闇に関する報告書

綾崎暁都

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一章

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 関東近海に浮かぶ人工島カグヤは、先週から続く寒気かんきによって、まだ本当の春が訪れていなかった。並木道の桜が今にも花開こうと蕾を膨らませているのだが、冷気混じりの春風によって未だ尻込みしている様子だ。
 この巨大な人工島は、元々、これからの未来の課題に対応すべく、実験的にいろんな制度を導入したりなど、スマートシティとして建造する予定だった。しかし、建造途中、日本国内の経済低迷や政治不安が一気に高まり、若者を中心に許可なく移り住む者たちが増え始めた。元々選ばれた人間だけがカグヤで住むことを認められていたため、このことにより、当初は本土から警察が介入したりなど問題もあった。だが、日本政府はカグヤへの受け入れを徐々に認めていく。その結果、日本人だけでなく、移民や難民を含めた、大勢の外国人もこのカグヤに移り住むこととなった。当初の計画から変更はあったものの、一国の島国のようであり、外国人が多く在住するカオスな都市のような存在として、カグヤは今現在の姿へと発展していく。
 このカグヤは当初の目的と同じく一国二制度を取っているため、通貨は同じだが本土と法律が異なる。つまり、この島全体が、ひとつの実験体として機能しているということになる。
 といった経緯で作られたこのとてつもなく大きな人工島、カグヤの五番街のアパートの一室から、諫山志貴いさやましきは事務所に向かうためドアを開けているところだった。家を出ると待ち構えているのは、春の風とは程遠い、木枯らしそのものだった。この黒髪の優男も、さすがの寒さで少し険しい表情になっていた。黒のコート姿で街を歩いている光景を目の当たりにすると、まだ四月の陽気とは思えない。
 事務所はアパートから歩いて三十分ほど、同じ五番街にある。事務所から距離があるのは、一応仕事を考慮してのことだ。朝の七時半、毎朝この時間帯に家を出る。
 志貴の事務所は元々探偵事務所として開業したのだが、探偵業だけではとてもだが食っていけなかったので、格安で何でも引き受ける便利屋としての仕事がメインとなっている。誰もやりたがらないような、公園のトイレ掃除や老人介護など、出来ることなら何でも引き受ける。
 志貴は事務所に行く途中、先週の仕事を思い出していた。稼業が稼業なだけに、なかなか趣味が持てない彼にとって、趣味みたいなものであり、日課となっていた。
 先週も便利屋として、建設現場、介護施設の欠員補充という形で働いていた。探偵のような仕事は、このところ全くと言っていいほどない。しかし志貴自身は、そのことについて、どこか平和で良いことのようにも思っているところがある。基本的に探偵のような仕事は、浮気調査や弁護士の依頼で事件の調査にあたるなどして、その過程で嫌なことに遭遇することが多い。サイコパスや余程タフな一部の人間でなければ、メンタルを病んでしまう。建設現場や介護施設なども大変な仕事だが、感謝されることがとても多い。便利屋のような形でいろんなところに引っ張られ、それはそれで大変だが、いろんな人と仕事を通じて触れ合えるこの日常を、志貴は大切にしていた。
 先週の仕事の内容を思い出しながら歩いていた志貴に、突然後ろから自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「志貴ちゃん、おはよ~!」
 振り返ると大きな人影が確認出来た。
「おはようございます、スミレさん」
 このセーラー服の上から同じ紺色のコートを羽織っている男性はゲイバーのママで、以前ある依頼を引き受けた時からの知り合いだ。元自衛官で身長は二メートル近くもあり、一八二センチの志貴とはだいぶ差がある。自称永遠の女子高生で、スカートの下のもじゃもじゃしたすね毛が何とも不潔だ。
「志貴ちゃん、この頃全く顔を見せないじゃない。ホント、冷たいんだから!」
 スミレはそう言うと、むっと顔を膨らませた。このときの顔といったら、まるでエサを頬張るゴリラのようだ。いや、三つ編みした黒い髪と塗りたくった厚化粧から、どこかの先住民族というべきなのか。とにかくあくが強い。志貴は引きつった笑みを浮かべながら、スミレと出会った頃のことを思い出していた。
 出会うきっかけとなったある依頼というのは、病欠のコンパニオンの穴を埋めるといったものだ。女装した黒のドレス姿の志貴は、店一番の華となっていた。志貴はむさい男たちに身体を擦り寄せられたことを思い出し、背筋がゾッとする。
「いや、最近忙しいもので……」
「ふん!どうせまた、おじいちゃんおばあちゃんのお世話でもしてたんでしょ。あたしに目もくれずに。でも、そういうところが、またグッとくるのよね!」
「いえ、仕事ですから」
「もう、謙遜しちゃって!あっそうそう、あのはどうしてる?あんたんとこの可愛い事務の」
「沙代ちゃんのことですか?元気に働いてくれてますよ。でも、珍しいですね。スミレさんが他の娘のことを、可愛いって言うだなんて」
「見くびらないでほしいわね。あたしだって、他の娘のことを可愛いだの綺麗だの言ったりするわよ。あたしが言いたいのは、上っ面だけ磨いてる今時の若いむすめどもに、調子に乗るなと言いたいだけなのよ!」
「ははははっ、スミレさん、どうなんです?自分のこと棚に上げてません?」
「そんなことないわよ。腹の奥底、どこまでもピュアなの」
 どこがピュアなものか。そもそもスミレという名前だって、あんたは決して可憐じゃないだろ!と、志貴は表向き笑顔を貫きながら、言葉に出さずツッコミを入れた。
「そろそろ行かないと。では、この辺で失礼します」
 スミレは志貴が別れの挨拶を切り出したせいか、寂しそうな表情をする。
「ホントつれないわね。どうしてなのかしらね、いい男はなぜあたしの前からいなくなってしまうのかしら」
「褒めて頂いて光栄です」
「まあ、いいわ。それじゃ、またね」
 スミレの後ろ姿を確認すると、志貴はホッとしたのか、穏やかに微笑んだ。だからといって、嫌いというわけではなく、決して悪い人物というわけではない。時々事務所に作り過ぎたお惣菜を持ってきたりなど、なかなか親切なところもある。自称女子高生ということもあり、仕事に出かけることを登校すると言っている。だが、この時間帯に会うのはめずらしい。
 そろそろ行かないと遅刻してしまうと思い、志貴は歩くスピードを速める。
 しばらく歩き下町のような区域に来ると、三階建てで廃ビル風の建物が目に入る。この建物の最上階に、志貴は事務所を構えている。他の階は空きになっていて、事務所の関係者と依頼人以外でこの建物に訪れるとしたら、郵便、配達、カラス、野良猫、後は外国人ぐらいだ。
 事務所の前に着くとスマホを取り出し、現在の時間を確認する。午前八時一〇分、いつもより一〇分の遅刻だ。
 建物の中に入ろうとしたとき、足首あたりに何かが触れた感覚がした。足許を見ると、以前からこの建物付近に居座るようになった黒白のハチワレの猫が、ニャーニャー鳴きながら志貴の足に身体を擦り寄せてきた。模様の感じからとても可愛らしい印象だが、よく見るとスタイルが良く、鼻が高くてキリッとした顔立ちから、どこか上品なようにも見える。志貴はしゃがんで喉を撫でてやると、バイクの音のように喉をゴロゴロ鳴らした。その様子に志貴は微笑むと、建物の中に入っていった。
 廃ビル内の薄暗い階段には、今日もお客さんがいる。アジア系外国人の二人組がホームレス同然のような格好で寝転がっていた。こんなにも寒いはずなのに、清々しい感じで寝ている。志貴は踏まないように気をつけながら、小声で「おはようございます」と挨拶をすると、二人も寝言のような感じで挨拶を返した。志貴はその様子に微笑むと、一番上の階まで行き事務所のドアを開けた。
 ドアを開けると、コーヒーを入れる事務員の沙代の姿が目に入った。沙代は志貴と同い年の二十五歳で。黒のショートカットの質素な女の子だ。
 志貴がコートと背広をハンガーにかけて椅子に座ると、沙代はマグカップを志貴のデスクの上に置いた。白いシャツと黒のベスト姿の志貴に、沙代は見惚れている。ネクタイを締め直す姿に、心をときめかせていたが、志貴と目が合うとどこか不満そうにツンとした表情になる。
「遅刻ですよ」
 志貴は沙代の本日第一声に、懇願を求めるような微笑を見せる。
「少しぐらいの遅刻は大目に見てよ。事務所に来る途中にスミレさんに捕まってさ、いろいろ大変だったの」
「スミレさん?あっ、あの永遠の女子高生を自称しているあの……良かったじゃない、あんな可愛い人に気に入られて」
「今日がエープリルフールだからといって、そんな冗談を言うのはやめて。あの悪夢をどうしても思い出してしまうから。沙代ちゃんにだって、あのときのことは話したでしょ」
 沙代は天井を見上げて、志貴が言うあのときのことを思い出していた。数秒後、沙代は何のことを言ってるのかが分かると、志貴に意地悪な視線を送った。
「悪夢?あっ、もしかして、最初に会ったときの依頼のこと?良かったじゃない。スミレさんからいろいろ聞いたけど、女の子から凄くモテモテだったんでしょ?」
「いや、女の子にモテモテとか決して……」
「あっそうか、ダンディーなお姉様たちにモテモテだったって言ってけ?ああ、いいなあ。わたしも羨ましい」
「あのときほど、自分のことを悲しいと思ったことはないんだけども……」
「後、志貴君のドレス姿、写真に撮っておけば良かった」
「嫌なことを思い出させないで」
「贅沢な悩みよね。わたしだって、言い寄ってくるかっこいいおじ様の一人や二人欲しいのに」
 沙代があまりに意地悪な口調を続けるので、志貴も少し意地悪な口調になる。
「だったら、お見合いの席でも設けようか?誰かいい人を紹介するよ。沙代ちゃんに似合いそうな、特別アクの強い人をね」
「ありがと。でも、まだ結婚したいと思っていないし、そういうのはマッチングアプリがあるから、志貴君がおせっかいしなくていいの」
「ああ、そう……それは良かった」
「ああ、わたしだってまだ若いんだし、結婚はまだ後で、いろんな恋をしてみたいな」
 志貴はこの言葉に声をあげて笑う。
「まるで不倫と病にかかったおばさんのセリフだな。沙代君もそのうち不倫とかして、それこそ、うちのようなところに依頼が来てもおかしくなさそう」
「そんなことないもん!」
「今はそうかもしれないけど、この先そうとはかぎらないよ。そう、時は実に残酷なものさ」
「何カッコつけたこと言ってんの!今時そんなキザなセリフ流行らないよ。そもそも、不倫とか嗅ぎ回る人間の神経が分からない。クズね!」
「でも、うちでそういう依頼もやったことあるでしょ?だったら、おれたちもれっきとしたクズだよ」
「それは志貴君だけね」
「そんな、ねえ、もうおれのこと、邪険にしないでよ。もう、ホント子どもなんだから。ねえ、沙代ちゃん」
「そんなふうに言って、本当はわたしのこと馬鹿にしてるでしょ?ああ、もうホントムカつく。何さ!顔がいいからって、あまり調子に乗らないでね」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。顔が良いのは自覚しておりました」
 志貴はさも紳士的に、深くお辞儀をした。沙代は志貴にからかわれたように感じ、急に黙り込む。
 志貴は沙代がなぜここまで不機嫌なのか、分からなかった。いろいろ理由を頭の中で考えるが、注意されることはあるとしても、ここまで意地悪な態度を取られるかと、首を傾げてしまう。沙代は時々、急に不機嫌になることがある。生理なのか、まあ理由はいろいろあると思うが、それが女の子というものだろうと、志貴はどこか納得していた。
 志貴はやれやれといった表情で立ち上がり、ポケットから飴玉を取り出す。そして、沙代の顔の前に近づけた。
「少し疲れてるんでしょ。ほら、飴ちゃんでも食べたら」
「子ども扱いしないで。そんな飴玉一つで機嫌を直すと思ってるの?ホント、デリカシーないよね、志貴君は。わたしはそんなに安くないの。それに、わたしが普段、飴なんか舐めてると思ってるの。ここ数年、飴なんて一度も舐めてないから。志貴君は、わたしのこと馬鹿にしてるの。つまり、わたしのことナメてるって、意思表示なのこれ?冗談じゃない!誰が飴を貰って喜ぶかってんだ」
「ハハハハっ!手厳しいねえ。はあ~、仕方ないな」
 志貴はそう言うと、飴玉を持ってる手を閉じた。
「ほら、見てて」
 志貴は沙代に再び優しい笑みを見せると、飴玉を握ってる手に力を込める。沙代は馬鹿にしやがってという顔つきで、志貴を睨んでいた。
 だが、志貴は真剣な様子だ。堅く握りしめた拳に意識を集中させている。そして、沙代に目を向けて、ゆっくりと手を開いた。
 しかし、志貴のピアニストのように綺麗な手に、飴玉の姿は見当たらない。だがその代わり、沙代が以前から食べたがっていた、人気お菓子店のクッキーが姿を現した。白く小さな満月のような姿を目の当たりにすると、沙代は思わず舌舐めずりをした。その様子を見て、志貴は半透明なフィルムにラッピングされたクッキーを取り出すと、ゆっくりと沙代の口元に近づけた。
 サクッ、気持ち良く歯切れの良い音を立てながら、沙代は満足そうな笑みを浮かべる。このときの表情を詳しく説明すると、まだ許したわけじゃないんだから的な、ツンデレな感じの、ツンデレ好きには思わずキュンとしてしまうような、そんな表情であった。
「お気に召しましたか?」
「これで許したと思ってるの?」
「まったく素直じゃないんだから。鏡で自分の顔を見てみたら。凄く嬉しそうな顔してるよ」
「こんなんじゃ嬉しくも何ともないよ」
「では、これだったらどうかな?」
 志貴はデスクのひきだしを開けると、何やら大きな包を取り出す。デスクの上に置いて、表面の白い紙を破ると、某人気お菓子店お手製のクッキーセットが姿を現す。その瞬間、沙代の瞳孔が拡張した。
「これ食べたい?食べたいんでしょ?それとも、欲しくないの?だったら、おれひとりで食べちゃうけど、それでいい?」
 沙代は誘惑に逆らえず、手を伸ばしてしまう。その様子に志貴はニヤッとした。
「そうそう、素直でなくちゃ」
 沙代はクッキーをつまみながら、志貴に背を向ける。
「まあ、これはあれよ。不可抗力ってやつよ。別に許したわけじゃないんだから」
「ホント強情だね。だったら、こうするしかないな」
 志貴は突然沙代に近づき、驚いた沙代は壁際に追いやられる。しかし、志貴は逃さないとばかりか、沙代と身体を密着させて、その結果志貴と壁との間の板挟みとなってしまった。沙代は何とか離れようとするが、志貴が沙代の両腕を掴み動きを止める。
「お願いやめて」
「うん?何が?」
「だから、やめてってば!誰かに見られたらどうするの?」
「見られることはないさ。だって事務所の中なんだし、おれと沙代ちゃんとのふたりっきりなんだから」
 今ふたりがこうしている姿は、まさに男女の逢い引きそのものだ。沙代のいかにも事務員らしい服装を見ると、まさに社内で密かに情事を楽しんでる若い男女の姿に見える。志貴は意地悪な笑みを浮かべると、沙代の耳許に甘く囁く。
「本当はこういうこと望んでたんじゃないの?」
「……」
「……?」
「……サイテー」
「サイテーね。これはまたキツいことを言われたな」
「……」
 沙代はこの事務所に来る前の、会社員時代の頃のことを思い出していた。マンネリとした毎日、ギスギスした人間関係、クレーム、そして上司のハラスメントと取られないぎりぎりの嫌がらせ。嫌な日常が過去のものになったと安心しきっていたのに、でも裏切られた。それと信頼している同い年の男子に。いろんな想いが一気に込み上げられ、沙代の瞳から涙がこぼれた。
 志貴は今までの少し意地悪な表情から真剣な表情へと戻り、そして、こう言った。
「おれがサイテーなやつに見える?」
 沙代は充血した目を志貴に向けたが、上手く答えられず困っている小さい子どものような顔になっていた。志貴は深呼吸すると、優しい顔で沙代の瞳を見つめた。
「……悪かったよ。少しムキになってた。何か沙代ちゃんが冷たくあたってくるからさあ、ちょっとムカついてた」
「……」
「最初は少しからかってやるつもりだったけど、やり過ぎたかな。ごめん、あやまるよ」
 志貴の言葉に、沙代も自分にも非があるといった感じで、申し訳そうな表情へと変わる。
「でもね、こうやって沙代ちゃんと触れ合いたいってのは本当さ」
 志貴は真剣な表情を崩さず、再び沙代に身体を近づけた。沙代は困った顔をして、少し抵抗する。
「おれじゃ駄目なの?」
「……」
「もう、我慢できないよ。こんなにも胸が苦しいんだ」
「ちょっと、志貴君!今はダメ!」
 沙代は顔が赤くなり、しどろもどろな様子だ。そんな状態の沙代に、とどめを刺すをような甘い言葉を囁く。
「今はダメって、じゃあ、いつだったらいいの?」
 この言葉に沙代は完全に逃げ場を失ってしまった。もう自分の気持ちに素直になるしか道はなく、沙代は恥じらいながらも、志貴の全てを受け入れるかのような表情をちらつかせる。
「ねえ……」
「……」
「……何か言いたいんでしょ?ほら、言ってごらん」
「好きにして……」
「何?聞こえない……」
「志貴君の好きにして……」
 お互いの背中や腰に腕を回し、そして徐々に顔を近づけていく。沙代は最初視線を逸らしていたが、お互いの顔が近づくにつれて、志貴の方に目を合わせていく。沙代は恋焦がれる乙女の表情へと変わった。
「……いいんだね?」
「うん……」
 見つめ合うと、ふたりは同時に唇を近づけていく。その様子は、まるでおセンチな観客を焦らすかのように、ゆっくりとお互いの肌の温もりから気持ちを確かめ合い、確実に距離を縮めてゆく。そして、触れるか触れないかぐらいの頃になると、志貴が目を閉じて、沙代も目を閉じた。互いの温もりを感じつつ、沙代は心ときめかせながらその瞬間を待った。
 だがしかし、唇に仄かな柔らかい感触が伝わると思いきや、沙代は自分のおでこに何かをピタッと貼り付けられたように感じた。沙代は目を開けると、志貴の笑いを堪えている様子が目に入る。額にくっついている紙を手に取って見ると、そこにはエープリルフールと書かれていた。
「‼︎」
「ハハハッ!沙代ちゃん、ごめん。今日はエープリルフールだから、ちょっと担がせてもらったよ」
「志貴てめぇ~!」
「でも、沙代ちゃんも沙代ちゃんだよ。こうやってさあ、依頼で頼まれた劇の練習に付き合ったんだから」
「わたしだけじゃなくて、志貴君も出るの!」
「あっそうか、そういう依頼だったよね。劇団員のふたりが事故で入院して、その代わりとしてね」
「そうそう!」
「でもさあ、練習のふりして、本当はその気だったんじゃないの?」
「違うもん!」
「えっそうかな?でもおれは、途中でこの前もらったシナリオ通りだなあって気づいてたけど」
「わたしだって、途中から志貴君が練習に付き合ってくれてるんだって、気づいてたんだから」
「まあ、いいや。でも勘違いしないでよね。おれはこんなクサいセリフ言わないからさ。こんなことで惚れないでよね」
「誰が!」
「さあさあ、仕事しようか」
「あっ、またちょっとバカにしてる!」
 沙代は悔しそうな顔を見せながらも、それと同時に笑っても見せた。志貴もそれを見て、心の底から嬉しそうな笑みを見せた。
 この痴話喧嘩のようなエープリルフール劇が落ち着くと、志貴はコーヒーを飲んでいた。沙代はクッキーをパクパク食べながら、デスクトップの画面を睨んでいる。
「今日は何か依頼とか入ってたっけ?」
「え~と、待って。今日も特に何も入ってないかな」
「そうか……ちょっと待て。今日は、じゃくて?」
「今日……も、だよ。あっ、ごめん。嘘嘘、今日の午前中、トイレ掃除の手伝いが入ってた」
「え~と、それ何だったっけ」
「知的障害者の人たちと一緒に、公園のトイレ掃除やるの。ほら、そういう方たちを専門に雇ってる清掃業者あるでしょ。人が辞めちゃって、指導する人が足りないからって」
「ああ、そういえば言ってたね」
「あと一時間後だから、ちゃんと行ってきてね」
「あんまり気乗りしないなあ」
「何言ってるの。これだって立派な大切な仕事なんだから、志貴君、ちゃんとやってよ」
「えっ!そんなこと言うんだったら、沙代ちゃん行ってきてよ」
「わたしはほら、事務所に誰かひとりは残らないといけないからさあ、ここでお留守番」
「また自分に都合のいいこと言って」
「えっ、わたしだってちゃんと仕事してるんだよ。こうやって、依頼のメールやスケジュール管理だって、わたしが全部やってるわけなんだし。それにこうやって、依頼のメールが迷惑メールなのかチェックするのだって、大変なんだから」
「じゃあ、おれがやるよ」
「だ~め!」
 沙代はそう言った数秒後、ため息をつく。そして、さらに数秒後、また怒った顔になる。
「ああ、もう!SNSからの依頼DMと迷惑DM、自動で分けるように設定しておいたのに、依頼のDMが迷惑DMに設定されてるみたい。事務所のチャットボットも不具合みたいだし、AI任せにしてたら駄目みたい。あっもう、逆に仕事が増えて困っちゃう」
「だったら手伝おうか?」
「いい。わたしがやるから。あっそうそう、思い出した。そう言えば、志貴君が来る少し前に依頼の電話があった」
「で、依頼ってのは?」
「何か人探しの依頼なんだって」
「何だか久しぶりに探偵らしい仕事ができそうじゃない」
「えっ、ここって探偵事務所じゃないでしょ」
「細かいことはいいから。で、依頼の内容は?」
「電話だけだからあまり詳しくは聞いてないんだけど、今日の午後四時にヤンさんのお店で依頼の内容話したいって。うちの事務所を紹介したのが楊さんらしくて。あっ、覚えてる?楊さんのこと」
「覚えてるよ。ああ、楊さんかあ。あれから元気にやってるかな?依頼のついでに、楊さんにも挨拶してこよう。ところで、依頼人って何て人?」
チェンって名乗ってた」
「陳って人と四時に待ち合わせと」
「あっそうそう、帰りに楊さんの店で焼き餃子買ってきてよ!」
「あれって正式なメニューじゃないでしょ?」
「でも、お願い。あれが一番美味しいんだから」
「分かった分かった。帰りに買ってくるよ」
「やったね!」
「そうこうしてるうちにもう時間だ。じゃあ、そろそろ行くから」
「餃子忘れないでね」
 志貴は立ち上がるとロッカーから作業着を取り出し鞄に詰める。そして、デスクトップと睨めっこしている沙代の様子を見てにっこりと笑うと、事務所を後にした。

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