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第二十一話

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 律が出張に行って数日が経った頃。
 その日、琴美は残業をして、二十時に会社を出た。

 (随分茂野君が来て楽にはなったけど、まだちょっと残業しないと、期限に間に合わないなぁ…。明日は早く来ようかなぁ…満員電車も嫌だし…)

 そんな事を考えながら、駅に向かって歩いていると、急に後ろから呼び止められた。

 「琴美!」

 そこにいたのは俊哉だった。

 「…俊哉。ひ、久しぶりだね。
 こんなところでどうしたの?」

 「……もう一度会いたくて、待ってた。」

 待ってた…?その言葉に琴美は言いようのない不安を感じる。鞄をぎゅっと握りしめて、一歩後ずさる。

 「ごめん…私、急ぐから…。」

 俊哉は一歩琴美に近づく。その瞳は縋るようだ。

 「待って、琴美!話を聞いて欲しいだけなんだ!」

 琴美は声を荒げる。

 「話すことなんて何もない!
 私から離れて行ったのは貴方じゃない!」

 「琴美!」

 俊哉は急に距離を詰め、琴美の腕を強く掴んだ。

 「…った!」

 「ご、ごめん…。」

 俊哉は咄嗟に手を離す。琴美は俊哉を強く睨みつけた。

 「もう私に近寄らないで。付き合ってる人がいるの。」

 「…副社長、だろ?分かってる。
 でも、琴美を一番理解して、愛してるのは俺だ。
 あの人と一緒にいたら、きっと琴美も違う世界の人だと分かるはずだ。でも、俺たちは三年も付き合って、結婚まで考えてただろ?!」

 琴美はいつの間にか目に涙を溜めていた。
 俊哉の前でなんか、泣くものかと、必死に堪える。

 「じゃあ…
 …じゃあ、何で浮気なんてしたのよ!
 子供もできたんでしょう?!」

 「それはっ…!!」

 一瞬俊哉が言い淀む。
 その時、俊哉の背後からもう一つの人影が見えた。

 「…成瀬?」

 「茂野君…。」

 茂野はさっきの言い合いが聞こえていたのか、素早く琴美の隣に移動する。

 「大丈夫か?」

 「…うん。」

 琴美はさっき俊哉に掴まれた腕をさする。
 茂野は俊哉を見て、険しい表情で言う。

 「…お前は誰だ。」

 俊哉も茂野を睨みつけるように言う。

 「俺は琴美の彼氏だ。」

 琴美がすかさず否定する。

 「違うでしょ!もう赤の他人だわ!」

 俊哉は寂しそうな顔をして、琴美に手を伸ばす。

 「琴美、それには事情が…。」

 茂野は、琴美を背中に隠すように立つ。
 琴美は厳しい声で告げる。

 「事情があっても関係ない。私はもう貴方のことを好きじゃないし、貴方のところに戻る予定もない。」

 「…琴美…。」

 俊哉は呆然としてその場に立ち尽くす。

 「…成瀬、行こう。」

 「うん…。」


   ◆ ◇ ◆


 茂野は断る琴美を家まで送った。
 琴美も遠慮はしたが、様子のおかしな俊哉に不安を感じていたため、その心遣いが嬉しかった。

 家の前に着くと、茂野が言う。

 「大丈夫か?ちゃんと休めよ。」

 「うん…ごめんね、迷惑かけちゃって。」

 琴美は俯く。茂野には迷惑ばかりかけて、本当に申し訳ないと思う。茂野は微笑んだ。

 「別にそれはいいんだ。
 …あの、律って奴に報告はしないのか?」

 琴美は首をフルフルと横に振る。

 「今、出張中で、こっちにいないんだ…。
 それに、心配かけたくないし…。」

 茂野は少し黙った後、口を開いた。

 「…まぁ、成瀬がそうしたいなら何も言わないけど。

 けど、心配したい奴もいるってこと、忘れんなよ。それに成瀬の彼氏は心配するだけで、何も出来ないような奴なのか?」

 琴美は顔を上げて、否定する。

 「そんなことない!」

 「そう思うんだったら、ちゃんと話してやれよ。」

 茂野は琴美の頭に手を置く。

 「あ…うん。…ありがとう。」

 「いいよ。それに、あいつが成瀬を守れなかったら、俺が成瀬を守るから。」

 「し、茂野君…。」

 「じゃあな。おやすみ。」

 そう言うと、茂野は来た道を帰って行った。
 琴美はその後ろ姿を見ながら、もしお兄ちゃんがいたら、茂野みたいな感じなのかもと考えていた。


   ◆ ◇ ◆


 『話したいことがあります。
 時間のある時に連絡下さい。』

 迷った末に琴美はそれだけ送った。しかし、なかなか律から連絡は来ないし、既読にもならない。琴美は先にお風呂に入ることにした。

 お風呂で今日の出来事を思い出す。

 (俊哉は事情があるって言ってた…事情ってなんだろう。それに愛してる…ってどういうこと?
 でも、私が好きなのは律さんだし、律さんほど私のことを大切にしてくれる人はいない。それだけは断言できる。)

 そこまで考えて、琴美はお風呂を出た。俊哉のことをまた考えるなんて馬鹿馬鹿しい。

 (…でも、なんだか怖かったな…俊哉。)

 お風呂を出て、スマホを見ると、律から着信があった。

 琴美は急いで電話を折り返す。

 「もしもし?律さん?」

 「琴美、遅くなっちゃった。ごめんね。」

 律の声を聞いたら、ほっと心がほぐれる。
 思わず涙が滲む。琴美はグスッと鼻を啜った。

 「琴美?大丈夫?どうした?何かあった?」

 その声色から律が本当に心配しているのが分かる。

 「…律さん。」

 「ん?どうした?琴美。」

 律は急かさずに琴美が話し出すのを待ってくれている。
 琴美は口を開いた。

 「……今日、俊哉が私の会社の前まで会いに来て…。」

 「菊地が?」

 急に律の声に緊張が走ったのが分かった。

 「…はい。なんだか、私怖くて。

 話を聞いて欲しい、愛してる、事情がある…とか言ってー」

 「大丈夫?何か、されなかった?」

 「だ、大丈夫です。手を強く掴まれただけで。」

 琴美は掴まれた部分をさする。

 「手を強く掴まれた?!」

 「い、一瞬です。それに茂野君がちょうど通りかかってくれて。」

 「…茂野?あの同期か…。」

 「はい。心配して、家まで送ってくれました。」

 「家まで…。はぁ…そっちも危ない…。
 いや、今回については感謝すべきか…。」

 溜息を吐く律に申し訳なくなって、琴美は謝った。

 「ごめんなさい…出張中にこんなこと…。」

 律は優しい声で、琴美を慰める。

 「琴美が謝ることじゃないよ。
 教えてくれて良かった。」

 本当は言うつもりがなかったと黙っているのも卑怯な気がして、琴美は言った。

 「実は…律さんにちゃんと話すように言ってくれたのも茂野君なの…。」

 「…そうなんだ。
 …あいつが良い奴なのは分かった。感謝しないとな。

 それに俺がいない時を見計らって接触を図る菊地よりずっといい男だ。俺もうかうかしてられないな。」

 「律さんがいない時を見計らって?」

 「あぁ。きっと俺が出張中なのを見越して、この時期に接触してきたんだろう。

 琴美、明日からはタクシーを使って通勤して。会社や家の中から呼んで、タクシーが来たら乗り込むように。勿論費用は俺が全部出す。あと、明日からは俺の家に帰るんだ。琴美の家で待ち伏せされる可能性もあるから。」

 「いや…そこまでしなくても…。」

 「駄目だ。昨日会いに来たのが気まぐれだったらまだいいが、日常的につけ回してる可能性もある。これから調べるけど、出来ることはやっておかないと。

 それに、これは俺の為でもある。俺が近くにいない時に琴美に何かあったら、俺は悔やんでも悔やみきれない。

 …頼む。」

 いつになく真剣な律の声に琴美は頷いた。

 「…わかりました。」

 「こんな時に…そばに居れなくてごめんな。」

 悔しさを滲ませた声で律が話すのを聞いて、琴美はその優しさに微笑んだ。

 「そんな…律さんのせいじゃありません。

 大丈夫です。ちゃんと待っていますから。」

 「うん…。海斗にも話しておくから、俺に連絡が付かなくて困ったことがあったら、すぐに連絡するんだよ?」

 「はい。

 …あの…律さん、ありがとう。大好きです。」

 「俺もだよ。琴美が大好きだ。」

 それから、二人は他愛もない会話をした。琴美が電話したまま寝てしまうまで、電話は繋がったままだった。
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