蟻地獄は孤独な場所

綾崎暁都

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一章

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 朝陽が監房に入れられてから数刻が経過した。最初のうちは、白夜からこの監獄内での生活について、簡単な説明を受けていた。用を足す時は床の土を掘りそこで済ませて、済ませた後は掘った床の土を上から被せるなど、この監獄内で生活するための最低限の知識を聞いていたが、やがて白夜がなぜこの監獄に送られたのか、白夜の身の上話へと移っていく。
 白夜はこの監獄に送られる前から絵を描いており、普段から人の血を絵の具代わりに使っていたのだが、いつものように道端に転がっている死体から血を取っているところを軍関係者に見つかってしまい、そして、この地下監獄へと送り込まれたという。
 白夜の話を聞いていて、朝陽は吐き気と共に苛立ちを募らせていた。死体から取った血を絵の具代わりに使う神経が全く理解出来ず、生理的に受け付けなかった。そして何より、朝陽にとって、絵の具代わりに死体から取った血を使うこと自体、死者への冒涜ぼうとくの何物でもなかった。そのことについて、如何にも自慢気な口振りで語る白夜を見ていて、心底腹を立てていた。
 白夜は自分のことを語り終えると、朝陽の方に顔を向けた。
「ねえ、今度は君のことについて、話を聞かせてくれよ」
 白夜の言葉に朝陽は無言で答えた。
「聞こえなかった?今度は君の話を聞かせてくれよ。君が今まで何をしてきたのか。なぜここに送り込まれたのかを」
 白夜の言葉に再びだんまりを決め込んだ。白夜はそんな朝陽に対して冷笑を浮かべる。
「ねえ、なぜ黙ったままなの?僕がこうやって親切にもここでの生活について説明して上げて、自分の身の上話についても聞かせてあげたのに、君はそんな態度なのか。へえ~、君はこんなにも礼儀を欠いた人間なんだね」
 白夜にこう言われながらも、朝陽はまだ黙りを決め込んでいた。
「ねえ、お願いだから、そろそろ何か喋ってくれよ。ここで生活を共にする以上、僕は君のことを知っておきたいんだ。それは君にとってもそうだろう?だから、僕は君に、僕自身についての話をした。だから、今度は君の番だ。そうでなければ公平ではないよ」
 白夜は何とか説得する形で朝陽に言葉を投げかけたが、朝陽の態度は全く変わらない。
「朝陽、君がここまで失礼な男だとは思わなかったよ。こんなにも親切にしてあげたのに、君はそれに感謝の意も示さない。君は良心というものを全く持ち合わせていないんだろうね。だからこそ、ここに送られてきた。それほどまでに、残酷な人間なんだよ、君は」
 白夜の今まで以上に意地悪な言葉に、やっと朝陽も口を開く。
「……黙れ」
「……聞こえなかった。今何て言ったの?」
「……だから、黙れと言ってる」
 朝陽は白夜の方に顔を向けず、ボソリと言葉を吐いた。
「……黙れって、僕は君に親切に接したつもりだけど、君は僕のことを邪険に扱う。これは一体どういうことなのかな?君はそれほどまでに、不道徳な悪人ってことなのかい?僕なんかが想像もつかないワルなんだろうね、君は。そんなことで恥ずかしくないのかな?」
「……はあ~、だから、黙れと言ってる」
「黙れ黙れって、君はそれしか言えないのかい?随分語彙力が無いんだね」
 白夜の言葉に再び黙りを決め込む。
「そんなことだと、後々後悔するよ、きっと。だから僕なら、君に何か助言を与えられるかもしれない。だから、君のことについて、話を聞かせてくれ。そうでないと、公平じゃない」
「……公平?何が公平だ。あんたの方から勝手に話し始めたことだろうが。俺は一切頼んでない」
「つれないねえ。でも、そんな態度取ったままでいいのかな。僕ならまだそれでいいかもしれないけど、他の囚人であればどうだろう。ここにいる囚人たちは、どれも本当に優しくてね、君のそんな態度を見たら、徹底的に面倒を見て上げるだろうね」
 白夜は今までとは違い、狂気を孕んだ微笑みで、朝陽に語りかけた。白夜の言ってることと、醸し出す雰囲気も伝わったのか、朝陽はこめかみから汗を一筋流した。その様子を見て、白夜はニヤリと笑う。
「強がるのも程々にしないとね。ここの囚人はもちろんだけど、看守はもっと強引な方々ばかりだから、長時間徹底的に快楽を与えられた挙句、天国へと向かってしまうことになりかねないからね。いや、地獄かな。ハハハハっ」
 白夜の最後の高笑いに、朝陽は思わず身体を震わせてしまう。そんな朝陽に対して、白夜はどことなく優しい微笑みを見せる。
「でも、僕なら君を守れるかもしれない。僕はこう見えても、結構世渡りが上手い方なんだ。だからこそ、今もこの監獄で生きている。ここで生き抜くのは、本当に大変なことなんだ。君が思っている以上にね。こうやって一緒の部屋になったのも何かの縁だ。僕が君のことを守ってあげるよ」
 白夜が優しい口調で語りかけたものの、朝陽はまだ気を許せずにいた。
「守ってあげる?俺のことを、見ず知らずのお前にか。信用できないな」
「どうして?」
「死体を絵の具代わりに使うような奴のことなんて、信用出来るか」
「なるほど、僕への嫌悪感はそういうことか。でも、殺して血を取ったわけじゃないよ。死体なんてこの国には普通に転がってるじゃないか。普通に外を歩いてれば、死体がいくらだって転がってる。君だってそのことは知ってるだろ?だから、それを無駄にならないよう、僕なりの方法で使っただけだよ」
「そんなこと人として間違ってる。それは死者への冒涜だ」
「人として間違ってるね。どうも君は崇高すうこうな心の持ち主らしい。でも、だったら、道端に死体が転がってたりしないよ。であれば、君の方が間違ってるってことになる。この国、いやこの世界にとってね。そうでなければ、君はここへと送り込まれてはいない。違うかい?」
 白夜の言葉に朝陽は上手く言葉が出せずにいた。
「……であるなら、この世界の方が間違ってるんだ。だから俺は……」
 朝陽は語気を強めるが、途中で言葉を途切れさせてしまった。そんな朝陽を、白夜は真っ直ぐ見つめる。
「そうか。君は戦ってたんだね。朝陽……」
 白夜の言葉に、朝陽はこめかみから汗を流した。そんな朝陽を見て、白夜は微笑む。
「そして、敗れて、捕らえられ、ここまで連れてこられた。違うかい?」
 そう言いながら見ている朝陽の瞳には、どうやら絶望しか映っていないかのようであった。朝陽は再び言葉を閉ざしてしまった。
「君にいいものを見せてあげよう」
 白夜はそのように言うと、突然服を脱ぎ始め、上半身裸になった。白夜の身体は肋骨が浮き出るほど酷く痩せていて、身体の至る所に刺青が彫られていた。それは壁に描かれた絵と同様、どれも惨く禍々しいものであった。
 そして、白夜は朝陽に背を向けた。背中にも同様、刺青が入っていたが、今までの絵や刺青と違い、百足ムカデ蟷螂かまきり、蜘蛛、蠍、蛇、蛙などの昆虫や小動物などが無数に描かれており、それらが集まり、一つの大きな壺の刺青にもなっていた。
「朝陽、この背中の刺青をよく見るんだ」
 白夜の言動に反応したのか、朝陽は虚ろな瞳の状態で、不意に白夜の背中に目がいく。最初はただ単に、たまたま視線がそちらに向いただけであったが、白夜の背中の刺青に目の焦点があった瞬間、一瞬強く鼓動が鳴り響き、朝陽は刺青として描かれた壺の中に吸い込まれるような感覚になり、気を失ってしまった。そして、やがて気がつくと、朝陽は先程とは違う場所にいることに気がついた。
 そう、朝陽は戦場に立っていた。朝陽は軍政権による独裁支配に対する反政府組織の一員として、同胞と共に戦っていた。彼らと軍政権との争いは激しさを増し、市街地は燃え広がり、多くの敵味方の死体が転がっていた。
 戦闘が終わりアジトへと戻ると、殺気と絶望が入り混じった仲間たちが一変、勉強会を開き意見をぶつけたり、それで喧嘩になったり、夢を語り合ってたりしてた。それが朝陽の日常。
 そう、あのときも、朝陽は仲間と共に、政府高官がいるとの情報のある、とある建物の中に入り込んだ。いつものごとく、建物の中は燃え広がり、多くの敵味方が銃弾に倒れる。
 そんな中、朝陽たちは敵を撃ちながら、建物の奥の部屋へと向かう。可能な限り全ての部屋を見て回ったが、標的としていた政府高官の姿は見当たらない。
 そうしているうちに、どんどん状況が悪い方向へと流れていく。建物周囲を敵に取り囲まれ、敵がどんどん建物内に流れ込む。
 銃撃がどんどん酷くなり、押され始め、同胞がどんどん死んでいく。次第に朝陽の身体にも銃弾が掠め、建物の奥へと追いやられていく。そして、政府高官がいる可能性の高かった部屋の中へと逃げてきた。
 机の下に隠れた状態で、部屋の外の様子を見る。またひとり、またひとりと、仲間が銃弾に倒れていく様子が目に入る。
 廊下で応戦していた仲間が全て銃弾に倒れたため、逃げきれないと思ったのか、一緒に隠れていた同胞が、飛び出して敵に無鉄砲に撃ちまくっていた。しかし、弾は敵に掠りもせず、あっけなく眉間を撃ち抜かれて倒れてしまう。
 味方が全員やられてしまった、この絶望的状況に、朝陽は汗、そして震えが止まらなかった。
 朝陽は革命のためなら、自己犠牲、自分の死すらいとわない覚悟であった。
 しかし、いざ自分の死が現実的なものになろうとする今この瞬間、恐怖に身体が震えてしまう。
「どうしたんだ?俺はこの国を変えるためなら、自分の死すら覚悟してたはずだろ」と心の中で自分自身に言い聞かせながら、飛び出して敵をひとりでも葬りさろうと、頭の中で想像した。
 しかし、想像したところで、身体が動かない。恐怖でその一歩が踏み出せずにいた。
 そう頭の中で自身と戦っているその間に、朝陽は自身でも気づかないうちに、敵がすぐそばまで迫っていた。
 気づいたときにはもう遅かった。背中に銃を突きつけられる感触が伝わる。その瞬間、朝陽の心臓の鼓動は一気に高まった。
 朝陽は銃を持つ手に力を込め、振り返って敵を撃とうとする。だがその一歩が、どうしても踏み出せずにいる。身体が震えて動けない。
 そして朝陽は、手に持っていた銃を床に落としてしまう。両手を上げた状態で、身体を床に伏せてしまった。
 その後すぐさま敵に取り押さえられ、手錠をかけられる。そして、外へと連れて行かれる最中さなか、朝陽の目に映る光景は、銃弾に倒れた仲間の死体だけであった。そう敵に屈服し、敵と自分自身の信念に対して、完全に敗北してしまったのだ。
 この一連の光景が蘇った後、朝陽の視界がぐるぐる回りだし、気がつくと元いた監房へと景色が変わった。
 朝陽は何が起こったのか分からず、混乱していた。その様子を見て、白夜は嘲笑うかのような笑みを浮かべていた。
「……一体何が起こったんだ?」
「混乱しているようだね。そうだよ。僕は魔法が使えるんだ」
「……魔法?」
「妖術とも言い換えてもいい。優れた画家が描いた絵には、その描いた絵の世界観に一気に入り込めるほどの魔力が込められていたりもする。夢を見せられるんだ。そういうものなんだよ。優れた芸術家が作った作品ならね。この刺青もそうさ。僕の作品だ。独りで彫るのは苦労した」
「……」
「ところで朝陽、君はどんな夢を見たのかな?」
 白夜の言葉に朝陽の瞳は絶望に染まった。
「……地獄だよ」
 朝陽の言葉に白夜は暗く微笑んだ。

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