2 / 45
第一部
1話:集配魔術士は今日もしっかり集配をする
しおりを挟む 圭吾?
どきりとしてカップを持ち上げたまま動きを止め、京介は背後の会話に耳を澄ませる。
「早かったね」
聞き覚えのある声が応じて、自分の中にとげとげしたものが凍っていくのがわかった。
「一緒に来てくれればよかったのに」
「奈保子が見れば十分じゃないか」
「でも、新居、なのよ」
奈保子という名前を頭の中に刻み込んだとたん、新居、ということばが響いて瞬きする。
新居?
「二人で暮らしていく場所じゃない」
二人で、暮らす。
思わず微笑んでしまった。ゆっくりとカップを傾け、冷めたコーヒーを飲み込む。ちろ、とカップを舐めたのは癖になりそうな記憶のせい、けれど今胸に広がったのは深い安堵だ。
観葉植物の鉢を隔てて背中合わせに座っているのは大石圭吾に違いないが、その大石は結婚する予定があるらしい。しかも新居まで固まりつつあるならば、もう伊吹と縁はあるまい。
機嫌よく飲み干したカップを置こうとして、目の前の男がいまいましそうに舌打ちするのを見た。
「……くそっ」
低く唸った声にはまぎれもない怒りが籠っていて、誰かを彷佛とさせる黒い瞳にも猛々しい光が躍っている。
ひょっとして彼が気にしているのは大石じゃなくて、相手の女の方だったのか?
それはちょっと話がややこしくなる、そう思った瞬間、背後からためらった声が聞こえてぎくりとした。
「……ちょっと……結婚を待ってもらえないかな」
「……え?」
相手の女の声も驚いているが、京介は心臓を冷たい手で鷲掴みされたような気になった。
「何よ、急に。どういうこと?」
そうだ、それを京介も知りたい。
もちろん、結婚は成人していれば本人同士に決定権がある。けれど、それに伴う様々な事情は、社会で暮らす上でそうそう覆せるものではない。ましてや、あれほど行き届いた仕事をする大石が、何も考えずにそんなことを言い出すわけもない。
ならば、その、理由は。
「考えたい、ことが、でてきた」
歯切れの悪い口調で大石は口ごもった。
「仕事の展開が」
「嘘よ」
言いかけたことばを相手がばしりと遮る。
「嘘だわ」
そうだ、それは嘘だ。
京介も確信する。
大石が結婚前提の付き合いを始めていて、仕事の流れを考えなかったはずがない。
「………あなた、変よ」
奈保子と呼ばれた女は大石の沈黙に苛立ったように口を開いた。
「この間から、ずっと変」
「…この間から?」
「桜木通販? あそこと難しい話をまとめてくるって出かけてからずっと」
「っ」
一瞬息を呑んでしまって、目の前の男が不審そうに京介を見た。
「どうかしたんですか?」
「いや、ちょっと」
手を上げて、ウェイトレスにコーヒーの追加を頼む。ぼくもお願いします、と男が今度はココアを頼んだ。それからちょっと考えて、サンドイッチも付け加える。
「腹減っちゃった」
半分言い訳するように唇を尖らせて呟き、こちらに視線を上げてきたが、京介はそれどころではない。運ばれてきたコーヒーに手を伸ばし、指が震えそうになって、そっともう片方の手を添えて口元に持ち上げる。その耳に、迷った声で大石が続けることばが地獄の使者のもののように響く。
「まさか、まだ一人でいるなんて」
誰のこと?
喉を焼くコーヒーの熱さが遠い。
「……君は、美並は他の男と結婚したって言ったじゃないか」
詰るような大石の声が熱を帯びる。
美並。
京介がまだ伊吹さん、としか呼べないその距離を、時間を軽々越えて呼び掛ける甘い声音の意味を、誰が聞き損ねるだろう。
「失敗した僕を、見限った、と」
「……」
「確かに僕は美並のことばを頼りにしすぎた、だから失敗した。そんな僕を見損なって美並が離れていった、それはわかった。結婚すると言って施設を辞めた、それもわかった。僕ともう関わりたくなかったということだ、だから」
僕はあの後一切連絡を取らないようにしたんだ、彼女をこれ以上苦しめないように。
大石は堪えかねたような声で続けた。
奈保子は黙っている。
「嘘をついたのは……君だろう。なぜ騙した?」
そういう、ことだったのか。
京介はごく、ごく、と機械的にコーヒーを飲んだ。
大石は事業に失敗して、助言した伊吹の信頼を失ったと思ったのだ。そこへ伊吹が退職し他の男と結婚すると吹き込んだのが、この奈保子という女で、ひょっとすると伊吹に彼女のせいで大石が自殺したと責めたのも奈保子だったのかもしれない。そして、大石も伊吹もそれを真に受けて、お互いの気持ちを確かめることもなく、いや、たぶん、お互いを大切にするあまりに、黙って離れていった。
「桜木通販との折衝も、君は反対していた……美並が勤めていることを知っていたんだろう?」
大石は切なそうに訴えた。
「人から聞いたよ。君は美並に僕が自殺したと言ったそうだね。美並がどんなに傷つくか、わかっててやったのか?」
ごくん。
最後の一口が一気に喉を滑り落ちていって、京介はぼんやりとカップを見下ろした。
両思い、だったのか。
それどころか、今でも大石は、まとまりかけた結婚をためらうほどに伊吹のことを想っている、そういうことだ。
そして、伊吹も今もまだ、大石のことに関しては、激しく気持ちを揺らせてくる。大石の後を追い掛けて京介を振り返りもしなかった後ろ姿、半泣きでしがみついてきた弱々しさや、京介が自殺しかけた時に見せた激怒も、つまりは、心の隅に大石がいるからこそで。
唐突に、伊吹が作ってくれたあのふわふわしたミルクのコーヒーが飲みたい、と思った。
今すぐ時間を戻して、あの夜に戻りたい。笑う伊吹の顔を見ながら、温かいカップを抱えて寄り添いたい。
でも、たぶん、それは。
「……美並美並って、何よ」
がたん、と奈保子が席を立つ音がした。
「忘れないでよ、今のあなたの婚約者は私、岩倉奈保子、なの!」
ヒステリックな、けれど、底に痛いほど溢れている傷みに京介は胸が詰まった。
「あなたの隣にいるのは、私なの!」
「奈保子っ!」
大石がうろたえたように立ち上がって後を追う。
どきりとしてカップを持ち上げたまま動きを止め、京介は背後の会話に耳を澄ませる。
「早かったね」
聞き覚えのある声が応じて、自分の中にとげとげしたものが凍っていくのがわかった。
「一緒に来てくれればよかったのに」
「奈保子が見れば十分じゃないか」
「でも、新居、なのよ」
奈保子という名前を頭の中に刻み込んだとたん、新居、ということばが響いて瞬きする。
新居?
「二人で暮らしていく場所じゃない」
二人で、暮らす。
思わず微笑んでしまった。ゆっくりとカップを傾け、冷めたコーヒーを飲み込む。ちろ、とカップを舐めたのは癖になりそうな記憶のせい、けれど今胸に広がったのは深い安堵だ。
観葉植物の鉢を隔てて背中合わせに座っているのは大石圭吾に違いないが、その大石は結婚する予定があるらしい。しかも新居まで固まりつつあるならば、もう伊吹と縁はあるまい。
機嫌よく飲み干したカップを置こうとして、目の前の男がいまいましそうに舌打ちするのを見た。
「……くそっ」
低く唸った声にはまぎれもない怒りが籠っていて、誰かを彷佛とさせる黒い瞳にも猛々しい光が躍っている。
ひょっとして彼が気にしているのは大石じゃなくて、相手の女の方だったのか?
それはちょっと話がややこしくなる、そう思った瞬間、背後からためらった声が聞こえてぎくりとした。
「……ちょっと……結婚を待ってもらえないかな」
「……え?」
相手の女の声も驚いているが、京介は心臓を冷たい手で鷲掴みされたような気になった。
「何よ、急に。どういうこと?」
そうだ、それを京介も知りたい。
もちろん、結婚は成人していれば本人同士に決定権がある。けれど、それに伴う様々な事情は、社会で暮らす上でそうそう覆せるものではない。ましてや、あれほど行き届いた仕事をする大石が、何も考えずにそんなことを言い出すわけもない。
ならば、その、理由は。
「考えたい、ことが、でてきた」
歯切れの悪い口調で大石は口ごもった。
「仕事の展開が」
「嘘よ」
言いかけたことばを相手がばしりと遮る。
「嘘だわ」
そうだ、それは嘘だ。
京介も確信する。
大石が結婚前提の付き合いを始めていて、仕事の流れを考えなかったはずがない。
「………あなた、変よ」
奈保子と呼ばれた女は大石の沈黙に苛立ったように口を開いた。
「この間から、ずっと変」
「…この間から?」
「桜木通販? あそこと難しい話をまとめてくるって出かけてからずっと」
「っ」
一瞬息を呑んでしまって、目の前の男が不審そうに京介を見た。
「どうかしたんですか?」
「いや、ちょっと」
手を上げて、ウェイトレスにコーヒーの追加を頼む。ぼくもお願いします、と男が今度はココアを頼んだ。それからちょっと考えて、サンドイッチも付け加える。
「腹減っちゃった」
半分言い訳するように唇を尖らせて呟き、こちらに視線を上げてきたが、京介はそれどころではない。運ばれてきたコーヒーに手を伸ばし、指が震えそうになって、そっともう片方の手を添えて口元に持ち上げる。その耳に、迷った声で大石が続けることばが地獄の使者のもののように響く。
「まさか、まだ一人でいるなんて」
誰のこと?
喉を焼くコーヒーの熱さが遠い。
「……君は、美並は他の男と結婚したって言ったじゃないか」
詰るような大石の声が熱を帯びる。
美並。
京介がまだ伊吹さん、としか呼べないその距離を、時間を軽々越えて呼び掛ける甘い声音の意味を、誰が聞き損ねるだろう。
「失敗した僕を、見限った、と」
「……」
「確かに僕は美並のことばを頼りにしすぎた、だから失敗した。そんな僕を見損なって美並が離れていった、それはわかった。結婚すると言って施設を辞めた、それもわかった。僕ともう関わりたくなかったということだ、だから」
僕はあの後一切連絡を取らないようにしたんだ、彼女をこれ以上苦しめないように。
大石は堪えかねたような声で続けた。
奈保子は黙っている。
「嘘をついたのは……君だろう。なぜ騙した?」
そういう、ことだったのか。
京介はごく、ごく、と機械的にコーヒーを飲んだ。
大石は事業に失敗して、助言した伊吹の信頼を失ったと思ったのだ。そこへ伊吹が退職し他の男と結婚すると吹き込んだのが、この奈保子という女で、ひょっとすると伊吹に彼女のせいで大石が自殺したと責めたのも奈保子だったのかもしれない。そして、大石も伊吹もそれを真に受けて、お互いの気持ちを確かめることもなく、いや、たぶん、お互いを大切にするあまりに、黙って離れていった。
「桜木通販との折衝も、君は反対していた……美並が勤めていることを知っていたんだろう?」
大石は切なそうに訴えた。
「人から聞いたよ。君は美並に僕が自殺したと言ったそうだね。美並がどんなに傷つくか、わかっててやったのか?」
ごくん。
最後の一口が一気に喉を滑り落ちていって、京介はぼんやりとカップを見下ろした。
両思い、だったのか。
それどころか、今でも大石は、まとまりかけた結婚をためらうほどに伊吹のことを想っている、そういうことだ。
そして、伊吹も今もまだ、大石のことに関しては、激しく気持ちを揺らせてくる。大石の後を追い掛けて京介を振り返りもしなかった後ろ姿、半泣きでしがみついてきた弱々しさや、京介が自殺しかけた時に見せた激怒も、つまりは、心の隅に大石がいるからこそで。
唐突に、伊吹が作ってくれたあのふわふわしたミルクのコーヒーが飲みたい、と思った。
今すぐ時間を戻して、あの夜に戻りたい。笑う伊吹の顔を見ながら、温かいカップを抱えて寄り添いたい。
でも、たぶん、それは。
「……美並美並って、何よ」
がたん、と奈保子が席を立つ音がした。
「忘れないでよ、今のあなたの婚約者は私、岩倉奈保子、なの!」
ヒステリックな、けれど、底に痛いほど溢れている傷みに京介は胸が詰まった。
「あなたの隣にいるのは、私なの!」
「奈保子っ!」
大石がうろたえたように立ち上がって後を追う。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
老竜は死なず、ただ去る……こともなく人間の子を育てる
八神 凪
ファンタジー
世界には多種多様な種族が存在する。
人間、獣人、エルフにドワーフなどだ。
その中でも最強とされるドラゴンも輪の中に居る。
最強でも最弱でも、共通して言えることは歳を取れば老いるという点である。
この物語は老いたドラゴンが集落から追い出されるところから始まる。
そして辿り着いた先で、爺さんドラゴンは人間の赤子を拾うのだった。
それはとんでもないことの幕開けでも、あった――
チート幼女とSSSランク冒険者
紅 蓮也
ファンタジー
【更新休止中】
三十歳の誕生日に通り魔に刺され人生を終えた小鳥遊葵が
過去にも失敗しまくりの神様から異世界転生を頼まれる。
神様は自分が長々と語っていたからなのに、ある程度は魔法が使える体にしとく、無限収納もあげるといい、時間があまり無いからさっさと転生しちゃおっかと言いだし、転生のため光に包まれ意識が無くなる直前、神様から不安を感じさせる言葉が聞こえたが、どうする事もできない私はそのまま転生された。
目を開けると日本人の男女の顔があった。
転生から四年がたったある日、神様が現れ、異世界じゃなくて地球に転生させちゃったと・・・
他の人を新たに異世界に転生させるのは無理だからと本来行くはずだった異世界に転移することに・・・
転移するとそこは森の中でした。見たこともない魔獣に襲われているところを冒険者に助けられる。
そして転移により家族がいない葵は、冒険者になり助けてくれた冒険者たちと冒険したり、しなかったりする物語
※この作品は小説家になろう様、カクヨム様、ノベルバ様、エブリスタ様でも掲載しています。
レディース異世界満喫禄
日の丸
ファンタジー
〇城県のレディース輝夜の総長篠原連は18才で死んでしまう。
その死に方があまりな死に方だったので運命神の1人に異世界におくられることに。
その世界で出会う仲間と様々な体験をたのしむ!!
魔法が使えない令嬢は住んでいた小屋が燃えたので家出します
怠惰るウェイブ
ファンタジー
グレイの世界は狭く暗く何よりも灰色だった。
本来なら領主令嬢となるはずの彼女は領主邸で住むことを許されず、ボロ小屋で暮らしていた。
彼女はある日、棚から落ちてきた一冊の本によって人生が変わることになる。
世界が色づき始めた頃、ある事件をきっかけに少女は旅をすることにした。
喋ることのできないグレイは旅を通して自身の世界を色付けていく。
帰って来た勇者、現代の世界を引っ掻きまわす
黄昏人
ファンタジー
ハヤトは15歳、中学3年生の時に異世界に召喚され、7年の苦労の後、22歳にて魔族と魔王を滅ぼして日本に帰還した。帰還の際には、莫大な財宝を持たされ、さらに身につけた魔法を始めとする能力も保持できたが、マナの濃度の低い地球における能力は限定的なものであった。しかし、それでも圧倒的な体力と戦闘能力、限定的とは言え魔法能力は現代日本を、いや世界を大きく動かすのであった。
4年前に書いたものをリライトして載せてみます。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
目覚めれば異世界!ところ変われば!
秋吉美寿
ファンタジー
体育会系、武闘派女子高生の美羽は空手、柔道、弓道の有段者!女子からは頼られ男子たちからは男扱い!そんなたくましくもちょっぴり残念な彼女もじつはキラキラふわふわなお姫様に憧れる隠れ乙女だった。
ある日体調不良から歩道橋の階段を上から下までまっさかさま!
目覚めると自分はふわふわキラキラな憧れのお姫様…なにこれ!なんて素敵な夢かしら!と思っていたが何やらどうも夢ではないようで…。
公爵家の一人娘ルミアーナそれが目覚めた異なる世界でのもう一人の自分。
命を狙われてたり鬼将軍に恋をしたり、王太子に襲われそうになったり、この世界でもやっぱり大人しくなんてしてられそうにありません。
身体を鍛えて自分の身は自分で守ります!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる