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雪山の冒険
出発
しおりを挟む※しばらくチャック視点
僕はいつの間にか、ヒマラヤ行きの旅に賛成していた。自分でも気がふれたとしか思えない。
自転車をこぎ、ジェームズの探偵事務所に向かっている。周辺の道はせまく、住居に阻まれて日光はあまり届かない。小さな子供の肝試しに、ちょうどよさそうな雰囲気だ。
そんなことを考えているうちに、事務所が見えてきた。レンガ建てで屋根はなく、形は真四角。しかしビルとは言い難い。二階建てだし、壁のあちこちに複雑な装飾が施されている。それに、窓は一つしかない。一階は丸ごとガレージになっており、何台か車が止められる。
僕はため息をつき、建物の側面に設置してある螺旋階段に足を掛けた。これがまた、普通の階段の4倍ほどの時間がかかるのだ。そのうえ、とっても酔う。
二階に上がり、レトロな雰囲気の廊下に入った。床幅は二メートル程で、カーペットが敷いてある。天井には端正なシャンデリアが吊るしてあった。ドアを二回ノックし、返事を待たずにオフィスに入る。
オフィスもまた、中世の図書館のような壮大さを醸し出していた。窓と入り口以外の壁はすべて本棚に覆いつくされており、床はカカオ豆のような濃い茶色だった。窓の両端には縁が金色に装飾された赤いカーテン。照明に使われているのは、古風だが装飾の細かいランタン。天井から吊るされており、ファンタジー世界のような雰囲気を醸し出している。家具はほとんどなく、磨かれて見事なツヤを放つ木製テーブルと椅子、そして依頼人が座るためにあるのであろう、赤紫のソファーだけだった。
来るたびに僕は感銘を受けているのだが、来た本来の目的を忘れてはいけない。といっても、当のジェームズは部屋のどこにも見当たらなかった。
コツ、と背後で足音がした。ただならぬ殺気を感じ、毛が逆立つ。僕は素早く振り向き、拳を突き出した。が、そこには誰もいなかった。一旦落ち着こうと深呼吸をする。息を吸って、ふーっとはく。もう一度息を……
「ヒッ」
とっさに声が漏れ、息が止まった。首に殺気を感じる。対応する間もなく手刀に打たれ、僕は床に崩れ落ちた。
「やっぱり、まだまだだな。チャック」
うめきながら振り向き、忌々しい声の主を見た。ジェームズめ!
「この野郎……ホントに痛かったぞ」
私立探偵ジェームズは、煽るようにせせら笑った。この男の顔ときたら、ガリガリで、ヴォルデモート卿のように色白い。まるで、骸骨を半紙で覆って作られた張り子だ。しかし、決してそれを本人には言ったりはしない、僕はそう硬く決めていた。
「そうか? 相手が犯罪者のときと比べたら……」
「分かってるさ。構ってくれる奴が犯罪者しかいないんだ、加減ができないのも無理はない」
僕が見下すように言い返すと、ジェームズは余裕の表情を崩し、再び殺気立った。
前述の顔の例えを、彼に言わないのはこれが理由だ。その凍るような圧迫感は、僕のような非戦闘民には恐ろしすぎた。皮肉で煽るのは許容範囲内だろうが、中途半端な奴がケンカを売っていい相手ではない。長年の付き合いがある僕でも、いままさに彼の覇気に晒されて、震えているのだ。初見で圧倒されない人間など、いないんじゃないのか? だが真に恐ろしいのは、いま僕を捕らえている殺気は、ジェームズにとっては水道から垂れる雫だということ。つまり本気の殺気ではなく、抑えていた雰囲気をほんのわずか解放しただけの状態──ゾッとする。
「グフッ、耐性なさすぎだろ」
彼は再度一変し、腹を抱えて笑った。しぐさこそ明るく大げさだが、冷たい嫌味が込められた笑いだと一目で分かる。まさに、いまの殺気も演技だったというわけか……このゲス野郎!
だが、ここで煽りあっていてはキリがない。僕は用件を伝えるため、しぶしぶため息をつき「僕の負けだ」と悔しい宣言をした。
「なるほど、事情は分かった。だけど、なんで僕が、君たちの保護者にならなければいけないんだ?」
ジェームズは眉をひそめ、うなるように言った。
「頼むよ。頼れるのは君だけだ」
プライドを捨てて頼み込んでみる。が、ジェームズは大きなため息をつくばかり。
「保護者なら、他にいくらでもいるだろ」
「いいや。僕には両親がいないし、レオンの保護者は、年老いた叔父だけだ。それに、エミリーの家族に頼ろうものなら、確実な方法で旅を禁止されてしまうだろうな」
「待て。エミリーの家族に、伝えてないのか?」
「そうだけど、何か?」
「なんだと、お前……」
ジェームズは烈火のごとく怒り出した。
「ふざけるなよ! もしもその計画が、エミリーの家族にバレたら、責任は誰が取ることになると思う? この僕だ! 僕は彼女の家族から、大事な子供たちの命を危険にさらした、イカれている、などと罵られ、今まで築き上げてきたキャリアも、めちゃくちゃの木っ端みじんになる!」
「リスクは承知してる。だけど、他に誰を頼れと? 君の返事がどうであれ、エミリーの意思は変わらないに決まってる。つまりは、君が断ったら、僕たち三人だけで行くことになる」
ジェームズは息を整え、僕を見据えた。
「ふー、知らなかったよ。君がそんな情に厚い人間だとはね」
「あの二人だけで行かせるのは、見殺しにするのと同義だからな。止めても聞かない以上、ついて行くのが友達。そう思っただけだ」
僕は前を向き、ジェームズに告げた。
「分かったよ。君が覚悟を決めたというなら、側で見届けてやる。師としてな」
「師だって? よく言うよ。年は五歳しか違わないってのに」
笑みを浮かべ、吐き捨てるようにつぶやいた。
レオン視点
俺はチャックがもどってくるまでの間、エミリーと共に喫茶店にとどまり、気まずいひと時を過ごしていた。
オースティンはチャックの兄と、子守の打ち合わせがてら、ゲームセンターに遊びに行っている。考えるほど、チャックの弟を彼に任せていいのか、不安になる。ましてチャック本人は、どれだけ心配しているか……
しかし、そんなことは俺の眼中にはなかった。いまは、まさにエミリーと二人きり。邪魔は当分入らない。
さてどうするか。雑談をする? 思い切って告白する? それすら通り越して、抱き着く? いや、冷静にならないと。いまは緊急事態だ。こんな状況で有頂天になろうものなら、嫌われるぞ。
エミリーは俺の隣に座り、足を組んだ。分厚いコートを着ていなければ、さぞセクシーだったろう。
「ねえ、あなたはなんで、この旅に賛成したの?」
ふいに問いかけられた。俺は戸惑いを隠せず、慌てふためく。
「冷静に考えてみたら、チャックの反応が当たり前だって、気づいたの」
そう言って、自然な動作で俺の手を握るエミリー。緊張で思わず力み、俺は身体中を震わせた。彼女はそれに気が付いたのか、サッと手を離し、ため息をつく。
「興味ないように見えても、やっぱり男なのね。きっとチャックも、もしかしたらジェームズもそうなのかも」
「そ、そうかな」
俺の心臓は、かつてないほど激しく上下していた。体に毒だと思えるほどだ。
「でも二人は、なぜかは知らないけど、恋愛感情を拒絶してるみたい。けどあなたは違うのよね?」
俺の口から明確な返事は出てこなかった。彼女が何が言いたいのか、さっぱりだった。しかし、相変わらず心臓の躍動は止まらない。
「正直に言うと、私にも恋愛感情なんてものはないの。私にとってはマイクが全て。他の男には興味なかった。けど、そんな私の態度は、あの子のためにならなかったみたい。最近だと、マイクは私を煙たがるし、私自身はそんな状況が苦痛だった。私にはマイクが愛情、あるいは不満をぶつける唯一の相手だったから」
「話が見えないな」
俺はわけもわからず、そう口走った。
「つまり、私には……」
そのときだった。見覚えのある黒いスポーツカーが、猛スピードで店の駐車場に現れた。俺とエミリーが適度な距離を取る間もなく、それはスリップしながら駐車した。
「ジェームズめ、登場だけは派手な奴だ」
うめきながら、スポーツカーを見やった。ドアが開き、おぼつかない足取りでチャックがこっちへ歩いてきている。かなり酔っているに違いない。対して、運転手のジェームズは少し遅れて、レッドカーペットの上を行進する王族のごとく、どうどうと向かってくる。
喫茶店のドアを押しのけ、ため息をついてチャックは椅子に座り込んだ。ひどくやつれているように見える。出発前からこの調子で、本当に大丈夫だろうか。
「やあエミリー。旅の計画は立ててあるのか?」
ジェームズが店内に飛び込み、さっそくエミリーに問う。
「搭乗する空港はアルデヴィス国際空港、着陸先はネパールのカトマンズ空港」
アルデヴィスというのは、アメリカ本土付近にできた独立国家の名前だ。数十年前に海底火山の噴火によって、アメリカとロシアの国境海域にできた無人島が元らしく、付近の島に住む人々と政治家によって、一つの国家としてアメリカ、ロシアのどちらにも属さない独立国家となったらしい。
となると、疑問が浮かぶ。
「なんでアメリカの空港を使わないんだ?」
俺はいぶかしげに口にする。
「そりゃ、安いからに決まってるでしょ。アルデヴィスは科学が発達してるから、飛行機のコストも下がるらしいの。空港まで行く船の料金を差し引いてもね」
それを聞いて、ジェームズはほくそ笑み、意地悪く聞く。
「君の家は金持ちなんじゃないのか?」
「確かに家は金持ちだけど、私自身は金持ちじゃないの! それに、登山の装備やガイド代も必要になるし……」
エミリーはわずかに弱気を見せた。俺の目には相変わらず魅力的に映る。そんな彼女に対し、ジェームズはかぶりを振る。
「おいおい、待てよ。救出の上で、忘れてはいけない要素があるだろうが……時間だ、時間。アルデヴィスに船で向かってる時間なんて、ないだろう? なんだったら、手近な空港の搭乗費を僕が払ってやってもいい。後で返してくれるならな」
「ほ、ほんとに?」
「ああ。富豪の家に生まれた君に金を貸すなんて、ちょっといい気分だ」
ジェームズはいつにもまして、鼻を高くしてみせた。
「で、登山の道具はそろっているんだろうな?」
「もちろん。ロープに、テントに防寒着。あなたたちの分もね。ホワイトアウト対策
のゴーグルもあるし、クレバスがあったときのためのはしごも用意してある」
エミリーは、ピノキオと化したジェームズにも勝るほどの自信を見せつけた。
「クレバスってなんだ?」
チャックが聞いた。エミリーは一瞬前とは対照的に首を傾げ、あやふやな回答を口に出す。
「えーっと……確か、地中の氷がずれてできた、谷だったかしら」
「ああ、誰かさんの考えみたいに、とっても危ないぞ。なんの変哲もない地面が、抜け落ちるんだから──誰かさんの論理みたいにな」
ジェームズは悪意ありげにささやいた。なんか聞き覚えのある言い回しだ。エミリーは不快感をあらわにし、ジェームズをにらんだ。
俺たちの旅はこういった煽りあいから始まり──最後も煽りあいで締めることになる。
チャック視点
長い通路を駆け、トイレに飛び込んだ。喫茶店で店員のオースティンに、「うちのトイレは故障中」と言われた時のことを思い出した。カトマンズ行きの飛行機に乗り込んだいまとなっては、もはや遠い昔に感じるが、そのとき僕の胃にあったコーヒーは、ただいま腸の中で激しくうごめいていた。
普段の僕なら、ただの排出で解決できただろう。しかし、ヒマラヤに行くという事実と、弟が不良二人に放置されて飢え死にする未来像が、僕の不安をつのらせ、食道を圧迫し、胃に残っているいくらかのコーヒーを逆流させようとしていた。
手洗い場に突っ伏し、そのときを待った。これが地上の公衆トイレだったら、かなり恥じていたに違いない。これでも僕は、周りの目が気になるタイプなのだ。汚物をぶちまける様を人に見られたくなんかない。幸い、飛行機のトイレでは、それぞれの個室に手洗い場がついている。
「ウグッ」
呼吸が苦しい──ああ、到着前からこんなざまで、ヒマラヤ登山なんてできるわけがない──だが、そんなネガティブな考えはすぐに吹っ飛んだ。つらくて、思考する余裕がなくなったのだ。
「オエッ──」
一通り吐き出し終えたとたん、再び思考がもどる。
ああ、僕は何のためにここにいて、何のために吐いているんだ? マイクを救うため? そうだとして、この僕にそんなことが出来るのか?
僕は二重の苦しみに襲われ、むせび泣いた。命知らずな冒険家(誇張した例え)レオンの相棒であり、無敵の探偵(こちらは的確な言い回し)ジェームズの助手──僕、チャック・マーティンは、信じてもいない神に祈る羽目になった。
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