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第八章・東奔西走
第50話 東海道中、例幣使事件
しおりを挟む前回の終わりのところで西郷と小松がパークスに述べたように、この頃、有力諸侯が京都へ集まりつつあった。
いわゆる「四侯会議」が開かれようとしていたのである。
四侯とは越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城、そして薩摩の島津久光のことを指している。
兵庫開港問題や長州処分問題について将軍と話し合うために、彼らは上洛したのだった。
ちなみにこの四侯の上洛と同じ頃、彼らと同列に並べるのは多少場違いな感じもするが、俊輔も密かに上洛していた。
病気で寝込んでいた俊輔はようやく快復して再び藩に出仕するようになった。
そして藩から京都での情報収集を命じられ、四月十三日に入京したのだった。
以前聞多が情報収集のために大坂まで出て来たことがあったが、今度はより危険な京都への潜入であった。
一応すでに同じ松下村塾出身の品川弥二郎が京都の薩摩藩邸に常駐していたので、俊輔もしばらくそこで潜伏するように命じられたのである。
幕長戦争に勝利したといっても長州藩士はいまだに入京を許されていない。
もし俊輔が新選組にでも捕まればバッサリと斬り捨てられるか、もしくは拷問されるに決まっている。そんな時のために、俊輔は自分の帯の中に服毒自殺用のモルヒネまで携帯していた。下関を発つ前に妻の梅子に縫い込ませていたのだ。
むろん、梅子を心配させたくなかったので、それが毒薬であるとは言わなかったが。
ところで俊輔の上司である木戸は新将軍・慶喜を非常に警戒していた。
そして俊輔を送り出す時にもくどくどとそのことを俊輔に語った。
「今や関東の政令や兵制は新将軍によって一変していると聞く。彼の能力は決して侮ることができない。もし幕府が力を取り戻し、再び朝廷を取り込んでしまえば、まさに家康の再来を見ることになるだろう」
実際に俊輔が大坂や京都で聞いた慶喜への評価もそれに近いものだった。
特にイギリスと密接につながっている薩摩藩士から今回の将軍謁見の話を聞かされて、俊輔はその感を強くした。
(まさかあのパークスまでが慶喜を支持すると言い出すとは……。本当はその辺の話をサトウに詳しく聞きたかったのだが、大坂では折り悪しく会えなかった。まったくもって残念だ)
奇遇なことにそのパークスとサトウも、俊輔が京都に入った頃にちょうど大坂を出発して京都方面へ向かっていた。
ただし、もちろんこの頃はまだ外国人が京都へ入ることは許されていない。二人とも京都近郊の伏見を通るだけである。
パークス一行は伏見から大津へ抜けてそのあと琵琶湖西岸を北上して敦賀へ向かう予定で、サトウ一行は東海道を進んで江戸へ向かう予定となっている。
サトウと同行するイギリス人は画家のワーグマンただ一人である。
本当はウィリスもサトウと同行したいと思っていたのだが、パークスから同行を命じられてやむなく敦賀へ行くことになった。サトウに同行することができず、しかもパークスとの窮屈な旅行を強いられたウィリスは非常に残念がった。
ただしパークスが敦賀へ行くのは物見遊山ではない。日本海側の港を調べるという仕事のために行くのだ。
一応日本海側の開港地は新潟ということになってはいるものの新潟は港の機能が不十分なので代替港を探しており、敦賀が条件にあうかどうか見に行くのだ。
とはいえ、パークスとしても「外交官の内地旅行特権」を行使したい気持ちが強かったのも事実であった。それゆえ敦賀からの帰路は琵琶湖東岸を通って大坂へ戻り、大坂から船で江戸へ帰る予定となっている。
そして結論を先に述べてしまえば、結局「敦賀は人口も少なく開港地としては不適格」ということになるのである。
ところがこの「パークスの敦賀行き」が京都で、特に朝廷で問題となったのである。
この頃まだ、唯一「攘夷」が生きのびていた場所は京都であった。
江戸や横浜の辺りでは、攘夷熱がピークだった頃からかなり時間が経過しており、しかも最後の攘夷集団だった天狗党が消滅したのも二年以上前のことである。
そして大坂では、そもそも武士が少ない町だったので攘夷熱はあまり高くなく、外国人(外国使節)が出入りするようになったのもつい最近のことなので攘夷にまつわる事件などはほとんど発生していなかった。
しかし京都は別格だった。
そもそも尊王攘夷の発信元は京都の朝廷で、特に先帝の孝明天皇がそれを体現する存在だったからこそ尊王攘夷の気運が全国に広まったのだ。
今は新帝の御代になっているとはいえ、朝廷が以前からの体質をそう簡単に変えられるはずがなかった。
「京都のすぐ近く(伏見と大津)を夷狄であるパークスが通行し、それを幕府が許可した」
このことが朝廷内で問題となり、幕府寄りと見られていた四人の公家が「幕府に抗議しなかった罪」で免職させられ、さらに薩摩藩などの三藩に京都、伏見に外国人が潜入しないよう警備を命じる朝命が下ったのである。
朝廷の裏で糸を引いていたのが薩摩藩であったことは言うまでもない。
「攘夷」を名目にして幕府を糾弾するという手法はこれまでずっと薩長が使ってきた常套手段であり、この時も引き続き同じ手法を使った訳である。
そしてこの直前にイギリス軍艦でパークスと西郷、小松が面会していたので、このパークスの敦賀行きは
「薩摩の邪謀である」
と噂されるようになったのである。
確かに朝廷を動かして四人の公家を辞めさせ、薩摩藩などに警備を命じるといった陰謀を薩摩がおこなったのは事実であるが
「これにパークスが関与していたかどうか?」
となると、その可能性は相当低いと筆者は思う。
なぜなら前回の話で見たように、パークスは幕府(慶喜)を支持する方針を明確にしており、幕府を陥れるような薩摩の謀略に加担するはずがなく、さらに言えば「薩摩に言われたから敦賀へ行く」などと、そんな他人から言われたことを素直に聞くような男ではない。
「西郷や小松がうまいことパークスをそそのかして敦賀へ行かせた」
ということなら可能性がない訳でもないが、基本的にパークス自身の意志で敦賀行きを決断して、それを薩摩がうまく利用した、というのが真相であろう。
けれども慶喜の薩摩への反撃は迅速だった。
すぐさま朝廷へ抗議して、四人の公家の免職および薩摩藩などに警備を命じるといった朝命を撤回するよう強く迫った。その結果、四人の公家の免職はそのままになったものの、薩摩藩などに警備を命じたのは撤回された。
そしてこの「慶喜対薩摩」の構図は、そのまま四侯会議にも引き継がれたのであった。
結果を先に言ってしまえば、これも慶喜が勝利するかたちとなった。
この会議では薩摩の久光が
「長州処分問題を優先すべし」
と主張し、かたや慶喜は
「兵庫開港問題を優先すべし」
と主張した。そして春嶽がそれを仲裁して結局
「両方同時に朝廷へ奏請する」
ということになった。
さらに兵庫開港の勅許についても、慶喜が朝廷での徹夜の会議を制して勅許を獲得した(慶喜は二年前の条約勅許の時も、同じように徹夜の会議で勅許を獲得していた)。
こうして薩摩の持論であった「諸侯連合政権案」は慶喜によって葬り去られたのであった。
そもそもパークスの敦賀行きにしても、兵庫開港問題にしても、これらのことで幕府を糾弾するに際して、その根底にあったのは朝廷発の攘夷思想だった。
しかしその中心的存在だった孝明天皇がいなくなり、しかも薩摩がイギリスと親密な関係にあることは明白だったのだから、もはや
「攘夷を前面に押し出して幕府を糾弾する」
という謀略は使えなくなっていたのである。
謀略が使えなくなったとすれば、あとはとるべき道は一つしかないであろう。
これ以降、薩摩が武力倒幕の方向へ舵を切ることになるのは、広く知られている話である。
とはいえ、一言で「薩摩」と言っても薩摩の中も一枚岩ではない。
要するに謀略の季節が過ぎ去ったのと同時に、大名(諸侯)の季節も過ぎ去ったのである。
四侯会議は重要なイベントではあったが、所詮彼ら殿様クラスの人間がそう簡単に大改革を決心できるはずがなく、ましてや戦争を引き起こすなどできる訳がないであろう。
久光にそれほど強い倒幕の意志があったのかどうか?筆者は疑問に思う。
確かに久光が許可しなければ西郷といえども兵を動かせなかったのは事実だが、久光に
「なんとしてでも幕府は倒さねばならぬ」
と思うほどの強い動機があったようには見えない。
後世、久光が西郷に
「俺はいつに将軍になれるのだ?」
と言ったとか言わなかったとか、そんな噂話を作られるような人物だったので倒幕の意志があったかのように見られがちだが、“超”が付くほど保守的な久光が好んでそんなバクチ(武力倒幕)をやるとは思えない。
事実、久光は維新後、“維新革命”を後悔することになる(ただし西郷も、それとは別の立場で“維新革命”を後悔するが)。
やはり「なんとしてでも幕府は倒さねばならぬ」と考えていた西郷と大久保に、久光は引きずられたのだろうと思う。
というか長州は別として、薩摩に限って言えば久光だけではなくて「武力倒幕」という西郷と大久保の極論に、ほとんどの保守派は引きずられていったように思われる。
西郷や大久保、それに中岡慎太郎などは
「西欧に対抗するには戦争をして、国民の目を覚まさせる必要がある」
と考えていたフシが見受けられる。
彼らには武力倒幕をする動機があった。それは
「日本国は自主独立せねばならぬ」
という強い危機感から来ていたもので、彼らは社会の大改革を志す革命家であった。
そして俊輔が京都に出て来ている頃、長州で一人の革命家がこの世を去った。
四月十四日、高杉晋作が下関で病死した。享年二十九。
筆者の個人的な感想では、高杉は革命家という程の思想はなかったように思われるが、実際にやった事は革命家のそれだったろうと思う。
俊輔と品川は京都の薩摩藩邸で長州からの手紙を受け取り、高杉の死を知った。二人とも松下村塾以来の高杉の知友である。
「久坂さん、入江さん、(吉田)稔麿さんに続き、とうとう高杉さんまで逝ってしまったか……。塾にいた頃は、あの人はただただ恐ろしい存在だったが、今から思えばあの頃が一番楽しかった。松陰先生も生きておられたし……」
品川はそうつぶやくと、思わず泣き出してしまった。それにつられて、俊輔も涙を流してしまった。そしてしばらくしてから俊輔は品川に語りかけた。
「そういえば下関でイギリスと講和した時に、お主、ワシや高杉さんを斬ろうとしたことがあったな」
「松陰先生の尊王攘夷をないがしろにする行為だと思ったからな。ところが今では君公や若殿さえイギリス人と公式に面会しているではないか。まったく世も末だ」
「お主も一度欧州へ行ってみれば良いのだ。松陰先生も海外へ密航しようとしたではないか。実際高杉さんも二度、ワシとイギリスへ行こうとしたが結局果たせなかった。実に心残りだったろう」
「いや、そんなことより、もう一度幕府と戦って幕府を倒す、それがあの人の宿願だったはずだ。何年かかるか分からぬが、ぜひ薩摩と一緒にそれを成し遂げて、いずれ地下で松陰先生や高杉さんに報告したいものだ」
「それはワシもまったく同感だ」
俊輔は、四月末には京都での情報収集を終えて長州へ帰っていった。
俊輔が京都で情報収集していたのと同じ頃、サトウはワーグマンと一緒に東海道を下っていた。
こちらはパークスの敦賀行きと違って、完全な物見遊山であった。
サトウは二週間の休暇をとって友人のワーグマンと二人で『東海道中膝栗毛』の弥次喜多よろしく、東海道旅行としゃれこんだ。
もっとも、サトウたちの場合は「膝栗毛」(徒歩)ではなくて専用の駕籠を用意して、さらに幕府から派遣された外国奉行の役人(外国方)と護衛隊の別手組に守られて進むという大名行列並みの豪華な旅行なのだ。
ちなみにこの外国方の役人というのは山崎龍太郎という人物で、サトウは彼に喜多八というあだ名を付けていた。そしてサトウの秘書役として野口も同行した。
一般の外国人が制限区域(例えば横浜周辺など)の外へ旅行することは条約で禁止されていた。
サトウがこのようなかたちで自由に日本国内を旅行できるのは「外交官特権」があるからである。その点、ワーグマンは外交官ではないが特別な許可を得てこの旅行に帯同することが許された。
実はワーグマンが東海道を通るのはこれが初めてではない。
六年前、前任のオールコック公使と共に一度この道を通ったことがあった。ただし、その時は駕籠ではなくて馬に乗っての旅だった。
「こんなカンゴー(駕籠)という乗り物で、我々は江戸まで行けるだろうか?もちろん、行ける(キャン・ゴー=can go)とも」
ワーグマンはくだらない駄洒落を言ってサトウを笑わせた。
しかし脇で控えている山崎や別手組の連中は、サトウとワーグマンのことを冷ややかな目で見ていた。
(まったく、なぜ我々が異人の物見遊山に付き合わねばならんのだ。しかもこのサトウという男は『英国策論』とかいう反幕思想の本を書いた危険人物ではないか)
こういった幕府役人たちの不満とは裏腹に、サトウはこの旅行を楽しみにしていた。
サトウは旅行が大好きなのだ。
後年、日本各地を歩き回り、ついには『中部・北部旅行案内』(後の版では『日本旅行案内』と改題)という外国人向けの旅行ガイドをサトウは出版することになるのだが、この東海道旅行がその原点となったと言うべきだろう。
余談ながら、その『中部・北部旅行案内』では東北ルートの解説で有名なイザベラ・バードの記述も引用している。バードが書いた『日本奥地紀行』(平凡社、訳・高梨健吉)では明治十一年にバードが初来日した時に、何度もサトウの名前を聞かされたことが書かれている。
「教育ある日本人に、彼らの歴史、宗教、古代習慣などについて質問すると、次のような返事をして私の質問をはぐらかされることが多かった。サトウ氏におたずねになるのがよいでしょう。あの方なら、あなたに教えてくれますよ、と」
さて、サトウたち一行は四月十六日に伏見を出発して東海道を下っていった。
サトウとワーグマンは完全に日本食で通すことにした。二人とも日本滞在歴が長いので日本食に慣れていたのだ。しかし「外国人は肉しか食べない」と思っていた日本人も当時大勢いたようで、サトウたちが米の飯を食べるのを見て彼らは大いに驚いた。
この時のサトウの旅行日記を観察すると、彼が強く関心を抱いていた事は二つだった。
一つは日本の美しい自然の風景で、もう一つは日本の美しい女性たちである。ただし「そうでない女性」のことも、結構克明に書いてあったりもする(例えば誰それという娘は太っているとか、お多福だとか、結構言いたい放題書いてある)。
むろん、ワーグマンもサトウ同様、相当な女好きなので、宿に泊まる時にはいつも給仕の娘たちにちょっかいを出していた。
ただし旅の最初の頃、二人は宿の娘たちが自分たちに近寄って来ないので大いに不満だった。
二人はどこの宿場でも大体「本陣」(大名などが泊まる立派な宿)に泊まったのだが「大名が使用するような特別な間」に案内されたため、かえって娘たちが遠慮して近づいて来なかったのである。
二人は大名に同情した。
(大名になってしまうと、気軽に娘たちと触れ合うことも出来ないのか……)
そして道中は道中で、二人を護衛する別手組が執拗に二人の周辺にまとわりつき、うっとうしくてしょうがなかったので外国方の喜多八こと山崎に文句を言ったりもした。また宮(熱田)宿に着いた時には
「名古屋まで見物に行きたい」
と山崎に主張したが、いろいろと言い訳を持ち出して結局断られた。
山崎や別手組からすれば
「とにかく何事もなく、さっさと二人を江戸へ送り届けたい」
ただその一心なのである。
「予定外の行動などされてたまるか」
と彼らは言ってやりたい気持ちだった。
ところが四月二十四日、浜松を出発しようとしたところでサトウは山崎から忠告を受けた。
「“例幣使”という危険な連中が東海道をこちらへ向かって来てます。これは絶対に避けなければなりません」
それを聞いて、野口もサトウに忠告した。
「“例幣使”は大名よりも位が高く、大名でもいざこざを恐れて彼らを避けます。特に“例幣使”の家来たちが様々な理由で難癖をつけて、金銭を要求してくるのです」
毎年四月恒「例」の行事で、朝廷から日光東照宮へ御「幣」(神のお札)を捧げる勅「使」のことを「例幣使」と呼んでいた。
往路は中山道を通って(倉賀野からは例幣使街道という道を通って)日光へ行き、復路は江戸経由で東海道を上って帰京するルートを通るのだが、その帰京途中の例幣使がサトウたちに接近していたという訳である。
余談ながらサトウとイザベラ・バードは二人とも後年、日光と深く関わることになる。例えば現在中禅寺湖畔にある「英国大使館別荘記念公園」のところに最初に別荘を建てたのはサトウである。
なにしろこの当時の公家は貧乏な家が多く、皆この役得が大きい例幣使をやりたがった。
例幣使役の公家のところには多くの関係者がやってきて家来を名乗り、彼らが道中いろんな手口で金をせびったのである。
例えば、駕籠からわざと飛び落ちて文句をつけたり、飯にゴミが入っていると言いがかりをつけるといった具合だった。とにかく彼らの目的は金であって、金さえ与えればそれ以上何も言わなかったが、皆彼らと関わり合いになるのを避けた。
サトウは山崎と野口の忠告を受け入れた。まさに「さわらぬ神にたたりなし」である。トラブルが起こる可能性があるのであれば、とりあえず避けておくに越したことはない。
この日サトウたち一行は掛川宿に入り、本陣は例幣使一行にゆずって脇本陣に泊まることにした。
例幣使一行はこの日、次の袋井宿まで進む予定であると聞いていたので、サトウたちはこの掛川で例幣使一行が通り過ぎるのを待ったのである。
しかし例幣使一行は夜になっても掛川に到着しなかった。
おそらく何らかの事情があって遅れているのであろう。なんにしても、翌日になれば例幣使一行も確実に掛川を通過して行くであろう、と考えて、この日はそのまま掛川に泊まることにした。
夜中の午前一時頃、サトウが寝ている部屋に一人の日本人がやって来てサトウに声をかけた。
「サトウさん、サトウさん。起きてください。敵の襲撃です。刀を用意してください」
起こしにきた日本人は別手組の松下という若者だった。
この日は本陣より手狭な脇本陣に泊まったのでサトウの当直警護にあたっていたのはこの松下ともう一名だけだった。残りの別手組の隊員は少し離れたところに泊まっていた。
サトウはすぐに起き上がり、刀掛けから刀をとった。
ただしこの刀は西洋の指揮刀のような代物で、日本刀のような斬れ味はない。
真っ暗闇の中、二人は控えの間に移って身構えた。
「早く同輩たちが駆けつけてくれると良いが……」
と松下はつぶやいた。当直のもう一人が急いで別手組の仲間を呼びに行ったのである。
その途端、入り口のほうから怒鳴り声や激しい物音が聞こえてきた。
サトウは部屋のすぐ外にある裏庭から敵が襲撃してくると予感し、息を殺して待ち構えていた。
三分もすると、あたりは元の静寂に戻った。そして灯りを持って野口がやって来た。
「サトウさん、もう大丈夫です。賊は追い払いました」
「そうか。ところでワーグマンが見当たらないようだが、どうなったか知らないか?」
それは野口にも分からなかった。ワーグマンが寝ていた部屋はもぬけの殻だった。
その隣りの部屋に目を移すと、蚊帳がずたずたに斬られていた。どうやら賊が斬り刻んだらしい。
ちょうどその時、別手組の隊員たちがサトウのもとへ駆けつけて来た。
彼らはサトウの無事を知ると安堵し、手分けしてワーグマンを探しに行った。
ワーグマンは少し離れた路地裏で見つかったのだが、ワーグマンは別手組の隊員を賊と勘違いして、あやうくピストルで撃ちそうになった。
ワーグマンから話を聞くと、賊がやって来た時に宿の人々が裏口から逃げ出したので、自分もその人々について行ったということだった。
賊を撃退したのは野口の手柄だった。
野口は賊とのやり取りの一部始終をサトウに説明した。
賊は例幣使の家来たちだった。
彼ら十数名が宿に侵入してくると野口はとび起き、右手には刀を、左手にはピストルを握って彼らのところへ出向いていった。
彼らは目の前に立ちはだかる野口を見ると
「毛唐を出せっ!」
と怒鳴った。
野口は彼らにピストルを向けて
「毛唐に会いたければ、腕ずくでやってみろ!」
と叫んだ。
この野口の気迫に、彼らは飲まれた。
なんといっても彼らは、そもそも「相手が反撃してくる」ということを想定していなかった。例幣使の家来というだけで、これまでずっとやりたい放題ができていたのだから「相手が反撃してくる」ということを想定できなかったとしても無理はない。
例幣使の権威も「毛唐」すなわち外国人には通用しない、ということにまで頭が回らなかったのだ。
しかも彼らは金目当てで急きょ家来になった寄せ集めの連中だったから腕っぷしも弱かった。野口に気圧された彼らは、すごすごと引き下がっていったのである。
翌日、サトウは外国方の山崎を呼んで
「例幣使側に事件の責任を取らせなければならない。さもないと私が別手組を率いて彼らのところへ乗り込み、犯人を捕まえる」
と伝えた。これを聞いた山崎は
「この事件は自分が責任をもって解決するので自分に任せて欲しい」
と答えて例幣使側のところへ談判に向かった。
しかしやはり、例幣使側は犯人の引き渡しを拒否した。その言い分は
「汚らわしい異人が、例幣使の泊まる掛川に同宿するとは不謹慎である。そなたたち幕府のやり方に手落ちがあったのだ」
というものだった。
江戸、大坂はともかく、京都の朝廷ではまだまだ攘夷の意識が強かったのである。
その間、事件が決着するまで掛川に留まらざるを得なくなったサトウとワーグマンは宿舎に芸者を呼び、別手組の隊員も招待して大宴会をやっていた。
芸者の一人はミヨキチという太った愛想の良い妓で、もう一人はトクハチという細身の妓で鹿のような目をしていたが二人とも美人だった(とサトウの日記には書いてあるが、太ったとか鹿のような目とか、とても美人を言い表す形容詞には見えないのだが)。
そして別手組の斎藤亀次郎という男はひどく酔っ払って
「拙者も野口さんのように、サトウさんの下で働きたい!」
とサトウに対してせがんだ。
例幣使を相手にしてもイギリス人の後ろ盾があれば頭を下げずに済む。野口の活躍を見てそれが分かったのだ。これは別手組の隊員にとっては非常に魅力的な地位だった。
「江戸に帰ったら考えてみよう」
とサトウは答え、斎藤をなだめた。
また掛川の人々は例幣使一行が珍しく難渋している様子を見て喝采をおくっていた。
なにしろこれまで散々例幣使一行から無法な手口で金をせびられてきたのだから、相手が外国人といえども、彼らが追い込まれている様子を見るのは痛快だった。さらに別手組の隊員たちも時々町を見廻って、例幣使側に威圧を加えた。
そして結局、例幣使側がサトウたちに対して折れた。
とにかく一部の家来が無法に外国人の宿舎へ乱入したのは事実なので、例幣使側は彼らに責任を負わせるかたちで決着をつけたのである。
山崎は例幣使側と交渉してしっかりと責任を取らせることに成功したので、サトウは山崎の仕事ぶりに満足した。
ちなみに家来たちの処分について述べておくと半年後に江戸で七名が処分され、「遠島」や「急度叱り」の他に、二名が「死罪」となるのである。幕府がイギリスを配慮してこのような重い処分にしたのかどうか分からないが、死罪とされた者たちとしてはまったく想定外の結果だったであろう。
掛川を出発した後、サトウたち一行は順調に旅を続けた。
後にサトウは次のように手記で語っている。
「掛川での一件以来、危険を共にした人間同士の常として、私は山崎や別手組の連中と大いに良好な関係となったのである」
そして富士山を眺めながら先へ進み、それから箱根を越え、四月三十日の夕方、サトウたちは小田原に到着した。
するとそこにパークスからの手紙が届いていた。手紙には
「近日中に幕閣と重要な談判をすることになった。通訳が必要なので至急江戸へ戻るように」
と書いてあった。
サトウとワーグマンの弥次喜多道中はこれで終わった。
サトウが野口に相談すると
「早駕籠を雇えば翌朝江戸の公使館(接遇所)に到着できる」
と言われたので、野口と別手組の隊員二人と一緒に早駕籠で江戸へ戻ることにした。
確かに小田原から江戸の公使館までの距離は約80kmで、早駕籠のスピードは時速約6kmなので計算上は一晩中走り続ければ翌朝着くことができる。
けれども早駕籠の中で揺れに耐えるのは大変な苦労だった。
布団や枕をいくつも駕籠に詰め込んで揺れに備えたものの、サトウは背中と胃のあたりが痛くて気分が悪くなった。もちろん、とてもじゃないが眠れたものではない。
ずっとあぐらの姿勢をとっていたので、午前十時に公使館に着くとすぐには立ち上がることができず、フラフラの状態で勤務に戻ることになった。
こうまでしてサトウが急いで戻ってきたというのに、いざパークスに随行して幕閣のところへ行ってみると単なる儀礼的なあいさつの訪問にすぎず、新米の通訳でも簡単にこなせる内容だった。
旅行を途中できりあげ、早駕籠をぶっ飛ばして戻って来たサトウが腹を立てたのは言うまでもない。
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新撰組のものがたり
琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。
ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。
近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。
町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。
近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。
最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。
主人公は土方歳三。
彼の恋と戦いの日々がメインとなります。
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