宵闇の夏色

古井論理

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日暮の紺色

残光の演技論

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「……ヤナ、アヤナ」
 聞き覚えのある声が私の耳を優しく刺激する。目を開けると、私は空き教室に置いた自分の鞄の上に頭をのせて眠っていた。
「アヤナ、おはよう」
 チヒロは陰も曇りもないほほえみを私に向けて、私の顔を覗き込んでいる。
「おはよ、チヒロ」
 私は眠い目をこすり、立ち上がった。
「発声しよっか」
 チヒロと1年生たちは私のあとに続いて教室のベランダ部分に出る。私は大きく息を吸い込んで、五十音を腹の底から放った。
「あめんぼあかいな あいうえお」
 みんなが私に続けて声を発する。1ヶ月前に脚本を仕上げたあと突如として姿を見せなくなったコウくんのことを考えながら発声を続けていると、だんだん声が震えてきた。
「らいちょうはさむかろ らりるれろ」
 震えた声を出してはいけない。たとえ声が枯れても、シーンに合わない声を出してはいけない。それが演者のつとめだ。震えた声を喉の内側に抑え込んで、私は声の平静を保った。
「じゃあ各自外郎売を読んでください」
 なんとか全体の発声を終え、外郎売を読み始める。読み終わったときには、私は居ても立ってもいられなくなっていた。
「ちょっと先やってて」
 私はその言葉だけを残して教室をあとにすると、LINEのトーク画面を開き、はるか下の方にあるコウくんとのトークを開いた。「音声通話」をタップし、コウくんが出るのを待つ。
「おねがい、出て」
 願いも虚しく、通話に応答はなかった。その代わりにメッセージが更新される。
「これから言うことはアヤナさんと僕だけの秘密です。時期が来るまで伏せておいてください」
「僕がいなくなったことは気にしないでください。いつか必ず帰ってきます」
「僕が帰ってくるまでは、僕は死んだものと思ってください」
 矢継ぎ早に送られてくる1ヶ月ぶりのコウくんの言葉は何か事情があることを仄めかしていたが、ついにコウくんから核心に触れるメッセージが送られてきた。
「詳細は言えませんが、少し事情があって居場所を一旦変える必要が出てきました。アヤナさんたちには全く関係ない話なので、深入りは無用です。すでにされているかもしれませんが、大会のための脚本は僕抜きでできるように改変しておいてください。帰ってこない可能性はないので心配しないでください」
 私の指はいつの間にか動いていた。
「わかった。待ってるからね」
 メッセージに既読がつくと、「帰ってくるときにはまた連絡を入れます」のメッセージと「またね」のスタンプ。私はLINEの画面を閉じて、安堵と心配で荒ぶる心臓と速くなった呼吸を深呼吸で抑え込み、練習が行われている教室の扉の前に立った。中からは脚本の改変を仕切る、柔らかく鋭いチヒロの声が聞こえてくる。
――あと2ヶ月か。
 そんなことを思いながら、私は勢いよく扉を開けた。
「ごめん、遅くなって」
 私が扉を抜けると、全開になってからストッパーにぶつかって跳ね返った扉が半分まで戻る。
「扉、全部閉めちゃだめだよ。感染症対策しないと」
 そういった私に、チヒロはお母さんのように言った。
「電話、かけてたんでしょ? じゃあ私たちは聞かないほうがいいじゃん」
「……ま、そっか」
 私は「たしかにそうだね」とつぶやきながらパソコンに文字を打ち込むチヒロを囲む輪に入った。
「コウくん、出られないってさ」
 私の言葉に、みんなはがっかりした顔を見せた。
「コウくんが出ないとなるとかなり変えなきゃいけないような……」
 チヒロが顎を右手に持っていたペンでトントンとたたきながらネタ帳を左手で肘に当て、首を傾げる。
「そうだね……まあ一切変えずに一年生の女子に代役やってもらって、コウくんがそこにいる体でやればいいとも思うんだよね」
「あ! それいーじゃん」
 チヒロはキーをたたきながら1年生の方を見る。
「1年生は異議なし?」
 1年生は揃ってうなずいた。
「誰がやるか決めといてよ?」
 チヒロが楽しそうにキーを叩く姿を、私は原因のわからない多幸感とともに眺めていた。
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