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第七章

イドラの思念

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 イシュタムは将たちの推測通り、黒塗りの馬車の中にいた。
 突然現れたイシュタムに、イドラの姿を借りたテュポーンは驚いた。

『貴様、どこから現れた…?』
「転移だ。おまえこそここで何をしている?」
『人間と取引したのだ。復活するまでの贄を繋ぐために』
「見返りは何だ」
『こやつらと敵対する人間共を食らってやることだ。ググッ…悪い話ではないだろう?』
「欲深い人間のやりそうなことだな」
『ググッ、貴様もエサにしてやる』

 イドラの左胸から黒い霧が湧き出し、イシュタムを包み込んだ。

『ググッ…溶けて私の一部となれ』
「フッ」

 それに構わずイシュタムはイドラの左肩を強い力で掴んだ。

『何っ…!』

 霧に包まれたイシュタムの身体は、他の人間たち同様、溶かされ消化されるはずだった。
 だが彼の肉体には何の変化もなく、そのまま居座った。

『むぅ…!?貴様、なぜだ…』
「現身とはいえ魔界の神である我をおまえごときが取り込もうとは笑止」
『神、だと…?』

 この時のイシュタムの言動はトワたちが知っている、ちょっと間の抜けたイシュタムのそれではなく、底知れぬ威厳に満ちていた。
 すると黒い霧は、イドラの左胸の中に吸い込まれて消えた。

「…感じるぞ、イドラの思念を」

 イシュタムは、イドラに触れたまま、微かに感じるイドラの思念を追って思念の空間へダイブした。


 イドラは暗い小さな部屋の片隅で、膝を抱えていた。
 思念の流れる世界で、イドラはこの小さな部屋ごと、何もせず、ただ揺蕩っているだけだった。
 そんなイドラが想いを馳せるのは、イシュタムのことばかりだ。
 バベルの洞窟で初めてイシュタムの現身うつしみを見つけた時、伝説の通りの姿に惚れ惚れと見つめたものだった。
 まさか、その現身に本物の神が宿るとは思いもしなかった。
 短い期間だったが、イシュタムと共に過ごした時間はイドラにとって、初めてのことばかりで心地よいものだった。イシュタムとの仲を取り持ってくれたイシュタルとの関係も興味深いものだった。
 イシュタムがイドラの胸から宝玉を取り除こうとしたのも、助けてくれようとしたからであり、殺そうとしていたわけではないのだろう。
 冷静に考えればわかることだったのに、まんまとテュポーンの術中にはまって、心を乗っ取られてしまった。
 だが、この想いだけは手放すわけにはいかない。
 イドラの最後の意識は、その想いだけで繋がれていた。

 この部屋はイドラの意識の最後の砦であり、テュポーンはこの部屋ごと丸呑みしようと隙を伺っている。
 意識がすべて乗っ取られてしまえば、テュポーンは自らを依り代として、未だ魔界にある本体を召喚し、こちらの世界に復活するだろう。

 テュポーンがこの世界で復活する目的は人間を食らうことだ。
 それは魔界の神イシュタムによってそのように作られたのだから、本能に従った行動なのである。
 意識を共有しているイドラにはテュポーンの考えていることが手に取るようにわかる。
 かつてのテュポーンは食欲という欲望の塊だった。
 ところが長年イドラの意識下に潜むうち、欲望を叶えるための知恵をつけるようになった。
 テュポーンはただの食欲の塊から、『生き物』へと変化しつつある。

 魔獣召喚の宝玉はイドラの体内に同化し、偶然か必然かイドラの体を媒介して魔界への道を繋げてしまった。その道は通常魔界バベルの扉によって閉じられており、イドラが魔獣召喚を行う時にだけ開かれる。
 テュポーンはイドラが魔獣召喚を行うたびに開かれる魔界の扉を通って、密かに魔界から忍び込み、イドラの知らぬ間に徐々に意識を侵食していったのである。

 テュポーンが復活すれば世界中の人間と魔族がテュポーンのエサとなるだろう。
 その復活を阻むためには、意識を支配されないようにするしかない。
 強固な意識を持てば、テュポーンといえど容易く呑み込めはしない。
 そのイドラの想いを支えているのは、イシュタムの言葉だった。
 こうなってしまってはもう会うことは叶わないだろうと思いつつも、まだ信じている自分がいる。
 必ず助けると云った、彼の言葉を。

 その微かな希望の思念を、イシュタムは感じ取った。

「イドラ…」

 イドラの意識はまだかすかに残っている。
 だが彼にはそこへ行く術がない。
 他人の意識下へ潜り込めるのは、彼の知る限り1人しかいない。
 イシュタムの意識はそのままトワの思念を追って亜空間を飛んでいった。


 イシュタムから体を託されたイシュタルは、馬車の中でテュポーンと向かい合い、無言で睨みあっていた。
 イシュタムの意識はどこかへ行ってしまい、突然1人にされた彼は、どうしたものかと考えあぐねていた。目の前にいるイドラはテュポーンというバケモノに支配されている。
 こんな状況で後を託されたイシュタルとしてはたまったものではない。
 まったく、勝手な神だ、と彼は心の中で文句を云った。
 テュポーンの方も、黒い霧が効かないイシュタムに対し、身動きが取れない状態だった。
 2人の間には、沈黙が流れたままだった。
 その沈黙を破ったのは、馬車の外から掛けられた声だった。

「イシュタム、そこにいるのか?」
「いたら返事をしてください!」
「テュポーンってヤツもそこにいるの?」

 イシュタルはその声に聞き覚えがあった。
 あの勇者候補たちの声だ。
 イシュタルの表情が少しだけ動いたのを、テュポーンは見逃さなかった。

『ググッ、エサが来たか。ここから出て行かねば外の奴らを食らうぞ』
「待て、外の人間に手を出すな」

 イシュタルは、馬車の扉を開けて、外へ出た。
 馬車の外にいたのは予想通り、将たち勇者候補だった。

「イシュタム!やっぱりここにいたのね!だ、大丈夫なの?」
「あの霧は平気だったの?」
「中にいたのはイドラか?テュポーンは?」

 自分たちがイシュタルの弱点になったとも知らず、彼らは矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。
 イシュタルは馬車の扉を閉めて、彼らを馬車から遠ざけようとした。
 すると将は逆にイシュタムを馬車の影に連れ込んだ。

「誰かに見られたらマズイだろ。あんた見たまんま魔族だし」

 幸い、この馬車の周辺には人が寄り付かないため、誰にもイシュタムが見咎められることはなかった。
 アマンダがローブを取ってくると云って天幕へ走って行った。
 イシュタルは優星の元の姿を知っていたので、元に戻れたのかと自分のことのように喜んだ。
 だが優星は、記憶を失って以降、初めて見る魔族に驚いていた。
 将は優星のことをイシュタルに説明するのを面倒くさがって、いろいろあって記憶を失っている、とだけ説明した。
 アマンダがローブを持って来てイシュタムに着せたが、ローブ職の人間にしては大きすぎて不自然だった。何よりその額の大きな角は覆い隠すのが難しい。この角のせいで人間のフリをするのを諦め、人目を避けてとりあえず自分たちの天幕へと連れて行った。

 ゾーイは1人で父親と話したいと云い、将たちと別れて宰相の天幕へと向かった。

「おお、ゾーイか。座りなさい」

 宰相は、天幕の中に置かれた椅子を息子に勧め、膝を突き合わせて話をすることにした。

「父上のおっしゃっていた切り札とは、あの馬車の中の者ですか」
「ああ、誰かから聞いたのかね?そうだ。あの馬車の中にはテュポーンと名乗る者がいる」
「テュポーンというのは伝説の魔獣の名ですが…」
「もちろん知っておるとも。だが、そんなものは存在しない。どうせ伝説の魔獣を騙る魔族だ」
「魔族ですって?」
「ああ、そうだ。特殊なスキルを持つ魔族だよ。1日に1人人間を生贄にくれとかいうので、こちらの戦力になってもらうよう取引をしたんだ。人間を食らう魔族がいるというのは驚きだったがね」
「…」

 ゾーイの父親は、あの馬車の中にいる者を単なる魔族だと思っているようだった。
 魔族が人間を食うなど酷い誤解と偏見だが、これも魔族に対する無知と無関心のせいなのだろう。

「だが、あの黒い霧を出すスキルは大したものだ。あの霧に触れると人間は消えてしまうのだよ。あの魔族はその霧を自在に操るのだ」
「そんな恐ろしいスキルの使い手が、裏切るとは考えないのですか」
「ああ、そんな心配はいらない」
「なぜです?」

 ゾーイは父親の秘密を知っていたが、あえて知らないフリをした。
 宰相はやけに自分の右の袖口をチラチラを見ている。そこに例の宝玉を隠し持っているのがバレバレだ。
 宰相はわざと話を逸らせた。

「まあ、良いではないか、そんなことは。それより今まで何をしていたのか、話してくれないか」

 父はやはり息子にも秘密を漏らす気がないようだ。
 その時、天幕の外で護衛の兵士の慌てる声が聞こえて来た。
 あまりに騒がしいので、宰相とゾーイが天幕を出ると、黒い霧がすぐ間近まで迫って来ていた。

「な…!なんだこれは…!こんなバカな…」
「すぐに逃げましょう」
「何かの間違いだ!あれが裏切るはずがない…!」

 宰相は慌てて自分の袖から宝玉を取り出した。
 ゾーイは、そのテニスボールほどの大きさの透明な玉を見た。

「私が説得する!」

 宰相はその玉を手に、馬車の方へ向かおうとしたが、息子によって制止された。

「自殺するつもりですか!」
「離せ!これは何かの間違いだ!もう一度説得を…」
「説得なんかできる相手ではないと、なぜわからないんです?」

 ゾーイは父親の手からその宝玉をつかみ取った。

「何をする!?」
「こんなものに頼るから、おかしなことになったんだ」
「返せ!それがないと私は…」
「まだ気づかないんですか!それに操られているのはあなたの方だということに!」

 ゾーイはその宝玉を思いっきり地面に叩きつけた。
 その衝撃で宝玉は、粉々に割れてしまった。

「うわああああ!な、何ということを…!」

 宰相は地面に跪き、粉々に割れた宝玉を前に嘆いていた。

「早く逃げましょう!」

 ゾーイは盾を構えながら父親の腕を無理矢理引っ張って、天幕から逃げ出した。


 一方、将たちはローブをかぶせたイシュタムを連れて天幕へ戻った。
 その時、ちょうど戻ってきたカラヴィアと鉢合わせした。
 カラヴィアはイシュタムを見て驚いていた。

「ちょっと…こいつまで一緒!?」
「この人、あの馬車の中にいたのよ」
「はぁ?」

 エリアナの説明にカラヴィアは混乱した。

「あの馬車にはイドラがいたのだ」
「へ?イドラ…?いやいや、あの馬車にはテュポーンて怪物がいたはずよ?」
「テュポーンはイドラの身体を乗っ取った」
「乗っ取った…って、じゃあ、イドラがテュポーン!?」
「待て。イシュタムが戻ってきた」
「ん?戻ってきたってどゆこと?ちょっともう、ワケわかんない!」

 カラヴィアが混乱して大声を張り上げていると、イシュタムは急に立ち上がって将たちに向かって声を荒げた。

「急いでここを離れろ!あれが復活しようとしている」
「あれって何だよ?」
「ともかく急げ!」
「意味わかんねえ!ちゃんと説明しろよ」

 将がイシュタムに噛みついた。

「もしかしてテュポーンが攻撃してくるんじゃ?」

 優星が云うと、エリアナが「マジ?」と聞き返した。
 カラヴィアが天幕の外を覗いて叫んだ。

「ちょ…!ヤバイじゃん!黒い霧みたいなのがこっちへ来るわ!」
「ええっ?!」
「黒い霧って、飲まれると食われるって奴か」
「間に合わぬ」

 イシュタムが諦めたように云った。

「あんた転移できんでしょ?ここにいる皆を連れて転移してよ」

 カラヴィアが云うと、イシュタムは目を瞑った。

「…近くに強い思念を持つ魔族がいるな…。よし、そこへ転移する」

 イシュタムが云うと、アマンダが慌てて云った。

「待ってください!ゾーイさんがいません!私、呼んできます!」

 アマンダは天幕を飛び出して行った。

「アマンダ!ダメよ、戻って!!」
 
 エリアナが叫んだ直後、天幕の中にいた者は全員、イシュタムの転移によりその場から姿を消した。
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