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第九章・崩壊
第54話 龍馬とサトウと俊輔と(後編)
しおりを挟む 九月三日、二週間前に開かれた裁判の再審が今回も運上所で開かれることになった。
そして今回も、サトウや龍馬はもちろんのこと、前回同様イギリス、土佐、幕府の代表者たちがそろって出席した。
予想されていた通り、新しい証拠は何も出て来なかった。
今回は、前回サトウが出廷を要請した海援隊士の佐々木栄も裁判に出廷した。
容疑者である菅野と佐々木の供述に細かな食い違いがあったから、ということでサトウは出廷を要請したのだが、長崎奉行は
「だからと言って二人が犯人とはいえない」
として結局、海援隊士への容疑を解くことになったのである。
そこで裁判に出席していた龍馬は笑いながらサトウに嫌味を言った。
「菅野と佐々木の言い分がちょっと違うからといって犯人にされたのではたまらんのお。あんたの国ではそんな簡単に人が処罰されるんかい?おそろしい国じゃ(笑)」
これを聞いたサトウはすかさず立ち上がり、龍馬を指差して叫んだ。
「だまれ、無礼者!我がイギリスを侮辱すると許さないぞ!お前のような奴がいるから土佐人は皆、野蛮人だと思われるんだ!」
サトウから罵倒された龍馬は、今回もまた恐ろしい形相でサトウをにらみつけた。
サトウの日記では、この日のやりとりについて次のように書かれている。
「さらに才谷氏(坂本龍馬)も叱りつけてやった。かれらはあきらかにわれわれの言い分を馬鹿にして、われわれの出す質問に声をたてて笑ったからである。しかし、わたしに叱りつけられてから、かれは悪魔のようなおそろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」(『遠い崖』5巻(萩原延壽、朝日新聞社)よりそのまま引用)
以上、このようにしてイカルス号事件の裁判は終わったのである。
数日後、長崎奉行所から正式に無罪放免を認められた龍馬は、佐々木三四郎への手紙で
「只今戦争(裁判のこと)相すみ候」
と書いて裁判の終了を報告した。
この冤罪騒動のせいで龍馬は、慶応三年の後半という大事な時期におよそ二ヶ月も空費してしまった訳だが、これでようやく中央政局(京都)へ戻れることになった。
サトウが龍馬を叱りつけた日の夜、俊輔が別れの挨拶も兼ねてサトウを遊郭へ誘った。
俊輔はサトウに酒をつぎながら語った。
「ワシはこれから京都へ行かねばなりません。サトウさんも土佐藩との談判が終わったから、もう江戸へ帰るんでしょう?」
「ええ……、まあ、そうです……」
サトウは長崎へ来てから、どうも浮かない日が続いている。
土佐藩との談判は不満足な結果に終わり、しかも木戸や新納から聞かされる話はどうも釈然としない内容で、なんとなく日本の政局から疎外されているような感じがしていたのである。
「どうしたんですか?浮かない顔をして。そんな時は酒と女に限る!今夜はきれいどころをたくさん用意したんでパァーとやりましょう、パァーと!」
俊輔が手を叩いて芸者を呼ぶと美しい女性たちが部屋に入って来て、たちまち宴会が始まった。
確かに芸者たちの中にはサトウ好みの美しい女性が何人かいた。
特にセキという芸者が抜群に美しく、すぐにサトウのお気に入りとなった。そしてサトウはいつもの明るい表情に戻った。
そこで俊輔はサトウに一つ頼み事をした。
「サトウさんが江戸へ戻る時、我が藩の使いの者を一人、サトウさんの弟子という名目で連れて行ってもらいたい。その男は山本甚助というのですが、後日サトウさんのところへ行かせます。今後は彼を通してお互いに情報交換をしましょう」
長州の人間が江戸へ行くというのはかなり危険な行為で、幕府にバレると大変だが、サトウは快く俊輔の依頼を引き受けた。
この山本甚助という男は、実は「長州ファイブ」の一人、遠藤謹助である。あのイングランド銀行で紙幣の美しさに感動していた、五人の中で一番地味だった男である。
俊輔とサトウは美妓たちに囲まれ楽しく酒を飲み、大いに酔っ払った。
そして俊輔は、木戸から戒められていた禁をあやうく破りそうになってしまった。
「俊輔。お前はサトウと親しいから忠告しておくが、間違っても彼に我々の真意を語ってはならんぞ」
と俊輔は事前に木戸から訓戒されていたのである。
ところが俊輔は酷く酔っ払って、サトウにポロッと大事なことをしゃべってしまった。
「サトウさんも知っているあの才谷梅太郎という男は、まことに凄い周旋家です。ワシはあの男を目標としています。あの男は、実は長州と薩摩を結びつけた張本人で、しかも土佐と薩摩も結びつけて、さらに今、京都で幕府に大政奉還を迫っている張本人だと言ったら、サトウさんは信じますか?」
もしサトウが素の状態でこの話を聞いていたら興味津々となって根掘り葉掘り俊輔に質問していたであろうが、なにしろサトウも酷く酔っていた。
しかも昼間に激しく龍馬とケンカした後だったので、この話を一笑に付した。
「ハハハ、冗談を言っちゃいけませんよ、伊藤さん。あんなバーバリアン(野蛮人)にそんな大それた事ができる訳ないでしょ。悪い冗談です、ハハハ」
俊輔は酔っ払いつつも
(いかん。今、ワシはまずい事を言った)
と、すぐに気がついた。
「……そうそう、冗談です、冗談!忘れてください、こんな悪い冗談は、ハハハ!」
やがて宴会は終わり、このあとサトウは芸者セキの肉体に溺れ、俊輔が語った「冗談」についてはきれいさっぱり忘れてしまった。
九月九日、サトウは友人たちと一緒に諏訪神社へ行き、有名な「くんち」の祭礼を見物した。
この日は西暦で言うと10月6日にあたり、実際現在の「長崎くんち」も9月ではなくて10月の開催で、10月7日から9日までの三日間に行われている。
そもそもこの「くんち」というのは旧暦の九月九日(重陽の節句)の九日=「くにち」から「くんち」と呼ばれるようになった、というのが有力な説であるらしい。
サトウが見物したこの年の「くんち」も九日から十一日の三日間祭礼が行なわれ、サトウは三日とも友人たちと一緒に見物した。
そして三日目の九月十一日、「くんち」で賑わっている雑踏の脇で「再び」外国人が土佐人に斬られたのである。
実際イカルス号事件は土佐藩士が犯人ではなかったと翌年には判明するので「再び」ではないが、この事件当時の感覚では「再び」と言って差し支えない。
今回は正真正銘、土佐藩士が犯人だった。
斬られたのはイギリス人とアメリカ人の計二名で、斬ったのは土佐商会の島村雄二郎という男だった。ただし傷はそれほど重傷ではなかった。
イカルス号事件が決着したばかりだった海援隊には再び激震が走った。
事件をしらされた龍馬は「また、やったか!」と叫んだ。
土佐商会の責任者だった岩崎弥太郎は
「せっかく土佐藩の嫌疑が晴れたばかりなのに今再び土佐人の仕業と知れたら、前の事件を蒸し返されるおそれがある。島村を土佐へ逃がして証拠を消してしまうべきだ」
と龍馬に言った。
一方、海援隊士たちは次のように主張した。
「刀を抜いた以上は相手にとどめを刺さねば土佐人の名折れである。今から行って相手にとどめを刺し、その後に腹を切れと島村に命じるべきだ」
龍馬はこの両方の意見を却下した。
「島村の話では、酔っ払った外人にからまれていた女子を助けるために、ちょっと連中を痛めつけただけのようではないか。ここは正直に奉行所へ申し出て、裁きを受けたほうが良いだろう」
この龍馬の判断が功を奏し、この事件はそれほど大きな問題に発展することもなく、すぐに鎮静化して収まった。
サトウも長崎領事のフラワーズも、この問題を殊更大きく取り上げることはしなかった。むしろフラワーズは
「外国人を斬った場合、日本人はいつも証拠を隠そうとするのに、こうやって自首してきたことは実に喜ばしい」
と述べて、土佐藩の対応を褒めたぐらいだった。
なんとかイカルス号事件の二の舞を避けることができた龍馬は、京都へ戻る準備をはじめた。
その準備とはライフル銃(ミニエー銃)千三百挺の調達である。
この内千挺は土佐藩へ届け、残りは上方の土佐藩士たち(例えば中岡の陸援隊など)へ届ける。言うまでもなく、これらの銃は武力倒幕に土佐藩を参加させるための道具である。
龍馬の読みでは「戦争をやれば薩長が幕府に勝つだろう」と見ている。
土佐がこの流れに乗り遅れる訳にはいかない。
ところがいかんせん「老公(容堂)がいる限り土佐藩が幕府に対して兵をあげることは、まずあり得ない」とも見ている。後藤がいくら説得しても無理だろう、と。
だったら既成事実を作ってしまうしかあるまい。
容堂の命令を無視してでも倒幕戦争に参加する土佐人が何人かはいるだろう。彼らに武器を渡して薩長の倒幕戦争に土佐藩も参加させるのだ。
どういう形になるにせよ、土佐藩は戦争に参加しなければならない。そして薩長に対して、またあるいは幕府に対しても、影響力を行使できる立場にならなければいけない。
特に戦争に勝つ見込みの高い薩摩との関係を土佐が切ってはならない。薩摩の実力は自分が一番よく知っているのだ。
土佐藩が先頭に立つことは、残念ながらできない。
だが、薩長や幕府に対して影響力を行使する立場になることはできる。そのためには最低限の実力(武力)が要る。口先だけで何かを唱えたところで無力なのだ。
龍馬の読みは、こういったものだった。
だからこそ龍馬は土佐藩のために銃を用意したのである。
龍馬がそこまでして土佐藩にこだわる理由はただ一つ。
龍馬が土佐人だからである。それ以外に理由はない。
同じ頃、俊輔は中央政局のド真ん中、京都にいた。
例によって品川弥二郎と一緒に薩摩藩邸に潜伏していた。
京都では薩摩藩の西郷、小松、大久保が土佐藩の後藤と話し合いをくり返し、結局龍馬の不安は的中し、薩摩は薩土盟約を解消することになった。
薩摩がこのような判断をしたのは後藤が西郷たちとの約束を守らず、土佐から手勢を連れてこなかったからである。第7話で触れたように土佐山内家は徳川家から格別の恩恵を受けている。土佐藩士が武力倒幕に参加することを容堂が許すはずがなかった。
ただしこれで薩摩と土佐の関係が不和になったという訳ではない。
薩摩は武力倒幕を目指し、土佐は大政奉還を目指す。そういった役割分担を両者がハッキリと認識し、お互いに邪魔をせず活動する、ということを了承し合っただけのことである。
西郷としても、幕府が大政奉還を拒めば、その時こそ武力倒幕の大義名分が立つと見ていた。もし万一幕府が大政を奉還したとしても、その時はまた別の大義名分を探して挙兵すれば良いのである。薩摩にとっては何も損はない。
そしてこの時、薩長の同盟に芸州(広島)藩が加わった。
芸州は長州の隣りにあり、広島は幕長戦争の際、幕府軍の本営(総督府)が置かれたところである。
ただし芸州藩は広島を本営として使わせたものの長州への出兵は拒否した。
長州の隣りにあるだけあって彼らは長州のことをよく知っていた。芸州口の戦いにおける長州軍の強さ、さらに幕府上層部の無能さを目の当たりにした芸州藩は、長州藩の当たるべからざる勢いに敵対することをやめ、幕府を見限ったのである。
九月十一日、島津備後(藩主茂久の弟)が手勢千人を率いて入京した。九月十五日、それと入れ替わるようにして久光は鹿児島へ帰っていった。
同じ日、大久保一蔵は豊端丸で長州へ向かって出発した。長州で倒幕戦争の打ち合わせをするためである。
この時、俊輔と品川も大久保に同行して長州へ向かった。
「大久保さん。今、長崎で蒸気船が二隻売りに出ています。幕府との戦に備えて尊藩(薩摩)でこれを購入されてはいかがでしょうか?」
「ほう。どんな船だね?伊藤くん」
「一隻はイギリス製の高速船で約二十万両、もう一隻は中古のアメリカ製で約八万両です」
「二十万両はさすがに高いな。だが中古の八万両の船なら買えるかも知れん。今度の出兵に使えるのであれば安いものだ。さっそく国元に相談してみよう」
「私もこのあと再び長崎へ行くよう命じられておりますので、その時にもう一度話を確認してみます」
「ところで伊藤くん。君はロンドンへ行ってきたと聞いたがどんな感じだったかね?向こうは」
俊輔は大久保にざっとロンドンの様子やイギリスの進んだ文明について説明した。
「……ですが、大久保さんは攘夷ではないのですか?西郷さんはイギリスの様子などにはまったく関心がないようでしたが……」
「吉之助サァ(西郷)も別に攘夷ではない。イギリスの武器や船の優秀さは認めている。ただ、物質は優れていても精神が優れているとは限らない。あの人の物の見方はそういうものだ」
「では、大久保さんは?」
「薩摩や日本が強くなるために必要な物であれば、イギリスの物だろうとどこの国の物だろうと受け入れれば良い。もちろん、いつかは我々自身の手でそれを作れるようにならねばならんが」
俊輔が大久保とじっくり話をしたのはこの時が初めてだった。大久保の合理的な考え方に俊輔は共感を覚えた。
一方、京都で見た西郷は、俊輔には得体の知れない存在に思えた。
けれども西郷は薩摩人たちから絶大な人気があったのである。
なぜ西郷にそれほどの人気があるのか?俊輔には理解できなかった。おそらく薩摩人でなければ西郷の魅力はなかなか理解できないであろう。長州人である俊輔は生涯、西郷の人間性を理解することができなかった。
俊輔と大久保が乗った豊端丸が瀬戸内海を西進している時、サトウが乗ったコケット号は瀬戸内海を東進していた。
サトウが長崎を出発したのは、俊輔が大坂を出発したのと同じ九月十五日である。翌日か翌々日には両者の船が瀬戸内海ですれ違ったのだが、もちろん二人はそのことを知る由もない。
そのサトウが乗ったコケット号には遠藤謹助(山本甚助)が乗っていた。
長崎で俊輔がサトウに語っていた通り、遠藤は後日サトウのところへやって来て、江戸へ連れていってくれるようサトウに依頼した。
ところが長州人をイギリス船に乗せて長崎から連れ出す、というのは思ったよりも難事だった。
遠藤は最初、長崎奉行所から通行手形を発行してもらおうと思っていた。けれども申請書類に不備があったのであろう(もちろん長州人として申請できるはずもなく、おそらく薩摩人として申請したはずだが)奉行所はこのあやしい男に通行手形を出し渋った。
それで結局サトウは通行手形なしで連れて行くことに決めた。
サトウは奉行所に対して遠藤のことを
「私の従者でポルトガル人である」
と説明して船に連れ込んだのである。
ロンドンから帰って来た俊輔と聞多を匿った時も、サトウは二人に「ポルトガル人に化けるように」と命じていたが
「あやしい人間を匿う場合はポルトガル人に化けさせるに限る」
とでもサトウは思っていたのであろうか。
ただし同じサトウの従者である野口は、遠藤が長州人であることを見抜いていた。というか、最初遠藤がサトウのところへやって来た時に、遠藤は、サトウに対してではなく、野口に対して名刺を差し出してしまったのだから野口が遠藤の正体を知っていたのは当然のことだった。
サトウとしては、この件は俊輔からの個人的な依頼だったので直接自分に名刺を持って来てもらいたいと思っていた。
(この山本甚助という男は本当に大丈夫か?通行手形で失敗して、しかも名刺もちゃんと提出できないとは)
とサトウは呆れたが、とにかく遠藤を長崎から連れ出すことに成功した。
これでサトウは手元に会津人の野口と、長州人の遠藤という「両極端な立場の人間」を従者として抱えるようになった訳である。
豊端丸が三田尻に着くと大久保は山口へ向かい、俊輔は長崎へ行く前に一旦下関へ入った。
大久保は山口で藩主父子や木戸と面会して倒幕戦争の打ち合わせをした。
この時、毛利敬親が大久保に対して
「幕府と戦争になったら何が何でも玉(天皇)を敵に奪われないようにせよ」
と述べたというエピソードは有名である。
これに対して大久保は
「かしこまりました。拙者の命にかけて、その旨を貫徹致します」
と答えた。
長崎で千二百挺のミニエー銃を積み込んだ龍馬の船が下関に立ち寄ったのは九月二十日のことで、大久保が長州から京都へ戻っていった直後のことだった。
長崎へ行く準備をするために下関の港に来ていた俊輔は、龍馬とバッタリ出会って驚いた。
「おや?坂本さんじゃないですか。そう言えば、あなたの悪い予感は的中しましたよ。京都では薩摩が土佐を見限り、代わりに芸州が我々の味方になりました」
「やはり後藤はダメだったか!畜生!イギリスの言いがかりさえなければ俺が京都で動いて、薩摩との縁を切らせなかったものを!」
俊輔は龍馬に京都のこと、さらに大久保の山口訪問のことを説明した。
「なるほど。伊藤くんのおかげで京都の様子はよく分かった。やはり最早土佐もグズグズしておれん。すまんが伊藤くん、俺はこれから木戸さん宛の書状を書くから後で木戸さんに届けてくれ」
「おやすい御用です。しかし坂本さん、土佐藩は本当にミニエー銃千挺を受け取るのですか?私は正直心配です。もし土佐藩が受け取りを拒否したら我が長州で買い取りますから、安心して持って帰ってきてください」
「言ってくれるなあ、伊藤くんよ。だが心配には及ばん。俺は後藤を下げて、主戦派の乾を引っ張り出そうと思っている。我々土佐人もそれほど因循な人間ばかりではない。立つべき時は必ず、薩長と一緒に立つ」
「坂本さんのお手並み拝見とまいりましょう。ところで、お龍さんを土佐へお連れしないんですか?」
「武器を持って行く船に嫁を乗せて行くバカはあるまい。第一、俺自身がまだ大っぴらに高知の実家へ戻ることもできんのだ。もうしばらくは九三さん(伊藤助太夫。下関での龍馬とお龍の保護者)のところでお世話になるしかあるまい。なに、幕府が倒れれば世の中も大きく変わるだろう。多分来年にはお龍を連れて高知へ行けるはずさ。俺が幕府との海戦で死なない限りはな」
「坂本さんは、また自ら幕府海軍と戦うつもりですか?」
「薩長と土佐を海から応援するために作ったのが海援隊だぞ。俺がやらないでどうする。確かに幕府の陸軍は弱い。だが海軍は強い。次の戦では最新鋭の開陽丸が参戦してくるはずだ。さらに軍艦奉行の勝先生が作戦全体の指揮を執るかも知れない。そうなれば薩長と土佐のすべての船をかき集めても防戦で手一杯だろう。陸軍が早めに決着をつけてくれるよう祈るしかない」
「先日大久保さんに長崎で売りに出ている船の調達を勧めましたが、やはり安い中古船を買うより、無理をしてでもイギリスの高速船を買ったほうが良さそうですな」
「ああ、長崎に停泊していたイギリス製のキャンスー号か。あれは確かに上等な船だ。あれが入手できれば大いに我らの戦力になるだろう。それはそうと、イギリスと言えば伊藤くんはイギリスまで航海した経験があるんだったな」
「ハハハ、あまり思い出したくない経験ですけど。一応、水夫のまねごとをしてイギリスまで行きました」
「俺もいつかはイギリスへ行ってみたいものだ。今度時間ができたら、二人で世界の話でもしようじゃないか」
このあと龍馬は下関で数日お龍と共に過ごし、それから土佐へ向けて出発していった。
俊輔とお龍が龍馬を見たのは、これが最後となった。
九月二十四日、龍馬は高知に着くとすぐに土佐藩と交渉を開始した。
俊輔の心配は杞憂に終わり、銃はすべて土佐藩が引き取ってくれることになった。
その後、龍馬はひそかに(イカルス号事件で土佐へ来た時には戻れなかった)実家へ五年半ぶりに帰宅した。
そして龍馬は高知を後にして京都へ向かった。
「大政奉還」が成るか成らぬか、更にそれをきっかけとして幕府との戦争が起こるのかどうか、その渦中に飛び込むためである。
そして今回も、サトウや龍馬はもちろんのこと、前回同様イギリス、土佐、幕府の代表者たちがそろって出席した。
予想されていた通り、新しい証拠は何も出て来なかった。
今回は、前回サトウが出廷を要請した海援隊士の佐々木栄も裁判に出廷した。
容疑者である菅野と佐々木の供述に細かな食い違いがあったから、ということでサトウは出廷を要請したのだが、長崎奉行は
「だからと言って二人が犯人とはいえない」
として結局、海援隊士への容疑を解くことになったのである。
そこで裁判に出席していた龍馬は笑いながらサトウに嫌味を言った。
「菅野と佐々木の言い分がちょっと違うからといって犯人にされたのではたまらんのお。あんたの国ではそんな簡単に人が処罰されるんかい?おそろしい国じゃ(笑)」
これを聞いたサトウはすかさず立ち上がり、龍馬を指差して叫んだ。
「だまれ、無礼者!我がイギリスを侮辱すると許さないぞ!お前のような奴がいるから土佐人は皆、野蛮人だと思われるんだ!」
サトウから罵倒された龍馬は、今回もまた恐ろしい形相でサトウをにらみつけた。
サトウの日記では、この日のやりとりについて次のように書かれている。
「さらに才谷氏(坂本龍馬)も叱りつけてやった。かれらはあきらかにわれわれの言い分を馬鹿にして、われわれの出す質問に声をたてて笑ったからである。しかし、わたしに叱りつけられてから、かれは悪魔のようなおそろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」(『遠い崖』5巻(萩原延壽、朝日新聞社)よりそのまま引用)
以上、このようにしてイカルス号事件の裁判は終わったのである。
数日後、長崎奉行所から正式に無罪放免を認められた龍馬は、佐々木三四郎への手紙で
「只今戦争(裁判のこと)相すみ候」
と書いて裁判の終了を報告した。
この冤罪騒動のせいで龍馬は、慶応三年の後半という大事な時期におよそ二ヶ月も空費してしまった訳だが、これでようやく中央政局(京都)へ戻れることになった。
サトウが龍馬を叱りつけた日の夜、俊輔が別れの挨拶も兼ねてサトウを遊郭へ誘った。
俊輔はサトウに酒をつぎながら語った。
「ワシはこれから京都へ行かねばなりません。サトウさんも土佐藩との談判が終わったから、もう江戸へ帰るんでしょう?」
「ええ……、まあ、そうです……」
サトウは長崎へ来てから、どうも浮かない日が続いている。
土佐藩との談判は不満足な結果に終わり、しかも木戸や新納から聞かされる話はどうも釈然としない内容で、なんとなく日本の政局から疎外されているような感じがしていたのである。
「どうしたんですか?浮かない顔をして。そんな時は酒と女に限る!今夜はきれいどころをたくさん用意したんでパァーとやりましょう、パァーと!」
俊輔が手を叩いて芸者を呼ぶと美しい女性たちが部屋に入って来て、たちまち宴会が始まった。
確かに芸者たちの中にはサトウ好みの美しい女性が何人かいた。
特にセキという芸者が抜群に美しく、すぐにサトウのお気に入りとなった。そしてサトウはいつもの明るい表情に戻った。
そこで俊輔はサトウに一つ頼み事をした。
「サトウさんが江戸へ戻る時、我が藩の使いの者を一人、サトウさんの弟子という名目で連れて行ってもらいたい。その男は山本甚助というのですが、後日サトウさんのところへ行かせます。今後は彼を通してお互いに情報交換をしましょう」
長州の人間が江戸へ行くというのはかなり危険な行為で、幕府にバレると大変だが、サトウは快く俊輔の依頼を引き受けた。
この山本甚助という男は、実は「長州ファイブ」の一人、遠藤謹助である。あのイングランド銀行で紙幣の美しさに感動していた、五人の中で一番地味だった男である。
俊輔とサトウは美妓たちに囲まれ楽しく酒を飲み、大いに酔っ払った。
そして俊輔は、木戸から戒められていた禁をあやうく破りそうになってしまった。
「俊輔。お前はサトウと親しいから忠告しておくが、間違っても彼に我々の真意を語ってはならんぞ」
と俊輔は事前に木戸から訓戒されていたのである。
ところが俊輔は酷く酔っ払って、サトウにポロッと大事なことをしゃべってしまった。
「サトウさんも知っているあの才谷梅太郎という男は、まことに凄い周旋家です。ワシはあの男を目標としています。あの男は、実は長州と薩摩を結びつけた張本人で、しかも土佐と薩摩も結びつけて、さらに今、京都で幕府に大政奉還を迫っている張本人だと言ったら、サトウさんは信じますか?」
もしサトウが素の状態でこの話を聞いていたら興味津々となって根掘り葉掘り俊輔に質問していたであろうが、なにしろサトウも酷く酔っていた。
しかも昼間に激しく龍馬とケンカした後だったので、この話を一笑に付した。
「ハハハ、冗談を言っちゃいけませんよ、伊藤さん。あんなバーバリアン(野蛮人)にそんな大それた事ができる訳ないでしょ。悪い冗談です、ハハハ」
俊輔は酔っ払いつつも
(いかん。今、ワシはまずい事を言った)
と、すぐに気がついた。
「……そうそう、冗談です、冗談!忘れてください、こんな悪い冗談は、ハハハ!」
やがて宴会は終わり、このあとサトウは芸者セキの肉体に溺れ、俊輔が語った「冗談」についてはきれいさっぱり忘れてしまった。
九月九日、サトウは友人たちと一緒に諏訪神社へ行き、有名な「くんち」の祭礼を見物した。
この日は西暦で言うと10月6日にあたり、実際現在の「長崎くんち」も9月ではなくて10月の開催で、10月7日から9日までの三日間に行われている。
そもそもこの「くんち」というのは旧暦の九月九日(重陽の節句)の九日=「くにち」から「くんち」と呼ばれるようになった、というのが有力な説であるらしい。
サトウが見物したこの年の「くんち」も九日から十一日の三日間祭礼が行なわれ、サトウは三日とも友人たちと一緒に見物した。
そして三日目の九月十一日、「くんち」で賑わっている雑踏の脇で「再び」外国人が土佐人に斬られたのである。
実際イカルス号事件は土佐藩士が犯人ではなかったと翌年には判明するので「再び」ではないが、この事件当時の感覚では「再び」と言って差し支えない。
今回は正真正銘、土佐藩士が犯人だった。
斬られたのはイギリス人とアメリカ人の計二名で、斬ったのは土佐商会の島村雄二郎という男だった。ただし傷はそれほど重傷ではなかった。
イカルス号事件が決着したばかりだった海援隊には再び激震が走った。
事件をしらされた龍馬は「また、やったか!」と叫んだ。
土佐商会の責任者だった岩崎弥太郎は
「せっかく土佐藩の嫌疑が晴れたばかりなのに今再び土佐人の仕業と知れたら、前の事件を蒸し返されるおそれがある。島村を土佐へ逃がして証拠を消してしまうべきだ」
と龍馬に言った。
一方、海援隊士たちは次のように主張した。
「刀を抜いた以上は相手にとどめを刺さねば土佐人の名折れである。今から行って相手にとどめを刺し、その後に腹を切れと島村に命じるべきだ」
龍馬はこの両方の意見を却下した。
「島村の話では、酔っ払った外人にからまれていた女子を助けるために、ちょっと連中を痛めつけただけのようではないか。ここは正直に奉行所へ申し出て、裁きを受けたほうが良いだろう」
この龍馬の判断が功を奏し、この事件はそれほど大きな問題に発展することもなく、すぐに鎮静化して収まった。
サトウも長崎領事のフラワーズも、この問題を殊更大きく取り上げることはしなかった。むしろフラワーズは
「外国人を斬った場合、日本人はいつも証拠を隠そうとするのに、こうやって自首してきたことは実に喜ばしい」
と述べて、土佐藩の対応を褒めたぐらいだった。
なんとかイカルス号事件の二の舞を避けることができた龍馬は、京都へ戻る準備をはじめた。
その準備とはライフル銃(ミニエー銃)千三百挺の調達である。
この内千挺は土佐藩へ届け、残りは上方の土佐藩士たち(例えば中岡の陸援隊など)へ届ける。言うまでもなく、これらの銃は武力倒幕に土佐藩を参加させるための道具である。
龍馬の読みでは「戦争をやれば薩長が幕府に勝つだろう」と見ている。
土佐がこの流れに乗り遅れる訳にはいかない。
ところがいかんせん「老公(容堂)がいる限り土佐藩が幕府に対して兵をあげることは、まずあり得ない」とも見ている。後藤がいくら説得しても無理だろう、と。
だったら既成事実を作ってしまうしかあるまい。
容堂の命令を無視してでも倒幕戦争に参加する土佐人が何人かはいるだろう。彼らに武器を渡して薩長の倒幕戦争に土佐藩も参加させるのだ。
どういう形になるにせよ、土佐藩は戦争に参加しなければならない。そして薩長に対して、またあるいは幕府に対しても、影響力を行使できる立場にならなければいけない。
特に戦争に勝つ見込みの高い薩摩との関係を土佐が切ってはならない。薩摩の実力は自分が一番よく知っているのだ。
土佐藩が先頭に立つことは、残念ながらできない。
だが、薩長や幕府に対して影響力を行使する立場になることはできる。そのためには最低限の実力(武力)が要る。口先だけで何かを唱えたところで無力なのだ。
龍馬の読みは、こういったものだった。
だからこそ龍馬は土佐藩のために銃を用意したのである。
龍馬がそこまでして土佐藩にこだわる理由はただ一つ。
龍馬が土佐人だからである。それ以外に理由はない。
同じ頃、俊輔は中央政局のド真ん中、京都にいた。
例によって品川弥二郎と一緒に薩摩藩邸に潜伏していた。
京都では薩摩藩の西郷、小松、大久保が土佐藩の後藤と話し合いをくり返し、結局龍馬の不安は的中し、薩摩は薩土盟約を解消することになった。
薩摩がこのような判断をしたのは後藤が西郷たちとの約束を守らず、土佐から手勢を連れてこなかったからである。第7話で触れたように土佐山内家は徳川家から格別の恩恵を受けている。土佐藩士が武力倒幕に参加することを容堂が許すはずがなかった。
ただしこれで薩摩と土佐の関係が不和になったという訳ではない。
薩摩は武力倒幕を目指し、土佐は大政奉還を目指す。そういった役割分担を両者がハッキリと認識し、お互いに邪魔をせず活動する、ということを了承し合っただけのことである。
西郷としても、幕府が大政奉還を拒めば、その時こそ武力倒幕の大義名分が立つと見ていた。もし万一幕府が大政を奉還したとしても、その時はまた別の大義名分を探して挙兵すれば良いのである。薩摩にとっては何も損はない。
そしてこの時、薩長の同盟に芸州(広島)藩が加わった。
芸州は長州の隣りにあり、広島は幕長戦争の際、幕府軍の本営(総督府)が置かれたところである。
ただし芸州藩は広島を本営として使わせたものの長州への出兵は拒否した。
長州の隣りにあるだけあって彼らは長州のことをよく知っていた。芸州口の戦いにおける長州軍の強さ、さらに幕府上層部の無能さを目の当たりにした芸州藩は、長州藩の当たるべからざる勢いに敵対することをやめ、幕府を見限ったのである。
九月十一日、島津備後(藩主茂久の弟)が手勢千人を率いて入京した。九月十五日、それと入れ替わるようにして久光は鹿児島へ帰っていった。
同じ日、大久保一蔵は豊端丸で長州へ向かって出発した。長州で倒幕戦争の打ち合わせをするためである。
この時、俊輔と品川も大久保に同行して長州へ向かった。
「大久保さん。今、長崎で蒸気船が二隻売りに出ています。幕府との戦に備えて尊藩(薩摩)でこれを購入されてはいかがでしょうか?」
「ほう。どんな船だね?伊藤くん」
「一隻はイギリス製の高速船で約二十万両、もう一隻は中古のアメリカ製で約八万両です」
「二十万両はさすがに高いな。だが中古の八万両の船なら買えるかも知れん。今度の出兵に使えるのであれば安いものだ。さっそく国元に相談してみよう」
「私もこのあと再び長崎へ行くよう命じられておりますので、その時にもう一度話を確認してみます」
「ところで伊藤くん。君はロンドンへ行ってきたと聞いたがどんな感じだったかね?向こうは」
俊輔は大久保にざっとロンドンの様子やイギリスの進んだ文明について説明した。
「……ですが、大久保さんは攘夷ではないのですか?西郷さんはイギリスの様子などにはまったく関心がないようでしたが……」
「吉之助サァ(西郷)も別に攘夷ではない。イギリスの武器や船の優秀さは認めている。ただ、物質は優れていても精神が優れているとは限らない。あの人の物の見方はそういうものだ」
「では、大久保さんは?」
「薩摩や日本が強くなるために必要な物であれば、イギリスの物だろうとどこの国の物だろうと受け入れれば良い。もちろん、いつかは我々自身の手でそれを作れるようにならねばならんが」
俊輔が大久保とじっくり話をしたのはこの時が初めてだった。大久保の合理的な考え方に俊輔は共感を覚えた。
一方、京都で見た西郷は、俊輔には得体の知れない存在に思えた。
けれども西郷は薩摩人たちから絶大な人気があったのである。
なぜ西郷にそれほどの人気があるのか?俊輔には理解できなかった。おそらく薩摩人でなければ西郷の魅力はなかなか理解できないであろう。長州人である俊輔は生涯、西郷の人間性を理解することができなかった。
俊輔と大久保が乗った豊端丸が瀬戸内海を西進している時、サトウが乗ったコケット号は瀬戸内海を東進していた。
サトウが長崎を出発したのは、俊輔が大坂を出発したのと同じ九月十五日である。翌日か翌々日には両者の船が瀬戸内海ですれ違ったのだが、もちろん二人はそのことを知る由もない。
そのサトウが乗ったコケット号には遠藤謹助(山本甚助)が乗っていた。
長崎で俊輔がサトウに語っていた通り、遠藤は後日サトウのところへやって来て、江戸へ連れていってくれるようサトウに依頼した。
ところが長州人をイギリス船に乗せて長崎から連れ出す、というのは思ったよりも難事だった。
遠藤は最初、長崎奉行所から通行手形を発行してもらおうと思っていた。けれども申請書類に不備があったのであろう(もちろん長州人として申請できるはずもなく、おそらく薩摩人として申請したはずだが)奉行所はこのあやしい男に通行手形を出し渋った。
それで結局サトウは通行手形なしで連れて行くことに決めた。
サトウは奉行所に対して遠藤のことを
「私の従者でポルトガル人である」
と説明して船に連れ込んだのである。
ロンドンから帰って来た俊輔と聞多を匿った時も、サトウは二人に「ポルトガル人に化けるように」と命じていたが
「あやしい人間を匿う場合はポルトガル人に化けさせるに限る」
とでもサトウは思っていたのであろうか。
ただし同じサトウの従者である野口は、遠藤が長州人であることを見抜いていた。というか、最初遠藤がサトウのところへやって来た時に、遠藤は、サトウに対してではなく、野口に対して名刺を差し出してしまったのだから野口が遠藤の正体を知っていたのは当然のことだった。
サトウとしては、この件は俊輔からの個人的な依頼だったので直接自分に名刺を持って来てもらいたいと思っていた。
(この山本甚助という男は本当に大丈夫か?通行手形で失敗して、しかも名刺もちゃんと提出できないとは)
とサトウは呆れたが、とにかく遠藤を長崎から連れ出すことに成功した。
これでサトウは手元に会津人の野口と、長州人の遠藤という「両極端な立場の人間」を従者として抱えるようになった訳である。
豊端丸が三田尻に着くと大久保は山口へ向かい、俊輔は長崎へ行く前に一旦下関へ入った。
大久保は山口で藩主父子や木戸と面会して倒幕戦争の打ち合わせをした。
この時、毛利敬親が大久保に対して
「幕府と戦争になったら何が何でも玉(天皇)を敵に奪われないようにせよ」
と述べたというエピソードは有名である。
これに対して大久保は
「かしこまりました。拙者の命にかけて、その旨を貫徹致します」
と答えた。
長崎で千二百挺のミニエー銃を積み込んだ龍馬の船が下関に立ち寄ったのは九月二十日のことで、大久保が長州から京都へ戻っていった直後のことだった。
長崎へ行く準備をするために下関の港に来ていた俊輔は、龍馬とバッタリ出会って驚いた。
「おや?坂本さんじゃないですか。そう言えば、あなたの悪い予感は的中しましたよ。京都では薩摩が土佐を見限り、代わりに芸州が我々の味方になりました」
「やはり後藤はダメだったか!畜生!イギリスの言いがかりさえなければ俺が京都で動いて、薩摩との縁を切らせなかったものを!」
俊輔は龍馬に京都のこと、さらに大久保の山口訪問のことを説明した。
「なるほど。伊藤くんのおかげで京都の様子はよく分かった。やはり最早土佐もグズグズしておれん。すまんが伊藤くん、俺はこれから木戸さん宛の書状を書くから後で木戸さんに届けてくれ」
「おやすい御用です。しかし坂本さん、土佐藩は本当にミニエー銃千挺を受け取るのですか?私は正直心配です。もし土佐藩が受け取りを拒否したら我が長州で買い取りますから、安心して持って帰ってきてください」
「言ってくれるなあ、伊藤くんよ。だが心配には及ばん。俺は後藤を下げて、主戦派の乾を引っ張り出そうと思っている。我々土佐人もそれほど因循な人間ばかりではない。立つべき時は必ず、薩長と一緒に立つ」
「坂本さんのお手並み拝見とまいりましょう。ところで、お龍さんを土佐へお連れしないんですか?」
「武器を持って行く船に嫁を乗せて行くバカはあるまい。第一、俺自身がまだ大っぴらに高知の実家へ戻ることもできんのだ。もうしばらくは九三さん(伊藤助太夫。下関での龍馬とお龍の保護者)のところでお世話になるしかあるまい。なに、幕府が倒れれば世の中も大きく変わるだろう。多分来年にはお龍を連れて高知へ行けるはずさ。俺が幕府との海戦で死なない限りはな」
「坂本さんは、また自ら幕府海軍と戦うつもりですか?」
「薩長と土佐を海から応援するために作ったのが海援隊だぞ。俺がやらないでどうする。確かに幕府の陸軍は弱い。だが海軍は強い。次の戦では最新鋭の開陽丸が参戦してくるはずだ。さらに軍艦奉行の勝先生が作戦全体の指揮を執るかも知れない。そうなれば薩長と土佐のすべての船をかき集めても防戦で手一杯だろう。陸軍が早めに決着をつけてくれるよう祈るしかない」
「先日大久保さんに長崎で売りに出ている船の調達を勧めましたが、やはり安い中古船を買うより、無理をしてでもイギリスの高速船を買ったほうが良さそうですな」
「ああ、長崎に停泊していたイギリス製のキャンスー号か。あれは確かに上等な船だ。あれが入手できれば大いに我らの戦力になるだろう。それはそうと、イギリスと言えば伊藤くんはイギリスまで航海した経験があるんだったな」
「ハハハ、あまり思い出したくない経験ですけど。一応、水夫のまねごとをしてイギリスまで行きました」
「俺もいつかはイギリスへ行ってみたいものだ。今度時間ができたら、二人で世界の話でもしようじゃないか」
このあと龍馬は下関で数日お龍と共に過ごし、それから土佐へ向けて出発していった。
俊輔とお龍が龍馬を見たのは、これが最後となった。
九月二十四日、龍馬は高知に着くとすぐに土佐藩と交渉を開始した。
俊輔の心配は杞憂に終わり、銃はすべて土佐藩が引き取ってくれることになった。
その後、龍馬はひそかに(イカルス号事件で土佐へ来た時には戻れなかった)実家へ五年半ぶりに帰宅した。
そして龍馬は高知を後にして京都へ向かった。
「大政奉還」が成るか成らぬか、更にそれをきっかけとして幕府との戦争が起こるのかどうか、その渦中に飛び込むためである。
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