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終章
第61話 エピローグ・明治
しおりを挟む明治以降の俊輔、すなわち伊藤博文のことについては歴史教科書などで一般に知られていると思うので、ここではそれほど大きく取り上げない。
それよりも、さしあたってサトウとウィリスのこの後のことを簡単にまとめておきたい。
この戊辰の年の四月に賜暇申請をしたサトウが、実際にイギリスへ向けて出発するのは翌明治二年一月(西暦では2月)のことである。
その間、八月に蝦夷地を船で調査中、宗谷湾で座礁して船が沈没するという事故に遭遇したりしているが、この時は幸いフランスの軍艦に救助されて無事横浜へ帰ることができた。
サトウは上野戦争(彰義隊戦争)、北越戦争、東北戦争、箱館戦争などに関わることは特になかった。
一方ウィリスは、上方での医療活動を新政府から評価され、それをきっかけとして上野戦争、北越戦争、東北戦争において再び負傷者の治療をすることになった。
特に北越戦争と東北戦争では高田、新潟、新発田、会津若松などの戦地に入って「両軍の」負傷兵を治療した。
両軍の負傷兵を治療したのは人道上の理由もあるが、イギリスの局外中立をはかるためでもあった。しかしそうは言っても、ウィリスの医療活動を支えていたのが新政府軍であったことは言うまでもない。
ウィリスはこれらの戦地で詳細なレポートを書いており、それらは現在貴重な史料となっている。
ただしウィリスの場合、サトウのような文人的な素養がそれほど高いわけではないので、かなりストレートで辛辣な表現が多い(特に会津藩に対してかなり辛辣なことを書いている)。
東京(江戸は七月十七日に東京と改称)に戻ったウィリスは新政府から大絶賛され、またパークスもウィリスの医療活動を褒め称えた。
そして新政府は、東京に設立する西洋式医学校の指導者としてウィリスを一年間貸与してもらいたい、とイギリス側に申し出た。
この時ウィリスは東京副領事の地位についていたのだがウィリスもサトウと同じくこのとき賜暇を取ることができたので、その賜暇期間を利用して一年間だけ西洋式医学校で指導することになった。ちなみにこの西洋式医学校は下谷の津藩藤堂邸(現在の秋葉原駅の北東のあたり)にあり、のちに大学東校、さらに東京大学医学部へとつながっていくことになる。
ここでウィリスに大きな転機がおとずれた。
ウィリスはこのあと、イギリス公使館を去って医学の道へ進むことにしたのである。
そこには仕事のやりがいという理由もあったが、やはりなんといっても大きかったのは「高額の報酬を提示された」というところにあった。「ウィリスは仕送りの必要があって金を稼ぐために日本へ来た」ということは以前第8話で書いたことがある。
ところが、これがいきなりつまずく事になった。
新政府はこの頃、世界的に高く評価されつつあった「ドイツ医学」に範をとる方針になっていた。
イギリス人で、しかも医学の高等知識を身に付けていた訳でもない外科医のウィリスは、お払い箱になってしまったのである。そしてそれを薩摩藩(特に西郷)が拾い、ウィリスは鹿児島へ赴くことになった(ただし『遠い崖』ではこの定説に疑問を呈し、お払い箱ではなくてウィリスが自発的に退職して、薩摩藩へ行くのも早い段階から準備していた、としている)。
以後、ウィリスは東京のサトウと別れて、鹿児島に住むことになった。そしてこの状態は西南戦争まで続くことになる。
明治二年一月十四日(1869年2月24日)、サトウはイギリスへ帰国するため横浜を出港した。
以下、『一外交官の見た明治維新』(岩波書店、訳・坂田精一)の最終ページに書かれている文章をそのまま引用する。
「パークス夫人も、この船でイギリスへ向かった。居留のイギリス人は、パークス夫人に敬意を表して、楽隊を差し向けた。楽隊は、船の錨が揚げられるとき、『ホーム、スィートホーム』を演奏した。私は両眼に涙のにじみ出るのを感じた。それは、大好きな音楽を聞くときに常にわきおこる感情のためだったか、あるいは六年半もきわめて幸福にすごした国を立ち去るときの愛惜の気持ちからであったか、何とも言いようのないものだった。私は、忠実な会津の侍の野口富蔵を同伴したのである」
この賜暇帰国中にサトウは、日本にいる同僚のアストンに次のような手紙を書いている。以下、『遠い崖』8巻(萩原延壽、朝日新聞社)よりそのまま引用する。
「公使館の人手不足は、ひどいものにちがいありません。つくづく日本がいやになった(disgust with Japan)というあなたの気持に、まったく同感です。じつはわたしも日本をはなれる約一年前から、自分の仕事にたいする興味をすっかり無くしていました。これからも日本人は進歩をつづけてゆくでしょうが、われわれ外国人は、ただ退場してゆくよりほかはないと思います」
萩原先生は『遠い崖』の中でこの頃サトウが抱いていた複雑な心理を詳しく解説されているが、ここではそこまで立ち入らないことにする。
かなり単純に言ってしまえば、幕末の動乱が終わって、サトウの役割も薄れ、明治新政府の歩みを傍観するしかない立場になったことを吐露したものと思われる。
とにかく、サトウがイギリスへ一時帰国したことによって、もう一人の日本語通訳者であるアストンは非常に多忙となり、手紙でサトウに愚痴のひとつも書いて送ったのであろう。そのアストンの手紙は残ってないので内容は不明だが、上記の手紙はアストンの愚痴に対する気休めの返事だったと思われる。
この二人が日本を本気で嫌うはずもなく、このあと二人はイギリス人「日本学者」の両巨頭となるのである。
明治三年十月(1870年11月)サトウは一年八ヶ月ぶりに日本に戻ってきた。
翌四年(1871年)の七月には廃藩置県がおこなわれ、十一月には岩倉使節団が横浜を出発して欧米へ向かった。
伊藤博文もこの岩倉使節団に同行し、再びイギリスの土を踏むことになった。
一方サトウはこの年、日本人女性の武田兼と結婚した。サトウ二十八歳、兼十八歳。
ただしこれは正式な記録が残っている訳ではないようで、兼との間に生まれた娘(明治六年9月に一歳五ヶ月で夭折)の年齢から推定したものである。また、兼の出自も正式な記録はなく、三田伊皿子の指物師の娘、あるいは高輪のイギリス公使館で働いていた植木職人の娘とも言われている。
そしてこれは正式なかたちの結婚ではなく、あくまでサトウの「内縁の妻」というかたちだった。
そこには当時のイギリスと日本の地位的な問題、さらにはサトウの外交官としての地位的な問題もあったようである。
このあと二人の間には明治十三年に長男の栄太郎が、明治十六年に次男の久吉が誕生する。
ちなみにサトウが結婚したこの年、ウィリスも鹿児島で士族の娘、江夏八重と結婚している。
ウィリスと八重の間には明治六年に長男のアルバートが生まれるのだが、ちょっとややこしいのは本編で少し触れたように、ウィリスにはすでにイギリスで病院勤務の女性に産ませて兄に面倒をみてもらっている男児エドワードがおり、さらに横浜に住んでいた時に家政婦の「おちのサン」に産ませた「うたろう」ことジョージという男児もいた。これらの子どもたちがその後どうなったかについて詳しく解説することはしないが(詳しくは『遠い崖』や『ある英人医師の幕末維新』などに書かれている)確実に言えることは、サトウもウィリスも子どもたちへの養育費を送金するのを絶対に欠かさなかった、ということである。
明治六年(1873年)の秋に伊藤たち岩倉使節団が日本に帰国すると、たちまち「明治六年の政変」が発生した。
いわゆる「征韓論政変」である。
この政変には伊藤も大久保と組んで重要な役割を演じているのだが、それらの話はこの小説の本旨とは関係が無いので割愛する。
政変後、西郷は下野して鹿児島へ帰った。
そしてこれ以降、九州を中心に士族の反乱がいくつも発生し、最終的には明治十年の西南戦争へとつながっていくことになる。
明治九年(1876年)3月、サトウは二度目の賜暇帰国を取ってイギリスへ帰国した。
ちなみに同じ頃にウィリスも約十三年ぶりにイギリスに帰国して、サトウより一足早く鹿児島に戻ってきた。
そしてサトウは翌十年(1877年)の1月末に日本へ戻って来たのだが、上海でパークス公使から鹿児島行きの訓令を受けとり、そこから長崎へ入り、さらに2月2日に鹿児島へ入った。
五十年ぶりとも言われる大雪の中、薩軍が鹿児島を出陣し、西南戦争が開始されるのは2月15日のことである(ちなみにこの日は旧暦の一月三日で、鳥羽伏見の戦いの開戦日でもある)。
別にパークスは西南戦争の勃発を予期してサトウを鹿児島へ送り込んだ訳ではない。
逆に神風連の乱、秋月の乱、萩の乱に呼応せず、「鎮圧」に協力的だった鹿児島県の様子を視察するため、という名目で送り込んだぐらいだった。またサトウのほうも、単純にウィリスと会うために鹿児島へ寄っただけのことで(そのサトウの申請をパークスが承認した形だった)このとき鹿児島へ来たのはまったくの偶然だった。
ところがサトウが到着していきなり、政府が鹿児島から持ち出そうとした武器弾薬を薩軍が奪取し、さらには警視庁から派遣された中原尚雄らの逮捕事件が起きた。
そして2月11日、西郷隆盛がウィリスの家へやって来た。
サトウとウィリスは一応西郷と面会したのだが、二十名ほどの護衛が西郷に付き添い、というよりも監視するかのように西郷の近くを取り巻いていたので、ほとんど会話らしい会話はできなかった。
そしてこれがサトウと西郷の最後の別れとなった。
このあとサトウは薩軍の進軍ルートの後を追うように熊本へ向かい、途中八代へ別れてそこから船で長崎へ渡り、それから東京へ戻った。
そして結局ウィリスは鹿児島を去ることになり、3月に八重や子どもたちと鹿児島を出て横浜へ移っていった。
西南戦争の結果についても、ここで詳しく解説するつもりはない。
9月24日の城山の戦いで西郷たちが戦死して終戦となった。
余談ながら、この戦争の最中に西郷隆盛の弟、従道(陸軍卿代理。以前の信吾)がパークスと興味深い会話をしている。
このとき西郷従道は
「明治六年の征韓論の時に朝鮮と戦争するのが最善の選択だった。自分は当時清国と事を構えるのは危険だと思って征韓に反対したが、台湾出兵をやってみて清国を恐れる必要はないと分かった。征韓論政変が起きずに朝鮮と戦争していれば佐賀の乱も今回の戦争もなかっただろう」
といったようなことを述べた。これに対してパークスは
「様々な理由から、朝鮮と戦争するよりも内乱で済んだほうが良かった」
と答えたという。
伊藤の恩人である木戸孝允はこの戦争中に病死し、大久保利通は戦後まもなく暗殺され、いわゆる「維新の三傑」がこの頃相次いで他界した。
そしてこの西南戦争の影響で、ウィリスの運命も大きく変わってしまった。
いわゆる「明治のお雇い外国人」の一人としてウィリスは鹿児島でかなりの高給をもらっていたのだが、そういったレベルの仕事を日本で見つけることができなくなってしまったのである。
結局このあと家族はバラバラになり、最終的には八重とも別れることになった。
そして明治十七年(1884年)にサトウがタイの総領事に就任するのをきっかけにして、サトウがウィリスを総領事付医官としてバンコクへ呼び寄せ、二人は再びバンコクで一緒に暮らすことになるのである。
ウィリスはタイで八年間勤務し、1893年に病気のためイギリスへ帰国。そして1894年2月14日に死去した。享年五十七。三人の子どもたち、八重、「おちのさん」などへ遺産を分配する手続きにはサトウも大きく関わることになった。
一方、タイの総領事に就任するまでのサトウは「日本学者」を目指す外交官、といった仕事ぶりだった。
「日本アジア協会」の主要メンバーとして日本の言語、歴史、宗教などに関する数々の研究発表をおこない、また『英和口語辞典』という辞書を石橋政方と共同で出版した。
さらに日本各地を旅行して回り、『中部・北部旅行案内』という外国人向けの旅行案内を編集し、イギリスの出版社を使って出版した。
特に旅行(登山含む)に関する彼の情熱は凄まじく、鉄道が未発達な当時、サトウ以上に日本中を旅行した外国人、いやひょっとすると日本人でもいないのではなかろうか?というぐらいに日本中を歩き回った。
その詳細については平凡社の『明治日本旅行案内』や『日本旅行日記』などで読むことができる。当時の社会風俗を知るための史料としても、これらは貴重な記録である。
しかしサトウは「日本学者」として終わることを良しとしなかった。
やはり外交官として出世したかったのである。
明治十七年にバンコクへ総領事として赴任することになったのもそのためである。
領事部門に所属するサトウとしては、いきなり日本公使にはなれない。
ただし一応この頃には外交部門に昇進しており、タイの総領事を皮切りに明治二十二年(1889年)にウルグアイ弁理公使に、明治二十六年(1893年)にモロッコ公使に赴任した。
いずれも兼や子どもたちを日本に置いての単身赴任だった。
サトウが友人のディキンズ(マリア・ルース号事件で外国側の弁護人をしたり、『パークス伝』を書いた人物)へ書いた手紙では、日本を離れたことに幾分後悔している様子もうかがえる。
以下、『遠い崖』14巻(萩原延壽、朝日新聞社)よりそのまま引用する。
「あの国(日本)のことを考えると、きまってつよい悔恨の念におそわれます。イギリスから遠く離れていたものの、わたしはあの国でじつに幸福でした。内地を旅行するのは、じつにたのしいものでした。たんに昇進という目的のために、あの国と別れるとは、何という大馬鹿者であったかと、ときどき思います」
一方、「維新の三傑」が消えたあと、「明治十四年の政変」で大隈重信を追い落した伊藤博文は、政界を主導する地位にのし上がった。
そして明治十八年(1885年)12月、伊藤は初代内閣総理大臣に就任した。伊藤、この時四十四歳。
さらに明治二十二年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が黒田内閣のもとで発布された。「この明治憲法を作ったのは伊藤である」と言っても差し支えないほど、伊藤は憲法制定に尽力した。
明治二十五年(1892年)8月、伊藤は二度目の総理の座につき、第二次伊藤内閣が発足した。そしてこの内閣で日清戦争に臨むことになった。
明治二十七年(1894年)7月に開戦、翌二十八年(1895年)4月に下関条約を結んで終戦となるも、その直後に露仏独から「三国干渉」を受けることになった。
サトウが念願の日本公使となって、十二年ぶりに日本へ着任したのはこの明治二十八年7月のことだった。
この時サトウ五十二歳。伊藤博文五十三歳。
以後、サトウは明治三十三年(1900年)まで日本公使をつとめることになるのだが、この間の行動については『アーネスト・サトウ公使日記』(新人物往来社、訳・長岡祥三、福永郁雄)に詳しく載っている。
サトウは日本へ来る直前にヴィクトリア女王から聖マイケル・聖ジョージ二等勲章(KCMG)を授けられ「サー」の称号を得ていた。
これで彼の夢だった「ジェントルマン」になり、サー・アーネスト・サトウとなったのである。
ちなみに既にこの頃、パークスは1885年に清国で、ワーグマンは1891年に横浜で死去していた。そして前述の通りウィリスもこの直前に亡くなっていた。
さて、サトウは来日してすぐに総理大臣の伊藤を訪問し、日清戦争の勝利に祝意を述べた。さらに「条約改正」についても祝意を述べた。
「条約改正」は明治日本が、いや維新前から日本の有志者たちか強く望んでいた悲願だった。
維新後、この物語にも登場した寺島宗則、井上馨などがこの問題に取り組んだものの、力が及ばなかった。
それを陸奥宗光が、日清戦争の直前に結んだ日英通商航海条約によってかなり前進させたのである。この条約によって「領事裁判制度」が撤廃されることになった。ただし「関税自主権」が完全に回復されるのは日露戦争後のことである。それでもとにかく、この「条約改正」は伊藤内閣の大きな成果と言っていい。
このとき二人は東アジア各国およびヨーロッパ各国の情勢について細かく話し合った。幕末の頃に二人が話し合っていたローカルな話と比べれば、まったくもって隔世の感がある。
さはさりながら、例えば10月7日に二人が会った時には、下関戦争や神戸事件などの昔話に花を咲かせたりもした(具体的な会話の中身は、サトウの日記にはあまり書いてないが)。
このあと明治二十九年(1896年)8月に第二次伊藤内閣は退陣して第二次松方内閣に引き継がれた。
総理を辞めた伊藤は翌三十年(1897年)5月、ヴィクトリア女王即位六十年記念式典に出席する有栖川宮威仁親王の一行に参加し、イギリスへ向けて出発した。
実はこのとき横浜から出発した船にはイギリスへ一時帰国するサトウも同乗しており、アメリカまで伊藤とサトウは同伴することになった。そしてこのイギリスでの記念式典には伊藤もサトウも出席したが、特にこれと言って二人が何かをしたという訳でもないようである。伊藤は9月に、サトウは11月に日本に戻った。
帰国後、伊藤は再び政権に復帰し、翌三十一年(1898年)1月、第三次伊藤内閣が発足した。
けれどもこの内閣はさしたる成果をあげることも出来ず、わずか半年で退陣することになった。このあと伊藤は明治三十三年(1900年)10月に第四次伊藤内閣を作ることになるが、これもおよそ半年で退陣する短命政権となった。
この第三次内閣と第四次内閣のあいだの頃、伊藤が政権外にいた時にサトウが伊藤を訪問した。
明治三十二年(1899年)2月15日のことである。
伊藤はこの少し前に清国を視察するなど(たまたま清国滞在中に保守派による「戊戌の政変」に遭遇した)政権外にあっても「元勲」として盛んに政治活動をおこなっていた。
この日、伊藤とサトウはいつものように外交問題、特にこの頃最大の問題となっていた「ロシア問題」などについて話し合った。そしてそのあと幕末の頃の話、さらに「日本公使にはサトウが一番ふさわしい」といったことにも話は及んだ。
以下、『アーネスト・サトウ公使日記』(新人物往来社、訳・長岡祥三、福永郁雄)より抜粋して引用する。
「二月十五日 伊藤を訪問。話題が北京のことに及んだとき、伊藤は、彼が清国の変革は革命でもなければ不可能だと言った、と伝えられるのは正しくないと言った。(中略)伊藤は話の中で、清国は瀕死の老人だと評した。伊藤は総理衙門(※清国の政府機関)から助言を求められたが、もしクーデターさえなければ、伊藤はこの目的のためにもっと長く滞在しただろうという。(中略)ロシアの狙いは、清国のうち黄河の北部全域の獲得なのだ、と私は伊藤に言った。「それは夢だ」と伊藤は答えた。「しかし満洲ならロシアは併合するだろう」と私は言った。「その通り」と伊藤は答えた。(中略)それから伊藤は一八六八年(慶応四年・明治元年)の大坂でのことを話題にした。そこで私がこう力説したことを記憶しているという。武士の間で国土を分割するということに関して、もしそういうことになれば、そこに極めて保守的な階級が生じて、彼らはこちこちの攘夷主義者になるだろう。そのような施策は打破する必要がある、と。もちろん自国民のこと故、伊藤は私よりもずっと事態をよく把握しているのであるから、伊藤よりも何かを知っていると言うつもりはなかった、と私は言った。そして伊藤は、日本公使としては誰よりも私が適任である、と賛辞を呈した。その理由は、この間に起こった日本の進歩を私が理解できるからだという。それに応えて私はこう言った。私の強みは、現在の日本を三十五年前の日本と比較することができることである。一方、今日本へ赴任している公使たちは、せいぜい現在の日本をヨーロッパの国と比較することができるだけである」
しかしサトウは翌三十三年(1900年)、日本公使から清国公使へ転任することになった。
その原因は、当時清国公使だったマクドナルドの健康問題(彼はこの年に起きた「義和団の乱」で、会津出身の柴五郎などと北京籠城を経験した)にあったようで、マクドナルドが環境の穏やかな日本公使に転任し、入れ替わりにサトウが北京へ行くことになったのである。
この頃でもまだ日本公使より清国公使のほうが幾分高給だったので一応これは栄転とも言えるのだが、兼、栄太郎、久吉たち家族と別れて北京へ行くのは不本意であったろう。
しかもこの二年後の「日英同盟」にサトウは関わることもなく、日英同盟後の「大使館」設置による初の「日本大使」就任も、サトウではなくてマクドナルドがその座に就くことになった。
マクドナルドはこのあと十二年間、日本公使および大使をつとめることになり、日露戦争前後の日英関係は彼が駐日イギリス代表をつとめて取り仕切るのである。
これはサトウにとってはなんとも不運なようにも思えるが、この日露戦争前後という戦乱の時代としては「日本学者」である文人的なサトウよりも、軍人出身のマクドナルドのほうがある意味適任だったかも知れない。
「歴史にifは無い」が、サトウが日英同盟や日露戦争の頃に日本にいたらどうなっていただろう?と、つい考えてしまう。
この明治三十三年の5月2日、日本を去る直前にサトウはあらためて伊藤と面会した。
以下、再び『アーネスト・サトウ公使日記』より抜粋して引用する。
「伊藤に会いに行く。彼は私の発言に対する答えとして、極東では全面的に平穏が保たれているが、それがいつまで続くかは誰にも予想できないと言った。そして南アフリカでの戦争が結末を迎えることを切に願っているとつけ加えた。私はもし戦争になった場合、ロシアとの戦争が日本にとって有利に展開すると思う者は誰もいないと述べた。それなのに大勢の人々がその話をしている。(中略)しかしただ一つだけはっきりしていることがある。それはロシアが極東での計画を遂行するために、日本を唯一の障害と考えていることである。彼は私の説に全面的に同意したが、日本の無責任な階級の間では、戦争に賛成する強い国民感情があることを、それとなく仄めかした。彼は私が戻ってくることを希望していると言った。彼は会見の間、ほとんど日本語で話をした」
この翌日、サトウは富士見町の家(靖国神社の裏の現、法政大学80年館の辺りにあった)で家族と別れ、その更に翌日、横浜を出港して日本に別れを告げた。
明治三十七年(1904年)2月、日露戦争が始まった。
鴨緑江の戦い、黄海海戦、旅順攻略戦、遼陽会戦、奉天会戦、日本海海戦などを経て日本が辛勝し、翌三十八年(1905年)9月にポーツマス条約が結ばれた。
この戦争の時、戦地からさほど遠くない北京にいたサトウは、特にこれといって目立った活動はしていなかった。
ただ、当時サトウが抱いていた感想としては1905年1月27日に友人のディキンズへ送った手紙で次のように語っている。
以下『アーネスト・サトウの生涯』(雄松堂出版、著者・イアン・C・ラックストン、訳・長岡祥三、関口英男)より引用する。
「旅順占領の名誉は、まだ燃料、食糧、武器が充分にあったとき、天然の要害と人工の力であれほど堅固に守られた場所を降伏させるという、すばらしい偉業を成し遂げた日本人に帰するといったブリンクリー大尉の意見に、今度だけはまったく同感です。……大会戦が近く奉天付近で行われることは明らかです。それには歴史上記録されたどれよりも多くの兵力がお互いに投入されます。……私の心のうちでは、世界のこの地域が将来の数十年にわたって重要事件の現場となるのは疑いありません。……日本の興隆は、火星ほどの大きさの新星が現れれば太陽系を狂わすように、我々の勢力均衡を完全に覆しました」
一方、この手紙に対する答えかどうかは分からないが、同年3月28日にディキンズはサトウへ次のような手紙を書いている。
以下『F.V.ディキンズ書簡英文翻刻・邦訳集』(エディション・シナプス、編集 解説・岩上はる子、ピーター・コーニッキ)より抜粋して引用する。
「つい先日、1863年の日記に次のような記述を見つけました。「この国民が現在の圧政(徳川幕府の制度)を倒したら、世界を驚かすようになるだろう」と。ところが、私は彼らが幕府を振り払う可能性はまずないと思っていましたし、ましては半世紀も経たないうちに、日本の陸海軍が西洋諸国でも最強の軍備を粉砕し、その外交政策を顔色なからしめることになるなどとは、夢にも思っていませんでした。(中略)真の謎というべきは、いったい何が1860年代の初頭に、それほど身分も高くなく影響力もなかった一握りの若者たちを奮起させ、さらには1868年と1871年(※廃藩置県の事か)を可能にするほど侍たちを変革させたのかということです。この問題についてはあなたほど詳しい人はいないと思いますので、ぜひ出版を念頭に――20年後になるか、50年後になるか――ともかく、これは遠くない将来に歴史の中でもっとも興味深く重要な問題になるはずです。――ご存じのことをまとめておくべきだと思います。いかなる日本の文献もその真相を語ることがないと思われますから。(中略)日本の真の栄光は彼らが成し遂げた事柄というよりも、私たちが見てきたように国を挙げて粘り強く達成を目指したという点にあるのです。それは永遠に驚異として残ることでしょう。40年ほど前に、名もなく並の知力しかない一握りの侍たちが優れた人格を顕し、何世紀も続いてきた信念を覆し変革の芽を孕んだ運動をなぜ現実に推進できたのか、そしてその結果がなぜ新日本の礎を築きえたのか、その理由はたとえ説明できたとしても一部でしかないでしょう」
一方、伊藤はこの頃、元老となって政界に大きな影響力を持ってはいたが、日露戦争は桂太郎首相と小村寿太郎外相が推進したもので、伊藤はどちらかと言うと戦争回避派だった。それゆえ、この日露戦争に何か特別な役割を果たすということはなかった。ただし腹心の金子堅太郎をアメリカへ、娘婿の末松謙澄をイギリスへ派遣してロビー活動や宣伝活動をおこなわせた。
明治三十九年(1906年)2月19日、リーズデイル卿(男爵)となったミットフォードが三十六年ぶりに日本を訪れた。ミットフォード、この時六十八歳。
明治天皇にガーター勲章を贈呈するために来日したコンノート公アーサー殿下(国王エドワード7世の弟コンノート公の第一王子)の随員となって来日したのである。
この来日の様子を記したものとしては『英国貴族の見た明治日本』(新人物往来社、A.B.ミットフォード、訳・長岡祥三)という本がある。
日露戦争直後のことなので日英同盟の関係上、ミットフォードたちは日本中どこへ行っても大歓迎された様子が描かれている。また、どこへ行っても
「あなたがいた頃と比べると随分日本は変わったでしょう」
とミットフォードは話しかけられた。
以下、本書より抜粋して引用する。
「我々は日本国内を方々回ったが、どこの駅でも殿下をお迎えするため、その地方の小学生たちが汽車で運ばれて集まっていた。このような敬意の表し方は天皇の行幸の時以外には今まで行われたことがない。我々が行く先々で、駅で止まった時も通過した時も、子供たちが旗を振って迎え、女学生たちは高い声でゴッド・セイヴ・ザ・キングを斉唱していた。初めてこれに出会った時は驚きながらも感激したものである」
そして汽車で品川を過ぎた時には昔のことを思い出した。
「公使館がすぐ下にあった泉岳寺を過ぎ、門良院の小さな寺を過ぎた。その寺こそ公使館が最初に江戸に戻った時、私が三十九年前に住んでいた場所であった。昔のいろいろな記憶が、ある時は悲しく、ある時は楽しく、私の心に浮かび上がってきた。あの頃、私と苦楽を共にした友人たちで、今残っている者はわずかしかいない」
ガーター勲章の贈呈式や宮中晩餐会、また徳川慶喜との再会などの様子は割愛するとして、井上馨との再会場面を以下に引用する。
「私が井上馨伯爵と最初に知り合ったのは、王政復古の計画が目論まれていた頃のことだった。彼は当時、井上聞多という名前で、友人の有名な伊藤侯爵、すなわち当時の伊藤俊輔と同様に長州藩に属していた。この二人はある手段を講じて、一八六四年に幕府の目を逃れて(当時は海外へ旅行することは死罪を免れないことだったので)船の中で労働しながら英国へ渡った。祖国の政変を聞いて急遽戻った彼らは、新しい政治活動の有力な担い手となった。それ以来、二人は、その功績に対する報酬を受けてきたのである。伊藤侯爵は世界中に知られたその名声が証明するように、この国における政治の主導者である。井上伯爵は、もはや官職にはついてなかったが、歴代の内閣が等閑に付することのできない存在であった。(中略)我々は、この数日、何度か会っていたのだが、長い時間、話をする機会がなかったのである。今ここで自由な時間を得たので、昔の思い出話を好きなだけおしゃべりすることができた」
そして訪問の終わり頃には、ミットフォードは次のように書いている。
「高輪には一時、英国公使館があった。御殿山は美しい丘で、もし建設中の建物が浪人の一味に破壊されて焼き払われなければ、英国公使館が常設される予定の場所であった。その浪人の一味の中の一人(伊藤博文)は、今やその胸にバス十字勲章を飾った英国の最良の友人であるとは、世の中も変わったものである。(中略)日本では今度の使節団派遣が、極めて優渥な友情あふれた行為と考えられたことである。それは、我々と極東を結ぶアーチの上に最適な要石を置くもので、今度こそ、サー・ハリー・パークスやサー・アーネスト・サトウの偉業に栄光を飾るものである。晴れやかな笑顔が並ぶ通りから通りへ、帰ってゆく客を見送るのにふさわしく、皆が元気な歓声をあげて熱心に手を振る中を、馬車を進めて行った時、私の心にひしひしと感じたのは、こういう思いであった」
3月中旬にミットフォードたちイギリス使節は帰国した。
その二ヶ月後の5月中旬にサトウが清国から来日し、6月9日まで滞在することになった。
そしてこれが、サトウにとっては最後の日本滞在となる。
サトウは清国公使を最後に引退し、イギリス南西部のデヴォン州にあるオタリー・セント・メリーで老後を過ごすことにしたのである。
兼、栄太郎、久吉とは離ればなれで暮らすことになった。
ただし久吉はイギリスへ留学してサトウのところでしばらく一緒に暮らすことになる。また栄太郎は肺結核の療養のためアメリカで暮らすことになる。
この辺り、サトウの家族状況はいろいろと複雑なのでこれ以上深くは立ち入らないが、このあと久吉は日本へ帰って兼と共に暮らし、後年、植物学者となる。
以下、サトウ最後の来日の様子を再び『アーネスト・サトウ公使日記』により目立った部分だけ抜粋して引用する。
「(5月23日)井上馨が午餐会または晩餐会に私を招待したいとの件を話した。そしてそのついでに、井上が伊藤と一緒に英国から帰り、その六か月後に彼らを暗殺する計画が樹てられるまでの史実を短文に纏めたものがあるという話をして、私に送ってくれると約束した」
「(5月25日)井上が来訪する。彼が一八六四年に伊藤と一緒にバロッサ号に乗って、長州に戻ってきたことに関する我々が所蔵している記録を見せて、私の報告のコピーを送る約束をした。しかし後でアダムズの「日本の歴史」の中に、それが全部掲載されているのが分かったので、都築に先日の原稿を返す序でにその本に出ていることを彼に手紙で報せた。この話は大へん面白い」
「(5月27日)井上馨主催の私の歓迎晩餐会に出席。伊藤、桂、前英国大使の林、加藤高明、榎本、斎藤海軍大臣、小村、大鳥圭介、渋沢、高橋是清、都筑馨六、林権助、デニスン、スティーヴンス、ブリンクリーが列席した。ちょうどこの日は日本海海戦の記念日に当たっていたので、私は勢いよく立ち上がって、ギリシャ軍がペルシア軍を撃破したサラミスの海戦(前四八〇年)以来の大勝利を挙げたこの海戦の指揮官東郷の健康を祝して乾杯した」
「(5月28日)富士見町に朝早く別れを告げに行く。O・K(お兼)は幼女を養子にする考えを諦めて、久吉が一人で生計を樹てられるようになったら、すぐに結婚させたいと思っていると言った。(中略)昨夜、伊藤は井上邸に後まで残って、一同に外交問題について話をし、居合わせたもの全部に感銘を与えたそうである。即ち、日本が幸運にも英国と米国から受けている好意を、朝鮮と満洲の商業上の問題に関する官僚的なつまらない不安感から、ないがしろにしないように注意しなくてはならないと説いたのだ。三時半に日本倶楽部で箕浦勝人、横井時雄(横井平四郎の息子)その他が催した私の歓迎会に出る。(中略)箕浦が最初にスピーチを行い、そのあと私が次のように答辞を述べた。「我々外国人は日本人に物質文明の成果を伝えましたが、その一方で日本の社会生活の最大の特色である孝行と忠義の教えによる本当の力を日本人から学んだのであります。一八六八年の維新以前の政治状勢について、おそらく今日ご出席の方々の多くはお年がお若いので実際に御存知ないだろうと思います。その時代の人々が厳しい困難を乗り越えてきたことは大いに賞賛されるべきで、中には横井平四郎(※小楠)の如く、一致団結の主義のために自分の命を捨てた者もありますが、ここにおられる伊藤侯は正に維新時代の英雄であります」。続いて伊藤がスピーチをして、私が忠孝は日本人社会の基盤であると述べたことを強調して、それは外国人にさえ理解し得ることで、忠孝が社会の活力であることは明白であると述べ、最後に全員が私の健康を祝して乾杯して、万歳三唱した」
このあと帰国用に予定していた船が検疫のため十日ほど出港延期になったのでサトウは久吉と一緒に日光中禅寺湖の別荘へ行って登山や植物採集を楽しんだ。現在この別荘があった場所には「旧英国大使館別荘」という記念館があり、サトウにまつわる品々が展示されている。
6月9日、サトウが乗ったサイベリア号は横浜を出港。
サトウは日本に永遠の別れを告げた。
明治四十二年(1909年)10月24日、伊藤博文はハルビン駅で安重根にピストルで射殺された。享年六十八。
昭和四年(1929年)8月26日、アーネスト・サトウはオタリー・セント・メリーで心不全と脳血栓のため死去。享年八十六。
最後にもう一度『遠い崖』(萩原延壽、朝日新聞社)よりサトウの言葉を引用して締めくくりとさせていただきたい。
サトウは明治二十六年(1893年)にディキンズへ送った手紙で次のように書いている。
「あの一八六二年(文久二)から一八六九年(明治二)にかけての七年間は、わたしの人生でもっとも充実した時期でした。あのころ、わたしは本当に生きていましたが、いまはただ無為に日を送っているにすぎないような気がします」
<終>
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