挫折した聖女は侍女へと転職し、貧乏領主の復興に尽力する《ガヴァルダ家 復興記》

ルイザ編

16 誘惑

　クロードの胸に当てたルイザの左耳に、激しく動揺する彼の鼓動がうるさいほどに聞こえてきた。
　空いている右耳で、上の階に集中する。
　掃除やベッドメイクをしているメイドたちの物音に混じって、はっと息を飲むような声が聞こえた気がした。

　引き離そうとするクロードに、ことさらにしがみつく。

「る、ルイザ様……やめてください。
　いったいなんですか、これは」
「だから好きなんだって。
　いつの間にか愛していたの。
　ああ、クロード！」

　彼のにおいが鼻腔をくすぐる。
　男性にこんなに近づいたのは初めてだ。
　無害で腰抜けなクロードが相手とはいえ、ルイザは自分がここまでやれたことに内心驚いていた。

　てこでも離れない勢いで抱きつく彼女に、クロードは無理やり引き剥がすのを諦めたようだった。
　背中に手を置いて説得してくる。

「ルイザ様、その……冗談ですよね？
　あなたは聖女です。
　こんなことをしてはいけません」
「ユーナだって聖女だったわ。
　あの子はよくて、アタシはいけないの？」
「う……。
　そういうわけではありませんが……。
　いや、だってこれ、嘘ですよね？
　あなたがぼくを好きになるわけがない」

　断言されると反抗したくなるのがルイザだ。
　抱きついたまま彼を見上げ、泣きそうな顔をして訴えかける。

「好きになるのに理屈なんて必要？
　そりゃあ最初は、『親友』の恋人として距離を置いて接していたわ。
　意地悪な女と感じたなら、きっとそのせい。
　あなたに惹かれる気持ちを必死にごまかそうとしていたの」
「いやいや……自然でしたよ。
　普通にキツい当たりでした」
「もうっ、そんな意地悪を言って！
　アタシがこんなにも素直になってるのに。
　クロードの馬鹿ッ！
　間抜け！　唐変木！
　人畜無害のでくのぼう！」

　罵りの言葉が次々と湧いてくる。
　楽しくなってきたが、これではいけない。

　ごまかすようにぴょんと飛び跳ね、クロードの首に両腕でぶら下がった。
　たまらず姿勢を低くした彼の顔に近づき、耳元でこっそりと囁く。

「いいから合わせなさい。
　まんざらでもない感じに対応して」
「ふあっ……？」

　クロードが耳を押さえてぶるっと震えた。
　どうやら口を近づけすぎて、彼の耳のなかに吐息がかかったようだ。

「気色の悪い反応」
「いや、だって……！」

　慌てて反論しようとするクロードの胸を、甘えるように何度か叩いて黙らせる。
　ふらついて壁際まで追い詰められた彼が、ぺたんと尻もちをついた。
　覆い被さるように壁に片手を突き、ルイザは言う。

「あんたを捨てて逃げたユーナのことなんて、もう忘れなさい。
　ううん、アタシが忘れさせてあげる」
「ルイザ……様……」
「様なんてつけなくていいわ。
　ルイザって呼んで」

　空いているほうの手で、クロードの頬を触る。
　親指の先で彼の下唇をくすぐりながら、自分の唇をそこに近づけてゆく。

「クロード……好きよ……」
「ルイザ……」

　顔を背けられるかと思ったが、クロードは逃げることなく、そのままギュッと目をつぶった。
　見てくれの悪くない男だとは思っていたが、こうして至近距離で改めて見ると、肌には傷ひとつなく、絹のようにキメが細かい。
　ユーナが男を顔で選ぶわけはないにしても、この顔のことはきっと愛しく思っていることだろう。

　この唇にキスはしただろうか？
　いや、当然したに違いない。
　ルイザは男を知りたいとは思わないが、熟れた桃をかじるように、目のまえのこの唇の感触を楽しむのはありかもしれないと思った。

　神様の加護が失われるだろうか？
　いや、きっと平気だ。
　これは情欲ではなく、芸術の鑑賞のようなもの。
　むしろ、ここまで接近しておいて何事もなく離れるほうが、人として正しくないような気がする。

　よし、キスはしておこう。
　ルイザはそう結論づけて、軽く唇を湿らせた。

　そして、自分も目を閉じると、ゆっくりと吸い寄せられるように彼の唇へと近づく。

　と、そこで――

「ダメーッ！
　ルイザ、ダメ！　やめてッ！」

　上の階のほうから、聞き慣れた人間の、聞いたことのないくらい慌てふためく声が響いてきた。