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第三章
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仕方がないので、籠はそこに置いて、受付まで行く。小さな小窓を叩くと、中年の男性官吏が出てきた。
「これはこれは、宰相の婚約者様。あ、今は奥様、でしたかな?」
彼は私を下から上へ舐めまわすように視線を向けてくる。この男性は窓口担当なのだが、毎回、この視線に耐えなくてはならないのが嫌だった。
「いつもお世話になっております。あの……差し入れを持ってまいりましたの。主人は――」
「差し入れは?」
「あ、重くて運べなくて。すぐそこに置いてあるのですが」
「分かりました。後で運びますね」
「主人に一言声を掛けるのは難しいでしょうか?」
「あー、宰相はお忙しくて会えないと思います。まぁ、少しこちらでお待ちください」
その男性官吏は面倒そうに腰を上げて奥へ確認に行った。結婚しても、窓口の対応は変わらない。きっと今日も出てくるのは……
「メロディア嬢、お久しぶりだね!」
「……ご無沙汰しております、クライ伯爵」
副宰相のクライ伯爵が今日も微笑みを浮かべてやってきた。私が差し入れを持っていくと決まって、彼が挨拶に来てくれる。
ただ今日は呼び方が気になった。結婚したら名前に嬢などを付けて呼ぶことはないのだけれど、どういう訳か伯爵は『メロディア嬢』と呼んだ。普通は夫人、もしくは宰相夫人やシルヴァマーレ公爵夫人と呼ぶのだが、伯爵がそれを知らないはずがない。伯爵は結婚をよく思っていないのかしら……?
「最近はこちらには顔を出してくれないから寂しく思っていたんだ」
確かに定期的に差し入れはしていた。その度に伯爵とは言葉を交わしていたが、それを待っていたかのような発言にぞっとする。これ以上、話していられなくて、私は伯爵にアヴィス様の行方を尋ねた。
「申し訳ございません。あの、今日は主人に会いに来ましたの。主人はどちらに?」
「宰相は忙しくて出てこれないよ。毎日屋敷で会っているだろう。最近はしっかり夜に帰るようになったんだから、ねぇ? 宰相も随分と元気になったようで私も安心したんだよ」
何が言いたいのか、伯爵は目を細めて、下世話な笑みを浮かべた。こんな下品な人だとは思わなかった。私はぐっと感情を堪えて、にこりと微笑みを貼り付けた。
「そうですか。でしたら、このあたりで失礼させていただこうと思います」
「あぁ、待ってくれ、メロディア嬢」
去ろうとした時、伯爵に腕を掴まれた。ぞっと全身に虫唾が走る。
「やめっ――……!」
「何をしている?」
氷のような冷たい声が響いた。
「アヴィス、様……」
ほっとして、涙が出そうになる。アヴィス様は私の方につかつかとやってきて、私の肩を抱いてくれた。彼に寄りかかって初めて、自分が震えていたことに気付く。
「副宰相、これはどういうことだ」
アヴィス様はキッと伯爵を睨みつけた。しかし、伯爵はいつもの微笑みを浮かべたままだった。
「宰相、何か勘違いされておりませんか? 私は夫人に何もしておりませんよ。転びそうになったところを私が手を引いて助けて差し上げただけなのです」
そんなはずない。私が一歩を踏み出す前……後ろを向いた瞬間に腕を掴んだもの。私は震える声で訴えた。
「わ、私……転びそうになってなんていません……」
「そうでしたか? では、私の見間違いですね。夫人、驚かせて大変失礼しました」
助けようとしただなんて嘘だわ。でも、証明する方法はない。アヴィス様も私が伯爵に腕を掴まれて、声を上げたところしか見ていないようで、それ以上の反論はできなかった。
「……副宰相、助けてくれようとしたのは感謝するが、彼女は私の妻だ。今後は軽々しく触れないでくれ」
「勿論です。宰相の大事な、大事な奥様ですからね」
「分かったならいい。下がれ」
「構いませんが、宰相はどちらに?」
「エメラルド宮から王妃殿下がお呼びだと急ぎ連絡が入った。エメラルド宮へ行く。妻は私が門まで送り届ける。もう下がれ」
「ふふっ、最近はエメラルド宮に毎日のように通われてますねぇ。かしこまりました。では、また。夫人」
伯爵は、意味深な笑みを浮かべながら、部屋に戻っていった。
「行くぞ、メロディア」
「は、はいっ!」
私は早足で歩きだしたアヴィス様に遅れないよう、彼を小走りで追いかけた。
「アヴィス様、ご迷惑おかけして申し訳ありません……」
「別に迷惑じゃない。でも、なんでここに来た?」
「差し入れです。官吏の皆さんにパンを」
「そうだったのか……ありがとう」
「い、いえ……」
御礼を言ってもらえるなんて思ってもいなかった。今まで定期的にずっと差し入れもしていたけれど、御礼の一言も貰ったことがなかったから。
「でも、メロディアからの差し入れなんて、随分と久しぶりだ。何年振りだろうな」
「え……」
確かに結婚してからは初めてだけど、今までだって差し入れは頻繁にしていた。今まで私がしてきた差し入れをアヴィス様は忘れているようだった。仕事に忙殺され、差し入れなんて気に留める余裕がなかったのかもしれないが、何年振りだなんて、さすがに酷いと思う。
でも、仕事に打ち込んでいたアヴィス様を責める気にもなれなくて、私は口を噤んだ。
「メロディア?」
私が黙り込んだことに気付いた彼が足を止めた。
「これはこれは、宰相の婚約者様。あ、今は奥様、でしたかな?」
彼は私を下から上へ舐めまわすように視線を向けてくる。この男性は窓口担当なのだが、毎回、この視線に耐えなくてはならないのが嫌だった。
「いつもお世話になっております。あの……差し入れを持ってまいりましたの。主人は――」
「差し入れは?」
「あ、重くて運べなくて。すぐそこに置いてあるのですが」
「分かりました。後で運びますね」
「主人に一言声を掛けるのは難しいでしょうか?」
「あー、宰相はお忙しくて会えないと思います。まぁ、少しこちらでお待ちください」
その男性官吏は面倒そうに腰を上げて奥へ確認に行った。結婚しても、窓口の対応は変わらない。きっと今日も出てくるのは……
「メロディア嬢、お久しぶりだね!」
「……ご無沙汰しております、クライ伯爵」
副宰相のクライ伯爵が今日も微笑みを浮かべてやってきた。私が差し入れを持っていくと決まって、彼が挨拶に来てくれる。
ただ今日は呼び方が気になった。結婚したら名前に嬢などを付けて呼ぶことはないのだけれど、どういう訳か伯爵は『メロディア嬢』と呼んだ。普通は夫人、もしくは宰相夫人やシルヴァマーレ公爵夫人と呼ぶのだが、伯爵がそれを知らないはずがない。伯爵は結婚をよく思っていないのかしら……?
「最近はこちらには顔を出してくれないから寂しく思っていたんだ」
確かに定期的に差し入れはしていた。その度に伯爵とは言葉を交わしていたが、それを待っていたかのような発言にぞっとする。これ以上、話していられなくて、私は伯爵にアヴィス様の行方を尋ねた。
「申し訳ございません。あの、今日は主人に会いに来ましたの。主人はどちらに?」
「宰相は忙しくて出てこれないよ。毎日屋敷で会っているだろう。最近はしっかり夜に帰るようになったんだから、ねぇ? 宰相も随分と元気になったようで私も安心したんだよ」
何が言いたいのか、伯爵は目を細めて、下世話な笑みを浮かべた。こんな下品な人だとは思わなかった。私はぐっと感情を堪えて、にこりと微笑みを貼り付けた。
「そうですか。でしたら、このあたりで失礼させていただこうと思います」
「あぁ、待ってくれ、メロディア嬢」
去ろうとした時、伯爵に腕を掴まれた。ぞっと全身に虫唾が走る。
「やめっ――……!」
「何をしている?」
氷のような冷たい声が響いた。
「アヴィス、様……」
ほっとして、涙が出そうになる。アヴィス様は私の方につかつかとやってきて、私の肩を抱いてくれた。彼に寄りかかって初めて、自分が震えていたことに気付く。
「副宰相、これはどういうことだ」
アヴィス様はキッと伯爵を睨みつけた。しかし、伯爵はいつもの微笑みを浮かべたままだった。
「宰相、何か勘違いされておりませんか? 私は夫人に何もしておりませんよ。転びそうになったところを私が手を引いて助けて差し上げただけなのです」
そんなはずない。私が一歩を踏み出す前……後ろを向いた瞬間に腕を掴んだもの。私は震える声で訴えた。
「わ、私……転びそうになってなんていません……」
「そうでしたか? では、私の見間違いですね。夫人、驚かせて大変失礼しました」
助けようとしただなんて嘘だわ。でも、証明する方法はない。アヴィス様も私が伯爵に腕を掴まれて、声を上げたところしか見ていないようで、それ以上の反論はできなかった。
「……副宰相、助けてくれようとしたのは感謝するが、彼女は私の妻だ。今後は軽々しく触れないでくれ」
「勿論です。宰相の大事な、大事な奥様ですからね」
「分かったならいい。下がれ」
「構いませんが、宰相はどちらに?」
「エメラルド宮から王妃殿下がお呼びだと急ぎ連絡が入った。エメラルド宮へ行く。妻は私が門まで送り届ける。もう下がれ」
「ふふっ、最近はエメラルド宮に毎日のように通われてますねぇ。かしこまりました。では、また。夫人」
伯爵は、意味深な笑みを浮かべながら、部屋に戻っていった。
「行くぞ、メロディア」
「は、はいっ!」
私は早足で歩きだしたアヴィス様に遅れないよう、彼を小走りで追いかけた。
「アヴィス様、ご迷惑おかけして申し訳ありません……」
「別に迷惑じゃない。でも、なんでここに来た?」
「差し入れです。官吏の皆さんにパンを」
「そうだったのか……ありがとう」
「い、いえ……」
御礼を言ってもらえるなんて思ってもいなかった。今まで定期的にずっと差し入れもしていたけれど、御礼の一言も貰ったことがなかったから。
「でも、メロディアからの差し入れなんて、随分と久しぶりだ。何年振りだろうな」
「え……」
確かに結婚してからは初めてだけど、今までだって差し入れは頻繁にしていた。今まで私がしてきた差し入れをアヴィス様は忘れているようだった。仕事に忙殺され、差し入れなんて気に留める余裕がなかったのかもしれないが、何年振りだなんて、さすがに酷いと思う。
でも、仕事に打ち込んでいたアヴィス様を責める気にもなれなくて、私は口を噤んだ。
「メロディア?」
私が黙り込んだことに気付いた彼が足を止めた。
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