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第十五話

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 琴美は律に促されるまま、車に乗り込む。
 律はバタンと強めに扉を閉めるとハンドルに額を預けて、溜息を吐いた。

 「ごめん、びっくりしたよな。菊地から彼女と別れたばかりだとは聞いていたんだが、まさかその相手が琴美だとは思わなかった。」

 「え?私のことじゃないと思いますよ?
 私と別れて、子供ができたから結婚するって言ってましたし。」

 答えたものの、琴美はそんなことどうでも良かった。俊哉とのことは完全に終わったことだ。それより副社長とはどう言うことなのか問い質したかった。

 「あ、そうか…。でも、菊地からは結婚するとか子供が出来たなんて話、聞いたことないぞ?」

 律が首を捻る。琴美は思わずポカンとする。

 「…へ?ど、どういうことですか?」

 「いや、それは俺にも分からん。
 …三年付き合った彼女と最近別れることになった、としか聞いたことない。」

 「三年付き合った…なら、私のことですね。」

 律はガシガシと頭を掻いた。律は以前、俊哉が自分のせいで別れることになったが、今でもその彼女を愛していると俊哉が言っているのを聞いていた。勿論琴美には伝えるつもりはないが。
 それに、俊哉は良い部下だった。素直で真面目で仕事も出来る奴だ。浮気なんてするような奴じゃないだろうに…と律は一人思う。

 「だよなぁ。ま、俺もまだ日本じゃ新入りだから、そんなに部下のこと、知らないんだけどな。菊地は今、俺が注力したい案件の担当者なんだ。だから、話すことも他の社員よりは多い。」

 「まぁ、俊哉のことはもういいんです。別れましたし、今、私が好きなのは律さんですから。

 それより、私が気になってるのはー

 って、律さん聞いてます?」

 律は胸を押さえて、またしてもハンドルに倒れ込んでいる。

 「…琴美がごく当たり前に『私が好きなのは律さんです』って…。どうしよう、めっちゃ嬉しい。今すぐここで押し倒したい。」

 「な、な、何を言ってるんですか!!」

 琴美の顔は一瞬にして赤くなる。
 ハンドルに頭を預けたまま、律は琴美に視線を寄越す。

 「照れてる。可愛い。」

 「て、照れてないです。」

 律は琴美をじっと見つめる。

 「あと、今日の服装も髪型もメイクもすっごい可愛い。俺、これくらいのメイクの方が好きだなぁ。
 ねぇ、こんなにお洒落してるのは俺とのデートだから?」

 勿論律とのデートの為なのだが、恥ずかしくて琴美は誤魔化した。

 「……じ、時間があったから。」

 律はそれが嘘だと分かっているようにフフッと笑った。優しく、どこか艶めいた声で琴美を呼ぶ。

 「こーとーみ。…素直に言ってごらん?」

 律の視線に耐えられなくなって、琴美は白状した。

 「………少しでも、律さんにかわいいって…思ってほしかった、からです。」

 律はにっこりと笑い、琴美の頭を撫でた。

 「いい子。俺のためにお洒落してくれて嬉しい。」

 次に顔が近付いてきたと思ったら、耳元で囁かれる。

 「今すぐ食べちゃいたいくらい。」

 琴美は真っ赤な顔で耳をパッと隠す。
 それを見て、律は嬉しそうに笑うと、車のエンジンをかけた。

 「よし!じゃあ、出発するよー!」


   ◆ ◇ ◆


 その後、律とレストランに行き、夜景が見える少し離れた丘に行った。ここは穴場なんだと、律が楽しそうに琴美に言う。ベンチに座りながら、二人で夜景を眺める。

 琴美は律と出会った時のことを思い出していた。金髪アフロに鼻眼鏡…その下にあるのがこんなに綺麗な顔だったなんて、今思い出すと、よりおかしくて、フフッと琴美は笑った。

 「どうしたの?」

 律が不思議そうに琴美を見る。

 「出会った時のことを思い出してました。…あの夜にこんなことになるなんて想像もできなかったなぁって。」

 「本当だね。
 でも、俺は琴美を抱きしめた時にこの人が運命の人かもしれないって思ったよ。」

 「なんでですか?」

 琴美が首を傾げて、律に問う。
 律は琴美に身体をくっつけて、琴美の腰に腕を回した。

 「匂いも、その柔らかさも、抱きしめたら、全部がしっくり来たっていうのはあるけど…一番は琴美が俺のハグで癒されたように感じたからかもしれない。」

 確かに琴美はあの日、律に癒された。酷く寂しかったのに、今ではこんなに笑えてるのも全て律のおかげだと言える。琴美は律の瞳を見つめる。

 「確かに癒されましたけど…。」

 「俺がフリーハグをやってた理由は、自分がそれによって救われたことがあるからなんだ。」

 「救われた?」

 律は微笑んで、頷く。

 「あぁ。

 俺は親の判断で高校生の頃から一人暮らしをしながら、海外の学校に通ってたんだ。…見知らぬ土地で一人、酷く寂しかった。散々勉強したと思った英語も現地に行ったら全然使えなくて、友人もなかなか出来なかったし、そもそも海外の文化に慣れるまでに時間がかかった。あの頃は、自分が誰にも必要とされていない気がした。
 自分がこのままいなくなっても、誰も気づいてくれないんじゃないかって。」

 律は遠くを見つめる。高校生で一人留学するなんてどんなに心細いだろう、と琴美は思った。社会人になるまでずっと家族と一緒に賑やかに暮らしてきた自分には想像もつかない状況だ。
 律の横顔を見ながら、次の言葉を待つ。

 「そんな時、街中でフリーハグをやっている三十代くらいの男性に会った。その人は俺を手招きして呼ぶと、大きな口を開けて笑いながら、急にギュッと抱きついてきたんだ。

 最初は何事かと思ったよ。しかも俺は男だし。フリーハグとも知らず近づいたからさ。離れようとする俺をその人は強く抱きしめて、『OK、OK!』って背中をバシバシ叩くんだ。そのでかい図体をどうにも出来なくて、そのうち馬鹿らしくなって抵抗をやめた。

 でも、気付いたら俺はその人の胸の中で泣いてた。透明人間になったような気分でいたけど、自分を見つけてくれた人がいて、その人が抱きしめてくれてるって思ったら、涙が止まらなかった。それまでずっと我慢してたのに、散々泣いた。
 でも、不思議と涙が止まる頃にはなんだかスッキリしててさ。その人に御礼を言ったら、友達にまでなってくれたんだ。

 そこから、俺は変わった。人と積極的に関わるようになったし、人の善意を信じられるようになった。そうなったら、思った以上に世界は素晴らしいもので溢れてた。

 俺はフリーハグで助けられたから、自分も誰かを癒せたら…と思って、フリーハグを始めたんだ。」

 琴美はそんな思いでハグをしてたなんて思いもしなかった。同時に高校生の律を抱きしめてくれる人がいて、良かったと心から思った。

 律は眉を下げて、話す。

 「でも、琴美に出会うまで俺がフリーハグなんてしてても意味ないのかもしれないって少し諦めてたんだ。

 海外でフリーハグしてる時はそうでもなかったんだけど…日本に来てからは顔を出してフリーハグをすれば、女の子たちが寄って来ちゃうし、そんなつもりなんてないのに身体で迫られるし。男性からはいやらしい目的でやってると思われるし。だから、仕方なくアフロと鼻眼鏡をつけたんだ。そうすると、みんな訝しんで近寄ってこなくなるし、ハグを求めてくるのは大抵酔っ払いだし。なんかもう無理だなぁ…って。琴美に会ったあの日、今日で終わりにしようと思ってたんだ。」

 確かにそれは大変そうだ。
 でも、琴美も律に抱きしめられた時は酔っ払いだったから、人のことは言えないなと思い、口を噤んだ。

 琴美がキュッと唇を閉じたのを見て、律はクスクスと笑う。

 「そう言えば琴美も酔ってたね。

 でも、琴美を抱きしめて、琴美が俺の胸で泣いてくれた時、ようやく俺にも誰かを癒すことができるんだなって思った。同時にこの子をこれからも支えていきたいって。」

 琴美は律を見つめる。

 「…律さん。」

 「…とは言え、琴美を支えるというか、今は俺が琴美に支えられてるなって感じることの方が多いけど。」

 律はそう言うと、琴美にコテンともたれかかってきた。

 「そんなことー」

 「そんなことあるよ。琴美と離れてた期間に実感したんだ。
 …もう、琴美と離れるなんて考えられない。
 誰にも、渡さない。」

 琴美の腰を抱く腕に力が入る。

 「私もです。

 …律さんと離れるなんて考えられない。」

 琴美もそっと律の背中に腕を伸ばす。
 
 二人は見つめ合って…口付けを交わした。

 「琴美、一緒に家に帰ろう?
 …今度こそ琴美の全部を俺のものにさせて?」

 「はい…。」

 琴美はコクリと恥ずかしそうに頷いた。
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