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平穏と夢想

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 二七日午後二時、防空隊のローテーションは交代時刻を迎え、「キエフの亡霊」たちは睡眠を取るべく基地のベッドに潜り込んだ。深い眠りに入った彼らは、この侵攻が始まった二一日、空軍に復隊するべく家を出た日のことを夢の中で思い出していた。トカーチ少佐の妻マリヤがトカーチ少佐を見送るとき言った言葉は、トカーチ少佐の頭の中で繰り返される。
「帰ってくるときに私たちの国が残ってなかったらどうするの」
 トカーチ少佐は答えた。
「大丈夫だ。ウクライナは俺たちが、そして全ての市民が守る国だ。守れないなんてことはあり得ない」
 トカーチ少佐は満面に笑みを浮かべて、悲しさと恐怖を抑え込んだのだった。思い出した次の瞬間、トカーチ少佐の脳裡に未だに行方不明のゼレンスキー大統領のことが浮かんだ。ゼレンスキー大統領は元俳優でコメディアン。彼もまた、トカーチ少佐のように笑顔と強気な言動を演じ、その中に恐怖や悲しみを塗り込めているのだろうか。そんな考えが頭をよぎった後、夢は終わってトカーチ少佐の意識は完全に暗い無意識の中に入っていった。
 交代時刻一時間前の午後九時になって目を覚ますと、防空隊と攻撃ヘリがちょうど帰投したところだった。もはや通常のことになってきた防空隊の圧倒的勝利を物語るように、ミサイルは数発を消費しただけで機体は無傷、機関砲弾の弾倉を取り替える整備兵に、彼ら同様に疲弊したパイロットが意気揚々と撃墜戦果を語っている。攻撃ヘリ部隊も中隊の定数通り一二機が帰投し、さらに少し遅れてウクライナ空軍の一員となった戦闘攻撃隊のSu-34二機が帰投し、何やら複雑な表情で戦果を語っている。
「ロシア軍はプーチンの首を取った方が早く戦争を終えられるんじゃないか?」
「あいつらもウクライナのために戦った方が幸せだろ」
「間違いないな」
 第一戦闘攻撃機分隊一番機操縦士のアンドレイ少佐と兵装担当士官のルカ少佐はしばらく談笑していたが、トカーチ少佐を見つけたアンドレイ少佐はルカ少佐との話を
やめてトカーチ少佐に話しかけた。
「トカーチ少佐、少し良いでしょうか」
「ああ、構いませんよ」
「私はロシア軍を裏切りました。この決断が正しいと、私は信じています。ロシア軍にまだ残っている兵士たちがどう思っているかは知りませんが、ロシアでは反戦運動が広がっているといいます。ロシアを操る独裁者プーチンは、あの男はあなたたちをファシストだと言いましたが、それはウクライナのゼレンスキー大統領が言うべきことでした。ですから、ロシア軍へのプロパガンダに力を入れるべきです。ロシア軍は今、戦意を失いつつあります。それは主にウクライナ空軍と陸軍の士気が旺盛で、そのうえ強靱な戦闘態勢を維持しているからだと考えます。特に空軍では『キエフの亡霊』に対する恐怖が募りつつあります。『亡霊』が誰かは知りませんが、キエフが陥落しても降伏も瓦解もしないウクライナの強さの象徴としてほぼ全てのパイロットに恐れられていますからね。だから、『キエフの亡霊』にはこれを渡しておいてください」
 アンドレイ少佐はそう言うと、ウクライナ空軍仕様のメモ用紙を一枚トカーチ少佐に手渡した。そこには、短いメッセージが書かれていた。

――『キエフの亡霊』が真に不死鳥であることを祈る。

不死鳥フェニックス……」
 トカーチ少佐がつぶやくと、アンドレイ少佐は「決してたとえではありませんよ」と言って説明を始めた。
「『不死鳥フィーニクス』というのはロシア軍のパイロットがつけた『キエフの亡霊』の通称です。弾をかいくぐってミサイルを避け、どれだけ追い回そうとしてもいつの間にか追い回され、本人やその僚機による百発百中の射撃で的確にエンジンを貫かれてしまうという噂が流れていますから。数で勝っていても勝てない、不死身の戦鳥だと」
「ロシアの皆さんは敵のことを褒めすぎじゃないですか?」
「まあそれだけ相手が強いことである意味勝つことを諦めているんですよ」
「なるほど」
 アンドレイ少佐はルカ少佐がコーヒーを飲んでいるのを指し示し、
「寒いのでコーヒーをいただいてきます」
 と言うとトカーチ少佐に敬礼してコーヒーサーバーの前へと歩いていった。
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