36 / 74
34、森の黄金、谷の薄暮
しおりを挟む
注)この回は、常用ではない言い回し、かなづかいが数箇所に使われています。蛇足とは存じますが、現代語訳付き(内容は全く同じです)のページを用意いたしましたので、ご興味のある方はご覧ください。楽しんでいただければ幸いです。
作品名:花よりほかに/「星に牙、魔に祈り」小話つめ 1話目「森の黄金、谷の薄暮(現代語訳付き)」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/953807135/452547058 (リンク機能はありません)
――――――――――――――――――――
クリッペンヴァルトから離れて、樹人の森とベスシャッテテスタルの谷を間近に見据え、どの勢力にも属さない平らな草地が広がる。
折しも季節は春の終わり、いざや青い夏を迎えんとばかり、草は伸びはじめ、青々と緑が映える。
育ち盛りの草を分ける隙もないかと見えるほど、この低地をなお平らにするよう、白金の甲冑に身を包んだクリッペンヴァルトの国軍が、測ったような正しさで整列している。
全軍の四分の一ほどとはいえ、充分に、視界を埋め尽くさんばかりの大軍といえよう。
このクリッペンヴァルト軍の先頭から、真っ二つに裂くように兵士達が脇へ控えて作られる道を、一頭の馬に跨がったエルフが厳かに進み出る。
馬といえば確かに馬の姿か、たてがみのあるべき場所に、花をつけた蔓が茂って垂れ下がり、脚には緑の木の根が巻きついた、クリッペンヴァルトの森に棲む妖精馬だ。
ただ一人この背に乗ることを許された、現クリッペンヴァルト国王ラウレオルンといえば、鞍も用いず妖精馬の背にその長身を揺られ、進むたびに波打つ金の髪が、ひとりでに陽の光を集めては零すかのよう、遠目にも確かにきらきらと輝いてみえる。
妖精馬に跨がるクリッペンヴァルト王ラウレオルンの進む先には、一大隊ほどの間を置いて、同じく測ったように、別の布陣を敷く大きな一群が待ち構える。
青金の甲冑を纏う、ベスシャッテテスタル軍である。
クリッペンヴァルトの軍から、一人進み出るラウレオルンがどのような速度で歩み、いつを頃合いに両軍のちょうど半ばに至るのか、まるで予め知っていたかのように、まったく同じ距離を詰めて、ベスシャッテテスタルからも軍勢を割って進む者があった。
枝分かれした威厳のある角が苔むし、その足先は岩のようでありながら、歩みに重さを感じさせず、足音も穏やかだ。ベスシャッテテスタルの谷の妖精馬が背を許した者は、無論、ベスシャッテテスタル王ウイアルハナールしかいない。
翳りを帯びた銀髪は背を覆い、けれどこちらは馬の背に揺られても淑やかで、エルフという生き物の永遠を思い出させる、青年のような背筋に物静かに伸びている。
相対するというにはまだ幾らも距離のある内に、馬を止めてその背から降りたのは、クリッペンヴァルト王ラウレオルンだった。
谷の王が身も下さぬ内から、胸に掌を当てて額を下げ、礼を示す。
だが、ベスシャッテテスタル王ウイアルハナールも愚かな王ではない。ラウレオルンの額が上がる頃には、その足は既に馬を下りて地についていた。
まさしく眉一つ動かさぬというべき、美しいが鋭い面に、永い時を生きたエルフに特有の深い憂いを桔梗色の瞳にたたえて、ラウレオルンの礼を受け、ウイアルハナールは頷く。
「お初にお目に掛かれること、光栄至極に存じまする。ベスシャッテテスタル王、薄暮公、ウイアルハナール陛下」
声を張る様子ではなくも、玲瓏たる声はよく伸び響き。国王の座を指すに次ぎ、その名の前に、ラウレオルンは谷の王の二つ名を掲げた。
谷の王ウイアルハナールが、まだ王ではなく王子であった頃のことだ。
その初陣で放たれた強大な魔術は、見渡す限りの空を陰らせ、高くあった陽すら暮れさせたものかと、見る者を驚かせたと云われている。
これが、ウイアルハナールを讃える二つ名“薄暮公”の由来だ。
「クリッペンヴァルトが都ゆ、かかる草深き方へと、よくぞおはしけり。なれど永久に来ずべかりしを」
返すウイアルハナールの声は厳かで、岩に落ちる雫のごとく涼やかで澄んでいながら、これも不思議に、誰の耳にも届くかによく通る。
わざわざ足された辛辣にラウレオルンが開こうとした口を遮るものか、ウイアルハナールは少し鼻を上げるようにして、ラウレオルンの背後を示した。
「あな夥しき軍兵なるかな。――さすが、貴国にとりては片端なるか。いかが事有るものか、戦など始めむと思し召すにや」
ウイアルハナールが回りくどい挨拶などする気もない、穿っていえば、自分にその価値もないと見なされているのだろうとみて、ラウレオルンはニコリと笑みを浮かべる。
「クリッペンヴァルトは戦を望んだことなぞありませぬ」
言葉を句切り、チラと肩越しに振り返ってから、再び谷の王へと目を戻した。
「先王から玉座を賜り、隣国であり、偉大な魔術王の治められるベスシャッテテスタルへもご挨拶などと愚拙ながら考えた次第。なれど、手前の顔などお望みでないのも承知。さすれば、懐かしの鎧比べなぞ余興にせぬかと、こうして運んで参りました」
「興なし」
一蹴し、歯牙にもかけぬ様で逸れる谷の王の顔にも、ラウレオルンとて動じず、変わらぬ笑みばかり浮かべ。
短い間もおかぬ内に、ウイアルハナールが地を撫でるような仕草で右の掌をかざし、ふわりとばかり持ち上げた。
途端、岩同士がぶつかりながら転がるような音と共に、地が盛り上がり、岩が突き出して、みるみる内に玉座を築く。
まるで今切り出し、磨き上げられたような白い石の玉座に腰を下ろすと、ウイアルハナールはラウレオルンへ向け、浅く顎を浮かせる。お前も座れということだ。
着座の許しに恭しくも浅く、また額を下げてから、ラウレオルンが右手を持ち上げる。親しい者を呼ぶ時にでもそうするような仕草で、掌を上向け軽やかに手招けば、地の下に大蛇の這うごとくの音と共に、地面を割り開いて樹の枝と幹が顔を出す。
あたかも樹と親しむ庭師が時と手を掛け育て上げたかのよう、美しく編まれ絡み合う、葉と花が飾られた幹と枝の玉座が、谷の王と向き合う森の王を抱き留めた。
「かけず申せ」
憂うる桔梗色の瞳を陰銀のまつげに伏せ、ウイアルハナールが億劫そうに言う。
「互いの民を失うばかりの越境を、いつまでお続けになるおつもりか」
ラウレオルンの伸びた背と逆様に、ウイアルハナールは肘掛けに肘を着き、身を傾いで瞬いた。
「――さても…。此方に咎あるやうのたまうかな。森に踏み入れしばかりのエルフをば漫ろに追ひ、殺めしはそなたらならむ」
この始めのやりとりをすることが、まるで決まっており、知っていたかのように両王は顔色も変えない。気怠げに谷の王が答え、森の王は淡と相槌を打つ。
「武装した兵が許しも得ず国境を越え、都へ向け進むとあらば、その所以は当然問い、いらえなくば退去を請うは統治護国の内。ベスシャッテテスタルは、何故、こうも長くクリッペンヴァルトを試されなさる」
憂いがその瞼をひどく重くしているかのよう、谷の王はゆっくりと瞬き、熱のこもらぬ瞳で森の王を眺めた。
「…森のエルフ、新たしきをあらまほしめり。三千年、四千年に王すら挿げ替え、王より王へと政も受け継がれたらずは更なり」
薄く伏せる桔梗色の瞳に、ここで始めて、ラウレオルンの眉が僅かに陰る。
「クリッペンヴァルトもエルフの国、王ばかりか民とて、伝統を軽んじようなどという者はありませぬ。なれど、……恥を承知でお尋ねいたします。先の王か、先の先の王か、陛下との約を違えた者でもありまするか」
「――…否や。あらず」
ひどくゆっくりとした声とはいえ、ためらう様子も思い返す素振りもない返答は、即答の内といえるだろう。陰ったばかりであった眉を、ラウレオルンは今度こそ詰めた。
「陛下…」
当惑したようなラウレオルンの声に、ウイアルハナールは瞳を伏せたまま、動かず。
「ウイアルハナール陛下。愚見ながら、このエルフの黄昏に、かようにして、魔術に優れるベスシャッテテスタルの民、剣と弓に長けるクリッペンヴァルトの民が互いに刃を交えて徒にエルフの数を減らすこと、到底捨て置けませぬ」
ウイアルハナールの目が上がり、ラウレオルンの深碧の瞳がそれを受ける。
「滅ぶべし」
意を強くするでもなく、煩わしげに放られた声に、形のよいラウレオルンの唇が薄く開いたまま、短い間絶句する。
「陛下、」
「たかで二千年生けるばかりの小倅が、さかしらなる舌振りなるかな。黄昏の落日をば押して下ぐ異種情誼の輩ぞかし」
深碧の瞳を一度強く谷の王に向け、けれど礼を取るよう少し瞼を伏し、ラウレオルンはかすかに頷いた。
「他の種族と深く和親するエルフのあることで、森の精霊の力そのものが弱まるという、エルフには長く伝わる“噂”を信じておいでか。エルフのどの国もがそれについて調べ、究理すれども、一度も証されたことはございませぬ」
「言ひ消たれしためしも、またあらず」
変わらぬ静けさながら、確然と、また間を置かず返された声にラウレオルンは息をついた。
まさしくこれが、クリッペンヴァルトとベスシャッテテスタルの相容れなさそのものであったのだ。
「…信じたるやととぶらひしや、新の王よ」
呼びかけられ、目を上げて桔梗色の瞳を見つめ。思いがけず真っ直ぐにと返される視線に、改めて目を据え。
「谷の精気ならむや、吾国、魔術師の多く生まるる。起がエルフ、ベスシャッテテスタルへ守護を誓ひ、しかして劫を経れど、今なほうつろはず。精霊の力の乏しげになりゆくこと、吾が民がためは、我やなんぢには心も及ばぬ痛苦ならむ。信に足る証なぞ待つものかは」
ラウレオルンは目を瞠り、ウイアルハナールは再び目を伏せる。
緩みかけた眉宇に、けれど森の王は力を込め直した。
「自国の民のため、隣人を殺めても構わぬとお考えか」
上がるウイアルハナールの目が、すうっと細くなり。
「民ぞみな吾が子なる。そなたは如何に」
「同じ思いにございます」
これが、クリッペンヴァルトとベスシャッテテスタルなのだ。
そう、互いに噛んで含めるかのよう、深碧の瞳と桔梗色の瞳は、少し長く、言葉もなく眼差しを結んだまま。
「――…民はみな我が子…。まさしく、王の意にございます。ウイアルハナール陛下」
頷くよう額を下げ、先に口を開いたのはラウレオルンであった。
噛み締めるかに、そう言葉を含んでから、再びその額が上がる。
「我が子を苦しめるとあらば、手前とて隣人を殺めるやもしれませぬ。クリッペンヴァルトとベスシャッテテスタルの諍いは永きに渡るもの。数千年もこれを食い止めずにあって、貴国を詰る指は我が国にもありませぬ」
なれど、と、区切られる声に、ほんの微かにウイアルハナールの瞼が動く。
「他国へと攻め入る魔物の群れを、お見過ごしになられたか。此方の思い違いでないのなら、これだけは、エルフの国としてあるまじきこと」
わずかの間を置き、ラウレオルンを見つめた桔梗色の瞳を、ウイアルハナールは再び伏せる。
「然ることはせず。――そは、エルフにあるまじきことぞ…」
ラウレオルンの言った通りを繰り返した、深く息を抜くような声。伏せたまま上がらぬ瞼をしばし見つめ。
不意に。落ちた沈黙に息でもつぐかのよう、クリッペンヴァルトの陣営から、近衛の甲冑を纏った一人のエルフが枝と葉の玉座へと駆けてくる。
許しを待って脇に控える近衛を振り返り、それから、谷の王へと尋ねるようにラウレオルンが穏やかに首を傾ぐ。これを受け、ウイアルハナールは森の王へと浅く肩を竦めてみせた。
「何事か」
「――ハッ。ご会談中、失礼いたします。ウイアルハナール陛下、ラウレオルン陛下」
億劫そうに浅く頷くウイアルハナールに額を下げ、跪いて耳打ちを願い出る近衛へと、ラウレオルンは身を傾ぎ。
告げられる報告にいくつか頷くと、目で示して近衛へ退下を促した。
近衛を下がらせれば、ラウレオルンは再びウイアルハナールへと振り返り、玉座から立ち上がると、胸に掌を置き、恭しく礼を捧げる。
「ベスシャッテテスタル王、ウイアルハナール陛下。此度、この若輩の意を汲み、ベスシャッテテスタルよりお出ましいただいたこと、深く感謝いたしまする」
告げても、ラウレオルンの頭は上がらない。
「陛下のご胸中、よくよく承知つかまつりました。なれど、仰せの通り蒙昧の王ながら、このラウレオルンにとりても、クリッペンヴァルトの民は我が子。生まれ来る子らを順に傷付け合わせるかの国境の諍い、是が非なるとも承服いたせませぬ」
まだ上がらぬ黄金の髪を、ウイアルハナールが見つめる。
「滅びるがよいとまで仰せになった陛下のご心痛、さようでございますかと知らぬ顔はいたしませぬ」
ようやく上がる面に、深碧の瞳は怒りすら窺えるほど熱く、強い。
だが、このラウレオルンの眼差しを受けても尚、ウイアルハナールの桔梗色の瞳は熱もなく、憂いばかりが深く沈んでいる。
「これを止めるためならば、我が子すら戦火へと投げ込んでご覧にいれましょう。――その次の子らのため」
身を傾いだまま目を伏せ、ウイアルハナールはただ肩を竦めた。
「ベスシャッテテスタル王、薄暮公、ウイアルハナール陛下。このラウレオルン、逃げも隠れもいたさぬ。いつなりと参られるがよい」
桔梗色の瞳が再び上がり、それから、すうっと細められる。
「――…相分かった」
返る声に再び辞意の礼を取ると、それきり、踵を返したラウレオルンは振り返らなかった。
そうして、金色の王を飲み込んだ一軍は、青野に潮が引くように退き去り。エルフの清淑たる歩みとはいえ、立てる砂埃すら、暫しの時を経ればまた静かに凪いで。
「……あたかも、童のむづかる如く哉……」
残された枝と葉の玉座を前に、白い石の玉座に身を傾いだ谷の王が、ぽつりと呟く。
白皙の瞼を伏せ、その日、ウイアルハナールはいつまでもいつまでも、そこに座ったままでいたという。
作品名:花よりほかに/「星に牙、魔に祈り」小話つめ 1話目「森の黄金、谷の薄暮(現代語訳付き)」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/953807135/452547058 (リンク機能はありません)
――――――――――――――――――――
クリッペンヴァルトから離れて、樹人の森とベスシャッテテスタルの谷を間近に見据え、どの勢力にも属さない平らな草地が広がる。
折しも季節は春の終わり、いざや青い夏を迎えんとばかり、草は伸びはじめ、青々と緑が映える。
育ち盛りの草を分ける隙もないかと見えるほど、この低地をなお平らにするよう、白金の甲冑に身を包んだクリッペンヴァルトの国軍が、測ったような正しさで整列している。
全軍の四分の一ほどとはいえ、充分に、視界を埋め尽くさんばかりの大軍といえよう。
このクリッペンヴァルト軍の先頭から、真っ二つに裂くように兵士達が脇へ控えて作られる道を、一頭の馬に跨がったエルフが厳かに進み出る。
馬といえば確かに馬の姿か、たてがみのあるべき場所に、花をつけた蔓が茂って垂れ下がり、脚には緑の木の根が巻きついた、クリッペンヴァルトの森に棲む妖精馬だ。
ただ一人この背に乗ることを許された、現クリッペンヴァルト国王ラウレオルンといえば、鞍も用いず妖精馬の背にその長身を揺られ、進むたびに波打つ金の髪が、ひとりでに陽の光を集めては零すかのよう、遠目にも確かにきらきらと輝いてみえる。
妖精馬に跨がるクリッペンヴァルト王ラウレオルンの進む先には、一大隊ほどの間を置いて、同じく測ったように、別の布陣を敷く大きな一群が待ち構える。
青金の甲冑を纏う、ベスシャッテテスタル軍である。
クリッペンヴァルトの軍から、一人進み出るラウレオルンがどのような速度で歩み、いつを頃合いに両軍のちょうど半ばに至るのか、まるで予め知っていたかのように、まったく同じ距離を詰めて、ベスシャッテテスタルからも軍勢を割って進む者があった。
枝分かれした威厳のある角が苔むし、その足先は岩のようでありながら、歩みに重さを感じさせず、足音も穏やかだ。ベスシャッテテスタルの谷の妖精馬が背を許した者は、無論、ベスシャッテテスタル王ウイアルハナールしかいない。
翳りを帯びた銀髪は背を覆い、けれどこちらは馬の背に揺られても淑やかで、エルフという生き物の永遠を思い出させる、青年のような背筋に物静かに伸びている。
相対するというにはまだ幾らも距離のある内に、馬を止めてその背から降りたのは、クリッペンヴァルト王ラウレオルンだった。
谷の王が身も下さぬ内から、胸に掌を当てて額を下げ、礼を示す。
だが、ベスシャッテテスタル王ウイアルハナールも愚かな王ではない。ラウレオルンの額が上がる頃には、その足は既に馬を下りて地についていた。
まさしく眉一つ動かさぬというべき、美しいが鋭い面に、永い時を生きたエルフに特有の深い憂いを桔梗色の瞳にたたえて、ラウレオルンの礼を受け、ウイアルハナールは頷く。
「お初にお目に掛かれること、光栄至極に存じまする。ベスシャッテテスタル王、薄暮公、ウイアルハナール陛下」
声を張る様子ではなくも、玲瓏たる声はよく伸び響き。国王の座を指すに次ぎ、その名の前に、ラウレオルンは谷の王の二つ名を掲げた。
谷の王ウイアルハナールが、まだ王ではなく王子であった頃のことだ。
その初陣で放たれた強大な魔術は、見渡す限りの空を陰らせ、高くあった陽すら暮れさせたものかと、見る者を驚かせたと云われている。
これが、ウイアルハナールを讃える二つ名“薄暮公”の由来だ。
「クリッペンヴァルトが都ゆ、かかる草深き方へと、よくぞおはしけり。なれど永久に来ずべかりしを」
返すウイアルハナールの声は厳かで、岩に落ちる雫のごとく涼やかで澄んでいながら、これも不思議に、誰の耳にも届くかによく通る。
わざわざ足された辛辣にラウレオルンが開こうとした口を遮るものか、ウイアルハナールは少し鼻を上げるようにして、ラウレオルンの背後を示した。
「あな夥しき軍兵なるかな。――さすが、貴国にとりては片端なるか。いかが事有るものか、戦など始めむと思し召すにや」
ウイアルハナールが回りくどい挨拶などする気もない、穿っていえば、自分にその価値もないと見なされているのだろうとみて、ラウレオルンはニコリと笑みを浮かべる。
「クリッペンヴァルトは戦を望んだことなぞありませぬ」
言葉を句切り、チラと肩越しに振り返ってから、再び谷の王へと目を戻した。
「先王から玉座を賜り、隣国であり、偉大な魔術王の治められるベスシャッテテスタルへもご挨拶などと愚拙ながら考えた次第。なれど、手前の顔などお望みでないのも承知。さすれば、懐かしの鎧比べなぞ余興にせぬかと、こうして運んで参りました」
「興なし」
一蹴し、歯牙にもかけぬ様で逸れる谷の王の顔にも、ラウレオルンとて動じず、変わらぬ笑みばかり浮かべ。
短い間もおかぬ内に、ウイアルハナールが地を撫でるような仕草で右の掌をかざし、ふわりとばかり持ち上げた。
途端、岩同士がぶつかりながら転がるような音と共に、地が盛り上がり、岩が突き出して、みるみる内に玉座を築く。
まるで今切り出し、磨き上げられたような白い石の玉座に腰を下ろすと、ウイアルハナールはラウレオルンへ向け、浅く顎を浮かせる。お前も座れということだ。
着座の許しに恭しくも浅く、また額を下げてから、ラウレオルンが右手を持ち上げる。親しい者を呼ぶ時にでもそうするような仕草で、掌を上向け軽やかに手招けば、地の下に大蛇の這うごとくの音と共に、地面を割り開いて樹の枝と幹が顔を出す。
あたかも樹と親しむ庭師が時と手を掛け育て上げたかのよう、美しく編まれ絡み合う、葉と花が飾られた幹と枝の玉座が、谷の王と向き合う森の王を抱き留めた。
「かけず申せ」
憂うる桔梗色の瞳を陰銀のまつげに伏せ、ウイアルハナールが億劫そうに言う。
「互いの民を失うばかりの越境を、いつまでお続けになるおつもりか」
ラウレオルンの伸びた背と逆様に、ウイアルハナールは肘掛けに肘を着き、身を傾いで瞬いた。
「――さても…。此方に咎あるやうのたまうかな。森に踏み入れしばかりのエルフをば漫ろに追ひ、殺めしはそなたらならむ」
この始めのやりとりをすることが、まるで決まっており、知っていたかのように両王は顔色も変えない。気怠げに谷の王が答え、森の王は淡と相槌を打つ。
「武装した兵が許しも得ず国境を越え、都へ向け進むとあらば、その所以は当然問い、いらえなくば退去を請うは統治護国の内。ベスシャッテテスタルは、何故、こうも長くクリッペンヴァルトを試されなさる」
憂いがその瞼をひどく重くしているかのよう、谷の王はゆっくりと瞬き、熱のこもらぬ瞳で森の王を眺めた。
「…森のエルフ、新たしきをあらまほしめり。三千年、四千年に王すら挿げ替え、王より王へと政も受け継がれたらずは更なり」
薄く伏せる桔梗色の瞳に、ここで始めて、ラウレオルンの眉が僅かに陰る。
「クリッペンヴァルトもエルフの国、王ばかりか民とて、伝統を軽んじようなどという者はありませぬ。なれど、……恥を承知でお尋ねいたします。先の王か、先の先の王か、陛下との約を違えた者でもありまするか」
「――…否や。あらず」
ひどくゆっくりとした声とはいえ、ためらう様子も思い返す素振りもない返答は、即答の内といえるだろう。陰ったばかりであった眉を、ラウレオルンは今度こそ詰めた。
「陛下…」
当惑したようなラウレオルンの声に、ウイアルハナールは瞳を伏せたまま、動かず。
「ウイアルハナール陛下。愚見ながら、このエルフの黄昏に、かようにして、魔術に優れるベスシャッテテスタルの民、剣と弓に長けるクリッペンヴァルトの民が互いに刃を交えて徒にエルフの数を減らすこと、到底捨て置けませぬ」
ウイアルハナールの目が上がり、ラウレオルンの深碧の瞳がそれを受ける。
「滅ぶべし」
意を強くするでもなく、煩わしげに放られた声に、形のよいラウレオルンの唇が薄く開いたまま、短い間絶句する。
「陛下、」
「たかで二千年生けるばかりの小倅が、さかしらなる舌振りなるかな。黄昏の落日をば押して下ぐ異種情誼の輩ぞかし」
深碧の瞳を一度強く谷の王に向け、けれど礼を取るよう少し瞼を伏し、ラウレオルンはかすかに頷いた。
「他の種族と深く和親するエルフのあることで、森の精霊の力そのものが弱まるという、エルフには長く伝わる“噂”を信じておいでか。エルフのどの国もがそれについて調べ、究理すれども、一度も証されたことはございませぬ」
「言ひ消たれしためしも、またあらず」
変わらぬ静けさながら、確然と、また間を置かず返された声にラウレオルンは息をついた。
まさしくこれが、クリッペンヴァルトとベスシャッテテスタルの相容れなさそのものであったのだ。
「…信じたるやととぶらひしや、新の王よ」
呼びかけられ、目を上げて桔梗色の瞳を見つめ。思いがけず真っ直ぐにと返される視線に、改めて目を据え。
「谷の精気ならむや、吾国、魔術師の多く生まるる。起がエルフ、ベスシャッテテスタルへ守護を誓ひ、しかして劫を経れど、今なほうつろはず。精霊の力の乏しげになりゆくこと、吾が民がためは、我やなんぢには心も及ばぬ痛苦ならむ。信に足る証なぞ待つものかは」
ラウレオルンは目を瞠り、ウイアルハナールは再び目を伏せる。
緩みかけた眉宇に、けれど森の王は力を込め直した。
「自国の民のため、隣人を殺めても構わぬとお考えか」
上がるウイアルハナールの目が、すうっと細くなり。
「民ぞみな吾が子なる。そなたは如何に」
「同じ思いにございます」
これが、クリッペンヴァルトとベスシャッテテスタルなのだ。
そう、互いに噛んで含めるかのよう、深碧の瞳と桔梗色の瞳は、少し長く、言葉もなく眼差しを結んだまま。
「――…民はみな我が子…。まさしく、王の意にございます。ウイアルハナール陛下」
頷くよう額を下げ、先に口を開いたのはラウレオルンであった。
噛み締めるかに、そう言葉を含んでから、再びその額が上がる。
「我が子を苦しめるとあらば、手前とて隣人を殺めるやもしれませぬ。クリッペンヴァルトとベスシャッテテスタルの諍いは永きに渡るもの。数千年もこれを食い止めずにあって、貴国を詰る指は我が国にもありませぬ」
なれど、と、区切られる声に、ほんの微かにウイアルハナールの瞼が動く。
「他国へと攻め入る魔物の群れを、お見過ごしになられたか。此方の思い違いでないのなら、これだけは、エルフの国としてあるまじきこと」
わずかの間を置き、ラウレオルンを見つめた桔梗色の瞳を、ウイアルハナールは再び伏せる。
「然ることはせず。――そは、エルフにあるまじきことぞ…」
ラウレオルンの言った通りを繰り返した、深く息を抜くような声。伏せたまま上がらぬ瞼をしばし見つめ。
不意に。落ちた沈黙に息でもつぐかのよう、クリッペンヴァルトの陣営から、近衛の甲冑を纏った一人のエルフが枝と葉の玉座へと駆けてくる。
許しを待って脇に控える近衛を振り返り、それから、谷の王へと尋ねるようにラウレオルンが穏やかに首を傾ぐ。これを受け、ウイアルハナールは森の王へと浅く肩を竦めてみせた。
「何事か」
「――ハッ。ご会談中、失礼いたします。ウイアルハナール陛下、ラウレオルン陛下」
億劫そうに浅く頷くウイアルハナールに額を下げ、跪いて耳打ちを願い出る近衛へと、ラウレオルンは身を傾ぎ。
告げられる報告にいくつか頷くと、目で示して近衛へ退下を促した。
近衛を下がらせれば、ラウレオルンは再びウイアルハナールへと振り返り、玉座から立ち上がると、胸に掌を置き、恭しく礼を捧げる。
「ベスシャッテテスタル王、ウイアルハナール陛下。此度、この若輩の意を汲み、ベスシャッテテスタルよりお出ましいただいたこと、深く感謝いたしまする」
告げても、ラウレオルンの頭は上がらない。
「陛下のご胸中、よくよく承知つかまつりました。なれど、仰せの通り蒙昧の王ながら、このラウレオルンにとりても、クリッペンヴァルトの民は我が子。生まれ来る子らを順に傷付け合わせるかの国境の諍い、是が非なるとも承服いたせませぬ」
まだ上がらぬ黄金の髪を、ウイアルハナールが見つめる。
「滅びるがよいとまで仰せになった陛下のご心痛、さようでございますかと知らぬ顔はいたしませぬ」
ようやく上がる面に、深碧の瞳は怒りすら窺えるほど熱く、強い。
だが、このラウレオルンの眼差しを受けても尚、ウイアルハナールの桔梗色の瞳は熱もなく、憂いばかりが深く沈んでいる。
「これを止めるためならば、我が子すら戦火へと投げ込んでご覧にいれましょう。――その次の子らのため」
身を傾いだまま目を伏せ、ウイアルハナールはただ肩を竦めた。
「ベスシャッテテスタル王、薄暮公、ウイアルハナール陛下。このラウレオルン、逃げも隠れもいたさぬ。いつなりと参られるがよい」
桔梗色の瞳が再び上がり、それから、すうっと細められる。
「――…相分かった」
返る声に再び辞意の礼を取ると、それきり、踵を返したラウレオルンは振り返らなかった。
そうして、金色の王を飲み込んだ一軍は、青野に潮が引くように退き去り。エルフの清淑たる歩みとはいえ、立てる砂埃すら、暫しの時を経ればまた静かに凪いで。
「……あたかも、童のむづかる如く哉……」
残された枝と葉の玉座を前に、白い石の玉座に身を傾いだ谷の王が、ぽつりと呟く。
白皙の瞼を伏せ、その日、ウイアルハナールはいつまでもいつまでも、そこに座ったままでいたという。
0
お気に入りに追加
95
あなたにおすすめの小説
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
寮生活のイジメ【社会人版】
ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説
【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】
全四話
毎週日曜日の正午に一話ずつ公開
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜
飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。
でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。
しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。
秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。
美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。
秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる