」
「……うん」
言い淀んだ俺の目を見て「……大丈夫、わかるよ」と妻は言った。
「…………もちろん、今の家には満足してるんだ。話し合って決めたんだから」
頷いてくれた。
なんとか勇気を振り絞る。弱音を吐いたところで、怒るような人ではないのだから。
「……けど、少し、なんていうか、……ちょっと俺、張り切り過ぎたのかなって」
「…………そうだね。私も、そうだったのかもしれないや」
ふと見やると、妻の顔から居心地の悪そうな緊張は消えていてホッとした。俺の体からも、張り巡らされていた針金のような緊張感はいつの間にか消えていた。
「……そうだ、お義父さんどうだった? 電話しても俺には元気ーとか平気ーとしか言ってくれなかったからさ」
「なんだろうねぇ……、同じ男の人だから見栄張ったのかなぁ。
行ったらわりとしょんぼりしてたんだけどね。腰を痛めるなんて爺さんがなるやつだろ、やだなぁ年だよなぁって」
「はは、元気だもんなーお義父さん」
大きな怪我をする前に自覚してくれたからむしろよかったんだけどね、と妻は肩を竦めた。
「……あのね、家にいると緊張するってお母さんたちに言ってみたの、汚すのが怖いって。実家はお父さんたちが結婚したときに建てたものだから、二人はどうだったのかなって思って」
「うん」
「……。子供ができてしまえば、どこもかしこもめっちゃくちゃに散らかるから、綺麗にしなきゃとか丁寧にしなきゃとかそういうの、それどころじゃなくなって全部どうでもよくなるわよって」
「……そっか」
「……。お父さんは、」
「うん」
「二人が生きててくれればそれで100点だから、なんにも気にするなって」
「……そっか」
ありがたい話である。
「それでね。……もし、子供と、縁がなければ、なにか動物でも飼ってみたらって」
「動物?」
うん、と子供のように素直に肯いた。
結婚してから、俺と妻は特に避妊はしていない。そしてもうすぐ結婚して一年がたつ。
新居を構えるにあたり子供部屋を二つほど設けてみたが、もしかしたら俺たち二人は、これからもこのまま二人で生きていくのかもしれなかった。
不妊治療に関しては、まだ具体的に話をしたことはなかった。なんとなく、お互い言い出せずにきていた。
そう遠くない未来に、どちらともなく口火を切ることになるだろう。
「動物の知能ってだいたい5歳くらいだから、それならどのみちめちゃくちゃになるわよって」
「めちゃくちゃかぁー」
ちょっと想像つかないな、と思っていたら、ちょっと想像つかないね? と妻が言ったので笑ってしまった。
妻はそんな俺を不思議そうな顔をして見たのち、ちょっとだけ笑った。
一緒になってくれたのがこの人でよかった。
妻も、そう思ってくれていたらうれしい。
よっこいせ、と立ち上がり手を差し伸べた。
体育座りからもゾンビからもそろそろ卒業しなければ。
「……んー。じゃあとりあえず、そこそこから目指すか」
「そこそこ?」
伸ばした手を掴まれたので、よいせとそのまま引っ張り起こした。
「動物でも子供でも、いつかめっちゃくちゃになるんなら、ちょっと生活感あるくらいから俺らも慣らしていこうぜ」
「……そうだね。急にめちゃくちゃになったら、それはそれでストレスになりそうだもんね」
せっかく建てた家で緊張してどうするんだ。
改めて考えてみたら、至極馬鹿馬鹿しく感じた。
「んじゃとりあえず俺はラグでだらけるー!」
「、っズルい! じゃあ私はソファでだらけるー!」
各々思い思いの奇声を発しながら、えいやとばかりに飛び込んだ。
顔面に受けたラグの長い毛並みは子犬のように優しい肌触りで、汚れも知らず真っ白だった。
ふと見やると、おそらく今の俺と同じ表情をしているであろう妻が、白い革張りのソファで幸せそうに目を細めていた。
すべての家具は、色と手触り重視で選んだのだから当然だ。
一度やってしまえば、もうなんてことないような気がした。
「あ、あのさぁ! ビール飲まないか?!」
妻が、生まれて初めてそんな提案を受けました、みたいな顔をした。
「の、飲むー! チーズも食べる!?」
「ビールにチーズ?! 最高だな!」
ラグから俺は飛び起きた。気持ちがしなんでしまう前に声に出した。
「食べよう! そうしよう!」
そうだ出そう出そう、とわめきながら二人して先を争うようにして台所へと向かった。
食卓じゃない場所で飲み食いなんて初めてだ。
ちょっとハイになっているのかもしれない、俺も妻もどこかテンションがおかしい。
きっと、今日のこの場面を俺は死ぬ間際に走馬灯で見るんだと思う。
「そういや、前のアパートではしてたなこういうゴロ寝」
あのときとは似ても似つかぬ、擦り切れていないピカピカのフローリング。軋まない階段、傷ひとつない柱や壁。今はどれもまだまだ新しい。
「そういえばそうだね。していこうか、ちょっとずつ」
続く言葉に、心から同意する。
「これからずっと住むんだもんね」
住んでりゃいつかは汚れるんだし、ねぇ。
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