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クロード編
02 告げられた言葉
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(なんということだ……)
クロードの目の前にユーナがいる。
かつてガヴァルダ屋敷で一緒に生活し、それから二年間恋焦がれつづけた、ひとつ年上の女性。
舞台の上ではよく見えなかったが、彼女は当時よりもさらに美しさに磨きがかかっている。
艶めく栗色の髪は侍女らしく頭の後ろでくるりとまとめられているが、そのせいで白い首筋があらわになり、少女からおとなになったような印象を受けた。
優しく大きなグリーンの瞳は、窓から差し込む陽の光を受けてミステリアスに輝いている。
クロードは、彼女の瞳をいちばん近くで見たときのことを思い出した。
馬車の窓越しに抱擁された、別れの記憶だ。
豊かすぎる胸に抱きしめられながら見上げた彼女の目に、あのときクロードは完全に心を奪われた。
今もまだ、奪われたままでいる。
再会できたことが本当に嬉しい。
夢みたいだ。
だが――
「帰俗……?
聖女を、やめた……?」
テオはさっき、たしかにそう言った。
信じられない。
ユーナといえば聖女で、聖女といえばユーナというのがこの国の民の共通認識だったはずだ。
ユーナは、クロードの呟きが聞こえなかったのか、ただ微笑んでこちらを見ている。
聖女だったころと変わらない、優しく包みこむような表情。
彼女がもう聖女ではないなんて、なにかの間違いなのではないだろうか。
クロードがどう話しかけたものか逡巡していると、エリクが喜色満面で彼女に言った。
「ユーナ様!
このあいだ、豊穣祭のときに手を振ってくださいましたよね?」
「え、手を……ですか?」
「はい! ありがとうございます!
あれからおれ、仕事に気合いが入って入って、入りまくりなんですよ。
ああ、こんな近くでお会いできるなんて光栄です!」
「それは、その……よかったです」
ユーナが戸惑っている。
やはり、あれは横にいたエリクのほうに手を振ったわけではなかったのだ。
クロードは、自分が手を振られたというのが、ただの思い込みではなかったとわかって安堵した。
思えば、あれが合図だったのだろうか?
こうしてクロードのそばに来るという、彼女の決心を伝えてくれていたのかもしれない。
だとすれば、なにを慌てる必要があるだろう。
あのとき言われたではないか、「待っていてくれますか?」と。
約束どおりちゃんと待っていたことを示すためにも、ここで狼狽してはいけないとクロードは思った。
「ユーナ、これからよろしく」
「はい。精いっぱい、頑張ります」
努めて軽く挨拶したクロードに、ユーナはぴょこりと跳ねるようにおじぎを返した。
エリクがふたりの気安い雰囲気に驚いている。
「え? 呼び捨て?
あ……そうか、もう聖女じゃないもんな。
ユーナ、おれもよろしくね」
「はい」
エリクとクロード、それぞれがユーナと挨拶を交わしたのを見届けると、テオは彼女に下がるよう言った。
ユーナがクロードと旧知であることを話題にしなかったのは、エリクを気にしてのことだろう。
聖女ユーナの失踪は世間的には伏せられていることなので、彼女がガヴァルダ屋敷で働いていた事実は、できれば広まらないほうがいい。
ユーナが元の位置に戻ると、テオは「さて」と言ってクロードたちを見た。
「時間をとられてしまったな。
全体会議の時間も迫っていることだし、はやいところ配属先をきみたちに伝えよう。
まずはエリク――」
「はい!」
呼ばれたエリクが一歩まえに出る。
「きみは、この屋敷で事務をやってもらう。
……そんな嫌そうな顔をするな。
事務といっても土地管理が中心だから、実地に赴くことも多いし、羽を伸ばせる機会はある。
難しい顔をした年寄りばかりの職場に、きみの元気でぜひとも新しい風を吹かせてほしい」
「任せてください!」
明るすぎるエリクの声に、クロードは笑いをこらえるのが大変だった。
娼館の見回りでこそなかったが、警備や力仕事ではないという点において、彼の好みの仕事だろう。
年配の男に囲まれる職場は不本意かもしれないが、屋敷で働くのであれば、ユーナも含めてメイドが大勢いて、目の保養には困るまい。
クロードもすこし羨ましかった。
土地の売買にはテオが関わるから、きっと出張があればテオに同行する形になるはずだ。
彼の仕事ぶりを目にすることができる。
(まあでも、ぼくが狙うのはテオの補佐だ。
補佐はなにをするにも領主と一緒だから、考えかたや言葉のひとつまで逃さず学ぶには最適だ)
確約を得たわけではないが、何度も直接テオに希望を伝えているから、きっと汲んでくれる。
ちょうど、長年補佐をやっていた男が家業のために離職したと聞くし、ポストに空きはある。
クロードがまだ領主だったときに、あれほど親身になって借金の肩代わりまでしてくれたテオなのだ。
二年かけていろいろなことを学習させたのも、彼のそばで働くにふさわしい男に育てるために違いない。
「では、次にクロード――」
「はい」
エリクほどではないが、勢いよく返事をして、一歩まえに出た。
彼の口から「私の補佐を頼む」と言われたら、感極まって泣くかもしれない。
心の準備をして、クロードはテオの言葉を待つ。
「クロード、きみには責任ある仕事を任せる。
徴税人だ」
「え……」
徴税人。
税金の取り立て屋。
「きみにとって得るものは多いと私は考えている。
頑張ってくれ」
「……はい」
クロードは虚脱感に襲われていた。
かろうじて返事をして頭を下げたが、気を抜くとその場に倒れ込んでしまいそうだった。
得るものは多い?
失うものが多い、の間違いではないだろうか?
クロードにとって徴税はトラウマだ。
重税が原因で両親を失い、無税が原因で領地を失った。
課税の重要性は痛感したが、だからといって税を払えない者から無理やり取り立てたいとは思わない。
できれば税という言葉はもう聞きたくなかった。
無念さに涙が出そうだ。
鼻筋に力を入れて我慢する。
ユーナの目には、いまの自分がどう映っているだろう。
情けない姿に失望したかもしれない。
彼女にかぎってそんなことはないだろうが、でも、顔を上げてそちらを見る勇気が出なかった。
「それでは、失礼します」
どうにかその言葉だけは絞り出して、クロードはエリクと一緒に執務室をあとにした。
クロードの目の前にユーナがいる。
かつてガヴァルダ屋敷で一緒に生活し、それから二年間恋焦がれつづけた、ひとつ年上の女性。
舞台の上ではよく見えなかったが、彼女は当時よりもさらに美しさに磨きがかかっている。
艶めく栗色の髪は侍女らしく頭の後ろでくるりとまとめられているが、そのせいで白い首筋があらわになり、少女からおとなになったような印象を受けた。
優しく大きなグリーンの瞳は、窓から差し込む陽の光を受けてミステリアスに輝いている。
クロードは、彼女の瞳をいちばん近くで見たときのことを思い出した。
馬車の窓越しに抱擁された、別れの記憶だ。
豊かすぎる胸に抱きしめられながら見上げた彼女の目に、あのときクロードは完全に心を奪われた。
今もまだ、奪われたままでいる。
再会できたことが本当に嬉しい。
夢みたいだ。
だが――
「帰俗……?
聖女を、やめた……?」
テオはさっき、たしかにそう言った。
信じられない。
ユーナといえば聖女で、聖女といえばユーナというのがこの国の民の共通認識だったはずだ。
ユーナは、クロードの呟きが聞こえなかったのか、ただ微笑んでこちらを見ている。
聖女だったころと変わらない、優しく包みこむような表情。
彼女がもう聖女ではないなんて、なにかの間違いなのではないだろうか。
クロードがどう話しかけたものか逡巡していると、エリクが喜色満面で彼女に言った。
「ユーナ様!
このあいだ、豊穣祭のときに手を振ってくださいましたよね?」
「え、手を……ですか?」
「はい! ありがとうございます!
あれからおれ、仕事に気合いが入って入って、入りまくりなんですよ。
ああ、こんな近くでお会いできるなんて光栄です!」
「それは、その……よかったです」
ユーナが戸惑っている。
やはり、あれは横にいたエリクのほうに手を振ったわけではなかったのだ。
クロードは、自分が手を振られたというのが、ただの思い込みではなかったとわかって安堵した。
思えば、あれが合図だったのだろうか?
こうしてクロードのそばに来るという、彼女の決心を伝えてくれていたのかもしれない。
だとすれば、なにを慌てる必要があるだろう。
あのとき言われたではないか、「待っていてくれますか?」と。
約束どおりちゃんと待っていたことを示すためにも、ここで狼狽してはいけないとクロードは思った。
「ユーナ、これからよろしく」
「はい。精いっぱい、頑張ります」
努めて軽く挨拶したクロードに、ユーナはぴょこりと跳ねるようにおじぎを返した。
エリクがふたりの気安い雰囲気に驚いている。
「え? 呼び捨て?
あ……そうか、もう聖女じゃないもんな。
ユーナ、おれもよろしくね」
「はい」
エリクとクロード、それぞれがユーナと挨拶を交わしたのを見届けると、テオは彼女に下がるよう言った。
ユーナがクロードと旧知であることを話題にしなかったのは、エリクを気にしてのことだろう。
聖女ユーナの失踪は世間的には伏せられていることなので、彼女がガヴァルダ屋敷で働いていた事実は、できれば広まらないほうがいい。
ユーナが元の位置に戻ると、テオは「さて」と言ってクロードたちを見た。
「時間をとられてしまったな。
全体会議の時間も迫っていることだし、はやいところ配属先をきみたちに伝えよう。
まずはエリク――」
「はい!」
呼ばれたエリクが一歩まえに出る。
「きみは、この屋敷で事務をやってもらう。
……そんな嫌そうな顔をするな。
事務といっても土地管理が中心だから、実地に赴くことも多いし、羽を伸ばせる機会はある。
難しい顔をした年寄りばかりの職場に、きみの元気でぜひとも新しい風を吹かせてほしい」
「任せてください!」
明るすぎるエリクの声に、クロードは笑いをこらえるのが大変だった。
娼館の見回りでこそなかったが、警備や力仕事ではないという点において、彼の好みの仕事だろう。
年配の男に囲まれる職場は不本意かもしれないが、屋敷で働くのであれば、ユーナも含めてメイドが大勢いて、目の保養には困るまい。
クロードもすこし羨ましかった。
土地の売買にはテオが関わるから、きっと出張があればテオに同行する形になるはずだ。
彼の仕事ぶりを目にすることができる。
(まあでも、ぼくが狙うのはテオの補佐だ。
補佐はなにをするにも領主と一緒だから、考えかたや言葉のひとつまで逃さず学ぶには最適だ)
確約を得たわけではないが、何度も直接テオに希望を伝えているから、きっと汲んでくれる。
ちょうど、長年補佐をやっていた男が家業のために離職したと聞くし、ポストに空きはある。
クロードがまだ領主だったときに、あれほど親身になって借金の肩代わりまでしてくれたテオなのだ。
二年かけていろいろなことを学習させたのも、彼のそばで働くにふさわしい男に育てるために違いない。
「では、次にクロード――」
「はい」
エリクほどではないが、勢いよく返事をして、一歩まえに出た。
彼の口から「私の補佐を頼む」と言われたら、感極まって泣くかもしれない。
心の準備をして、クロードはテオの言葉を待つ。
「クロード、きみには責任ある仕事を任せる。
徴税人だ」
「え……」
徴税人。
税金の取り立て屋。
「きみにとって得るものは多いと私は考えている。
頑張ってくれ」
「……はい」
クロードは虚脱感に襲われていた。
かろうじて返事をして頭を下げたが、気を抜くとその場に倒れ込んでしまいそうだった。
得るものは多い?
失うものが多い、の間違いではないだろうか?
クロードにとって徴税はトラウマだ。
重税が原因で両親を失い、無税が原因で領地を失った。
課税の重要性は痛感したが、だからといって税を払えない者から無理やり取り立てたいとは思わない。
できれば税という言葉はもう聞きたくなかった。
無念さに涙が出そうだ。
鼻筋に力を入れて我慢する。
ユーナの目には、いまの自分がどう映っているだろう。
情けない姿に失望したかもしれない。
彼女にかぎってそんなことはないだろうが、でも、顔を上げてそちらを見る勇気が出なかった。
「それでは、失礼します」
どうにかその言葉だけは絞り出して、クロードはエリクと一緒に執務室をあとにした。
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