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第九章・崩壊
第53話 龍馬とサトウと俊輔と(前編)
しおりを挟む八月十五日、サトウと龍馬を乗せた夕顔は長崎に到着した。
この日の夜、さっそく俊輔と木戸がサトウに会うためイギリス領事館へやって来た。
俊輔とサトウは手紙のやり取りは続けていたものの直接会うのは三年前の下関戦争以来だった。
ちなみにサトウが木戸に会うのは(この前鹿児島では会いそびれたので)これが初めてである。
「サトウさん、元気そうで何より!ようやく再会できてワシは本当に嬉しい!イギリス公使館の皆さんもお達者ですか?」
「おかげさまで。伊藤さんも病気が治ったようで何よりです。そういえば宍戸(高杉)さんはお亡くなりになったそうですね。まことに残念です」
「ワシも無念の極みです。あのユーリアラス号で高杉……、いや宍戸さんがサトウさんとやり合ったのも、ついこのあいだのように憶えてます……。あっ、そうそう、申し遅れました。こちらが私のボス、木戸さんです」
そう言って俊輔はサトウに木戸を紹介した。
三人は夕食を食べながら日本の政治状況について話し合った。
木戸はサトウに長州の状況について説明した。
「我が主君(毛利敬親)は実に温和な人柄なのに世間からは野心的な人物として酷く誤解されている。我が藩は幕府を倒そうなどといささかも考えておりません。長州の発展だけを考えてます。だからイギリスに留学生も送ったのです」
この木戸の話はサトウにとって意外だった。サトウは木戸に問い返した。
「ですが新将軍(慶喜)はフランスの協力のもと軍隊を強化して幕府の体制も一新しようとしています。放っておけば、いずれまた長州へ攻め込んでくるのではないですか?」
「いや。以前とはまったく状況が違います。帝も将軍も、前の戦いの時とは代わって新しくなっています。新将軍が長州を攻める理由などどこにも無いのです」
「そうですか……。西洋では、理屈だけを唱えていつまで経っても行動に移さないのは“老婆の理屈”と言い、男子の恥じる行為です。宍戸さんがいなくなったせいか、どうも長州は変わってしまったようですね」
しかしこのサトウの発言に対しても、木戸と俊輔は特に反論しなかった。
その理由は言うまでもなく、下関における井上聞多の時と同じである。
一方、龍馬は海援隊の本部でイカルス号事件の取り調べについて詳しく話を聞いた。
これまで土佐藩を代表してパークスや幕府の長崎奉行所と交渉してきたのは、土佐商会の岩崎弥太郎だった。
岩崎弥太郎については、数年前に大河ドラマでも出ていたので詳しく解説する必要もなかろう。後の三菱財閥の創業者である。
長崎奉行所から取り調べを受けていた海援隊の横笛丸が、岩崎の命令を無視して勝手に鹿児島へ行ってしまったということで隊士たちと岩崎がケンカをしていたのは龍馬にとって困りものだったが、とにかくパークスが海援隊にかけた嫌疑は「濡れ衣である」という確信を得られたので龍馬はホッとした。
そこで龍馬は一案を講じた。
「犯人を見つけ出した者には千両を与える、と市中に触れ書きを出そう」
この龍馬の発案に岩崎が反対した。
「千両の金など土佐商会は出せんぞ」
「バカだな、弥太郎。誰も見てない夜中の犯行だ。どうやったって犯人など見つかるものか。だったら金額は大きいほうが良い。我らが犯人捜しに積極的であることを広く知らせればそれでいいんだ」
「だが、もし本当に犯人が出てきたらどうする?」
「それこそ望むところではないか!日本が大変革をなそうとしている時に千両ごときでごちゃごちゃ言うな!俺は一刻も早くこの事件にケリをつけて京都へ戻りたいのだ!」
八月十九日、運上所(現在の市民病院の辺りにあった税関施設)で裁判がおこなわれ、イギリス側はサトウと長崎領事のフラワーズが、土佐側は龍馬、佐々木、海援隊士たちが、幕府側は長崎奉行所の役人たちが裁判に出廷した。
この日の裁判では、海援隊の無実がそれなりに証明される形になった。
当初広がった噂では
「犯行直後の早朝、横笛丸が出港し、続いて数時間後に南海丸が出港した。横笛丸は昼に戻ってきたが南海丸はそのまま長崎から去った。犯人は横笛丸で長崎を脱出して、沖で南海丸に乗り移って逃げ去ったのではないか?」
と言われていたが、南海丸が出港したのは夜の十時だったことが分かり、横笛丸が昼に戻ってきた時にはまだ長崎港にいた、ということが証明されたのである。
これで「沖で乗り移った」という想定が崩れ去った。
裁判に出席していた龍馬はホッとする思いだった。
(これでイギリスの連中も我らへの嫌疑を解くだろう。やれやれ、やっと京都へ帰れるぞ……)
ところがサトウは嫌疑を解かなかったのである。
そして次のように意見を述べた。
「過去の供述調書を見ると容疑者の発言に食い違いがある。本日欠席している容疑者を呼び出して、後日あらためて裁判を再開すべきである」
容疑者として調べられていたのは、事件当日、犯行現場の近くで酒を飲んでいた菅野覚兵衛と佐々木栄という二人の海援隊士だった。
この日、菅野は裁判に出廷していたが、佐々木栄は横笛丸で鹿児島へ行っていたので欠席していた。
サトウはこの佐々木栄を呼び戻して、後日裁判を再開すべきだと主張したのである。
「本日の裁判で菅野は『佐々木と二人で飲んでいた』と供述したが、過去の取り調べで佐々木は『同行者がもう一人いた』と供述している。この食い違いは看過できない。佐々木を呼び戻して調べ直すべきである」
結局このサトウの主張が通り、佐々木栄を呼び戻して後日裁判が再開されることになった。
もしこの日サトウが異議申し立てをしなければ、裁判はこのまま終了して海援隊は無罪放免、龍馬も京都へ戻ることが出来ていただろう。
ところがサトウのせいで龍馬は更に一ヶ月近く長崎での滞在を強いられることになったのである。
龍馬は、裁判に同席していたサトウを恐ろしい形相でにらみつけ、ぷるぷると震えていた。
するとサトウも、その龍馬の表情に気がついた。
(あれが海援隊の隊長か。確か才谷梅太郎とか言ったな。よくあんなクレイジーな表情ができるものだ。まてよ、あいつは確か船の中でも私のことをにらんでいたぞ。我々イギリス人を殺した張本人のくせに、なんという恥知らずな奴だ。あんなクレイジーな奴が隊長だから平気で人殺しもするのだ)
パークスほど強い思い込みではなかったものの、サトウとしても「犯人はどうせ海援隊の人間だろう」と思っていた。他に犯人らしき容疑者がいなかったのだから、そう思い込んだのも無理はなかっただろう。
しかし先回りして結果を言うと、犯人は海援隊の人間ではなかった。
犯人は金子才吉という筑前(福岡)藩士だった。
それが判明するのはおよそ一年後のことである。無論その頃には幕府も倒れ、明治新政府になっている。
事件当日の深夜、金子を含む十数人の筑前藩士が丸山を通りかかると、二人の外国人が酔いつぶれて寝ていた。
そこで突然、金子が刀を抜いて飛びかかり、その二人を闇雲に斬りまくった。
仲間たちが止める間もなく、金子は二人を殺してしまった。
あわてた筑前藩士たちは金子を連れて現場から逃亡し、とにかく藩邸へと帰った。
そして上司に事件を報告したのだが、あろうことかその上司は事件を秘匿するよう命じ、藩内に箝口令を敷いたのである。
翌日、金子は切腹した。
外国人を斬る直前から切腹するまでの金子には挙動不審な点が多かったようである。
おそらく外国人を斬ったのも錯乱しての行動だったのだろう。殺人の動機はまったく不明である。
確実に言えることは「筑前藩が正直に申し出ていれば、ここまで事は大きくならなかった」ということだ。
犯人発覚後、明治政府は福岡藩知事に賠償金の支払いと蟄居を命じた。そして同行していた藩士たちも禁固刑に処した。
余談ながら罰をうけた藩士の中に、後に外交官となり日露戦争の時に駐露公使をつとめる栗野慎一郎もいた。
裁判の翌日、俊輔と木戸は、龍馬と佐々木三四郎を玉川亭によんで酒宴を張った。
この玉川亭は亀山から中島川に下りた川のほとりにあった。
実は俊輔と木戸は三日前にもここへ来て、その時はサトウと会って酒を飲んでいた。
久しぶりに龍馬と会った俊輔は、再会を祝して龍馬に酒をついだ。
「乙丑丸の時はお世話になりました。相変わらずご苦労をされているようですな、坂本さん」
(この男は以前、長州と薩摩の間を周旋したが、今回は土佐と薩摩の間を周旋したと聞く。なんという政治感覚の鋭さよ。ワシもいつかはこの男のような仕事をしたいものだ……)
龍馬は酒を一気にあおってから俊輔に答えた。
「まったく神様は俺を見放したようだ。乙丑丸に乗れんようになった後、ワイルウェフ号やいろは丸を入手したが両方とも沈んでしまった。そして今度の事件だ。神様に誓ってもいい。海援隊は何もやっておらん」
すると木戸が龍馬にサトウのことを語り出した。
「君はえらく彼のことを憎んどるようだが先日サトウがこの店で申しておった。日本人が刀を捨てないかぎり日本在住の外国人に平和はない。少なくとも我々の時代には平和はあるまい、と。なるほど確かに一理ある。とにかく今この時期にイギリスを敵に回したくはない。君の気持も分かるが、彼を憎むのもほどほどにせよ」
「いやっ、あいつだけは絶対に許せん!あいつがあそこで横槍を入れてこなければ裁判は無事に終わっておったのだ!俺も別にイギリスを敵視してはおらんが、あのサトウという男だけは斬り殺してやりたい!」
龍馬の隣りでこの発言を聞いていた佐々木も深くうなずいたが、サトウと深い友情でつながっている俊輔は龍馬のセリフにドキリとした。
そして木戸が再び口を開いた。
「今は私情を慎め、坂本君。そういえばサトウはこうも申しておった。口ばかりで行動しないことを西洋では“老婆の仕事”と言って男らしくない態度だ、と。無論、彼らに手の内を見せないため聞き流しておいたが内心では実にいまいましく思ったものだ。坂本君、佐々木殿。土佐藩は口だけで済ますつもりか?それとも行動を起こすつもりか?一体どちらであるのか?」
木戸の言う「口だけ」とは武力を用いない策、すなわち大政奉還路線のことを指し、「行動」とは武力倒幕路線のことを指している。
木戸と俊輔は二人とも、サトウには秘密にしているが、後者を想定している。
長州はすでに幕府への反旗をひるがえしているのだから武力倒幕を選ぶことに迷いは無い。その点、薩摩や土佐はまだまだ藩内に慎重派が大勢いた。特に土佐はその傾向が強かった。
木戸の問いに龍馬が答えた。
「そうか。あいつがそんな事をぬかしおったか。俺の腹は決まっている。日本のために幕府は倒さねばならん。今、我々は幕府に大政奉還を迫っているが、幕府は大政奉還をするぐらいなら薩長に戦を仕掛けてくるだろう。またあるいは、大政奉還の拒絶を理由にして西郷さんが兵を挙げるだろう。戦になれば我々は絶対に勝たねばならん。だが、できれば大戦になる前に、両者が手打ちをするよう時局を収めるべきだ。もし大戦になったら、それこそサトウたちイギリス人の思惑通り、国内が真っ二つになってしまう。それだけは絶対に避けねばならん。一番大切なことは幕府を倒した後にどうするのか?ということではないか」
「つまり土佐藩は幕府と戦争になった時に“行動”を起こす覚悟がある、ということで理解してもよろしいか?」
「そのために乾退助も動いている。必要とあらばこの長崎で施条銃(ライフル銃)を調達していくつもりだ」
「ボクが思うに、後藤殿の進めている大政奉還策では不十分のように思う。もし万一、幕府が中途半端な大政奉還でお茶を濁そうとしたらどうする?結局のところ、最後は薩摩の西郷と尊藩の乾殿が大立ち回りを演じなければ決着はつくまい。大戦は避けたいなどと甘いことを言っている場合ではないぞ、坂本君。そんな簡単に幕府が倒れるものか」
「それじゃいっそのこと、最近浦上で騒ぎになってるヤソ教の連中をたきつけて、どさくさ紛れに長崎奉行所を乗っ取るという作戦はどうだろう?」
さすがに龍馬のこの提案には木戸も俊輔もギョッとした。とはいえ、隣りに座っていた佐々木が一番強くこれを拒絶した。
「おいおい坂本。いくら何でもそれだけは絶対にやっちゃいかんぞ」
この「浦上での騒ぎ」とはイカルス号事件が騒がしいちょうどこの頃、長崎北部の浦上で多数の隠れキリシタンが見つかった「いわゆる浦上四番崩れ」と呼ばれるもので、イカルス号事件と並行して外国から追及されていた問題だった。
元来、尊王攘夷の思想にも反キリスト教の思想が色濃く含まれているが、そもそも江戸幕府が鎖国体制を敷くようになったのも、この肥前の地で「島原の乱」というキリスト教徒の大反乱があったからである。それゆえ、この時代ほとんどの日本人にとってキリスト教は「邪宗門」であり、尊王攘夷派であろうとなかろうと長年の習慣によって(生理的に、と言ってもいいが)受け入れられない存在だった。
いくぶん開明的な考えを持つ俊輔や木戸はそれほどでもないが、国学や神道に傾倒していた佐々木としては絶対に受け入れられず、強い拒否反応を示したのだ。
英仏をはじめとした欧米諸国はこういった幕府の反キリスト教政策を批判し、浦上の隠れキリシタンたちに対して寛大な処置をとるように要求していた。
余談として付け加えると、この浦上キリシタン問題は維新後に持ち越されることになり、この翌年、外国事務局の役人として井上聞多が長崎へ来てこの問題を担当するようになるのだが、ここにいる木戸と佐々木もこの問題の処理に関与することになる。そして佐々木は、やはりその時も隠れキリシタンには厳しい処置をとるように求めるのである。
結局この日の会合では龍馬がキリシタン扇動の「奇策」を提案したことによって、木戸や俊輔の毒気が抜かれるかたちとなった。
となれば、あとは酒と女を楽しむばかりである。なにしろ彼らは無類の女好きだった。以後、彼らはこの長崎で何度も酒宴を張ることになる(龍馬が佐々木に「女軍を相手に戦をしに行こう」と酒宴に誘っている手紙が現在いくつも残っている)。
一方、サトウは長崎の薩摩藩邸を訪問して家老の新納刑部と面談した。
新納とはサトウが前年十一月に鹿児島を訪問した際にも面談していたが、その時にも紹介したように、新納は五代と一緒にイギリスへ行った経験がある人物である。
サトウは新納とイカルス号事件のことや長崎の治安問題について話し合った。
さらにサトウは、最近耳にした「薩摩とフランスの関係」について新納に詰問した。
「薩摩は最近フランスからモンブラン伯爵、さらに軍事教官や技師たちを雇い入れたと聞きました。我々イギリスはそれに反対することはできませんが、イギリスとフランスは対日政策が異なります。薩摩は外交方針を変更して、イギリスよりもフランスを重視するようになったのでしょうか?」
新納はあわててサトウの言う「薩摩とフランスの関係」を否定した。
「いや、そんなことはありません。私はそれらの経緯をまったく知らなかったのです。フランスにいる同僚からその話を知らされた時、すぐに契約を破棄するよう指示しましたが手遅れでした。彼らが日本に到着したらすぐに帰国させるつもりです」
この年の春にパリ万博で薩摩がモンブランと一緒に宣伝戦をおこなって幕府を攻撃した、という話は第47話で紹介した。そしてモンブランは、五代と新納がヨーロッパへ行った時に知り合ったベルギー系フランス人で「幕末の山師的外国人」と言われている人物である、ということも以前紹介したことがある。
西郷は幕府からイギリスを引き離し、さらにフランスも引き離すことを目論んではいたが、フランスに手を出して薩摩側に引き入れる、という事までは考えていなかったし、実際そのように動いてもいなかった。さらに言えば、パリ万博へ行っていた薩摩藩士たちもモンブランに来日の要請などしていなかった。
モンブランは自ら売り込む形で(パリ万博で薩摩藩に協力した、というのを恩に着せて)むりやり薩摩藩に契約をさせて日本へと向かったのである。
モンブランにどのような野心があったのか?は謎である。金に不自由していた訳ではない(と少なくとも本人は言っている)。
ちなみにヨーロッパに留学中の薩摩スチューデントたちは連名で
「決してモンブランを信用してはいけない」
と薩摩へ手紙を送ってきており、彼ら留学生を送り出すのに尽力したグラバーも
「彼は嫌な奴だった。私は散々彼の邪魔をしてやった」
と後年、モンブランについて語っている。
ともかくも、モンブランたちはこの時日本に向かって航行中で、長崎に到着するのは翌月下旬のことである。
次にサトウは薩摩藩の京都出兵計画について新納に質問した。
「最近薩摩が二隻の蒸気船で京都へ兵士を送り込む準備をしている、という噂を聞いたのですが本当ですか?」
これも新納はハッキリと否定した。
「それは何かの聞き間違いでしょう。そんな計画はまったく聞いてません。京都に集まっていた四人の諸侯も皆自国へ帰ることが決まりましたから、これからしばらく京都は静かになるでしょう」
この「四人の諸侯」とは、この前まで京都で開かれていた「四侯会議」に出ていた久光、春嶽、容堂、宗城のことで、その四侯会議が慶喜の勝利に終わったことは以前書いた通りである。敗れた四侯の側は慶喜から譲歩を引き出すことをあきらめ、順次自国へ帰ることになった。
新納はサトウから質問された薩摩藩の京都出兵計画を否定したが、実はこの時サトウがにらんでいた通り、薩摩は着々と出兵計画を進めていたのである。
木戸との面談に引き続き、サトウはここで新納からも「薩長には戦意が無い」という情報をつかまされた訳である。
そしてサトウは、木戸や新納の情報をそのまま真実として受けとめてしまった。
サトウはこの新納と面談した日の日記に
「こうしてみると、あきらかにかれらは屈服する意志を固めたらしい」
と書いている(『遠い崖』5巻(萩原延壽、朝日新聞社)よりそのまま引用)。
しかしサトウが後年、日記を元にして書いた著書『A Diplomat in Japan』(邦訳『一外交官の見た明治維新』)を出版する際には、この部分を削ってしまっている。
その理由は、この後の歴史が語っているように「かれらは屈服などしていなかった」からである。
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