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96:貴方が。 side:ロブ
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天真爛漫な『俺のお嬢』は、セオドリック殿下のものになった。
解っていたはずなのに、諦めきれない想いを燻らせて、使用人専用の食堂裏にある井戸の横で、素振りをしていた。
一時間ほど素振りをし、食堂の裏口の横のベンチでひと休みしながら夜空を眺めていたら、バンッと大きな音を立てて、食堂の裏口が勢い良く開いた。
ガスガスと足を打ち鳴らしながら、お嬢の侍女のザラ嬢が井戸へと歩いて行き、手押しポンプを勢い良く動かし、桶に水を溜めていた。
侍女服姿だから、こんな夜遅くまで何かの仕事なんだろう。珍しく機嫌が悪そうだ。
ザラ嬢は、いつもお嬢の側に静かに佇んで、無表情でサッと卒なくこなし、必要とあらばお嬢を怒ったりもする。
真っ黒の侍女服と、眩しいくらいに白いエプロンがとても似合う、凛とした人だ。
なんとなしに、ザラ嬢を眺めていたら、桶に溜めた水をザバリと頭から被り、また桶に水を溜め始めた。
再度、頭から水を被りそうだったので慌てて止めた。
「ザラ嬢、何してんですか! 夜中に水浴びとか、風邪引きますよ」
「っ! ……ロブ」
いつもキリッとしていて、あまり感情を表に出さないザラ嬢が、焦げ茶色の髪をしとどに濡らし、泣きそうな顔をしていた。
「どうしたんすか?」
「…………なんでも、ないわ」
なんでもない。
そんな見え透いた嘘を言われて、何だかモヤッとした。
ちょっと汗臭いかもしれないが、無いよりはマシだろうと、首に掛けていたタオルでザラ嬢の顔や髪をそっと拭った。
「で、どうしたんすか?」
背中に手をあて、そっとベンチに誘導した。
ちょっと心配だし、ベンチに座らせて、少し落ち着かせてから、侍女棟の前まで送ろう。
……そう、思ったんだ。
ザラ嬢が大きな溜め息を吐いて、ぽつりぽつりと話し始めた。
その内容を聞いて、俺は頭に血が上ってしまった。
ザラ嬢の肩を掴み、壁に押し付け、睨みつけた。
「お嬢を泣かせた⁉ アンタは、お嬢の心の支えだぞ! 何考えてんだよ!」
「っ……解っています」
「解ってないから、泣かせたんだろ⁉ 何を考えてんのか、って聞いてるんだよ!」
気づいたら、泣きそうな顔をした年上の女性を、怒鳴り付けていた。
男爵家のご令嬢で、敬うべき存在なのに。
普段ならこんなこと絶対にしないはずなのに、お嬢の事になると、どうにも駄目だった。
泣きそうな顔だったザラ嬢が、徐々にいつもの真顔に戻り、バシンと俺の手を払い除けた。
「貴方が、悪いんです」
「は?」
「貴方がっ――――」
ザラ嬢に胸ぐらを掴まれた次の瞬間、ガツッ、と口に、歯に、衝撃を受けた。
目の前には、焦げ茶色のまつ毛で縁取られた、灰色に近い緑の瞳があった。
「――――っ、え」
印象的な緑の瞳が離れて行く瞬間に、フワリと優しい石鹸の匂いが俺の鼻腔を擽って、消えた。
ザラ嬢は俺を一瞥すると、身を翻して侍女棟へと足早に去って行った。
俺は呆然としてしまい、ベンチに座って、痛む前歯と柔らかな感触の残る唇を触っているだけだった。
翌日の夜、人生で一番最悪だと断言出来る日が訪れた。
お嬢が襲われた。
薄汚い、醜い、色狂いの、老いた男に。
セオドリック殿下が、怒り狂っていた。
もちろん、俺も。
「この男を捕えろ! 猿轡を付けて、自死されないように見張れ! ロブ!」
「はい」
アンジェリカ様と間違えた?
あんなゲバゲバしい女とどこが似ている!
お嬢は、お嬢は――――!
お嬢は、ずっと部屋に閉じ籠もっていた。
俺と、ザラ嬢とリジー嬢のみがある程度近寄っても平気だった。
何日も何日も、ほぼ眠らずに、お嬢の部屋の前を警備した。
お嬢が、震えないために。
お嬢が、泣いてしまわないように。
お嬢が、安心してゆっくり眠れるように。
今日が何日かも分からないくらいに、頭が働かなくなった頃、ザラ嬢が目の前で崩れ落ちるように倒れた。
「ザラ嬢⁉」
「っ……申し訳ございません。ちょっと目眩がしただけです」
ザラ嬢も、リジー嬢も、働き詰めだった。
ザラ嬢に至っては、部屋に帰らず、お嬢の部屋の横にある控えの間で、夜中もお嬢の様子を覗っていた。
三人とも疲労困憊だった……。
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