星に牙、魔に祈り

種田遠雷

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15、エルフの堕落

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 すぐにそれと分かる、パンを焼く香ばしい匂い。焼きたてのパンがあげる仄かな湯気を想起させる、温かで膨れた空気。
 武具屋の店主が言っていた角を曲がると、途端に甘い香りが漂い、この村の名を思い出させている。
 大通りの支流にあたる道に足を踏み入れれば、武具屋から聞いた通り流行しているのだろう、途端に人が多く見え。
 賑わいの中を抜けるようにして店構えを見上げれば、いくらかは歴史のありそうな小さなパン屋と、真新しく建て増したとみられる飲食の店が内部でつながっているようだ。
 新しい店の掃き出しの窓は大きく開かれ、あふれさせたように通りへもいくつかのテーブルと椅子を並べており、そこに掛けて寛ぐ人々が、なるほどパンを食べている。
 目的のものはどこにあって、そこからどうテーブルに着くのかと見回せば、隣のアギレオと目が合って、顎をしゃくられた。
「こっちで買って、あっちで食うみてえだぜ」
 2つの建物を交互に目線で示されるのを目で追い、なるほどと合点し。人々の流れに便乗するよう足を踏み入れるパン屋の中は、思わず眦が緩むような香りで満ちている。
 店員の案内で、持ち帰りではなく隣の建物で飲食するなら、と、まずは勧められるままに従う。いくつかの選択肢の中から選んで、即決のアギレオと同じに紅茶を頼み、好きな場所へと促されて、通りへとあふれているテーブル席へと腰を下ろした。
「賑やかだな。これだけで、ずいぶん遊んだ気にすらなる」
 人心地ひとここちついて息を抜きながら、腕組みして通りを眺めているアギレオを見る。つられるように目をやって、忙しなく行き交い、あるいは足を止めて楽しげに話を弾ませている人々を眺め。
「だな。住むにゃちっと気忙しいが、遊び歩くならもってこいってとこだ」
 運ばれてきた紅茶に目で礼を捧げ、早速カップを持ち上げる。高価な葉ではないが新鮮な香りを楽しみ、口をつける。熱心に歩き回ったり話したりしたせいか、思いがけず喉も渇いていて、口と喉を潤すあたたかさと好い香りに頬が緩んだ。
 通りの景色を眺め、同じように眺めているアギレオを眺め、時折他愛もないことを話しては、また少し黙って寛ぎ。
 そうしている内に話題の皿が運ばれてきて、給仕への礼もそこそこに二人でまずそれを見つめてしまう。白パンであろうと思われるが、見たことのない姿をしている。
「二度焼いているのだろうか、どうするとこういう焼き目がつくのだろう」
「白えが、パンはパンだよなあ」
 流行の正体を確かめてみっか、と、掌ほどもない白く真四角なパンをアギレオが口に運ぶ。そうだな、と、続いて手に取り、同じように口にして。
 顔に近づいたところで、なるほどと気づいた蜂蜜の匂いが、パンを噛んだ途端に広がり、すぐにじゅわりと口の中を満たす甘さに頬が綻ぶ。
「ん、」
「ああ、」
 蜂蜜の甘さを引き立てる香ばしい匂いの正体、意外なほど甘みと絡み合って味を引き立てる、なめらかな塩気。
「バターだ」
 声がそろって、思わず目が合って、互いに笑ってしまう。
「これは…なかなか贅沢な食べ物だな…」
 手に触れ、口に入れてみて理解したが、焼き上げた白パンの表面の固い部分を落として、柔らかい中身だけに更に焼き目をつけている。
 それだけでも贅沢な使い方だと思うが、たっぷりの蜂蜜とバターがあふれぬよう、挟んだ周りを潰すことで閉じている。
「おっ、しかも怖え食いモンだぜこりゃ。見た目より一瞬で失せるわ」
「確かに…」
 サックリとした歯ごたえの表面とは裏腹に、配合に工夫があるのだろう、パン生地自体はごくふわりとして軽く、バターや蜂蜜より先に溶けてしまうかと思うほどだ。
 後を引かない甘さと塩気のバランスを、二口目のパンが拭ってしまって、その軽やかな繰り返しに、つい次のパンへと手が伸びる。
「これは、危険だな…。堕落だらくの味がする…」
 すでに残り2つとなった蜂蜜バターサンドの1つに遠慮なく手を伸ばしながら、給仕を招くアギレオが同じものを追加で頼んでいるのに異論も湧いてこない。
「へっへっへ、そりゃいいな。使わせてもらいますよ、エルフの旦那」
 すぐにお持ちしますよと言った給仕が、同じ口でそう笑うのに、うん?とアギレオと二人でその男を見上げてしまう。
「まだこいつを始めてから何ヶ月ですが、もう別の店でも真似するとこがありましてね。なんか特別な区別をつけられねえかと思ってたんですよ」
 ああ、と、思いがけず給仕の男が何者なのかを理解して、相槌を打つ。
「この店の主だったのか」
 へい、と、ニコニコ顔で応じる店主に、行儀悪く片肘をついて最後のパンを口に運びながら、アギレオが器用に片側の口角を吊り上げる。
「なるほど、この国でこんなに分かりやすいお墨付きもねえな。エルフが気に入ったなんてよ」
「へっへっへ…、おっしゃる通りですよ、ツノの旦那。“あまりの美味さにエルフが夢中になった”そのパンの名前は、」
「“エルフの堕落”」
 店主とアギレオが口を揃えるのに、ただ目を丸くしてしまう。商いをするものというのは、思わぬ機転が利くようだ。
「へっへっへ、さて、堕落のおかわりでしたね。飲み物はまた紅茶でよろしいんで?」
「ああ。…いや、ワインはあるだろうか」
 飲むにはまだ日が高いだろうか、と、思わず空と、アギレオを見てしまう。牙剥くよう片頬で笑いながら、アギレオが「んじゃラム酒」と頼んでいるのに、こちらでも頬を緩めた。

「すっかり満喫してしまったな」
 ワインであたたまった身体はふわふわと軽い。
 フッと鼻先に抜くよう吐息で笑う隣のアギレオを振り返りながら、物見遊山ものみゆさんのように大通りをのんびりと歩き。
「すっかり“堕落”しちまったってとこだな」
 店での会話を蒸し返す言い方に、ひとつ瞬いてから、思わず噴き出すように笑ってしまう。
「まさしく。明るい内から贅沢なものを食べ、酒を飲んで」
 否、明るいといっても、じきに日も落ちるか。
 斜め向こう、家々の屋根へと傾いていく陽に目をやり、心地良い気怠さに瞬く。
「たまにゃ悪くねえなあ」
 指を組み合わせて肩と腕を伸ばしているアギレオを振り返り、たまにはな、と頷いて。
 ふいに、ア、と、隣で声を上がるのに、うん?と目をやれば、足を止め視線が返される。首を傾げ、同じように足を止めて続きを待ち。
「ついでだ、知った顔に声掛けようと思ってたんだったぜ。ちょっと適当に歩いてろよ」
「ああ、もちろん。こんなところに知人があるのか?」
 おう、と頷く声を感心して聞く。
「商売するやつがいくらかな。済んでもその辺で会えなきゃ、また宿に戻るか」
 そうだな…、と、もう一度、傾いていく陽を振り返ってから、頷いた。
「それなら、私も探し物をしに少し歩こう。人も多いし、その内に日も暮れるだろうから、その方が間違いなさそうだ」
 そうしようと同意し合って、また後で、と何気なく上げた手の指先に、チョンと軽く指の背を触れられる。
 不思議に思いがけないその仕草に少し止まってしまうのを、構わず踵を返して歩いていくアギレオの背を短い間見送る。
「……」
 いつでももっと、深い触れ合いすら珍しくないというのに、残像のような感触を残した指の背を、見つめる。
 もう一度顔を上げれば、人々よりも頭一つ抜きん出たアギレオの姿もあっという間に離れていき。
 なんとも言いようのない息を一つついて、書物を扱う店はあるだろうかと顔を上げて歩き出した。
 やや新しいものが多いように思える建物の間を、川を流れるように人々の流れに沿って通りを歩く。
 最も種類の多い食料品店の他に、衣類を並べる店、布地等が並ぶ店、革製品、装飾品、鍛冶、金物、飲食店、挙げればきりがないほど、多彩な軒と露店が連なり、人々が足を止めてはまた流れていく。
 己もまた、彼らと同じように目を引くものに足を止め、店の持ち主から掛けられる声に頷いたりしながら、気長に街を眺めて歩く。
 次第に陽の光の色が変わるのに気がつき、アギレオにならって、何か買い入れる代わりにものを尋ねようかと思案する目の先に、どうやら目当てにした店が見えてきて、足を寄せた。
「いらっしゃい」
 ごく小さいが充分に書店と呼べるだろうその扉をくぐった先、本を棚に並べていた年配らしき男が、己を見ておやという風に少し眉を上げる。
「書物を探しているんだが」
 はい、と応じて手にした本を脇に退け、己の言葉を待つ店主へと、懐から本を出しながら足を向ける。
「これを書いた著者の本があれば求めたいのだ」
 はいはい、と、胸のポケットに掛かっていた眼鏡を掛け、こちらの手許へと目を落とす店主に、アマランタという名だ。と、ケレブシアから預かったそれを見せ。
 うーん?と顎をひねる店主に、腹の内に隠すよう息を抜く。小さな書店だ、思い通りのものがなくても不思議ではない。
「覚えがないだろうか。失礼だが、ならば、近くに書物を扱っているところはあるか?」
 うーん、ともう一度、今度は逆向きに顎をひねる店主を待ちながら、本は懐に仕舞い直して。
「あちこちから集めた本を並べてる露店はあんですが、こういうのは置かねえかもなあ、あいつ…」
「そうか」
 見つからなければ残念だが、駄目元でもある。ありがとう、と、礼を告げて踵を返し。
「あー! ちょっと、ちょっと待ってくれ、エルフさん!」
 声を上げる店主に肩越し振り返れば、ところがこちらを向いてはおらず、先ほどよりも更に少し奥の本の山を崩しながら、空を掴むように手招きしている。
 招かれるままに足を寄せ、あったのを思い出したのだろうか、と、彼が崩している山に目を落として。
「あの、そのね、アマランタ、アマランタってのは、ここいらの名前じゃねえんですよ。そりゃ西の大陸の言葉だ。西の人だよ、確か」
 なるほど、と、店主が崩しては裏返す本の山に、いくらも地方語や遠方の言語で題名や著者名が示されているのに合点する。
「西の言葉が分かりますかね、エルフさん。名前だ、なんとなく分かるが、どうだろうな。けど、なんとなくそんなような名を見た気がね、」
「なるほど。外国語であれば、しかと覚えているとは限らないかもしれないな」
 読める、と頷き、店主を手伝い。本が傷まぬよう脇に退けながら、様々な言語で書かれた本の表紙や背表紙を確かめてはまた積み上げていく。
「ああ、店主…!」
「お!? おお、ほらごらんなさい、あったでしょう!」
「まったくだ、感謝する…!」
 その中に確かに“アマランタ”と西の文字で記された書物を見つけ、店主と二人で頷き合う。よかったよかったと二人で笑い合い、その一冊を求め、簡単な布地にくるんでくれるのを受け取る。
 礼を重ね、思いがけず叶った望みに軽やかな気分で店を後にした。
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