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魔狼の森 ~ 朝靄の街(ティアルサーレ)
36. 酔っ払いに絡まれる
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皆で何日も続く長雨を覚悟したのに、不思議と夜にはすっかり晴れた。
「こっちよ」
翌日、火の日の午後になり、街の広場で行き交う人をぼんやり眺めていたら、オルラさんに手を取られる。
今日は赤い線で縁取りされたクリームイエローのドレスを着て、ちょっとおめかし黄肌美人だ。反対側の腕には赤蔦で編んだ買い物篭を抱えている。
≪黄色い肌なのに髪は真っ赤だね≫
≪ん? そりゃ髪を染めておるからじゃろ。しかし肌と同じ色味とは限らんぞ?≫
ややこしいな。私がこれまで会った人は、肌と髪を揃えていた気がするのだけど。もしかして、前髪のひと房だけ薄黄色なのが地毛なのかな。
≪王都に行けば、もっと色々おるわい。ここら辺は霊山の裏手で田舎なのじゃ≫
そこで都会と田舎を線引きする『常識』は私にはなかったよ。爺様の解説に、へむむむとアヒル口で唸る。
神殿の密室は薄暗かったけど、悪徳魔導士たちの肌や髪も近くで見たら違ったのかもしれない。
赤茶色の石畳を歩く私は、全身緑の着たきり雀。ふんわり若竹色のコートに渋めの松葉色ズボンだからね。
でも中のブラウスは交換したし、首元には柘榴色の幅広マフラーと、手元には辛子色の指なしミトンが加わった。
家の中でもずっとコートを着込んでいたら、寒がりなのだと思われたらしい(確かにそうだけど)。外出するときはもっと温かくしていけ、とオルラさんが完全装備してくれた。
エトロゥマお母さんの手作り品だ。毛糸の材質がいいのか、ちっともゴワゴワちくちくしてない。
こんなに見知らぬ旅人に親切にして大丈夫なのだろうか。逆に心配になるくらいだけど、どうやらこれにはオルラさんの罪滅ぼしも一枚噛んでいたと発覚。
夜、寝静まった時間を見計らって台所へと行ったら、先客がいたのだ。
「アタシねぇ、本当はすっごぉぉぉい自己中なのよぉ」
こっそり忍び込みたかったが、酔っぱらったオルラさんが座れとばかりに隣の椅子をぺしぺし叩く。魔道具の天井灯りは消され、テーブルの上には燃える青蝋燭が一本。
飲み口に精霊四色の線が引かれた乳白色のマグカップには、薄っすら水色のお酒が入っていた。
赤ストローも差し込まれている。繊維質な質感から紙を巻いてると思ってたけど、まんま何かの茎だ。イネ科植物かな、固そう。カップの底をその棒でコンコンとつつく仕草は、お父さんのトゥーハルさんとそっくり。
ぽてっと丸く大きな酒瓶は、ラベルがないから葡萄酒なのか林檎酒なのか、はたまた別のお酒なのか不明。
カクテルでもないのに、赤ストローで中身をちょいちょい混ぜるのがこちら流みたい。じゃあ度数が強いのかといえば、マグカップは大きいし、水分で薄めてないし、カップに直に口をつけてガブ呑みしてるし。変なの。
「姉さんがクビになったとき、立ち回るのが下手だからよって心の中では馬鹿にしたわ。ひどくない、アタシ?
え? ああ、言わなかったっけ? 姉さんを左遷した――上司、みたいな感じかな。その人の所でアタシも働いていたの。だってホラ、王都って憧れじゃない。みんなは帝都に行きたがるけど、アタシは王都が好き。
だから中等部からは親に頼みに頼んで、姉さんにくっついて王都で寄宿舎生活よ。卒業しても姉さんのコネで就職して、竜騎士用の部屋で一緒に住まわせてもらってたの。
なのに姉さんの味方をするどころか、なんて要領が悪いのって腹を立てたわ。ホント最低よね」
≪王都の寄宿舎? お金がかかるってこと?≫
熊爺はベッドに置いたまま。代わりに訳してくれた足元のカチューシャに確かめる。
≪まぁ恐らくは……竜騎士になる学校は、どこの国も都に一校だけなのよ。しかも学費とか基本の生活費とかが免除されるから、その寮に転がり込んだってことかしら?
親に無理を言ったのなら、隣に建ってる貴族の学校に入学させてもらったのかも≫
≪貴族じゃないのに?≫
≪成績が良かったりコネがあれば、庶民でも入れるわよ≫
何がいいのか解らないけれど、若いお嬢さんが都会や貴族へ憧れるのは万国共通らしい。でも私はそんなものよりフィオのご飯がね。
もちろん無断で盗るつもりはなく、「お腹が空いたので果物を頂きました、ごめんなさい」と書いた手帳の切れ端と馬助銀貨一枚を用意していたので、それをおずおずと見せる。
「なぁに? 果物? んーそこら辺から勝手に取っちゃっていいわよ。
そいでね、その上司がさ、無理難題ばっか言うわけ。でもアタシはうまいことおだてて、毎回かわしてたのよ。同僚はしょっちゅう罵倒されてたけど、庇ったことなんてないし。
黙って見てるか、用事を探して逃げたわ。ねー、アタシってひどくない?」
……絡み酒、というやつだろうか。困った顔で、さぁどうでしょう、と首を傾げてみるが、コートの端を掴んだまま離してくれない。
もう片方の手は赤い棒を握り、マグカップの底へガシガシ突っ込んでいる。なんか割れちゃいそうで、見てるほうがハラハラした。
「なのにさ、その上司がケーキが不味いって床にワザと落としたとき――アタシ、キレちゃったの。それでクビよ、クビ。
上司が蜘蛛を踏みつけて殺そうが、贈られた花を叩き潰そうが、平然と眺めていたのに、たかがケーキって! まぁ、雨の日にわざわざ買いに並ばされたから鬱憤が溜まっていたのかもしれないけど、でもね、ケーキで王都にいられなくなるって、どうよコレ?
姉さんや同僚がいじめられても助けなかったから、精霊様に見放されたのかなぁ。
そもそも精霊の日もちゃんとしてなかったし。食事しても、『精霊に』なんて言わなかったし。だから罰なのかなぁ」
≪精霊の日って満月になる週末のことだよね?≫
≪そうよ。毎月、二週間目が土の精霊の日、三週間目が水の精霊の日、四週間目が火の精霊の日、五週間目が風の精霊の日。
昔はどこの自宅にも祭壇があって、その前に花を供えて香を焚いてお祈りしたの。今は廃れているけど、信心深ければ自分の守護精霊の休日くらいは多少は何かするかしら≫
ようは、神棚とか仏壇みたいなもんかな。守護精霊というのは生まれた日で決まると解説してくれた。
≪一週間目は何の日?≫
≪闇夜になるのよ≫
白犬の目がなぜだか泳いでいる。微妙に話を逸らしてないか。
≪誰か祀るの?≫
≪せ、精霊様かしらね、諸々よ≫
長年この国で人間と一緒に行動してるくせに、急にざっくりした説明だな。
コートを掴むオルラさんの手が離れ、酒瓶に向かった。もう一杯あおるつもりらしい。その隙にカチューシャの前にアイス棒を並べて単語を教えてもらって、手帳に書き取る。
ロクに会話できないからね、どれもコートのポケットに常備していた必須アイテムなのだ。
そして食器棚から、透明のガラスコップと素焼きの受け皿を出す。どちらも縁に精霊四色の線が引かれていた。火の消えたオーブンからは、その上に置かれっぱなしの薬缶を取ってきて、テーブルに戻る。
「コレ」
「んー? 『怒り』?」
「ソウソウ」
手帳の単語を読んでもらってから、手に持った薬缶を指し示す。
「コレ、オルラ」
受け皿の上に置いた、うんと小さなコップを一度持ち上げてアピールする。
そして『姉』と書いた文字を指して、薬缶から水を少し注ぐ。『同僚』、『蜘蛛』、『花』と次々に単語を一つずつ読み上げてもらっては、そのたびにまた水を注いでいく。
ほとんど溢れそうになったところで、最後の『ケーキ』という単語を読んでもらった。
「ちょっ! 零れちゃったじゃない!」
「ソウソウ」
だってすでに満杯だったもの。ちょこっと注ぐだけでコップの水は外に溢れ出てしまう。
「コレ、オルラ」
伝わるかな、と首を傾げると、オルラさんの目がどんどん潤んでくる。
「ホントに、ホントにそう思う? だってアタシ、ずっと何にも感じなかったのよ。姉さんなのよ? 一杯世話になったのに、見捨てたのよ?」
ふるふるふる、と首を横に振って否定する。そんなにひどい職場なら、感性が麻痺したって仕方ない。それでも怒りは溜まっていって、最後の最後で爆発したのだろう。
「コレ、オルラ」
もう一度コップに水を一滴だけ注ぐ。するとまた受け皿へと溢れ出た。
そして手帳の次のページをめくって、もう一つの単語を示す。
「コレ、オルラ」
「~~~~そんなわけないわよ! 『優しい』ってのはね、ちゃんとそのとき、姉さんや仲間の味方をしてあげられる人間が――」
「コレ、オルラ」
絶対にそう、と首を上下に一回。単語を指したまま、しっかりと頷く。するとオルラさんはテーブルに突っ伏して泣きだしてしまった。
森で襲われたときも本当は咄嗟に見捨てて逃げたんだって。でもそれじゃ今までと変わらないって気がついて、探しにきたお父さんの顔を見たとき、やっと決意して引き返したのだそう。
嗚咽の中で、しきりに「自分は最低だ」って責めながら謝ってくれる。でもこんなに罪悪感があるなら、お姉さんの左遷のときも気持ちを押し殺していただけで、本当は辛かったと思うんだよね。
慰める言葉なんて話せないし、とにかく頭をなでてみる。昼間は頭上でお団子にしていた朱色の髪が、腰元まで緩やかに波打ちながら広がっていた。
だんだんとすすり泣く声だけになってきたので、小声で子守歌も追加してみよう。
「(ねぇ、ディドル・ディドル
猫にバイオリン
牛がお月様を飛び越えてしまったの
それを見た小犬の笑ったこと
そしてお皿はスプーンと一緒に逃げちゃった)」
ナンセンスな歌を呪文のように優しく繰り返していると、やっと寝てくれる。
毛布でもかけてあげなきゃ、と立ち上がったら、いつの間にかトゥーハルさんがいた。
「付き合わせちまって、すまんな」
そんなことないです、と首を振る。そしてコップ類を洗い場へと移動させた。
ここは私がやっときますから、とジェスチャーで促すと、トゥーハルさんも頷いて、娘さんを抱えて出ていった。
テーブルの上を片せて、篭から黄色林檎を失敬して、私も二階に戻った。のだが、今朝になって発見された果物代の馬助をオルラさんに突っ返されてしまう。
「小さいんだから、変な気は遣わないの!」
小さいは余計だよ、とムスッとしたアヒル顔で受け取りを拒否する。すると母親のエトロゥマさんが「昨夜は愚痴に付き合わされたんでしょ、迷惑料でおあいこよ」と笑ってとりなしてくれた。
ウーナさんにも伝わっているのか、小さなお目めをウィンクさせた。「お嬢さんはお酒を飲ませると厄介だからねぇ」とオルラさんを揶揄っている。
トゥーハルさんも赤髭モップを整えつつ、したり顔だ。
「もうホラ。アタシがいろいろと言われちゃうでしょ!」
最後には強引にコートのポケットに捻じ込まれた。
仕方ないので、反対のポケットから手帳を引っ張り出し、昨日の単語を指し示す。
「だ~か~らっ」
なぜかオルラさんに思いっきりぎゅっと抱きしめられてしまう。非っ常に重量のありそうな胸で、とっても良い香りがした。
「……『優しい』のはね、メメよ」
そうじゃないよ、と首を振ろうとしたら、さらにぎゅむっと抱き寄せられてしまった。
カチューシャが犬っぽく「ワン!」と吠えてくれる頃には、かなりの酸欠状態。ちょっとふらふらしながらテーブルについたのだった。
お父さんのトゥーハルさんが『もしかしたら不良二人の捜索隊に駆り出されるかも』と呟いていたが、庁舎が突風で大火事になって、それどころじゃなくなってしまう。
昼過ぎに、消防活動に参加したトゥーハルさんが戻ってきて、やっと街の中心に行けることになったのだ。曰く、今日は皆バタバタしているから外国人が出歩いても大丈夫、と。
そんなこんな諸々あって、やっとこさっとこ、この世界の本とご対面が叶ったのである。
****************
※芽芽が唄ったのは「Hey, diddle diddle」というマザーグースの歌です。いつもどおり筆者訳で。
「こっちよ」
翌日、火の日の午後になり、街の広場で行き交う人をぼんやり眺めていたら、オルラさんに手を取られる。
今日は赤い線で縁取りされたクリームイエローのドレスを着て、ちょっとおめかし黄肌美人だ。反対側の腕には赤蔦で編んだ買い物篭を抱えている。
≪黄色い肌なのに髪は真っ赤だね≫
≪ん? そりゃ髪を染めておるからじゃろ。しかし肌と同じ色味とは限らんぞ?≫
ややこしいな。私がこれまで会った人は、肌と髪を揃えていた気がするのだけど。もしかして、前髪のひと房だけ薄黄色なのが地毛なのかな。
≪王都に行けば、もっと色々おるわい。ここら辺は霊山の裏手で田舎なのじゃ≫
そこで都会と田舎を線引きする『常識』は私にはなかったよ。爺様の解説に、へむむむとアヒル口で唸る。
神殿の密室は薄暗かったけど、悪徳魔導士たちの肌や髪も近くで見たら違ったのかもしれない。
赤茶色の石畳を歩く私は、全身緑の着たきり雀。ふんわり若竹色のコートに渋めの松葉色ズボンだからね。
でも中のブラウスは交換したし、首元には柘榴色の幅広マフラーと、手元には辛子色の指なしミトンが加わった。
家の中でもずっとコートを着込んでいたら、寒がりなのだと思われたらしい(確かにそうだけど)。外出するときはもっと温かくしていけ、とオルラさんが完全装備してくれた。
エトロゥマお母さんの手作り品だ。毛糸の材質がいいのか、ちっともゴワゴワちくちくしてない。
こんなに見知らぬ旅人に親切にして大丈夫なのだろうか。逆に心配になるくらいだけど、どうやらこれにはオルラさんの罪滅ぼしも一枚噛んでいたと発覚。
夜、寝静まった時間を見計らって台所へと行ったら、先客がいたのだ。
「アタシねぇ、本当はすっごぉぉぉい自己中なのよぉ」
こっそり忍び込みたかったが、酔っぱらったオルラさんが座れとばかりに隣の椅子をぺしぺし叩く。魔道具の天井灯りは消され、テーブルの上には燃える青蝋燭が一本。
飲み口に精霊四色の線が引かれた乳白色のマグカップには、薄っすら水色のお酒が入っていた。
赤ストローも差し込まれている。繊維質な質感から紙を巻いてると思ってたけど、まんま何かの茎だ。イネ科植物かな、固そう。カップの底をその棒でコンコンとつつく仕草は、お父さんのトゥーハルさんとそっくり。
ぽてっと丸く大きな酒瓶は、ラベルがないから葡萄酒なのか林檎酒なのか、はたまた別のお酒なのか不明。
カクテルでもないのに、赤ストローで中身をちょいちょい混ぜるのがこちら流みたい。じゃあ度数が強いのかといえば、マグカップは大きいし、水分で薄めてないし、カップに直に口をつけてガブ呑みしてるし。変なの。
「姉さんがクビになったとき、立ち回るのが下手だからよって心の中では馬鹿にしたわ。ひどくない、アタシ?
え? ああ、言わなかったっけ? 姉さんを左遷した――上司、みたいな感じかな。その人の所でアタシも働いていたの。だってホラ、王都って憧れじゃない。みんなは帝都に行きたがるけど、アタシは王都が好き。
だから中等部からは親に頼みに頼んで、姉さんにくっついて王都で寄宿舎生活よ。卒業しても姉さんのコネで就職して、竜騎士用の部屋で一緒に住まわせてもらってたの。
なのに姉さんの味方をするどころか、なんて要領が悪いのって腹を立てたわ。ホント最低よね」
≪王都の寄宿舎? お金がかかるってこと?≫
熊爺はベッドに置いたまま。代わりに訳してくれた足元のカチューシャに確かめる。
≪まぁ恐らくは……竜騎士になる学校は、どこの国も都に一校だけなのよ。しかも学費とか基本の生活費とかが免除されるから、その寮に転がり込んだってことかしら?
親に無理を言ったのなら、隣に建ってる貴族の学校に入学させてもらったのかも≫
≪貴族じゃないのに?≫
≪成績が良かったりコネがあれば、庶民でも入れるわよ≫
何がいいのか解らないけれど、若いお嬢さんが都会や貴族へ憧れるのは万国共通らしい。でも私はそんなものよりフィオのご飯がね。
もちろん無断で盗るつもりはなく、「お腹が空いたので果物を頂きました、ごめんなさい」と書いた手帳の切れ端と馬助銀貨一枚を用意していたので、それをおずおずと見せる。
「なぁに? 果物? んーそこら辺から勝手に取っちゃっていいわよ。
そいでね、その上司がさ、無理難題ばっか言うわけ。でもアタシはうまいことおだてて、毎回かわしてたのよ。同僚はしょっちゅう罵倒されてたけど、庇ったことなんてないし。
黙って見てるか、用事を探して逃げたわ。ねー、アタシってひどくない?」
……絡み酒、というやつだろうか。困った顔で、さぁどうでしょう、と首を傾げてみるが、コートの端を掴んだまま離してくれない。
もう片方の手は赤い棒を握り、マグカップの底へガシガシ突っ込んでいる。なんか割れちゃいそうで、見てるほうがハラハラした。
「なのにさ、その上司がケーキが不味いって床にワザと落としたとき――アタシ、キレちゃったの。それでクビよ、クビ。
上司が蜘蛛を踏みつけて殺そうが、贈られた花を叩き潰そうが、平然と眺めていたのに、たかがケーキって! まぁ、雨の日にわざわざ買いに並ばされたから鬱憤が溜まっていたのかもしれないけど、でもね、ケーキで王都にいられなくなるって、どうよコレ?
姉さんや同僚がいじめられても助けなかったから、精霊様に見放されたのかなぁ。
そもそも精霊の日もちゃんとしてなかったし。食事しても、『精霊に』なんて言わなかったし。だから罰なのかなぁ」
≪精霊の日って満月になる週末のことだよね?≫
≪そうよ。毎月、二週間目が土の精霊の日、三週間目が水の精霊の日、四週間目が火の精霊の日、五週間目が風の精霊の日。
昔はどこの自宅にも祭壇があって、その前に花を供えて香を焚いてお祈りしたの。今は廃れているけど、信心深ければ自分の守護精霊の休日くらいは多少は何かするかしら≫
ようは、神棚とか仏壇みたいなもんかな。守護精霊というのは生まれた日で決まると解説してくれた。
≪一週間目は何の日?≫
≪闇夜になるのよ≫
白犬の目がなぜだか泳いでいる。微妙に話を逸らしてないか。
≪誰か祀るの?≫
≪せ、精霊様かしらね、諸々よ≫
長年この国で人間と一緒に行動してるくせに、急にざっくりした説明だな。
コートを掴むオルラさんの手が離れ、酒瓶に向かった。もう一杯あおるつもりらしい。その隙にカチューシャの前にアイス棒を並べて単語を教えてもらって、手帳に書き取る。
ロクに会話できないからね、どれもコートのポケットに常備していた必須アイテムなのだ。
そして食器棚から、透明のガラスコップと素焼きの受け皿を出す。どちらも縁に精霊四色の線が引かれていた。火の消えたオーブンからは、その上に置かれっぱなしの薬缶を取ってきて、テーブルに戻る。
「コレ」
「んー? 『怒り』?」
「ソウソウ」
手帳の単語を読んでもらってから、手に持った薬缶を指し示す。
「コレ、オルラ」
受け皿の上に置いた、うんと小さなコップを一度持ち上げてアピールする。
そして『姉』と書いた文字を指して、薬缶から水を少し注ぐ。『同僚』、『蜘蛛』、『花』と次々に単語を一つずつ読み上げてもらっては、そのたびにまた水を注いでいく。
ほとんど溢れそうになったところで、最後の『ケーキ』という単語を読んでもらった。
「ちょっ! 零れちゃったじゃない!」
「ソウソウ」
だってすでに満杯だったもの。ちょこっと注ぐだけでコップの水は外に溢れ出てしまう。
「コレ、オルラ」
伝わるかな、と首を傾げると、オルラさんの目がどんどん潤んでくる。
「ホントに、ホントにそう思う? だってアタシ、ずっと何にも感じなかったのよ。姉さんなのよ? 一杯世話になったのに、見捨てたのよ?」
ふるふるふる、と首を横に振って否定する。そんなにひどい職場なら、感性が麻痺したって仕方ない。それでも怒りは溜まっていって、最後の最後で爆発したのだろう。
「コレ、オルラ」
もう一度コップに水を一滴だけ注ぐ。するとまた受け皿へと溢れ出た。
そして手帳の次のページをめくって、もう一つの単語を示す。
「コレ、オルラ」
「~~~~そんなわけないわよ! 『優しい』ってのはね、ちゃんとそのとき、姉さんや仲間の味方をしてあげられる人間が――」
「コレ、オルラ」
絶対にそう、と首を上下に一回。単語を指したまま、しっかりと頷く。するとオルラさんはテーブルに突っ伏して泣きだしてしまった。
森で襲われたときも本当は咄嗟に見捨てて逃げたんだって。でもそれじゃ今までと変わらないって気がついて、探しにきたお父さんの顔を見たとき、やっと決意して引き返したのだそう。
嗚咽の中で、しきりに「自分は最低だ」って責めながら謝ってくれる。でもこんなに罪悪感があるなら、お姉さんの左遷のときも気持ちを押し殺していただけで、本当は辛かったと思うんだよね。
慰める言葉なんて話せないし、とにかく頭をなでてみる。昼間は頭上でお団子にしていた朱色の髪が、腰元まで緩やかに波打ちながら広がっていた。
だんだんとすすり泣く声だけになってきたので、小声で子守歌も追加してみよう。
「(ねぇ、ディドル・ディドル
猫にバイオリン
牛がお月様を飛び越えてしまったの
それを見た小犬の笑ったこと
そしてお皿はスプーンと一緒に逃げちゃった)」
ナンセンスな歌を呪文のように優しく繰り返していると、やっと寝てくれる。
毛布でもかけてあげなきゃ、と立ち上がったら、いつの間にかトゥーハルさんがいた。
「付き合わせちまって、すまんな」
そんなことないです、と首を振る。そしてコップ類を洗い場へと移動させた。
ここは私がやっときますから、とジェスチャーで促すと、トゥーハルさんも頷いて、娘さんを抱えて出ていった。
テーブルの上を片せて、篭から黄色林檎を失敬して、私も二階に戻った。のだが、今朝になって発見された果物代の馬助をオルラさんに突っ返されてしまう。
「小さいんだから、変な気は遣わないの!」
小さいは余計だよ、とムスッとしたアヒル顔で受け取りを拒否する。すると母親のエトロゥマさんが「昨夜は愚痴に付き合わされたんでしょ、迷惑料でおあいこよ」と笑ってとりなしてくれた。
ウーナさんにも伝わっているのか、小さなお目めをウィンクさせた。「お嬢さんはお酒を飲ませると厄介だからねぇ」とオルラさんを揶揄っている。
トゥーハルさんも赤髭モップを整えつつ、したり顔だ。
「もうホラ。アタシがいろいろと言われちゃうでしょ!」
最後には強引にコートのポケットに捻じ込まれた。
仕方ないので、反対のポケットから手帳を引っ張り出し、昨日の単語を指し示す。
「だ~か~らっ」
なぜかオルラさんに思いっきりぎゅっと抱きしめられてしまう。非っ常に重量のありそうな胸で、とっても良い香りがした。
「……『優しい』のはね、メメよ」
そうじゃないよ、と首を振ろうとしたら、さらにぎゅむっと抱き寄せられてしまった。
カチューシャが犬っぽく「ワン!」と吠えてくれる頃には、かなりの酸欠状態。ちょっとふらふらしながらテーブルについたのだった。
お父さんのトゥーハルさんが『もしかしたら不良二人の捜索隊に駆り出されるかも』と呟いていたが、庁舎が突風で大火事になって、それどころじゃなくなってしまう。
昼過ぎに、消防活動に参加したトゥーハルさんが戻ってきて、やっと街の中心に行けることになったのだ。曰く、今日は皆バタバタしているから外国人が出歩いても大丈夫、と。
そんなこんな諸々あって、やっとこさっとこ、この世界の本とご対面が叶ったのである。
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※芽芽が唄ったのは「Hey, diddle diddle」というマザーグースの歌です。いつもどおり筆者訳で。
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ファンタジー
7歳までは家族円満愛情たっぷりの幸せな家庭で育ったナーシャ。
領地争いで父が戦死。
それを聞いたお母様は寝込み支えてくれたカルノス・シャンドラに親子共々心を開き再婚。
けれど妹が生まれて義父からの虐待を受けることに。
毎日母を想い部屋に閉じこもるナーシャに2年後の政略結婚が決定した。
けれどこの婚約はとても酷いものだった。
そんな時、ナーシャの生まれる前に亡くなった父方のおばあさまと契約していた精霊と出会う。
そこで今までずっと近くに居てくれたメイドの裏切りを知り……
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