1 / 1
本編 あの日言えなかったこと
しおりを挟む
二年前、まだ自分が高校生をしていた時を思い出すような痛恨事だった。夜通しパソコンに向かって何とか納期ぎりぎりの原稿を仕上げたと思ったのに、データが保存する前に消えてしまっていたという惨事から早くも十六時間、徹夜作業も二夜目に入れば頭のネジなどとうに緩み、果ては理性や正気といった重要部品すらも取れてくるもので、僕は誰に向けてともなく、まとまりのない言葉の羅列を口の中でつぶやき始めていた。その中に流れていった言葉のどれかに、はっと胸の奥を突き刺されたような思いがした。
――どうして、僕は今こんな気分になっているんだろう。
何か靄がかかったような言葉の小川とは違う、ある種はっきりとした感覚。鋭い痛みも、冷たく鋭利な……何だろう。そこを言葉にしようとすると何か判然としない恐怖が頭を支配する。本能的な恐怖ではない、何か心臓を締め付けるような、しかし理性に基づいた痛みだ。その心臓を締め付けるというのも胸が苦しいとかそんなロマンチックなものではなく、トランプでタワーを作っていて最後の一枚を載せるときのような、ジェンガの崩れないぎりぎりを責めるような、そんな感覚。緊張と言うには何か違う情動。誤解を恐れず説明するなら「これまでうまくやってきた成果の全てが無に帰すことに対する恐怖」とでも言おうか。とにかくそんな感情が不意に僕を襲った。そして、説明しようとするたびに川に流れていった言葉の前から靄が消えていき、明瞭にその言葉を認識できるように視界が晴れていく。
「あなたのことが好きです」
これを言ってしまっては、恐らく……いや十中八九、それまで積み上げてきたものが無駄になる。そう考えて、積み上げてきたものを崩さないギリギリのタイミングにしか口に出さないと決めた言葉、極限的にはひらがな二文字で表せる気持ちが僕を苛《さいな》む。結局そんなタイミングは訪れなかった。それに最も近かったかもしれない二年前のあの日にも、僕はそんなことなど一切表に出すつもりはなかった。結局壊れるのが怖くて、人生の歯車なんて自分の手ではとても回せたものではないと思い知った。あの日言えなかったことを今言ったって、「遅かったね」とも言ってもらえない。今口に出して、何かが変わる気がしたのだとすれば、僕はそんな自分を許したくない。だから言葉には霞がかかっていたのだと思う。僕が自分の錯誤を認めたくないことを証明するために。変わることができなくても、などと考えていられる暇はもうない。急いで原稿を仕上げなければ、締め切りに間に合わない。僕はキーボードの上に手を置きなおして、修正後の文章を打ち始めた。
――どうして、僕は今こんな気分になっているんだろう。
何か靄がかかったような言葉の小川とは違う、ある種はっきりとした感覚。鋭い痛みも、冷たく鋭利な……何だろう。そこを言葉にしようとすると何か判然としない恐怖が頭を支配する。本能的な恐怖ではない、何か心臓を締め付けるような、しかし理性に基づいた痛みだ。その心臓を締め付けるというのも胸が苦しいとかそんなロマンチックなものではなく、トランプでタワーを作っていて最後の一枚を載せるときのような、ジェンガの崩れないぎりぎりを責めるような、そんな感覚。緊張と言うには何か違う情動。誤解を恐れず説明するなら「これまでうまくやってきた成果の全てが無に帰すことに対する恐怖」とでも言おうか。とにかくそんな感情が不意に僕を襲った。そして、説明しようとするたびに川に流れていった言葉の前から靄が消えていき、明瞭にその言葉を認識できるように視界が晴れていく。
「あなたのことが好きです」
これを言ってしまっては、恐らく……いや十中八九、それまで積み上げてきたものが無駄になる。そう考えて、積み上げてきたものを崩さないギリギリのタイミングにしか口に出さないと決めた言葉、極限的にはひらがな二文字で表せる気持ちが僕を苛《さいな》む。結局そんなタイミングは訪れなかった。それに最も近かったかもしれない二年前のあの日にも、僕はそんなことなど一切表に出すつもりはなかった。結局壊れるのが怖くて、人生の歯車なんて自分の手ではとても回せたものではないと思い知った。あの日言えなかったことを今言ったって、「遅かったね」とも言ってもらえない。今口に出して、何かが変わる気がしたのだとすれば、僕はそんな自分を許したくない。だから言葉には霞がかかっていたのだと思う。僕が自分の錯誤を認めたくないことを証明するために。変わることができなくても、などと考えていられる暇はもうない。急いで原稿を仕上げなければ、締め切りに間に合わない。僕はキーボードの上に手を置きなおして、修正後の文章を打ち始めた。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
男性向け(女声)シチュエーションボイス台本
しましまのしっぽ
恋愛
男性向け(女声)シチュエーションボイス台本です。
関西弁彼女の台本を標準語に変えたものもあります。ご了承ください
ご自由にお使いください。
イラストはノーコピーライトガールさんからお借りしました
【ショートショート】おやすみ
樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。
声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。
⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠
・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します)
・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。
その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる